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血曼陀羅紙帳武士(ちまんだらしちょうぶし)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-3 6:56:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



    五郎蔵の賭場

 こういうことがあってから、三日経った。
 ここ、府中の宿は、火祭りで賑わっていた。家々では篝火かがりびを焚き、夜になると、その火で松明たいまつを燃やし、諏訪神社の境内をまわった。それで火祭りというのであるが、諏訪神社は、宿から十数町離れた丘つづきの森の中にあり、その森の背後の野原には、板囲いの賭場とばが、いくらともなく、出来ていて、大きな勝負が争われていた。
 伊東頼母が、この一劃へ現われたのは、夕七ツ――午後四時頃であった。歩いて行く両側は賭場ばかりで、場内なかからは景気のよい人声などが聞こえて来た。夕陽を赤く顔へ受けて、賭場へはいって行く者、賭場から出て来る者、いずれも昂奮しているのは、勝負を争う人達だからであろう。総州松戸の五郎蔵持ちと書かれた板囲いを眼に入れると、頼母は、足をとめ、
「これが五郎蔵の賭場か、どれはいってみようかな」
 と呟いた。
 というのは、不幸な飯塚薪左衛門親子を苦しめる、五郎蔵という、博徒の親分の正体を見きわめようために、やって来た彼だからである。そうして、彼としては、機会を見て、五郎蔵と話し、何故薪左衛門をおどすのか? 事実、薪左衛門は有賀又兵衛であり、五郎蔵は来栖勘兵衛なのか? 野中の道了塚で、二人は斬り合ったというが、その動機は何か? 野中の道了塚の秘密は何か? 等をも確かめようと思っているのであった。
 それにしても飯塚薪左衛門の屋敷から、この府中までは、わずか一里の道程みちのりだのに、なぜ三日も費やして来たのであろう?
 彼は三日前のあの夜、薪左衛門の屋敷で、ああいう事件に逢ったが、それからいざり車を押して、栞共々、庭から屋内へ、薪左衛門を運び入れた。屋敷の中は大変であった。五人泊まっていたという浪人のうち、一人は斬り殺されてい、一人は片足を斬られてい、後の三人の姿は消えてなくなっていた。片足を斬られた浪人の語るところによれば、紙帳を釣って、その中にいた五味左門となのる武士によって、この騒動がき起こされたということであった。
 この事を聞くと、頼母は仰天し、娘の栞へ、そのような武士を泊めたかと訊いてみた。すると栞は、「五味左門と宣り、一人のお武家様が、宿を乞いましたので、早速お泊めいたしましたが、おやすみになる時、紙帳を釣りましたかどうか、その辺のところは存じませぬ」と答えた。それで頼母は、どっちみち、紙帳の中から出て来て、自分を体あたりで気絶させた、武道の達人が、自分の父の仇の、五味左門であるということを知ったが、そんな事件が起こったため、その処置を、栞と一緒に付けることになり、三日を費やし、三日目の今日、ようやく府中へ来たのであった。
「なかなか立派な小屋だな」
 とつぶやきながら、頼母は、改めて五郎蔵の賭場を眺めた。
 板囲いは、ひときわ大ぶりのもので、入り口には、二人の武士が、たすきをかけ、刀を引き付け、四斗樽に腰かけていたが、いうまでもなく賭場防ぎで、一人は、望月角右衛門であり、もう一人は、小林紋太郎であった。この二人は、あの夜、薪左衛門の屋敷で、ああいう目に逢い、恐怖のあまり、いとまも告げず、屋敷を逃げ出し、ここの五郎蔵の寄人かかりゅうどになったものらしい。同じ屋敷に泊まったものの、顔を合わせたことがなかったので、頼母は、二人を知らず、そこで目礼もしないで、入り口をくぐった。
