左門の任侠
今は中からは人声は聞こえず、周囲の、叫喚、怒号、剣戟の響きを嘲笑うかのように、この、多量に人間の血を浴びた長方形の物像は、木立ちと木立ちとの間に手を拡げ、弛んだ裾で足を隠し、静かに立っている。吸っても吸っても血に飽かないこの怪物は、これまでも随分血を吸ったが、今日こそはそれにも増して、充分に吸うぞというかのように、静かな中にも胴顫いをさせている。そう、微風につれて、ゆるやかな弛みを作ったり、幽かな襞を作ったりしているのであった。裾の一所に、背を光らせた蜥蜴がいて、這い上がろうとし、短い足で紙帳を掻いているのも、魔物めいていて不気味であった。 と、その紙帳目掛け、松五郎なのであろう、一人の乾児が、抜き身を引っさげたまま、仲間の群から駈け抜け、走り寄るのが見えた。が、その体が紙帳へ寄り添ったと見えた瞬間、悲鳴が起こり、丸太のようなものが一間ばかり飛び、足を股から斬り取られた松五郎が、鼠煙火のように地上をぶん廻り、切り口から、龍吐水から迸る水のように、血が迸り、紙帳へかかるのが見えた。 すぐに紙帳の裾がパックリと口を開け、そこから身を斜めにし、刀を袖の下にした、痩せた長身の左門が、ソロリと潜り出て来た。 「出たーッ」 と、五郎蔵は、自分が襲われたかのように叫んだ。 左門は紙帳を背後にし、頬の削けた蒼白い顔を、漲る春の真昼陽に晒らして立ち、少しまぶしそうに眼をしばたたいた。 「出た! 本当に出た! 左門が!」 立ち木に背をもたせ、五郎蔵とその乾児たちとを睨んでいた頼母も、紙帳を出た左門を認め、声に出して叫んだ。悪寒が身内を氷のように走った。 (絶体絶命! ……俺はここで討たれるのか!) 大勢の五郎蔵の乾児たちを相手に斬り合うだけでさえ、今は手に余っていた。そこへ、いよいよ、自分より段違いに腕の勝れた左門が現われ出たのであった。勝ち目はなかった。 (残念! 返り討ちに逢うのか! ……栞殿を眼の前に置きながら、返り討ちに!) 眩みかかった彼の眼の、その眼界を素走って、五郎蔵の乾児数人が、左門へ襲いかかって行くのが見えた。と、その乾児たちを無視したように、左門の豹のような眼が、頼母の方へ注がれたが、 「頼母氏!」 という声が聞こえて来た。 「紙帳の中の二人の女子――栞殿とお浦との純情に酬いるため、二人の希望を入れ、拙者、貴殿へ助太刀つかまつるぞ。……ただし、拙者と貴殿とは讐敵同士、恩に着るに及ばぬ、恩にも着せ申さぬ! ……五郎蔵!」 と左門の眼が五郎蔵の方へ向いた。 「武蔵屋では、よくも拙者に手向かいいたしたな! 今日は返礼! 充分に斬るぞ!」 「黙れ、犬侍!」 五郎蔵は躍り上がり躍り上がり、 「想いを懸けた俺の女を! ……それを汝、よくもよくも! ……汝こそ犬じゃ! ……やア野郎ども犬侍を叩っ殺せ!」 声に応じ、竹槍を持った乾児が、左門眼がけて走り寄ったのが見えた。と、左門の姿が無造作に一方に開き、竹槍の柄を掴んだ。と思う間もなく、槍を掴まれた乾児が、よろめいて前へ出たところを、脇下から肩まで払い上げた。 「野郎ども一度にかかれ!」 怒号する五郎蔵の声に駆り立てられ、三人の乾児が左右から斬ってかかった。 「頼母氏見られよ!」 と、左門の声が響いた。と同時に、一人の乾児の斬り込んで来た脇差しを迎え、それより速く、その脇差しの上へ、自分の刀を重ねるように斬り付け、乾児の眉間を頤まで割り、 「これぞ我が流における『陽重の剣』でござるぞ! ……先ほども紙帳の中より申しましたとおり、貴殿の剣法いまだ未熟、なかなかもって拙者を討つことなりますまい。……されば拙者の剣法を仔細に見究め、拙者を討つ時の参考となされい!」 と呼ばわり、もう一人の乾児が、味方が討たれたのに怯え、立ち縮んでいる所へ、真一文字に寄り、肩を胸まで斬り下げ、 「頼母氏、今の斬こそは、我が流における『青眼破り』でござるぞ! 相手、青眼に付けて、動かざる時、我より進んで相手の構えの中へ入り、斬るをもってこの名ござる!」 と大音に呼ばわった。
左門の侠骨
