納屋の血煙り
「吐かすな!」と、首根っ子に瘤のある乾児が叫んだ。「白々しい三ピン! 何を云うか! ……親分の恋女、お浦を誘惑し、五郎蔵一家の守護神、天国の剣を持ち出させながら、白々しい! ……」 「他人の恋女をそそのかしゃア誘拐者よ!」 「刀を持ち出させりゃ盗賊だ!」 乾児たちは口々にまた喚きだした。 頼母は(さてはそれでか)と思った。お浦と関係など附けたことはなく、附けようと思ったことさえなかったが、お浦の方では、そういう関係になるべく希望んでいたことは争われなかったし、天国の剣をお浦に持ち出してくるよう依頼んだのは、確かに自分なのであるから、乾児たちにそう云われてみれば、言下に反駁することは出来なかった。 頼母は黙ってしまった。 頼母が困じて黙っている様子を見てとった乾児たちは、 「そこで親分には手前をさがしだし、叩っ斬ろうとしているところなのよ」 「いいところへ来た」 「とっ捕まえろ」 「手に余ったら叩っ斬れ」 と喚き出し、 「それを見ろそれを!」 と、頬に守宮の刺青をしている一人の乾児が、梁から釣り下げられている典膳お浦を指さした。 「俺ら仲間の処刑、凄かろうがな。……手前を捉えて、こうしようというのが親分の念願なのさ」 「やっつけろ!」 脇差しを引き抜くものもあった。 頼母も刀の柄へ手をかけ、先方が斬り込んで来たら、斬り払おうと構えたが、それにしてもお浦と典膳との境遇が、あまりに悲惨に、あまりに意外に思われてならなかった。 (いずれお浦は、あの後、五郎蔵の手に捕えられたものらしい) あの後というのは、お浦が左門の紙帳を冠ったまま、武蔵屋の庭から消えた後のことであって、あの時、紙帳が自然のように動きだしたのは、その実、その中にお浦がいたのだということは、お浦の衣裳が、次々に紙帳の中から地に落ちたことによって、頼母にも悟れたのであった。 (その後どうして五郎蔵の手に捕えられたのであろう?) (そうして、殺された筈の典膳が、生きていたとは? ……そうして五郎蔵の手に捕えられたとは? ……どこでどうして捕えられたのであろう?) 彼にはこれらのことがどうにも合点いかなかったが、事実は、あの夜お浦と典膳とは、髪川の上と下とで逢った。岸の上の女が怨みあるお浦だと知ると、典膳は猛然と勇気を揮い起こし、岸へよじ上り、お浦へ掴みかかった。お浦は相手が典膳だと知るや、悲鳴を上げて遁がれようとした。二人は組み合い捻じ合った。そこへ駈け付けて来たのが、血路をひらいて逃げた左門を、捕えようとして追って来た五郎蔵達で、二人は五郎蔵たちの手によって捕えられ、武蔵屋へしょびいて行かれ、そこで糾明された。お浦は容易に実を吐こうとはしなかったが、いわば痛目吟味に逢わされ、とうとう自分が伊東頼母を恋したこと、頼母の依頼によって天国の剣を持ち出し、頼母に渡そうとし、部屋を間違えて、五味左門の部屋へ行き、紙帳の中へ引き入れられたことなどを白状した。五郎蔵は怒った。自分が想いを懸けていた女が、頼母に心を寄せたことに対する怒りと、「持つ人の善悪にかかわらず、持つ人に福徳を与う」とまで云われている天国の剣を、頼母へ渡そうとしたことが、五郎蔵をして嚇怒させた。彼はお浦を嬲り殺しにしようとした。 典膳に至っては、五郎蔵の過去の行状を知っていて、強請りに来たほどの男だったので、生きているからには殺さなければならず、これも嬲り殺しにすることにした。 こうして惨酷の所業が今日まで行われて来たのであったが、府中で殺しては人目につき、後々がうるさいというところから、この農家の納屋で、乾児たちに吩咐け、その嬲り殺しの最後の仕上げに取りかからせたのであった。 突然風を切って木刀が、頼母の眉間へ飛んで来たので、頼母は瞬間身を反わした。 「面倒くさい! 方々、たたんでおしまいなされ!」 叫んで刀を抜いたのは、木刀を投げつけた角右衛門であった。 「そうだ、やれ!」 「膾に刻め!」 怒号する声が一斉に湧き起こり、納屋が鳴釜のように反響した。無数の氷柱が散乱するように見えたのは、乾児たちが脇差しを引っこ抜いたからであった。 やにわに一人の乾児が横撲りに斬り込んで来た。頼母は、右手の壁の方へ身をかわしたが、抜き打ちざまに、眉間から鼻柱まで割り付けた。 「やりゃアがったな!」 と喚くと、もう一人の乾児が、むこうみずにも、脇差しを水平にし、体もろとも、突っ込んで来た。それを頼母は左へ反わし、乾児が、脇差しを壁へ突っ込んだところを、背後から、肩を背筋まで斬り下げた。