 賭場は、今が勝負の最中らしく、明神へ参詣帰りの客や、土地の者が、数十人集まってい、盆を囲繞とりまいて、立ったり坐ったりしていた。世話をする中盆が、声をらして整理に努めているかと思うと、素裸体すはだかに下帯一つ、半紙を二つ折りにしたのを腰に挾んだ壺振りが、鉢巻をして、威勢のよいところを見せていた。正面のしとねの上にドッカリと坐り、銀造りの長脇差しを引き付け、盆を見ている男があったが、これが五郎蔵で、六十五歳だというのに、五十そこそこにしか見えず、髪など、小鬢へ、少し霜をじえているばかりであった。段鼻の、鷲のような眼の、赧ら顔は、いかにも精力的で、それに、あごなどは、二重にくくれているほど肥えているので、全体がふくよかであり、武士あがりというだけに、品があり、まさに親分らしい貫禄を備えていた。甲州紬茶微塵つむぎちゃみじんの衣裳に、紺献上の帯を結んでいるのも、よく似合って見えた。その横に女が坐っていた。以前から五郎蔵が、自分のものにしようと苦心し、それを、柳に風と受け流し、今に五郎蔵の自由にならないところから、博徒仲間このしゃかいで、噂の種になっている、お浦という女であった。二業――つまり、料理屋と旅籠はたご屋とを兼ねた、武蔵屋というのへ、一、二年前から、流れ寄って来ている、いわゆる茶屋女なのである。年は二十七、八でもあろうか、手入れの届いた、白い、なめし革のような皮膚は、男の情緒こころを悩ますに足り、受け口めいた唇は、女形おやまのように濃情のうじょうであった。結城の小袖に、小紋縮緬ちりめんの下着を重ね、厚板あついたの帯を結んでいる。こんな賭場へ来ているのは、五郎蔵が、
「おいお浦、祝儀ははずむから、小屋へ来て、客人の、酒や茶の接待をしてくんな」と頼んだからであるが、その実は、五郎蔵としては、片時もこの女を、自分のそばから放したくないからであった。
(賭場に神棚が祭ってあるのは変だな)
 と、盆の背後、客人の間に雑じって立っていた頼母は、五郎蔵やお浦から眼を外し、五郎蔵の背後、天井に近く設けられてある、白木造りの棚を眺めた。紫の幕が張ってあり、燈明が灯してあった。
(何かの縁起には相違あるまいが)

    ゆすり浪人

 この間にも、五百両胴のチョボ一は、勝負をつづけて行った。胴親、五郎蔵の膝の前に積まれてある、二十五両包みが、封を切られたかと思うと、ザラザラと賭け金が、胴親のもとへ掻き寄せられもした。
 一人ばからしいほど受け目に入っている客人があった。編笠を冠ったままの、みすぼらしい扮装みなりの浪人であったが、小判小粒とりぜ、目紙めがみの三へ張ったところ、それが二回まで受け、五両が百二十五両になった。それだのに賭金かねを引こうともせず、依然として三の目へ張り、
「壺!」と怒鳴っているのであった。
 客人たちはささやき出した。
「お侍さんだけに度胸があるねえ」
「今度三が出たらどうなると思う」
「胴親が、四倍の、五百両を附けるまでよ」
元金もときんを加えて、六百二十五両になるってわけか」
「それじゃア、五百両胴は潰れるじゃアねえか」
 染八という乾児こぶんが中盆をしていたが、途方にくれたように、五郎蔵の顔を見た。と、この時まで、小面憎そうに、勝ち誇っている浪人を、にらみ付けていたお浦が、
「親分」と例の五郎蔵へ囁いた。
「喜代三を引っ込めなさいよ」
 喜代三というのは、壺振りの名であった。
「喜代三にゃア、三が振り切れそうもないじゃアありませんか」
「大丈夫だ」
 五郎蔵の声は自信に充ちていた。
天国あまくに様が附いている」
 それから神棚の方へ頤をしゃくったが、「五郎蔵の賭場、一度のきずも附いたことのねえのは、天国様が附いているからよ。喜代三、勝負しろ」
(天国様?)
 と、五郎蔵の言葉ことばを小耳に挾んで、不審を打ったのは、頼母で、
(それじゃアあの神棚には、天国の剣が祭ってあるのか?)
