返らぬ記憶
「栞や」 と、ややあってから、薪左衛門は、おちつきのある、しみじみとした声で云った。 「わしが乱心中に、どんなことを云ったか、どんな事をしたか、話しておくれ」 栞は、お父様が沈着な態度に返ったので、ホッと安心し、 「それはそれはお父様、ご乱心中には、何んと申したらよいやら、いろいろ変ったことをなさいました。また、おっしゃいもなさいました。……何から申し上げてよいやら。……おおそうそう、来栖勘兵衛という男が、お父様を討ちに来るなどと……」 「来栖勘兵衛がわしを討ちに? ……うむ、栞や、それは正気になった今のわしでも云うよ。……そういうことがあるような気がするよ」 「そうしてお父様には、ご自分を、有賀又兵衛じゃとおっしゃいました」 「…………」 「それからお父様は、来栖勘兵衛がわしを討ちに来るから、旅の浪人などが訪ねて来たら、逗留させて、加担人にしろと。……それで妾は、訪ねて参られた浪人衆を、お泊めいたしましてございます」 「そうかえ、それはいいことをしておくれだったねえ。……来栖勘兵衛は強い男なのだから、わしには、どうしても加担人が入用るのだよ」 「それからお父様は、そのようにお御足が不自由になられてからも、毎日のように、野中の道了様へ、お参詣に行かねばならぬとおっしゃいますので、いっそ道了様を屋敷内に勧請いたしたらと存じ、道了様そっくりの塚を、お庭へ築きましたところ……」 「おおおお、そんな苦労まで、栞や、お前にかけたのかねえ。……野中の道了 うむ、道了塚!」 と、薪左衛門は、グッと眼を据えた。 「するとお父様には、それを真の道了様と思われ、毎晩のように、躄り車に乗られ、塚の周囲をお廻りなさいましてございます」 「あさましいことだったのう」 「ところが、数日前の晩のことでございますが、加担人として、お泊まりくださいました、伊東頼母様と仰せられるお方が、その塚のあたりを逍遙っておられますと、お父様が、来栖勘兵衛と勘違いされ、『勘兵衛、これ、汝に逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での決闘、俺は今に怨恨に思っているぞ。……事実を誣い、俺に濡れ衣を着せたあげく、股へ一太刀! ……おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で決闘し、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ』とおっしゃったそうでございます」 「野中の道了での決闘? フーム……」 と、薪左衛門は考え込んだ。 (野中の道了で、来栖勘兵衛と、俺は、決闘した覚えはある。……だが何んの理由で、決闘したのだろう?) 彼には、肝心のことが解らなかった。 (わしの頭脳は、まだ本当に快癒りきっていないのかもしれない) 大病をして、大熱を発し、人事不省に落ち入ったものや、乱心して恢復した者のある者が、過去の記憶を、一切忘却してしまうことがある。一切忘却しないまでも、その幾個かを、忘れてしまうことがある。薪左衛門の場合はその後者らしかった。 (何んの理由で、俺は、勘兵衛と、野中の道了で決闘したのだろう?) 思い出そう、思い出そうと、薪左衛門は焦心った。 「栞や」と、薪左衛門は、傷ましい声で云った。 「わしを野中の道了へ連れて行っておくれ。……あそこへ行ったら、わしの記憶が蘇生るかもしれないから」 躄り車に乗った薪左衛門と、それを引いた栞とが、野中の道了塚へ着いたのは、正午であった。春陽に浸っている道了塚は、その岩にも、南無妙法蓮華経と刻ってある碑にも、岩の間にこめてある土壌にも、花弁や花粉やらがちりばめられていた。この高さ二間周囲十間の道了塚は、いわば広々とした平野の中に出来ている瘤のようなものであった。しかし、この一見平凡の道了塚も、過去に多くの秘密を持っている薪左衛門にとっては、重大な記念物らしく、栞に助けられて、それを躄りのぼる彼の顔には、複雑な深刻な表情があった。やがて彼は碑を正面にして坐った。彼の手には、鞘に納められた天国が、握られていた。 「栞や、わしはここで一人で考えごとをしていたいのだよ。一人にしておいてくれ」 薪左衛門は、握っている白鞘の剣の周囲を、黄色い蝶が、謎めいた飛びかたをしているのを、無心で眺めながら、何んとなく放心したような声で云った。
