五郎蔵の賭場
こういうことがあってから、三日経った。 ここ、府中の宿は、火祭りで賑わっていた。家々では篝火を焚き、夜になると、その火で松明を燃やし、諏訪神社の境内を巡った。それで火祭りというのであるが、諏訪神社は、宿から十数町離れた丘つづきの森の中にあり、その森の背後の野原には、板囲いの賭場が、いくらともなく、出来ていて、大きな勝負が争われていた。 伊東頼母が、この一劃へ現われたのは、夕七ツ――午後四時頃であった。歩いて行く両側は賭場ばかりで、場内からは景気のよい人声などが聞こえて来た。夕陽を赤く顔へ受けて、賭場へはいって行く者、賭場から出て来る者、いずれも昂奮しているのは、勝負を争う人達だからであろう。総州松戸の五郎蔵持ちと書かれた板囲いを眼に入れると、頼母は、足をとめ、 「これが五郎蔵の賭場か、どれはいってみようかな」 と呟いた。 というのは、不幸な飯塚薪左衛門親子を苦しめる、五郎蔵という、博徒の親分の正体を見究めようために、やって来た彼だからである。そうして、彼としては、機会を見て、五郎蔵と話し、何故薪左衛門を脅すのか? 事実、薪左衛門は有賀又兵衛であり、五郎蔵は来栖勘兵衛なのか? 野中の道了塚で、二人は斬り合ったというが、その動機は何か? 野中の道了塚の秘密は何か? 等をも確かめようと思っているのであった。 それにしても飯塚薪左衛門の屋敷から、この府中までは、わずか一里の道程だのに、なぜ三日も費やして来たのであろう? 彼は三日前のあの夜、薪左衛門の屋敷で、ああいう事件に逢ったが、それから躄り車を押して、栞共々、庭から屋内へ、薪左衛門を運び入れた。屋敷の中は大変であった。五人泊まっていたという浪人のうち、一人は斬り殺されてい、一人は片足を斬られてい、後の三人の姿は消えてなくなっていた。片足を斬られた浪人の語るところによれば、紙帳を釣って、その中にいた五味左門と宣る武士によって、この騒動が惹き起こされたということであった。 この事を聞くと、頼母は仰天し、娘の栞へ、そのような武士を泊めたかと訊いてみた。すると栞は、「五味左門と宣り、一人のお武家様が、宿を乞いましたので、早速お泊めいたしましたが、お寝みになる時、紙帳を釣りましたかどうか、その辺のところは存じませぬ」と答えた。それで頼母は、どっちみち、紙帳の中から出て来て、自分を体あたりで気絶させた、武道の達人が、自分の父の仇の、五味左門であるということを知ったが、そんな事件が起こったため、その処置を、栞と一緒に付けることになり、三日を費やし、三日目の今日、ようやく府中へ来たのであった。 「なかなか立派な小屋だな」 と呟きながら、頼母は、改めて五郎蔵の賭場を眺めた。 板囲いは、ひときわ大ぶりのもので、入り口には、二人の武士が、襷をかけ、刀を引き付け、四斗樽に腰かけていたが、いうまでもなく賭場防ぎで、一人は、望月角右衛門であり、もう一人は、小林紋太郎であった。この二人は、あの夜、薪左衛門の屋敷で、ああいう目に逢い、恐怖のあまり、暇も告げず、屋敷を逃げ出し、ここの五郎蔵の寄人になったものらしい。同じ屋敷に泊まったものの、顔を合わせたことがなかったので、頼母は、二人を知らず、そこで目礼もしないで、入り口をくぐった。 賭場は、今が勝負の最中らしく、明神へ参詣帰りの客や、土地の者が、数十人集まってい、盆を囲繞いて、立ったり坐ったりしていた。世話をする中盆が、声を涸らして整理に努めているかと思うと、素裸体に下帯一つ、半紙を二つ折りにしたのを腰に挾んだ壺振りが、鉢巻をして、威勢のよいところを見せていた。正面の褥の上にドッカリと坐り、銀造りの長脇差しを引き付け、盆を見ている男があったが、これが五郎蔵で、六十五歳だというのに、五十そこそこにしか見えず、髪など、小鬢へ、少し霜を雑じえているばかりであった。