 改めて神棚を眺めた。燈明の火が明るく輝き、紫の幕が、華やかにえ、その奥から、真鍮しんちゅうびょうを持ったほこらの、とぼそが覗いていた。
(あの祠の中に天国があるのではあるまいか)
 彼がここへ来たもう一つの目的は、五郎蔵が来栖勘兵衛だとして、はたして、天国の剣を持っているかどうか、それを知ることであった。
 頼母はじっと神棚を見詰めた。
 と、
「わーッ」
 という声が聞こえ、
ぴんだーッ」
「おさむれえ、やられたのーッ」
 という声が聞こえた。
 頼母は、はっとして、盆の方を見た。
 骰子さいころの目が、一を出して、目紙の上に、ころがっている。
ざまア見ろ!)というように、染八が、浪人の前から、百二十五両を掻き集めようとしているのが見えた。
「待て!」
 浪人が刀を抜き、ピタリと目紙の上へ置いた。
「その金、引くことならぬ!」
「何を!」
「賭場荒らしだーッ」
 場内総立ちになった。
 瞬間に浪人は、編笠をね退け、蒼黒い、痩せた、頬骨の高い、五十を過ごした、兇暴の顔を現わし、落ち窪んで、眼隈めくまの出来ている眼で、五郎蔵を凝視みつめたが、
「おかしらア、いや親分、お久し振りでござんすねえ」と、言葉まで侍らしくなく、渡世人じみた調子で、「いつも全盛で、おめでとうございます」
 五郎蔵は、相手の顔を見、不審いぶかしそうに眼をひそめたが、そろりと脇差しを膝へ引き付けると、
わりゃア?」
渋江典膳しぶえてんぜんで。……お見忘れたア情ねえが、こう痩せ涸れてしまっちゃア、人相だって変る筈で。……それにさ、お別れしてっから、月日の経つこと二十年! ハッハッ、お解りにならねえ方が本当かもしれねえ」
「…………」
「お頭ア、いや親分、あの頃はようござんしたねえ、二十年前は。……来栖勘兵衛、有賀又兵衛といやア、泣くも黙る浪人組の頭、あっしゃア、そのお頭の配下だったんですからねえ。……徒党を組んでの、押し借り強請ゆすりの薬が利きすぎ、とうとう幕府おかみから、お触れ書きさえ出されましたっけねえ。あっしゃア、暗記そらで覚えておりやす。『近年、諸国在々、浪人多く徘徊いたし、槍鉄砲をたずさえ、頭分、師匠分などと唱え、廻り場、持ち場などと号し、めいめい私に持ち場を定め、百姓家へ参り、合力を乞い、少分の合力銭等やり候えば、悪口乱暴いたす趣き、不届き至極、目付け次第からり、手に余らば、斬り捨て候うも苦しからず、差し押さえの上は、無宿、有宿にかかわらず、死罪その外重科に処すべく候云々』……勘兵衛とも又兵衛とも、姓名の儀は出ておりませんが、勘兵衛、又兵衛を目あてにしてのお触れ書きで。そうしてこのお触れ書きは、今にきている筈で。……ですから、勘兵衛、又兵衛が、今に生きていて、この辺にウロウロしていると知れたら、忽ち捕り手が繰り出され、捕らえられたら、首が十あったって足りゃアしねえ。……それほどの勢力のあった浪人組も、徒党も、二十年の間に、死んだり、殺されたり、ご処刑受けたりして、今に生きている者、はて、幾人ありますかねえ。……三人だけかもしれねえ。……一人は私で。一人は、ここから一里ほど離れている古屋敷に、躄者いざりになって生きている爺さんよ。……もう一人は……」
「お侍さん」と、五郎蔵が云った。「いい度胸ですねえ」
「何んだと」
「あっしゃア、どういうものか、ご浪人が好きで、これまで随分世話を見てあげましたが、ご浪人に因縁つけられたなア今日が初めてで」
「つけるだけの因縁が……」
「いい度胸だ」
「褒められて有難え」
「百二十五両お持ちなすって。……お浦、胴巻でも貸してあげな」
「親分!」と、お浦は歯切りし、「あんな乞食こじき浪人に……」
「いいってことよ」それからお浦の耳へ口を寄せたが、
「な! ……」
「なるほどねえ。……渋江さんとやら、それじゃアこれを……」
 お浦の投げた縞の胴巻は、典膳の膝の辺へ落ちた。それへ、金包みを入れた典膳は、ノッシリと立ち上がったが、礼も云わず、客人を掻き分けると、場外そとへ出て行った。
 その後を追ったのは、お浦であった。

    典膳の運命は

 この日が夜となり、火祭りの松明が、諏訪神社の周囲を、火龍のように廻り出し、府中の宿が、篝火かがりびの光で、昼のように明るく見え出した。