塚の中からの声
「はい」 と栞は、素直に答えて、衣裳の赤い裾裏と、草履の赤緒との間に、白珊瑚のように挾まっている可愛らしい素足を運ばせ、塚を下りた。そうして、塚の裾に、萠黄色の座布団を敷いた躄り車が、もうその座布団の上へ、落花を受けて、玩具かのように置いてある横に立って、父親の方を振り返って見たが、やがて所在なさそうに、道了塚の背後に、壁のように立っている雑木林――かつて、五味左門が、紙帳を釣って野宿した、その雑木林の中へはいって行った。 一人となった薪左衛門は、碑を見上げて、じっとしていた。裾に坐って、見上げているためでもあろう、六尺の碑が、二丈にも高く思われ、今にも、自分の上へ、落ちかかって来はしまいかと案ぜられた。陽に照らされて、その碑の面は、軟らかく艶めいてさえ見えたが、精悍に刎ねて刻ってある七字の題目は、何かを怒って、叱咤しているかのように思われた。 薪左衛門の記憶は徐々に返って来た。自分が有賀又兵衛と宣り、兄弟分の来栖勘兵衛と一緒に、浪人組の頭として、多勢の無頼の浪人を率い、関東一帯を荒らし廻った頃の、いろいろさまざまの出来事が、次から次と思い出されて来た。 (幾万両の財宝を強奪したことやら) 奪った財宝の八割までを、自分と勘兵衛とが取り、後の二割を、配下の浪人どもへ分配してやった悪辣の所業なども思い出された。そうして、大仕事をすると、官の探索の眼をくらますため、一時組を解散し、自分は今の屋敷へ帰って来、真面目な郷士、飯塚薪左衛門として、穏しく生活したことなども思い出されて来た。 (下総の五味左衛門方を襲い、天国の剣と財宝とを奪い、さらに甲州の鴨屋を襲って、巨額の財宝を手に入れたのを最後として、全然組を解散したっけ) (その後、来栖勘兵衛は、故郷の松戸へ帰り、博徒の頭になった筈だ) こんなことも思い出された。 (だが、何んの理由で、俺と勘兵衛とは、この道了塚で決闘したのだろう?) 決闘の現場の道了塚へ来て考えても、その理由ばかりは思い出されないのであった。 (わしの頭脳はまだ快癒りきらないのかもしれない) 淋しくこう思った。 と、その時、何んたる怪異であろう! 坐っている道了塚の下から、大岩を貫き、銀の一本の線のような、恐怖と悲哀とを綯い雑ぜにした男の声が、 「秘密は剖かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」 と、聞こえて来たではないか。 「う、う、う!」 と薪左衛門は、呻き声をあげたが、やにわに天国の剣を引き抜き、春の白昼に現われた、「声の妖怪」を切り払うかのように、頭上に振り、 「あの声! 聞き覚えがある! ……二十年前に聞いた声だ! ここで、この道了塚で! ……秘密はあの声にあるのだ! 決闘の秘密は! ……おおおお、それにしても、二十年前に聞いたあの声が、二十年後の今日聞こえて来るとは?」 一つの影が、碑を掠め、薪左衛門の肩へ斑を置き、すぐ消えた。鳶が、地上にある鼠の死骸を目付け、それをくわえて、翔び上がったのであった。道了塚を巡って、酣の春は、華麗な宴を展開いていた。耕地には菜の花が、黄金の筵を敷き、灌漑用の水路には、水の銀箔が延べられてい、地平線を劃って点々と立っている村落からは、犬の吠え声と鶏の啼き声とが聞こえ、藁家の垣や庭には、木蓮や沈丁花や海棠や李が咲いていたが、紗を張ったような霞の中では、ただ白く、ただ薄赤く、ただ薄黄色く見えるばかりであった。でも、それは、この季節らしい柔らかみを帯びた風景として、かえって美しく、万物を受胎に誘う春風の中に、もろもろの香気の籠っているのと共に、人の心を恍惚とさせた。