いまだに立ち木に背をもたせ、五郎蔵の乾児たちと立ち向かっていた頼母は、眼に左門の働きを見、耳に左門の声を聞き、茫然とした気持ちにならざるを得なかった。それは悲喜交の感情ともいえれば夢に夢見る心持ちとも云えた。左門が自分の味方として現われ出て来たことは、何んといっても頼母にとっては有難い嬉しいことであった。しかし討たねばならぬ父の敵から助けられるということは、苦痛であった。とはいえ現在の場合においては、その苦痛は忍ばなければならなかった。もし五郎蔵一味に自分が殺されたならば、左門を討つことが出来なくなってしまうからである。今は、何を措いても、五郎蔵一味を殲滅するか追い払うかしなければならなかった。それには左門からの助太刀は絶対に必要のことであった。 頼母は勇気とみに加わり、今までは守勢の身であったのが、攻勢に出、疾風のように五郎蔵の乾児どもの中へ斬り込んだ。 胆を奪われた乾児たちが狼狽し、散って逃げた時、 (栞殿は?) と、こういう場合にも、危険に曝らされている恋人のことが心に閃めき、頼母は、逃げた乾児どもを追おうともせず、身を翻えすと一気に、紙帳へ駆け寄り、左門の立っている位置とは反対の、紙帳の裏側に立ち、紙帳を背にし、もう追い縋って来た五郎蔵の乾児六、七人を前にし、構え込んだ。 五郎蔵の乾児たちは、今は、二派に別れて立ち向かわなければならないことになった。 十数人の乾児たちは、左門へ向かった。 と、この時、左門の高く呼ぶ声が聞こえて来た。 「頼母殿、心得てお置きなされ! 敵大勢四方よりかかるとも、一方へ追い廻せば結局は一人でござるぞ! すなわち殿陣の一人が敵でござるわ!」 この言葉を証拠立てるためらしく、左門は突き進むと、左端の一人を斬り斃し、戻りの太刀でもう一人を斬り斃し、狼狽した乾児たちが紙帳を巡って右手の方へ逃げるのを、隙かさず追い、逃げおくれた一人を、肩から背骨まで斜めに斬り下げ、紙帳の角を廻って尚追った。逃げた乾児どもは、頼母のいる紙帳の裏側まで来、そこに集まっていた七人の仲間とぶつかった。頼母に向かっていたその七人の乾児どもは、逃げて来た十数人の仲間の渦中に捲き込まれ、これも狼狽し後から左門が追って来るとも知らず、これは左手の方へ逃げだしたが、血刀を振り冠った左門の姿を見ると、仰天し、悲鳴を上げ、四方へ散り、紙帳から離れた。その乾児どもを追って、左の方へ走り出した頼母は、パッタリ左門と顔を合わせた。 「左門氏、ご助力、忝けのうござる!」 「黙らっしゃい!」 と左門は喝した。 「貴殿と拙者とは讐敵同士! 恩には着せぬ、恩にも着たもうな!」 「…………」 もう二人は別れていた。 左門に追われて逃げた十数人の五郎蔵の乾児たちは、紙帳の角から少し離れた辺りで一団となり、左門を迎え撃つ姿勢をととのえた。しかし左門は物の数ともせず、駆け寄ると、以前と同じく、左端にいる一人を斬り斃し、返す刀で、もう一人の乾児を斬り伏せ、これに恐怖した乾児どもが、ふたたび逃げ出したのを、紙帳に接近した位置を保ちながら追ったが、ふと、紙帳越しに、頼母の方を見た。頼母は乾児どもに包囲されてい、一人の乾児が背後から竹槍で、今や頼母の背を突こうとしていた。左門はやにわに小柄を抜き、投げた。小柄は、紙帳の上を、飛び魚のように閃めき飛んだ。 頼母は、背後で悲鳴が起こったので、振り返って見た。竹槍を持った男が、咽喉へ小柄を立て、地面をのたうっている。事情が悟れた。 「左門氏、あぶないところを……お礼申す!」 「貴殿と拙者とは讐敵同士……」 と左門は、逃げおくれた一人を、背後ざまに斬り仆し、 「恩に着るな、恩にも着せぬと申した筈じゃ!」 「…………」 この時まで五郎蔵は、乾児たちと離れて立ち、乾児たちの働きを見ていたが、左門と頼母とに、乾児たちが見る間に、次々に斬ってとられるので、怒りと恐怖と屈辱とで躍り上がり、頼母眼掛け駈け寄ろうとしたとたん、 「オ、親分ーン」 という声が、林の中から聞こえて来、一人の乾児が木の間をくぐって走って来た。 「テ、典膳めは、道了塚の方へーッ」 「おおそうかーッ」 と、五郎蔵は応じたが、 「典膳だけは、俺の手で! ……そうでないと、安心が! ……」 道了塚の方へ走り出した。