 この頃、頼母は、物思いに沈みながら諏訪神社みや府中しゅくとをつないでいる畷道なわてを、府中の方へ歩いていた。賭場で見聞したことが、彼の心を悩ましているのであった。渋江典膳という浪人が、五郎蔵を脅かした言葉から推すと、いよいよ五郎蔵は来栖勘兵衛であり、飯塚薪左衛門は、有賀又兵衛のように思われてならなかった。そうして、五郎蔵が来栖勘兵衛だとすると、神棚に祭られてあったのは、天国の剣に相違ないように思われた。このことは頼母にとっては、苦痛のことであった。
(天国の剣が、存在するということが確かめられれば、父の説は、誤りということになる。しかるに父は、その誤った説で、五味左衛門と議論したあげく、試合までして、左衛門を打ち挫き、備中守様のご前で恥をかかせた。そのために左衛門は悲憤し、屠腹して死んだのであるから、左衛門を殺したのは、父であると云われても仕方がなく、左衛門の忰左門が、父を討ったのは、敵討ちということになる。その左門を、自分が、父の敵として討つということは、ご法度はっとの、「又敵討ち」になろうではあるまいか)
(いっそ、天国を手に入れ、打ち砕き、この世からなくなしてしまったら)
 こんな考えさえ浮かんで来るのであった。
(天国のような名刀が、二本も三本も、現代こんにちに残っている筈はない。あの天国さえ打ち砕いてしまったら)
 枯れ草に溜っている露を、足に冷たく感じながら、頼母は、府中の方へ歩いて行った。
 と、行く手に竹藪があって、出たばかりの月に、葉叢はむらを、薄白く光らせ、微風そよかぜにそよいでいたが、その藪蔭から、男女の云い争う声が聞こえて来た。頼母は、(はてな?)と思いながら、その方へ足を向けた。
 府中の方へ流れて行く、幅十間ばかりの、髪川という川が、竹藪の裾を巡って流れていて、淵も作れないほどの速い水勢ながれが、月光を銀箔のように砕いていた。その岸を、男と女とが、酔っていると見え、あぶなっかしい足どりで歩き、云い争っていた。
「これお浦、どうしたものだ。どこまで行けばよいのだ。蛇の生殺しは怪しからんぞ。これいいかげんで……」
 渋江典膳であった。五郎蔵の賭場で、百二十五両の金を強請ゆすり、場外へ出ると、賭場で、五郎蔵の側にいたお浦という女が、追っかけて来て、親分の吩咐いいつけで、一こん献じたいといった。こいつ何か奸策あってのことだろうと、典膳は、最初は相手にしなかったが、田舎に珍しいお浦の美貌と、手に入った籠絡ろうらく手管てくだとに誘惑そそのかされ、つい府中しゅくの料理屋へ上がった。酒を飲まされた。酔った。酔ったほどに、下根げこんの典膳は、「お浦、俺の云うことをけ」と云い出した。
 お浦はお浦で、五郎蔵から、
「あんな三下に、大金を強請ゆすられたは心外、さりとて、乾児こぶんを使って取り返すも大人気ない。お浦、お前の腕で取り返しな。取り返したら、金はお前にくれてやる」と云われ、その気になり、出かけて来た身だったので、「ここではあんまり内密ないしょの話も出来ないから……ともかくも外へ出て」と、連れ出して来たのであった。
「どこへ行くのだお浦、ひどく寂しい方へ連れて行くではないか……」
 と、典膳は、お浦の肩へ手をかけようとした。
 お浦は、それをいなしたが、
「何をお云いなのだよ。この人は……」
 そのくせ、心では、(一筋縄ではいけそうもない。……それにこんな破落戸ならず武士、殺したところで。……そうだ、いっそ息の根止めて……)と、思っているのであった。
 典膳がよろめいて、お浦の肩へぶつかった時、お浦は、何気なさそうに、典膳の懐中ふところへ手をやった。
「これ!」
「胴巻かえ?」
「うん」
「重たそうだねえ」
「百二十五両!」
「ああ、昼間の金だね」
「うん。……五郎蔵め、よく出しおった。旧悪ある身の引け目、ざまア見ろだ。……お浦、いうことを諾いたら、金をくれるぞ。十両でも二十両でも」
「金なら、妾だって持っているよ」
はした金だろう」
鋼鉄はがねさ、斬れる金さ」
 お浦は、片手を懐中へ入れ、呑んでいた匕首あいくちを抜くと、「そーれ、斬れる金を!」と、典膳の脇腹へ突っ込んだ。
「ヒエーッ、お浦アーッ、さてはおのれ!」
「汝も蜂の頭もありゃアしないよ」
 胴巻をグルグルと手繰たぐり出し、背を抱いていた手を放すと、典膳は、弓のようにのけ反ったまま、川の中へ落ちて行った。
(止どめを刺さなかったがよかったかしら?)