それにも関わらず、薪左衛門ばかりは、ふたたび乱心に落ち入るかのように思われた。振り廻していた天国の剣を、今は額に押し当て、沈痛に肩を縮め、全身をガタガタ顫わせた。 (声の秘密を解かなければならない! どうあろうと解かなければならない!) その声はまたも岩の下から、いや、岩の下の地の底から、一本の銀の線かのように、土壌を貫き、岩を貫いて聞こえて来た。 「秘密は剖かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」 (あの声は、渋江典膳の声ではない! しかし典膳と一緒に働いていた男の声だ!) 薪左衛門は呻いた。
栞の発見した物
この頃栞は、林の中を逍遙っていた。 父親の乱心が癒ったことと、恋人の頼母が、今日あたり帰って来るだろうという期待とで、彼女の心は喜悦と希望とに燃えているのであった。 (頼母様といえば、あのお方とはじめてお逢いしたのは、道了様の塚の裾辺りだったっけ) 栞は、過ぐる日、気絶していた頼母を、この手で介抱して、蘇生させたことを思い出した。 (妾、あの方の命の恩人なのよ。……頼母様、妾を粗末にしてはいけないわ) つい心の中で甘えたりした。 林の中は、光と影との織り物をなしていた。木々の隙を通って、射し込んでいる陽光は、地上へ、大小の、円や方形の、黄金色の光の斑を付け、そこへ萠え出ている、菫や土筆や薺の花を、細かい宝石のように輝かせ、その木洩れ陽の通い路の空間に、蟆子や蜉蝣や蜂が飛んでいたが、それらの昆虫の翅や脚などをも輝かせて、いかにも楽しく躍動している「春の魂」のように見せた。 心に喜悦を持っている栞は、何を見ても楽しかった。 栗や柏や楢などが、その幹や枝に陽光を溜め、陽光の溜っている所だけが、生き生きと呼吸しているように見えるのも、蕾を沢山持った山吹が、卯木と一緒に、小丘のように盛り上がってい、その裾に、栗色の兎が、長い耳を捻るように動かしながら、蹲居ってい、桜実のような赤い眼で、栞の方を見ていたが、それも栞には嬉しくてならなかった。 栞は木々を縫って目的なく彷徨って行った。 一つの林が尽き、別の林へはいろうとする処に、木立ちのない小さい空地があり、そこまで来た時、 「あれ」と云って、栞は足を停めた。 その空地に、巨大な白蝶の死骸かのように、一張の紙帳が、ベッタリと地に、張り付いていたからである。 「紙帳だよ、……まあ紙帳!」 どうしてこんな林の中などに紙帳が落ちているのか、不思議でならなかったが、それと同時に、数日前、自分の屋敷へ泊まった五味左門と云う武士が、部屋へ紙帳を釣って寝、その中で、同宿の武士を殺傷したことを思い出した。 (その紙帳ではあるまいか?) (まさか!) と思い返したものの、気味が悪かったので、栞は立ち去ろうとした。しかし、紙帳とか蚊帳とかを見れば釣りたくなり、布団を見れば敷いてみたくなるのが女心で、栞も、その心に捉えられ、立ち去るどころか、怖々ではあったが、あべこべに紙帳へ近寄った。紙帳には、泥や藁屑が附いていた。そうして血痕らしいものが附いていた。 (気味が悪いわ)と栞は、またも逃げ腰になったが、でも、やっぱり逃げられなかった。 短く切られてはいたが、紙帳には、四筋の釣り手がついていた。 いつか栞は、その釣り手を、木立ちにむすびつけていた。 間もなく紙帳は、栞の手によって、空地へ釣られ、ところどころ裂け目を持ったその紙帳は、一杯に春陽を受け、少し弛るそうに、裾を地に敷き、宙に浮いた。 (この中で寝たら、どんな気持ちするものかしら?) この好奇心も、女心の一つであろう。 栞は、紙帳の中へはいろうとして、身をかがめ、その裾へ手をかけた。 しかし栞よ、その紙帳こそは、やはり、五味左門の紙帳なのであり、三日前の夜、風に飛ばされて、ここまで来たものであり、そうして、その中へはいったものは、男なら殺され、女なら、生命より大切の……そういう紙帳だのに、栞よ、お前は、その中へはいろうとするのか? そんなことを知る筈のない栞は、とうとう紙帳の中へはいった。 処女の体を呑んだ紙帳は、ほんのちょっとの間、サワサワと揺れたが、すぐに何事もなかったように静まり、その上を、眼白や頬白が、枝移りしようとして翔けり、その影を、刹那刹那映した。