段鼻の、鷲のような眼の、赧ら顔は、いかにも精力的で、それに、頤などは、二重にくくれているほど肥えているので、全体がふくよかであり、武士あがりというだけに、品があり、まさに親分らしい貫禄を備えていた。甲州紬茶微塵の衣裳に、紺献上の帯を結んでいるのも、よく似合って見えた。その横に女が坐っていた。以前から五郎蔵が、自分のものにしようと苦心し、それを、柳に風と受け流し、今に五郎蔵の自由にならないところから、博徒仲間で、噂の種になっている、お浦という女であった。二業――つまり、料理屋と旅籠屋とを兼ねた、武蔵屋というのへ、一、二年前から、流れ寄って来ている、いわゆる茶屋女なのである。年は二十七、八でもあろうか、手入れの届いた、白い、鞣し革のような皮膚は、男の情緒を悩ますに足り、受け口めいた唇は、女形のように濃情であった。結城の小袖に、小紋縮緬の下着を重ね、厚板の帯を結んでいる。こんな賭場へ来ているのは、五郎蔵が、 「おいお浦、祝儀ははずむから、小屋へ来て、客人の、酒や茶の接待をしてくんな」と頼んだからであるが、その実は、五郎蔵としては、片時もこの女を、自分の側から放したくないからであった。 (賭場に神棚が祭ってあるのは変だな) と、盆の背後、客人の間に雑じって立っていた頼母は、五郎蔵やお浦から眼を外し、五郎蔵の背後、天井に近く設けられてある、白木造りの棚を眺めた。紫の幕が張ってあり、燈明が灯してあった。 (何かの縁起には相違あるまいが)
ゆすり浪人
この間にも、五百両胴のチョボ一は、勝負をつづけて行った。胴親、五郎蔵の膝の前に積まれてある、二十五両包みが、封を切られたかと思うと、ザラザラと賭け金が、胴親のもとへ掻き寄せられもした。 一人ばからしいほど受け目に入っている客人があった。編笠を冠ったままの、みすぼらしい扮装の浪人であったが、小判小粒とり雑ぜ、目紙の三へ張ったところ、それが二回まで受け、五両が百二十五両になった。それだのに賭金を引こうともせず、依然として三の目へ張り、 「壺!」と怒鳴っているのであった。 客人たちは囁き出した。 「お侍さんだけに度胸があるねえ」 「今度三が出たらどうなると思う」 「胴親が、四倍の、五百両を附けるまでよ」 「元金を加えて、六百二十五両になるってわけか」 「それじゃア、五百両胴は潰れるじゃアねえか」 染八という乾児が中盆をしていたが、途方にくれたように、五郎蔵の顔を見た。と、この時まで、小面憎そうに、勝ち誇っている浪人を、睨み付けていたお浦が、 「親分」と例の五郎蔵へ囁いた。 「喜代三を引っ込めなさいよ」 喜代三というのは、壺振りの名であった。 「喜代三にゃア、三が振り切れそうもないじゃアありませんか」 「大丈夫だ」 五郎蔵の声は自信に充ちていた。 「天国様が附いている」 それから神棚の方へ頤をしゃくったが、「五郎蔵の賭場、一度の疵も附いたことのねえのは、天国様が附いているからよ。喜代三、勝負しろ」 (天国様?) と、五郎蔵の言葉を小耳に挾んで、不審を打ったのは、頼母で、 (それじゃアあの神棚には、天国の剣が祭ってあるのか?) 改めて神棚を眺めた。燈明の火が明るく輝き、紫の幕が、華やかに栄え、その奥から、真鍮の鋲を持った祠の、扉が覗いていた。 (あの祠の中に天国があるのではあるまいか) 彼がここへ来たもう一つの目的は、五郎蔵が来栖勘兵衛だとして、はたして、天国の剣を持っているかどうか、それを知ることであった。 頼母はじっと神棚を見詰めた。 と、 「わーッ」 という声が聞こえ、 「一だーッ」 「お侍、やられたのーッ」 という声が聞こえた。 頼母は、はっとして、盆の方を見た。 骰子の目が、一を出して、目紙の上に、ころがっている。 (態ア見ろ!)というように、染八が、浪人の前から、百二十五両を掻き集めようとしているのが見えた。 「待て!」 浪人が刀を抜き、ピタリと目紙の上へ置いた。 「その金、引くことならぬ!」 「何を!」 「賭場荒らしだーッ」 場内総立ちになった。 瞬間に浪人は、編笠を刎ね退け、蒼黒い、痩せた、頬骨の高い、五十を過ごした、兇暴の顔を現わし、落ち窪んで、眼隈の出来ている眼で、五郎蔵を凝視めたが、 「お頭ア、いや親分、お久し振りでござんすねえ」と、言葉まで侍らしくなく、渡世人じみた調子で、「いつも全盛で、おめでとうございます」 五郎蔵は、相手の顔を見、不審しそうに眼をひそめたが、そろりと脇差しを膝へ引き付けると、 「汝ア?」 「渋江典膳で。……お見忘れたア情ねえが、こう痩せ涸れてしまっちゃア、人相だって変る筈で。……それにさ、お別れしてっから、月日の経つこと二十年! ハッハッ、お解りにならねえ方が本当かもしれねえ」 「…………」 「お頭ア、いや親分、あの頃はようござんしたねえ、二十年前は。……来栖勘兵衛、有賀又兵衛といやア、泣く児も黙る浪人組の頭、あっしゃア、そのお頭の配下だったんですからねえ。……徒党を組んでの、押し借り強請りの薬が利きすぎ、とうとう幕府から、お触れ書きさえ出されましたっけねえ。あっしゃア、暗記で覚えておりやす。『近年、諸国在々、浪人多く徘徊いたし、槍鉄砲をたずさえ、頭分、師匠分などと唱え、廻り場、持ち場などと号し、めいめい私に持ち場を定め、百姓家へ参り、合力を乞い、少分の合力銭等やり候えば、悪口乱暴いたす趣き、不届き至極、目付け次第搦め捕り、手に余らば、斬り捨て候うも苦しからず、差し押さえの上は、無宿、有宿にかかわらず、死罪その外重科に処すべく候云々』……勘兵衛とも又兵衛とも、姓名の儀は出ておりませんが、勘兵衛、又兵衛を目あてにしてのお触れ書きで。そうしてこのお触れ書きは、今に活きている筈で。……ですから、勘兵衛、又兵衛が、今に生きていて、この辺にウロウロしていると知れたら、忽ち捕り手が繰り出され、捕らえられたら、首が十あったって足りゃアしねえ。……それほどの勢力のあった浪人組も、徒党も、二十年の間に、死んだり、殺されたり、ご処刑受けたりして、今に生きている者、はて、幾人ありますかねえ。……三人だけかもしれねえ。……一人は私で。一人は、ここから一里ほど離れている古屋敷に、躄者になって生きている爺さんよ。……もう一人は……」 「お侍さん」と、五郎蔵が云った。「いい度胸ですねえ」 「何んだと」 「あっしゃア、どういうものか、ご浪人が好きで、これまで随分世話を見てあげましたが、ご浪人に因縁つけられたなア今日が初めてで」 「つけるだけの因縁が……」 「いい度胸だ」 「褒められて有難え」 「百二十五両お持ちなすって。……お浦、胴巻でも貸してあげな」 「親分!」と、お浦は歯切りし、「あんな乞食浪人に……」 「いいってことよ」それからお浦の耳へ口を寄せたが、 「な! ……」 「なるほどねえ。……渋江さんとやら、それじゃアこれを……」 お浦の投げた縞の胴巻は、典膳の膝の辺へ落ちた。それへ、金包みを入れた典膳は、ノッシリと立ち上がったが、礼も云わず、客人を掻き分けると、場外へ出て行った。 その後を追ったのは、お浦であった。
典膳の運命は