 お浦は、岸から覗き込んだ。急の水は、典膳を呑んで、下流へ運んで行ったと見え、その姿は見えなかった。
「案外もろいものだねえ」
 草で匕首の血糊を拭った時、
「お浦殿、やりましたな」
 という声が聞こえて来た。さすがにお浦もギョッとして、声の来た方を見た。竹藪を背にして、編笠をかむった武士が立っていた。
「どなた?」
「旅の者じゃ」
「見ていたね」
「さよう」
「突き出す気かえ」
「役人ではない」
「話せそうね」
 と、お浦は、構えていた匕首を下ろし、
「見がしてくれるのね」
「殺して至当の悪漢じゃ」
「ご存知?」
「賭場で見ていた」
「まあ」

    お浦の恋情

「昼の間、五郎蔵殿の賭場へ参った者じゃ」
「あれ、それじゃア、まんざら見ず知らずの仲じゃアないのね」
「それに、同宿のよしみもある」
「同宿?」
「拙者は、府中の武蔵屋に泊まっておる」
 編笠の武士、すなわち、伊東頼母は、そう、今日、府中へ来ると、五郎蔵一家が、武蔵屋へ宿を取っていると聞き、近寄る便宜にもと、同じ旅籠はたごへ投じたのであった。しかるに、五郎蔵はじめその一家が、もう賭場へ出張ったと聞き、自分も賭場へ出かけて行ったのであった。
「まあ。武蔵屋に。それはそれは。妾も、武蔵屋の婢女おんなでござんす」
「賭場で、典膳という奴、五郎蔵殿へ因縁つけたのを見ていた。殺されても仕方ない」
「それで安心。……妾アどうなることかと。……でも、芳志こころざしには芳志を。……失礼ながら旅用のしに……」
 と、お浦が、胴巻の口へ手を入れたのを、頼母は制し、
「他に頼みがござる」
「他に……」お浦は、意外に思ったか、首をかしげたが、何か思いあたったと見え、やがて、月光の中で、唇をゆがめ、酸味すみある笑い方をしたかと思うと、「弱いところを握られた女へ、金の他に頼みといっては、さあ、ホッ、ホッ」
「誤解しては困る」
 と、頼母は、少し周章あわてた。しかし厳粛の声で、「不躾ぶしつけの依頼をするのではない」
「では……」
「賭場に神棚がありましたのう」
「ようご存知」
「ご神体は?」
「はい、天国とやらいう刀……」
「天国※(感嘆符疑問符、1-8-78) おお、やっぱり! ……お浦殿、その天国を拝見したいのじゃが」
「天国様を? ……なお頼み。……何んで?」
「拙者は武士、武士は不断に、名刀を恋うるもの。天国は、天下の名器、至宝中の至宝、武士冥利、一度手に取って親しく」
「なるほどねえ、さようでございますか。……いえ、さようでございましょうとも、女の身の妾などにしてからが、江戸におりました頃、歌舞伎を見物、水の垂れそうに美しい、吉沢あやめの、若衆姿など眼に入れますと、一生に一度は、ああいう役者衆と、一つ座敷で、盃のやり取りしたいなどと。……同じ心持ち、よう解りまする。……では何んとかして、あの天国様を。……おおちょうど幸い、五郎蔵親分には、あの天国様を、賭場へ行く時には賭場へ持って行き、宿へ帰る時には宿へ持って帰りまする。……今夜妾がこっそり持ち出し、あなた様のお部屋へ……」
「頼む」
「お部屋は?」
「中庭の離座敷はなれ
「お名前は?」
「伊東頼母」
「お顔拝見しておかねば……」
 頼母は、そこで編笠を脱いだ。
 お浦はその顔をかして見たが、「まあ」と感嘆の声を上げた。「ご縹緻きりょうよしな! ……お前髪立ちで! 歌舞伎若衆といおうか、お寺お小姓と云おうか! 何んとまアお美しい!」
 見とれて、恍惚うっとりとなったが、
「女冥利、妾アどうあろうと……」
 と、よろめくように前へ出た。
 若衆形吉沢あやめに似ていると囃された、無双の美貌の頼母が、月下に立った姿は、まこと舞台からけ出した芝居の人物かのようで、色ごのみの年増女などは、魂を宙に飛ばすであろうと思われた。前髪のほつれが、眉のあたりへかかり、ポッと開けた唇から、揃った前歯が、つつましく覗いている様子など、女の子よりもなまめかしかった。