戸板の一団
ちょうどこの頃のことであるが、この林から一里ほど離れた地点に、だだっ広い前庭を持った一構えの農家が立ってい、家鶏の雛が十羽ばかり、親鶏の足の周囲を、欝金色の綿の珠が転がるかのように、めまぐるしく転がり廻っていた。と、筵をかけた戸板を担い、それを取り巻いた十人の男が、街道の方から走って来、庭の中へはいって来た。戸板から滴が落ちて、日和つづきで白く乾いている庭の礫の上へ滴り、潰れた苺のような色を作した。 血だ! 「咽喉が渇いてたまらねえ。水だ水だ」 と喚いて、一人の男が、一団から離れ、母屋と隠居家との間にある井戸の方へ走って行った。すると、母屋の縁側近くに集まって、餌をあさりはじめていた、例の家鶏の一群は、これに驚いたか、けたたましく啼き出し、この一団が侵入して来た時から、生け垣の隅で臆病らしく吠えつづけていた犬は、今は憤怒したように猛りたった。 「俺らも水だ」 と、云って、もう一人の男が、井戸の方へ走った。 そういう二人にはお構いなく、戸板を担った一団は、庭の外れ、街道に添って建ててある、大きな納屋の方へ走って行った。 農事がそろそろ忙しくなる季節であった。この家の人々は、おおかた野良へ出て行ったとみえて、子守娘と、老婆とが、母屋の入り口に茣蓙を敷き、穀物の種を選り分けていたが、その一団を見ると、呆気にとられたように、眼を見合わせた。 咽喉が渇いてたまらねえ、水だ水だと喚いた最初の男が、井戸端まで行った時、井戸の背後の方に、藁葺きの屋根を持った、古い小さい隠居家が、破れ煤ぶれた[#「煤ぶれた」はママ]障子を陽に焙らせて立っていたが、その障子が、内側から細目に開き、一人の武士が、身を斜めに半身を現わし、蒼味がかった、幽鬼じみた顔を覗かせた。けたたましく啼きたてた家畜の声に、不審を打ったかららしい。 「わッ、わりゃア、五味左門!」 と、井戸端まで辿りついた男は喚いた。松戸の五郎蔵の乾児の、中盆の染八であった。 「野郎!」 と染八は脇差しへ手をかけた。遅かった。 この時、もう左門は、その独活の皮を剥いたように白い足で、縁板を踏み、地へ下り、染八の面前へまで殺到して来ていた。 「わッ」 染八の肩から、こう蹴鞠ののような物体が、宙へ飛びあがり、それを追って、深紅の布が一筋、ノシ上がった。切り口から吹き上がった血であった。染八の首級は、碇綱のように下がっている撥ね釣瓶の縄に添い、落ちて来たが、地面へ届かない以前に消えてしまった。年月と腐蝕とのためにボロボロになっている井桁を通し、井戸の中へ落ちたのであった。 「タ、誰か、来てくれーッ」 染八の後を追って、これも水を飲みに来た壺振りの喜代三は、染八の死骸が、片手を脇差しの柄へかけたまま、自分の前へ転がって来たのに躓き、夢中で両手を上げて、そう叫んだ。しかし誰も来ない以前に、左門の刀が、胴から反対側の脇下まで斬っていた。死骸となって斃れた喜代三の傷口から、大量の血が流れ出、地に溜り、その中で蟻が右往左往した。啓蟄て間のない小蛇が、井戸端の湿地に、灰白い紐のように延びていたが、草履を飛ばせ、跣足となり、白い蹠をあらわしている死骸の染八の、その蹠の方へ這い寄って行った。そうしてその、小蛇が、染八の足首へ搦み付いた頃には、五味左門は、道了塚の方へ続いている林の一つへ、その長身を没していた。 彼は道了塚の方へ歩いて行くのであった。
悩みの殺人鬼