この日が夜となり、火祭りの松明が、諏訪神社の周囲を、火龍のように廻り出し、府中の宿が、篝火の光で、昼のように明るく見え出した。 この頃、頼母は、物思いに沈みながら諏訪神社と府中とを繋いでいる畷道を、府中の方へ歩いていた。賭場で見聞したことが、彼の心を悩ましているのであった。渋江典膳という浪人が、五郎蔵を脅かした言葉から推すと、いよいよ五郎蔵は来栖勘兵衛であり、飯塚薪左衛門は、有賀又兵衛のように思われてならなかった。そうして、五郎蔵が来栖勘兵衛だとすると、神棚に祭られてあったのは、天国の剣に相違ないように思われた。このことは頼母にとっては、苦痛のことであった。 (天国の剣が、存在するということが確かめられれば、父の説は、誤りということになる。しかるに父は、その誤った説で、五味左衛門と議論したあげく、試合までして、左衛門を打ち挫き、備中守様のご前で恥をかかせた。そのために左衛門は悲憤し、屠腹して死んだのであるから、左衛門を殺したのは、父であると云われても仕方がなく、左衛門の忰左門が、父を討ったのは、敵討ちということになる。その左門を、自分が、父の敵として討つということは、ご法度の、「又敵討ち」になろうではあるまいか) (いっそ、天国を手に入れ、打ち砕き、この世からなくなしてしまったら) こんな考えさえ浮かんで来るのであった。 (天国のような名刀が、二本も三本も、現代に残っている筈はない。あの天国さえ打ち砕いてしまったら) 枯れ草に溜っている露を、足に冷たく感じながら、頼母は、府中の方へ歩いて行った。 と、行く手に竹藪があって、出たばかりの月に、葉叢を、薄白く光らせ、微風にそよいでいたが、その藪蔭から、男女の云い争う声が聞こえて来た。頼母は、(はてな?)と思いながら、その方へ足を向けた。 府中の方へ流れて行く、幅十間ばかりの、髪川という川が、竹藪の裾を巡って流れていて、淵も作れないほどの速い水勢が、月光を銀箔のように砕いていた。その岸を、男と女とが、酔っていると見え、あぶなっかしい足どりで歩き、云い争っていた。 「これお浦、どうしたものだ。どこまで行けばよいのだ。蛇の生殺しは怪しからんぞ。これいいかげんで……」 渋江典膳であった。五郎蔵の賭場で、百二十五両の金を強請り、場外へ出ると、賭場で、五郎蔵の側にいたお浦という女が、追っかけて来て、親分の吩咐けで、一献献じたいといった。こいつ何か奸策あってのことだろうと、典膳は、最初は相手にしなかったが、田舎に珍しいお浦の美貌と、手に入った籠絡の手管とに誘惑かされ、つい府中の料理屋へ上がった。酒を飲まされた。酔った。酔ったほどに、下根の典膳は、「お浦、俺の云うことを諾け」と云い出した。 お浦はお浦で、五郎蔵から、 「あんな三下に、大金を強請られたは心外、さりとて、乾児を使って取り返すも大人気ない。お浦、お前の腕で取り返しな。取り返したら、金はお前にくれてやる」と云われ、その気になり、出かけて来た身だったので、「ここではあんまり内密の話も出来ないから……ともかくも外へ出て」と、連れ出して来たのであった。 「どこへ行くのだお浦、ひどく寂しい方へ連れて行くではないか……」 と、典膳は、お浦の肩へ手をかけようとした。 お浦は、それをいなしたが、 「何をお云いなのだよ。この人は……」 そのくせ、心では、(一筋縄ではいけそうもない。……それにこんな破落戸武士、殺したところで。……そうだ、いっそ息の根止めて……)と、思っているのであった。 典膳がよろめいて、お浦の肩へぶつかった時、お浦は、何気なさそうに、典膳の懐中へ手をやった。 「これ!」 「胴巻かえ?」 「うん」 「重たそうだねえ」 「百二十五両!」 「ああ、昼間の金だね」 「うん。……五郎蔵め、よく出しおった。旧悪ある身の引け目、態ア見ろだ。……お浦、いうことを諾いたら、金をくれるぞ。十両でも二十両でも」 「金なら、妾だって持っているよ」 「端た金だろう」 「鋼鉄さ、斬れる金さ」 お浦は、片手を懐中へ入れ、呑んでいた匕首を抜くと、「そーれ、斬れる金を!」と、典膳の脇腹へ突っ込んだ。 「ヒエーッ、お浦アーッ、さては汝!」 