二人を助けて
と、間髪を入れず、三人目の乾児が、 「野郎!」と叫んで、足を薙ぎに飛び込んで来た。 「命知らずめ!」 と頼母が叫んだ時には、もうその乾児の脳天を、鼻柱まで斬り下げ、その隙を狙って紋太郎が、脱兎のように戸口を目がけて逃げだしたのを、追おうともしないで見捨て、昏迷った四人目の乾児が、 「チ、畜生オーッ」 と悲鳴のような声をあげて、滅茶滅茶に脇差しを振り廻し、ヒョロヒョロと接近って来るやつを、真正面から、肩を胸まで斬り割り、望月角右衛門が、 「拙者、頼母めを背後より……各方は正面から……」 と叫び、刀を振り冠り、背後へ廻ると見せかけ、その実は、お浦と典膳とが釣り下がっているその足の下を潜り、戸口から飛び出したのをも見捨て、生き残った二人の乾児が、これも戸口から駈け出そうとするのを、素早く前へ立って遮り、 「逃げれば斬るぞ! 坐れ!」 と大喝し、二人の乾児が、ベッタリと坐ったのを睨み、 「脇差しを捨てろ!」 二人の乾児は脇差しを投げ出した。 左門へ立ち向かっては子供のようにあしらわれる頼母ではあったが、本来が勝れた腕前、博徒や用心棒に対しては段違いに強く、瞬間に四人を斃し、二人を追い、二人を生擒にしてしまったのである。 頼母はホッとし、大息を吐き、しばらくは茫然としていた。 (恩こそあれ、怨みのない五郎蔵殿の乾児衆を殺したとは……) 武蔵屋で、左門と出会った時、五郎蔵たちに助けられなかったならば、自分は手もなく左門に討ち取られたことであろう! 五郎蔵殿とその乾児衆とは、自分にとっては恩人に相違ない! それを、時の機勢とはいえ、先方から仕掛けた刃傷沙汰とはいえ、その恩人の乾児を四人殺したとは……。 (殺生な!)その優しい心から、頼母は暗然とせざるを得なかった。 と、その時、頭上から、 「頼母様アーッ」 と叫ぶ、女の声が聞こえて来た。頼母はハッとし、気が附き、声の来た方を振り仰いだ。半分死にはいり、ほとんど人心地のなかったお浦が、今の乱闘騒ぎで、正気を取り戻したらしく、藍のように蒼い顔を、薄暗い梁の下に浮き出させ、血走った眼で、思慕に堪えないように、じっと頼母を見下ろしていたが、紫ばんだ唇を動かしたかと思うと、 「頼母様アーッ……あなた様のために……あなた様に差し上げようと持ち出しました天国の御剣を、残念や、髪川へ落としましてございます。……こればかりが心残り! ……死にまする、妾は間もなく死にまする! ……いいえ何んの怨みましょうぞ! 想いを懸けましたあなた様のために、五郎蔵親分に嬲り殺しにされて死ぬこそ、妾のような女には分相応! ……本望! ……喜んで死にまする! 頼母様アーッ」 荒縄の一端で釣り下げられている彼女であった。肩も胸も露出に、乳房のあたり咽喉のあたり焼き鏝でも当てられたか、赤く爛れ、皮膚さえ剥けている。深紅の紐でも結びつけたように、血が脛を伝わっている。 「頼母殿と仰せられるか、一思いにお殺しくだされい! お慈悲でござるぞーッ」と叫んだのは、縄の他の端に繋がれた、お浦と並び、釣り下げられている典膳であった。 「おのれ五郎蔵、この怨み死んでも晴らすぞよ! ……汝の過去の罪悪、わけても道了塚での無慈悲の所業! それを俺に剖かれるかと虞れ、瞞し討ちから嬲り殺しにかけおったな! ……可哀そうなは伊丹東十郎! あいつの悲鳴、今も道了塚へ行かば、地の下から聞こえるであろうぞ、『秘密は剖かない、裏切りはしない、助けてくれーッ』と。