「天国様は愚か、妾ア……」
 と、寄り添おうとするのを、
「今夜、何時に?」
 と、頼母は、お浦を押しやった。
「あい、どうせ五郎蔵親分が眠ってから……の刻頃……」
「間違いござるまいな」
「何んの間違いなど。……あなた様こそ間違いなく……」
「お待ちしましょう」
 と、云い棄て、頼母は歩き出した。お浦は、その背後うしろ姿を、なお恍惚とした眼付きで見送ったが、
(妾ア、生き甲斐を覚えて来たよ)

    紙帳の中

 この夜が更けて、子の刻になった時、府中の旅籠屋、武蔵屋は寝静まっていた。
 と、お浦の姿が、そこの廊下へ現われた。廊下の片側は、並べて作ってある部屋部屋で、襖によって閉ざされていたが、反対側は中庭で、月光が、霜でも敷いたかのように、地上を明るく染めていた。質朴な土地柄からか、雨戸などは立ててない。お浦は廊下を、足音を忍ばせて歩いて行った。廊下が左へ曲がった外れに、離座敷はなれが立っていた。藁葺わらぶき屋根の、部屋数三間ほどの、古びた建物で、静けさを好む客などのために建てたものらしかった。離座敷は、月に背中を向けていたので、中庭を距てた、こっちの廊下から眺めると、屋根も、縁側も、襖も、一様に黒かった。お浦は、そこの一間に、自分を待っている美しい若衆武士のことを思うと、胸がワクワクするのであった。(早くこの天国様をお目にかけて、その代りに……)と、濃情のこの女は、刀箱を抱えていた。
 やがて、離座敷の縁側まで来た。お浦は、年にも、茶屋女という身分にも似ず、闇の中で顔を赧らめながら、部屋の襖をあけ、人に見られまいと、いそいで閉め、
「もし。……参りましたよ」
 とうつろのような声で云い、燈火ともしびのない部屋を見廻した。と、闇の中に、仄白く、方形の物が懸かっていた。
(おや?)とお浦は近寄って行った。紙帳であった。(ま、どうしよう、部屋を間違えたんだよ)
 と、あわてて出ようとした時、紙帳の裾から、白い、細い手が出て……、
「あれ!」
 しかし、お浦は、紙帳の中へ引き込まれた。
 附近ちかくの農家で飼っていると見え、家鶏にわとりの啼き声が聞こえて来た。
 部屋の中も、紙帳の中も静かであった。
 紙帳は、闇の中に、経帷子きょうかたびらのように、気味悪く、薄白く、じっと垂れている。
 家鶏とりの啼いた方角から、今度は、犬の吠え声が聞こえて来た。祭礼の夜である、夜盗などの彷徨さまよう筈はない、参詣帰りの人が、遅く、その辺を通るからであろう。
 やがて、燧石いしを切る音が、紙帳の中から聞こえて来、すぐにボッと薄黄いろい燈火ひのひかりが、紙帳の内側から射して来た。
 さてここは紙帳の内部なかである。――
 唐草の三揃いの寝具に埋もれて、お浦が寝ていた。夜具の襟が、頤の下まで掛かってい、濃化粧をしている彼女の顔が、人形の首かのように、浮き上がって見えていた。眼は細く開いていて、瞳が上瞼うわまぶたに隠され、白眼ばかりが、水気を帯びた剃刀かみそり刀身かのように、凄く鋭く輝いて見えた。呼吸をしている証拠として、額から、高い鼻の脇を通って、頬にかかっているおくれ毛が、揺れていた。しかし尋常の睡眠ねむりとは思われなかった。気を失っているのらしい。
 そのお浦の横に、夜具から離れ、畳の上に、膝を揃え、端然と、五味左門が坐っていた。
 ふと手を上げてびんの毛を撫でたが、その手を下ろすと、ゆるやかに胸へ組み、
蜘蛛くもはただ網を張っているだけだ」と、呟いた。
「その網へかかる蝶や蜂は……蝶や蜂が不注意わるいからだ」
 と、また、彼は呟いた。
 独言ひとりごとを云うその口は、残忍と酷薄とを現わしているかのように薄く、色も、赤味などなく、薄墨のように黒かった。
 それにしても、紙帳に近寄る男は斬り、紙帳に近寄る女は虐遇さいなむという、この左門の残忍性は、何から来ているのであろう?