「汝も蜂の頭もありゃアしないよ」 胴巻をグルグルと手繰り出し、背を抱いていた手を放すと、典膳は、弓のようにのけ反ったまま、川の中へ落ちて行った。 (止どめを刺さなかったがよかったかしら?) お浦は、岸から覗き込んだ。急の水は、典膳を呑んで、下流へ運んで行ったと見え、その姿は見えなかった。 「案外もろいものだねえ」 草で匕首の血糊を拭った時、 「お浦殿、やりましたな」 という声が聞こえて来た。さすがにお浦もギョッとして、声の来た方を見た。竹藪を背にして、編笠をかむった武士が立っていた。 「どなた?」 「旅の者じゃ」 「見ていたね」 「さよう」 「突き出す気かえ」 「役人ではない」 「話せそうね」 と、お浦は、構えていた匕首を下ろし、 「見遁がしてくれるのね」 「殺して至当の悪漢じゃ」 「ご存知?」 「賭場で見ていた」 「まあ」
お浦の恋情
「昼の間、五郎蔵殿の賭場へ参った者じゃ」 「あれ、それじゃア、まんざら見ず知らずの仲じゃアないのね」 「それに、同宿の誼みもある」 「同宿?」 「拙者は、府中の武蔵屋に泊まっておる」 編笠の武士、すなわち、伊東頼母は、そう、今日、府中へ来ると、五郎蔵一家が、武蔵屋へ宿を取っていると聞き、近寄る便宜にもと、同じ旅籠へ投じたのであった。しかるに、五郎蔵はじめその一家が、もう賭場へ出張ったと聞き、自分も賭場へ出かけて行ったのであった。 「まあ。武蔵屋に。それはそれは。妾も、武蔵屋の婢女でござんす」 「賭場で、典膳という奴、五郎蔵殿へ因縁つけたのを見ていた。殺されても仕方ない」 「それで安心。……妾アどうなることかと。……でも、芳志には芳志を。……失礼ながら旅用の足しに……」 と、お浦が、胴巻の口へ手を入れたのを、頼母は制し、 「他に頼みがござる」 「他に……」お浦は、意外に思ったか、首を傾げたが、何か思いあたったと見え、やがて、月光の中で、唇をゆがめ、酸味ある笑い方をしたかと思うと、「弱いところを握られた女へ、金の他に頼みといっては、さあ、ホッ、ホッ」 「誤解しては困る」 と、頼母は、少し周章てた。しかし厳粛の声で、「不躾けの依頼をするのではない」 「では……」 「賭場に神棚がありましたのう」 「ようご存知」 「ご神体は?」 「はい、天国とやらいう刀……」 「天国 おお、やっぱり! ……お浦殿、その天国を拝見したいのじゃが」 「天国様を? ……異なお頼み。……何んで?」 「拙者は武士、武士は不断に、名刀を恋うるもの。天国は、天下の名器、至宝中の至宝、武士冥利、一度手に取って親しく」 「なるほどねえ、さようでございますか。……いえ、さようでございましょうとも、女の身の妾などにしてからが、江戸におりました頃、歌舞伎を見物、水の垂れそうに美しい、吉沢あやめの、若衆姿など眼に入れますと、一生に一度は、ああいう役者衆と、一つ座敷で、盃のやり取りしたいなどと。……同じ心持ち、よう解りまする。……では何んとかして、あの天国様を。……おおちょうど幸い、五郎蔵親分には、あの天国様を、賭場へ行く時には賭場へ持って行き、宿へ帰る時には宿へ持って帰りまする。……今夜妾がこっそり持ち出し、あなた様のお部屋へ……」 「頼む」 「お部屋は?」 「中庭の離座敷」 「お名前は?」 「伊東頼母」 「お顔拝見しておかねば……」 頼母は、そこで編笠を脱いだ。 お浦はその顔を隙かして見たが、「まあ」と感嘆の声を上げた。「ご縹緻よしな! ……お前髪立ちで! 歌舞伎若衆といおうか、お寺お小姓と云おうか! 何んとまアお美しい!」 見とれて、恍惚となったが、 「女冥利、妾アどうあろうと……」 と、よろめくように前へ出た。 若衆形吉沢あやめに似ていると囃された、無双の美貌の頼母が、月下に立った姿は、まこと舞台から脱け出した芝居の人物かのようで、色ごのみの年増女などは、魂を宙に飛ばすであろうと思われた。