……天国の剣を、汝が手に入れたも、この典膳が才覚したればこそじゃ。……その俺を嬲り殺し! おのれ五郎蔵オーッ」 ワングリと開けた暗い口から、焔の先のような舌を、ヒラヒラ出入りさせた。前歯が数本脱けている。引き抜かれたものらしい。爪を剥がされた足の指から、今も血がしたたってい、その指の周囲を、金蠅が飛び廻っている。 頼母はやにわに刀を揮うと、二人を釣っている縄を切った。 「お浦殿オーッ」と頼母は、地に落ちて来たお浦を宙で抱き止めると、ベタリと坐り、お浦の体を膝へ掻き上げた。「頼母、お助けつかまつるぞオーッ」 恩こそあれ怨みのないお浦であった。この身を恋してくれたこと、なるほど、五郎蔵からみれば、怒りに堪えない所業であったろうが、この身からすれば、尋常に恋されたまでである。憎むべき筋ではない。その恋ゆえに、天国の剣を持ち出してくれたという。感謝しなければならないではないか。その恋ゆえに、嬲り殺しにかけられたという。助けないでおられようか! 四辺を見れば、壁に戸板が立てかけられてあった。 「汝ら!」と頼母は、地べたに坐って顫えている二人の乾児を睨みつけ、「戸板を持て! ……お浦殿とそのお武家様とを舁き載せよ! ……そうして汝ら戸板を担げ」 一団は納屋を出た。 (角右衛門どもの注進で、五郎蔵が乾児を率い、襲って来るやも知れぬ。何を措いても身を隠さなければ! ……では附近の林へ!) 「走れ! 向こうの林へ駈け込め!」 戸板の一団は、さっき、五味左門が身を没した同じ林の中へ駈け込んだ。
処女と殺人鬼
道了塚の林の中の紙帳の中で、栞が眼をさましたのは、これより少し以前のことであった。彼女は、自分が蝶になって、春の野を舞いあそんでいる夢を見ていた。野の中に、一本の、木蓮の木があり、白絹細工のような花が、太陽に向かって咲き揃っているのを見、(美しくて清らかで、若々しくて、まるで頼母様のようですこと)と思い、一輪の花の中へ分け入った時、木蓮の花の、倍もありそうな巨大な、そうして血のように赤い蜘蛛が、突然、頭上から、舞い下がって来た。 「あッ、蜘蛛が!」と、蝶の栞は叫び、叫んだ自分の声に驚いて眼をさまし、起き上がった。と、狼狽して、紙帳の向こう側の隅へ、飛ぶように身を引き、そこへ、固くなって坐った若い、身長の高い、総髪の武士を認めた。 「まあ」と、栞は云って、驚きを二倍にしたが、立派なお侍さんが、女の自分の声に驚いて、ケシ飛んで行ったのがおかしく、それに気の毒でもあったので、「怖がらなくともよろしゅうございますの。……妾、寝呆気て叫んだだけでございますもの」と云い、無邪気に、口をあけて笑った。 武士――五味左門は、 「ナニ、怖がらなくともよいと。……ふうん」 と、呆れて、まじまじと、栞の顔を見詰めた。 「あッ蜘蛛が」と叫ばれ、眼をさまされた。さすがの彼も、不意だったので胆をつぶし、思わず紙帳の隅へ飛び退がったまでで、相手を怖がったのでも何んでもなかった。怖がるといえば、栞こそ、怖がらなければならない筈である。はいったが最後、たいがいは殺される紙帳の中へはいり、殺人鬼のような当人の左門と向かい合っているのであるから。それだのに、その栞が、「怖がらなくともよい」と云う。「ふうん」と、左門としては呆れ返らざるを得なかった。 しばらく顔を見詰め合っている二人を、紙帳は、昼の陽光を浴びて、琥珀色に、明るく、蔽うていた。時々、横腹が蠕動し、ウネウネと皺を作ったり、フワリと膨れたりするのは、春風が、外から吹き当たるからで、そのつど、例の、血汐で描かれた巨大な蜘蛛が、数多い脚を動かした。 「まあ」と栞は、驚きの声をあげた。「あなた様は、先夜、妾の家へお泊まりくださいました、五味左門様では?」 「さよう左門でござる。……その際は、お騒がせいたしましたな」 と、左門は、削けた、蒼白い頬へ皺を畳み煤色の唇を幽かにほころばせて微笑した。 (殺人者の左門と知ったら、怖がることであろうぞ)と思ったからである。 事実、栞は、その武士が、自分の屋敷で人を殺した、五味左門だと知ると、慄然とした。 (どうしよう?) しかし、次の瞬間には、 (妾は、この人に悪いことをしていないのだから、殺される気遣いはない)と、初心の娘らしい心から、そう思った。 それに、自分の寝言に驚いて、紙帳の隅へケシ飛んで行った左門の様子が、いかにも笑止だったので、(この人、それほど悪い人でないに相違ない) と、思った。 栞と左門とは、しばらく見詰め合っていた。 「一人のお侍様をお殺しになり、もう一人のお侍様の足を斬り落としなさいましたのね。……でも、よくよくのことがなければ、あのような惨酷いことは……」 と、ややあってから栞は考え深そうな様子で云った。 「きっとあの方達、あなた様に、よくよく悪いことを……」 「そうでもござらぬ」 「いいえ、きっとそうだと存じますわ。でも、あなた様というお方、気の弱い、臆病なお方でございますものねえ」
馬鹿のような無邪気さ
「ナニ、気が弱くて臆病?」 左門は、また呆れた。 「ええ、そうでございますわ。それに、謹み深い、丁寧な、善良お方でございますわ」 「…………」 「女の子の寝言に吃驚りなすって、紙帳の隅へケシ飛んで行ったまま、お行儀よく、膝にお手を置いて、かしこまっておいでになるのですものねえ」 云われて、左門は、自分を見廻して見た。なるほど、痩せた肩を聳かし、両手をお行儀よく膝の上へ置き、膝をちんまりと揃えて坐っていた。叱られた子供が、姉さんの小言を、かしこまって聞いている格好であった。左門は苦笑した。しかし左門としては、何も栞に遠慮して、そんな態度をとったのではなく、突然の栞の声に驚き、飛び退がった時にそういう姿勢をとり、それをこの時まで持ち続けて来たまでであった。 (それにしてもこの娘は、何んと朗らかで、無邪気なのであろう) 左門は、体を寛げた。 (いい気持ちだ) 左門は、心が豊かになり、和やかになるのを感じた。 「第一、このお家、妾のものでなく、あなた様のものでございますわ。あなた様がご主人様で、妾はお客様でございますわ。そのご主人様が、遠慮するということございませんわ」 と栞は云って、膝の上で、長い袖を弄んだ。紅色の勝った、友禅模様の袖は、いろいろの落花の積み重ねのように見え、それを弄んでいる娘の、白い、細い、柔らかい指は、その花の積み重ねを、出たりはいったりする、蚕かのように見えた。 「家とは?」 「紙帳のことですの」 「ははあ」 と云ったが、左門は、(いいことを云ってくれた)と思った。(紙帳こそ、俺の家であり巣なのだからなあ) また左門はいい気持ちになった。そこで膝を崩し、手を懐中へ入れ、ノンビリとした姿勢となった。 「紙帳といえば、妾がお釣りしたのでございますの」 栞は云いつづけた。 「妾、林を散歩して、ここまで参りましたところ、紙帳が落ちていたではございませんか……最初は、本当は、気味悪かったのでございますのよ。……でも、見ているうちに、釣りたくなりましたので、釣りましたところ、今度は、はいってみたくなりました。……はいりましたところ眠くなりました。そこで妾、眠ったのでございますわ……」 「ははあ」と左門は云ったが、さては紙帳は、あの夜、お浦によって、武蔵屋の庭から外へ運び出され、それから、何かの理由で――風にでも吹かれ、ないしは、お浦自身ここまで持って来て、棄てて立ち去ったのかもしれないと思った。 (どっちみち紙帳を、ここで取り戻すことが出来たのは幸福だった) 二人はしばらく黙っていた。 ふと、上の方で、ひそかな物音がした。 栞は、顔を上向けた。紙帳の天井に、楓の葉のような影が二個映ってい、それが、ひそかな音を立てて、あちこちへ移動っていた。小鳥の脚の影らしい。また二個数が増した。もう一羽、紙帳へ停まったらしい。四個の小鳥の脚の影は、やがて紛合った。戯れているらしい。