謎解かれる道了塚
この頃典膳は、道了塚まで辿りついていた。彼の肉体も精神も弱り果て、息絶え絶えであった。彼は塚の裾の岩へ縋り付いて呼吸を調えた。彼にとって道了塚は、罪悪の巣であり仕事の拠点であり悲惨惨酷の思い出の形見であった。彼は眼を上げて塚を見上げた。二十年もの年月を経ておりながら、この自然物は昔とほとんど変化がなかった。岩は昔ながらの形に畳み上げられてあり、苔も昔ながらの色にむしており、南無妙法蓮華経と彫刻まれてある碑も、昔ながらの位置に立っていた。その碑面が春陽を受けて、鉛色に光っているのも昔と同じであった。 彼は懐かしさにしばらく恍惚となり体の苦痛を忘れた。しかし彼は、すぐに、碑に体をもたせかけ、手に抜き身を持った老人が、放心でもしたように、茫然と、塚の頂きに坐っているのを認め、驚き、尚よく見た。 「あッ」と典膳は思わず声を上げた。 それは、その老人が、昔の頭、――二人あった浪人組の頭の一人の、有賀又兵衛であったからである。 「オ、お頭アーッ」 と、典膳は悲鳴に似たような声で呼びかけた。 「有賀又兵衛殿オーッ」 ――有賀又兵衛……現在の名、飯塚薪左衛門は、昔の、浪人組の頭目だった頃の名を呼ばれ、愕然とし、毛をられた鶏のような首を延ばし、声の来た方を見た。 彼の眼に見えたものは、塚の裾に、塚の岩組から、栓かのように横へはみ出している小岩、それに取り縋っている全身血だらけの武士の姿であった。 「誰じゃ?」 と云いながら薪左衛門は、立てない足を躄らせ、塚の縁の方へ身を進めた。 「渋江典膳にござりまする。……二十年以前浪人組栄えました頃、組の中におりました、渋江典膳にござりまする!」 「渋江典膳? おお渋江典膳! ……存じおる! 存じおるとも! 組中にあっても、有力の人物であった! ……来栖勘兵衛と、特に親しかった筈じゃ」 「さようにござりまする。私は来栖勘兵衛お頭の秘蔵の腹心、伊丹東十郎氏は、有賀又兵衛お頭の無二の腹心として、組中にありましても、重く使用いられましてござりまする」 「伊丹東十郎? ……おお伊丹東十郎! ……覚えておる覚えておる! わしに一番忠実の男だった。……どうして今日まで思い出さなかったのであろう? ……おおそういえば、さっき聞こえて来たあの声、『秘密は剖かない、裏切りはしない、助けてくれーッ』と云ったあの声は、まさしく伊丹東十郎の声だった。……おお、俺はすっかり思い出したぞ。……あの時、二十年前、甲州の鴨屋方を襲い、莫大もない金銀財宝を強奪し、帰途、五味左衛門方を訪れ、天国の剣を強請り取り、それを最後に組を解散し、持ち余るほどの財を担い、来栖勘兵衛と俺と、そちと伊丹東十郎とで、この道了塚まで辿って来、いつもの隠匿所へ、財宝を隠匿したが……」 「その時私は、勘兵衛お頭の依頼により、素早く天国の剣を持ち逃げして、林の中へ隠れましてございます」 「財宝を隠匿したが、その時突然勘兵衛めは、伊丹東十郎を穴の中へ突き落とし、『此奴さえ殺してしまえば我らの秘密を知る者はない』と申しおった」 「深い穴の底から聞こえて参りましたのが、東十郎の叫ぶ『秘密は剖かない、裏切りはしない、助けてくれーッ』という声でござりました。……林に隠れておりました私の耳へまでも、届きましてござりまする」 「おのれ不埓の勘兵衛、従来、奪った財宝を、百姓ばらに担がせて運び、隠匿した際には、秘密を他へ洩らさぬため、百姓ばらを、財宝と一緒に、穴の中へ、切り落としたことはあるが、同じ仲間を、穴へ落として生き埋めにするとは不義不仁の至り、直ちに引き上げよと拙者申したところ、突然勘兵衛め、拙者に切り付けおった」 「あなた様が刀を抜かれ、勘兵衛めと立ち合われるお姿が、林にかくれおりました私にも見えましてござります」
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