前髪のほつれが、眉のあたりへかかり、ポッと開けた唇から、揃った前歯が、つつましく覗いている様子など、女の子よりも艶かしかった。 「天国様は愚か、妾ア……」 と、寄り添おうとするのを、 「今夜、何時に?」 と、頼母は、お浦を押しやった。 「あい、どうせ五郎蔵親分が眠ってから……子の刻頃……」 「間違いござるまいな」 「何んの間違いなど。……あなた様こそ間違いなく……」 「お待ちしましょう」 と、云い棄て、頼母は歩き出した。お浦は、その背後姿を、なお恍惚とした眼付きで見送ったが、 (妾ア、生き甲斐を覚えて来たよ)
紙帳の中
この夜が更けて、子の刻になった時、府中の旅籠屋、武蔵屋は寝静まっていた。 と、お浦の姿が、そこの廊下へ現われた。廊下の片側は、並べて作ってある部屋部屋で、襖によって閉ざされていたが、反対側は中庭で、月光が、霜でも敷いたかのように、地上を明るく染めていた。質朴な土地柄からか、雨戸などは立ててない。お浦は廊下を、足音を忍ばせて歩いて行った。廊下が左へ曲がった外れに、離座敷が立っていた。藁葺き屋根の、部屋数三間ほどの、古びた建物で、静けさを好む客などのために建てたものらしかった。離座敷は、月に背中を向けていたので、中庭を距てた、こっちの廊下から眺めると、屋根も、縁側も、襖も、一様に黒かった。お浦は、そこの一間に、自分を待っている美しい若衆武士のことを思うと、胸がワクワクするのであった。(早くこの天国様をお目にかけて、その代りに……)と、濃情のこの女は、刀箱を抱えていた。 やがて、離座敷の縁側まで来た。お浦は、年にも、茶屋女という身分にも似ず、闇の中で顔を赧らめながら、部屋の襖をあけ、人に見られまいと、いそいで閉め、 「もし。……参りましたよ」 と虚のような声で云い、燈火のない部屋を見廻した。と、闇の中に、仄白く、方形の物が懸かっていた。 (おや?)とお浦は近寄って行った。紙帳であった。(ま、どうしよう、部屋を間違えたんだよ) と、あわてて出ようとした時、紙帳の裾から、白い、細い手が出て……、 「あれ!」 しかし、お浦は、紙帳の中へ引き込まれた。 附近の農家で飼っていると見え、家鶏の啼き声が聞こえて来た。 部屋の中も、紙帳の中も静かであった。 紙帳は、闇の中に、経帷子のように、気味悪く、薄白く、じっと垂れている。 家鶏の啼いた方角から、今度は、犬の吠え声が聞こえて来た。祭礼の夜である、夜盗などの彷徨う筈はない、参詣帰りの人が、遅く、その辺を通るからであろう。 やがて、燧石を切る音が、紙帳の中から聞こえて来、すぐにボッと薄黄いろい燈火が、紙帳の内側から射して来た。 さてここは紙帳の内部である。―― 唐草の三揃いの寝具に埋もれて、お浦が寝ていた。夜具の襟が、頤の下まで掛かってい、濃化粧をしている彼女の顔が、人形の首かのように、浮き上がって見えていた。眼は細く開いていて、瞳が上瞼に隠され、白眼ばかりが、水気を帯びた剃刀の刀身かのように、凄く鋭く輝いて見えた。呼吸をしている証拠として、額から、高い鼻の脇を通って、頬にかかっている後れ毛が、揺れていた。しかし尋常の睡眠とは思われなかった。気を失っているのらしい。 そのお浦の横に、夜具から離れ、畳の上に、膝を揃え、端然と、五味左門が坐っていた。 ふと手を上げて鬢の毛を撫でたが、その手を下ろすと、ゆるやかに胸へ組み、 「蜘蛛はただ網を張っているだけだ」と、呟いた。 「その網へかかる蝶や蜂は……蝶や蜂が不注意からだ」 と、また、彼は呟いた。 独言を云うその口は、残忍と酷薄とを現わしているかのように薄く、色も、赤味などなく、薄墨のように黒かった。 