と、二個ずつ離れ、つづいて、意外に高い、でも優しい啼き声が響いて来た。 「テッポ、シチニオイテ、イツツブ、ニシュ」 と、その声は聞こえた。 とたんに、四個の脚の影は消えた。飛び去ったらしい。しかしやや離れたところから、同じ啼き声が聞こえて来た。 「頬白でございますわね」 と栞は云って、眼を細め、左門の顔を見た。 「何んといって啼いたかご存知?」 「さあ」 「『鉄砲質に置いて、五粒二朱』――と、啼いたのですわ」 「ははあ」 「猟にあぶれた猟師が、鉄砲をかついで、山道を帰って来る時、高い木の梢で、ああ啼かれますと、猟師は憤れて来るそうでございます」 「ふ、ふ」 と、左門は、思わず、含み笑いをした。 「その筈でございますわ」と栞は云いつづけた。 「そのように不景気では、今に、鉄砲を質に置いて、五粒二朱借りるようになるぞよ、などと頬白にひやかされては、猟師としては、憤れて来ますわね」 「憤れますとも」 「でも、頬白は、普通、『一筆啓上仕る』と啼くのだそうでございます」 「物の啼き声は、聞きようによって、いろいろに取れますわい」
愛すればこそ
「蛙が何んといって啼くかご存知?」 「さあ」 「久太という小博徒が、勝負に負けて、裸体にむかれて、野良路を帰って来ると、その前を、郷方見廻りの立派なお侍さんが二人、歩いて行かれましたそうで。……すると、田圃の中から、蛙が啼きかけましたそうで。……何んといって啼いたかご存知?」 「知るわけがござらぬ」 「『あんた方お歴々、あんた方お歴々』と啼いたそうでございます」 「そうも聞こえますなあ」 「久太が通ると、また、蛙は啼きかけたそうですが、何んといって啼いたかご存知?」 「知るわけはござらぬ」 「『裸体でオホホ』と啼いたそうでございます」 「なるほど、そうも聞きとれますなあ」 「久太は怒って、蛙を捕えて、地べたへ叩きつけましたそうで。……何んといって蛙が啼いて死んだかご存知?」 「知るわけはござらぬよ」 「『久太アー』と啼いて死んだそうでございます」 「あッはッはッ」と左門は、爆笑した。「『キューター』……あッはッはッ」 爆笑してから、ハッと気がついた。 (俺は幾年ぶりで、気持ちよく、腹の底から、何んの蟠りもなく、笑っただろう?) そうして、彼の気持ちは、快く爆笑させてくれた栞に対して、感謝しなければならないようなものになっていた。 (妾、どうして今日は、こう何んでも、気安く思うことが云えるのだろう?) と、栞は栞で、自分ながらその事が、不思議なような気がした。(やはり、お父様のご病気がお癒りになったからだわ。……そうして、頼母様が、今日あたり、帰っておいでになるからだわ) ――それに相違なかった。それだから、心が喜悦に充ちてい、何んでも云え、何んでも受け入れることが出来、何んでもよい方へ解釈することが出来るのであった。 また二人は、しばらく沈黙して、向かい合っていた。 左門は、いつか、肘を枕にして横になった。 蕾を持った春蘭が、顔の前に生えていて、葉の隙から栞の姿が、簾越しの女のように見えていた。栞は、顔を上向け、また、何か想いにふけっているようであった。華やかな半襟の合わさり目から、白い滑かな咽喉が覗き、その上に、ふくよかな円い顔が載っていて、咽喉の形が、象牙の撥のように見えているのも、初々しかった。 栞は笑った。頼母のことを思っての、「想い出し笑い」であった。 「栞殿」と、左門は、相手の心を探るように云った。 「そなた、誰かと恋し合っておられますな」 「ま、……どうして……」 しかし栞の耳朶は紅を注した。 「様子でわかりまする」 「…………」 「あまりに浮き浮きとしておられる。あまりに幸福そうじゃ。……若い娘ごが、そのように成られること、恋以外にはござらぬ」 「…………」 「栞殿のような、美しい、賢い、無邪気な娘ごに恋される男、何者やら、果報者でござるよ」 「…………」 「相手の殿ごも、栞殿を愛しておられますかな?」