 紙帳生活から来ているのであった。
 彼の父左衛門は、生前、春、秋、冬を、その中に住み、夏は紙帳きれを畳んで蒲団の上に敷き、寝茣蓙代りにしたが、左門も、春、秋、冬をその中に住み、夏は寝茣蓙代りに、その上へ寝た。そういうことをすることによって、亡父ちちの悩みや悶えを体得したかったのである。そう、彼の父左衛門は、紙帳に起き伏ししながら、天国の剣を奪われて以来衰えた家運について、悩み悶えたのであった。……しかるに左門は、紙帳の中で起き伏しするようになってから、だんだん一本気いっこくとなり、狭量となり、残忍殺伐となった。何故だろう? 狭い紙帳を天地とし、外界そとと絶ち、他を排し、自分一人だけで生活くらすようになったからである。そういう生活は孤独生活であり、孤独生活が極まれば、憂欝となり絶望的となる。その果ては、気の弱い者なら自殺に走り、気の強いものなら、欝積している気持ちを、突発的に爆発させて、兇暴の行為をするようになる。左門の場合はその後者で、無意味といいたいほどにも人を斬り、残忍性を発揮するのであった。
「突然はいって来たこの女は? ……」
 呟き呟き彼は、女の寝顔を見た。その眼は、※(「足」の「口」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)しんにゅうの最後の一画を、眉の下へ置いたかのように、長く、細く、尻刎ねしていた。
「これは何んだ?」と、女の枕もとに転がっている、白い風呂敷包みの、長方形の物へ眼を移した時、彼は呟いた。やがて彼は手を延ばし、風呂敷包みを引き寄せ、包みを解いた。白木の刀箱が現われた。箱の表には、天国と書いてある。
「天国?」
 彼は、うなされたような声で呟いた。瞬間に、額こそ秀でているが、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみの低い、頬のけた、鼻が鳥のくちばしのように鋭く高い、蒼白の顔色の、長目の彼の顔が、注した血で、燃えるように赧くなった。烈しい感動を受けたからである。
「天国?」
 彼の肩がまずふるえ、その顫えが、だんだんに全身へ伝わって行った。
「天国? ……まさか!」
 にわかに、彼は口を歪め、眼尻へ皺を寄せた。嘲笑ったのである。
「まさか、こんな所に天国が!」
 しかも彼の眼は、刀箱の箱書きの文字に食い付いているのであった。
 彼が天国の剣にがれているのは、親譲りであった。彼の父、左衛門は、生前彼へこう云った。「我が家には、先祖から伝わった天国の剣があったのじゃ。それを今から二十年前、来栖勘兵衛、有賀又兵衛という、浪人の一党に襲われ、奪われた。……どうともして探し出して、取り返したいものだ」と。――その左衛門が、自殺の直後、せがれ左門へ宛ててしたためた遺書には、万難を排して天国を探し出し、伊東忠右衛門一族に示せよとあった。父のかたきとして忠右衛門を討ち取り、父の形見として紙帳を乞い受け、故郷を出た左門が、日本の津々浦々を巡っているのも、天国を探し出そうためであった。その天国がここにあるのである。
「信じられない!」
 彼はまた魘されたような声で云った。そうであろう、蜘蛛の網にかかった蝶のように、紙帳の中へはいって来た、名さえ、素姓さえ知らぬ女が、天下の至宝、剣の王たる、天国を持っていたのであるから。
「……しかし、もしや、これが本当に天国なら……」
 それでいて彼は、早速には、刀箱のふたを開けようとはしなかった。開けて、中身を取り出してみて、それが贋物にせものであると証明された時の失望! それを思うと、手が出せないのであった。まさか! と思いながら、もし天国であったなら、どんなに嬉しかろう! この一の希望を持って、左門は、尚も刀箱を見据えているのであった。
「これが天国なら、この天国で、伊東頼母めを返り討ちに!」
 また、うめくように云った。

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