それにしても、紙帳に近寄る男は斬り、紙帳に近寄る女は虐遇むという、この左門の残忍性は、何から来ているのであろう? 紙帳生活から来ているのであった。 彼の父左衛門は、生前、春、秋、冬を、その中に住み、夏は紙帳を畳んで蒲団の上に敷き、寝茣蓙代りにしたが、左門も、春、秋、冬をその中に住み、夏は寝茣蓙代りに、その上へ寝た。そういうことをすることによって、亡父の悩みや悶えを体得したかったのである。そう、彼の父左衛門は、紙帳に起き伏ししながら、天国の剣を奪われて以来衰えた家運について、悩み悶えたのであった。……しかるに左門は、紙帳の中で起き伏しするようになってから、だんだん一本気となり、狭量となり、残忍殺伐となった。何故だろう? 狭い紙帳を天地とし、外界と絶ち、他を排し、自分一人だけで生活すようになったからである。そういう生活は孤独生活であり、孤独生活が極まれば、憂欝となり絶望的となる。その果ては、気の弱い者なら自殺に走り、気の強いものなら、欝積している気持ちを、突発的に爆発させて、兇暴の行為をするようになる。左門の場合はその後者で、無意味といいたいほどにも人を斬り、残忍性を発揮するのであった。 「突然はいって来たこの女は? ……」 呟き呟き彼は、女の寝顔を見た。その眼は、の最後の一画を、眉の下へ置いたかのように、長く、細く、尻刎ねしていた。 「これは何んだ?」と、女の枕もとに転がっている、白い風呂敷包みの、長方形の物へ眼を移した時、彼は呟いた。やがて彼は手を延ばし、風呂敷包みを引き寄せ、包みを解いた。白木の刀箱が現われた。箱の表には、天国と書いてある。 「天国?」 彼は、魘されたような声で呟いた。瞬間に、額こそ秀でているが、顳の低い、頬の削けた、鼻が鳥の嘴のように鋭く高い、蒼白の顔色の、長目の彼の顔が、注した血で、燃えるように赧くなった。烈しい感動を受けたからである。 「天国?」 彼の肩がまず顫え、その顫えが、だんだんに全身へ伝わって行った。 「天国? ……まさか!」 にわかに、彼は口を歪め、眼尻へ皺を寄せた。嘲笑ったのである。 「まさか、こんな所に天国が!」 しかも彼の眼は、刀箱の箱書きの文字に食い付いているのであった。 彼が天国の剣に焦がれているのは、親譲りであった。彼の父、左衛門は、生前彼へこう云った。「我が家には、先祖から伝わった天国の剣があったのじゃ。それを今から二十年前、来栖勘兵衛、有賀又兵衛という、浪人の一党に襲われ、奪われた。……どうともして探し出して、取り返したいものだ」と。――その左衛門が、自殺の直後、忰左門へ宛てて認めた遺書には、万難を排して天国を探し出し、伊東忠右衛門一族に示せよとあった。父の敵として忠右衛門を討ち取り、父の形見として紙帳を乞い受け、故郷を出た左門が、日本の津々浦々を巡っているのも、天国を探し出そうためであった。その天国がここにあるのである。 「信じられない!」 彼はまた魘されたような声で云った。そうであろう、蜘蛛の網にかかった蝶のように、紙帳の中へはいって来た、名さえ、素姓さえ知らぬ女が、天下の至宝、剣の王たる、天国を持っていたのであるから。 「……しかし、もしや、これが本当に天国なら……」 それでいて彼は、早速には、刀箱の蓋を開けようとはしなかった。開けて、中身を取り出してみて、それが贋物であると証明された時の失望! それを思うと、手が出せないのであった。まさか! と思いながら、もし天国であったなら、どんなに嬉しかろう! この一縷の希望を持って、左門は、尚も刀箱を見据えているのであった。 「これが天国なら、この天国で、伊東頼母めを返り討ちに!」 また、呻くように云った。
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