讐敵紙帳の内外
「それはもう……」と、栞は思わず云って、また顔を染めた。 「その殿ご、心変りせねばよいが」 「なんの……決して……そのようなこと!」 「競争者でも出来て……」 「競争者でも……」 と、栞の顔へ、はじめて不安の影が射した。 「さよう、競争者でも出来ましたら、男の心など、変るもので」 「いいえいいえ、そんなことがありますものか! ……でも、もしや、そんなことにでもなったら……死にまする! 妾は死にまする!」 「こう云っているうちにも、阿婆擦れた女などが、そなたの恋人――いずれ、しおらしい、初心の栞殿の恋人ゆえ、同じ初心のしおらしい殿ごでござろうが、その殿ごへ、まとい付いて……」 栞の顔色は次第に変り、眼が、地面の一所へ据えられた。 その様子を見ると左門は、本来なれば、性来の悪魔性が――嗜虐性が、ムクムクと胸へ込み上げて来、この純情の処女の心を、嫉妬と猜疑とで、穢してやろうという祈願に駆り立てられるのであったが、今は反対で、 (気の毒な! こんな純情の処女の心を苦しめてはいけない)と思った。そこで快活に笑い、 「いやいや栞殿、心配はご無用になされ、純情の殿ごなりや、どのような性悪る女であろうと、誘惑の手延ばされぬものでござる。……それにしても、栞殿のような娘ごに、そのようにまで想われる男、果報者の代表、うらやましい次第、何んという名のお方でござるかな?」 「はい、そのお方の名は……」 栞が云いかけた時、紙帳の外から、 「やア、ここに紙帳が釣ってあるわ! ……やア、左門めの紙帳じゃ!」 という声が聞こえた。 頼母の声であった。 「左門!」と、その声は叫んだ。「我は伊東頼母、先夜は府中武蔵屋で、むざむざ取り逃がしたが、再度ここで巡り合ったは天の祐け! 父親の敵、今度こそは遁がしはせぬ! 出て来て勝負を致せ!」 「頼母様アーッ」 と、その声を聞いて、まず呼ばわったのは、栞であった。 「頼母様アーッ、妾、栞でござりまする! ……今日あたりお帰りくださりましょうかと、心待ちに待っておりましたところ! おお、やっぱりお帰りくだされましたか! ……それにいたしても変った所で! 頼母様アーッ」 と、栞は、叫び叫び、紙帳の裾をかかげ、外へ出ようとした。しかし、その栞は、背後から、左門の手によって引き戻された。 「伊東頼母氏か。……紙帳の中におる者は、いかにも五味左門、貴殿父上の敵じゃ! ……が、頼母殿、紙帳の中には、もう一人人がいる! 飯塚薪左衛門殿の娘栞殿じゃ! ……いや、驚き申したわ。栞殿に恋人のあること、たった今、この帳中で、栞殿より承ってござるが、その恋人が、貴殿、頼母殿であろうとは!」 左門は、そう云い云い、刀の柄を右手で掴んだが、一振りすると鞘を飛ばせ、蒼光る刀身を、頼母のいると覚しい方へ差し付けた。 「悪縁といえば、よくよくの悪縁でござるよの」と左門は、辛辣な声で云いつづけた。 「貴殿のお父上を討ち取ったばかりか、武蔵屋では、貴殿の恋人、博徒五郎蔵の女お浦という者を、拙者この帳中で。……しかるに、同じこの紙帳の中で、貴殿第二の恋人、栞殿を。……重なる怨みとはこの事! フッフッ、これでは貴殿、拙者を見遁がすことなりますまいよ!」
悲痛の頼母
「頼母様アーッ」 と栞は、左門の手から遁がれよう遁がれようと身悶えしながら、必死となって叫んだ。 「左門様が、あなた様のお父様の敵などとは夢にも知らず、先刻から、紙帳の中で、物語りいたしましたは真実ではござりまするが、何んの貞操を!」 「それは真実じゃ!」 と、左門は、意外に真面目の声で云った。 「栞殿は、純潔じゃ。……それから……」と云ったが、云い止めた。 しかし、やがて決心したように、誠実のこもった声で、 「先夜、武蔵屋で、お浦と申す女子を手に入れたよう申したが、これも嘘じゃ! ……拙者に関する限り、お浦という女は純潔じゃ! ……本来、拙者は女嫌いでな。いわば女性嫌忌性なのじゃ!」 (それにしても) と、左門は、自分で自分を疑った。 (どうして、こう、俺は素直な気持ちになったのであろう。……先夜は、頼母めを苦しめようために、手を触れさえしなかったお浦という女を、手に入れたなどと偽わり云ったのに。……いまに至ってそれを取り消すとは) ――左門には、その理由がわからなかったが、しかし、その理由は、栞というような、本当に無邪気な、純な処女と、罪のない、子供同士のような話をし、腹の底から笑ったことが影響し、彼の心が、人間本来の「善」に帰ったからであるかもしれない。 「動くか、頼母!」 しかし、突然、左門は一喝し、グルリと体を廻し、紙帳の、側面の方へ向き、刀を差し付けた。 「紙帳の内と外、見えぬと思うと間違うぞよ。……紙帳の中にいる左門こそ、不動智の位置にいる者じゃ。左へも右へも、前へも後へも、十方八方へ心動きながら、一所へは、瞬時も止まり居坐らぬ心の持ち主じゃ。眼光は、紙背に徹するぞよ! ……嘘と思わば証拠を挙げようぞ。……汝、今、紙帳より一間の距離を持ち、正面より側面へ移ったであろうがな。……現在は同じく一間の距離を持ち、紙帳の側面、中央の位置に立ち、刀を中段に構え、狙いすましておろうがな。……動くか!」 と、またも大喝し、左門は、グッと左へ体を向け、紙帳の背面へ刀を差し付けた。 紙帳は、二人を蔽うて、天蓋のように、深く、静かに、柔らかく垂れていた。縦縞のように、時々襞が出来るのは、風が吹きあたるからであろう。 ここは紙帳の外である。―― 頼母は、刀を中段に構え、紙帳から一間の距離を保ち、紙帳を睨んで突っ立っていた。全身汗を掻き、顔色蒼褪め、眼は血走っていた。お浦と典膳とを戸板に載せ、五郎蔵の乾児二人に担がせ、ここまで走って来た頼母であった。見れば、林の空地に、見覚えのある、五味左門の紙帳が釣ってあった。驚き喜び、宣りかけたところ、意外も意外、恋人栞が、その中にいて、声を掛けたとは! ……それが、殺人鬼のような左門の手中にあって、身うごきが出来ずにいるとは! これだけでも頼母は、逆上せざるを得なかった。その上、剣技にかけては、段違いに優れた左門によって、紙帳の中から、嘲弄されたのである。頼母は文字通り逆上した。 (父の敵の左門、討たいで置こうか! 恋人の栞、助けないで置かれようか!) 思うばかりで、体はほとんど自由を欠いていた。眼前の紙帳が、鉄壁のように彼には思われた。鉄壁を貫いて、今にも、左門の剣が、閃めき出るように思われた。腕が強ばり、呼吸がはずみ、足の筋が釣った。それでも、彼は、隙を狙うべく、紙帳を巡った。帳中の左門によって、見抜かれてしまった。 手も足も出ないではないか。 常磐木と花木と落葉樹との林が立っている。鳥が翔け過ぎ、兎が根もとを走り、野鼠が切り株の頂きに蹲居り、木洩れ陽が地面に虎斑を作っている。 そういう世界を背後に負い、血痕斑々たる紙帳を前にして、頼母は、石像のように立っていた。差し付けた刀の切っ先を巡って、産まれたばかりらしい蛾が、飛んでいる。 と、その時、 「頼母様アーッ」 と呼ぶ、凄愴の声が聞こえて来た。 頼母のいる位置から、十数間離れた、胡頽子と野茨との叢の横に、戸板が置いてあり、そこから、お浦が、獣のように這いながら、頼母の方へ、近づきつつあった。頼母様アーッと呼んだのは、お浦であった。彼女の眼に見えているものは、紙帳であり、彼女の耳に聞こえたものは、頼母と左門との声であった。武蔵屋の紙帳の中で、二度まで気絶させられた怨みある左門が紙帳の中にいる! その左門は、自分にとっては、救世主とも思われる頼母様の親の敵だという! おのれヤレ左門、怨みを晴らさで置こうか! 懐かしい頼母様! お助けしないでおられようか! ……一人には怨みを晴らし、一人には誠心を捧げてと、息絶え絶えながら、彼女は、紙帳の方へ這って行くのであった。
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