懐手をし、少し俯向き、ゆるゆると歩いて行く左門の姿は、たった今、人を殺した男などとは思われないほど、冷静であったが、思いなしか、淋しそうではあった。顔色もいくらか蒼味を帯びていた。林の中はひっそりとしていて、小鳥の啼き声ばかりが、頭上から、左右から聞こえて来た。山鳩が幾羽か、野の方から林の中へ翔け込んで来たが、人間の姿を見て驚いたように、一斉に棹のように舞い立ち、木々の枝へ停まった。 木々を巡り、藪を避け、左門は、道了塚の方へ歩いて行く。 それにしても、どうして彼は、農家の隠居家などにいたのであろう? 何んでもなかった、三日前の夜、府中の武蔵屋で、ああいう騒動を惹き起こしたが、切り抜けて遁がれた。遁がれたものの、伊東頼母を、返り討ちにすることが出来なかったことが残念であった。 (いずれは彼奴も、この左門を討とうと、この界隈を探し廻っていることであろう、そこを狙って討ち取ってやろう) こう思い、あの農家に頼み込み、しばらく身を隠して貰っていたのであった。出かけて行って、頼母の居場所を探りたくはあったが、松戸の五郎蔵一味が、まだ府中にいて、この身の現われるのを待ち、討ち取ろうとしているらしかったので、今日までは外出しなかったのである。 左門には、あの夜以来、心にかかることがあった。紙帳を失ったことである。何物にも換えがたい大切の紙帳を! そう、紙帳は、左門にとっては、ちょうど、蝸牛における殻のようなものであった。肉体の半分のようなものであった。その中で住み、眠り、考え、罪悪さえも犯した紙帳なのだから! 恋人のような離れ難いものと云ってもよかった。それに紙帳は、彼にとっては、一つの大きな目的の対象でもあった。頼母を殺し、その血を注ぎ、憤死された父上の妄執を晴らしてあげたい! その血を注ぐ対象が紙帳なのであるから。 その紙帳を紛失した彼であった。淋しそうに、気抜けしたように歩いて行くのは、当然といってよかろう。 (あの夜紙帳が、独りで歩いたのは、中にお浦がいて、紙帳から出ようとしたが出られず、もがきながら走ったからだ。それは、あの女の着ていた物が、次々に脱げて、地へ落ちたことで知れる) しかし、その後、紙帳やお浦はどうなったことか? それが解らないからこそ、左門は憂欝なのであった。 林を縫って流れている小川があり、水が清らかだったので、底の礫さえ透けて見えた。それを左門が跨いで越した時、水に映った自分の姿を見た。顔に精彩がなかった。 (家を喪った犬は、みすぼらしいものの代表のように云われているが、俺にとっては紙帳は家だ。それを失ったのだからなア) 顔に精彩のないのも無理がないと思った。 (どうぞして紙帳を探し出したいものだ) 彼は黙々と歩いて行った。 それにしても、何故彼は、道了塚の方へ行くのであろう? たいした理由があるのではなく、数日前ここの林へ紙帳を釣って野宿したことがあり、それが懐かしかったのと、五郎蔵の乾児二人を斬り、身をかくしたところが林で、その林が道了塚の方へつづいていたので、それで道了塚の方へ足を運ぶまでであった。 彼は、どうして五郎蔵の乾児二人が、自分の隠れている農家などへやって来たのか、解らなかった。 (やはり五郎蔵一味め、俺の行衛を探しているのだな) こう思うより仕方なかった。彼には五郎蔵の乾児たちが、筵をかけた戸板を担って、あの農家の納屋の方へ行ったことを知らなかった。それは、その一団の姿が、母屋の蔭になっていて、見えなかったからである。 (どっちみち油断はならない) こう思った。 やがて彼は、記憶に残っている、かつての夜、紙帳を釣って寝た、道了塚近くの林へ来た。 突然彼は足を止め、茫然として前方を見据えた。無数の血痕を附けた、紛れもない自分の紙帳が、林の中の空地に釣られてあるではないか。紙帳は、主人に邂逅ったのを喜ぶかのように、落葉樹や常磐木に包まれながら、左門の方へ、長方形の、長い方の面を向け、微風に、その面へ小皺を作り、笑った。 左門は、紙帳が、どうしてこんなところへ来ているのか、誰が紙帳を釣ったのか? と、一瞬間不思議に思ったが、それよりも、恋していると云ってもよいほどに、探し求めていた巣を――紙帳を、発見したことの喜びに、肌に汗がにじむほどであった。 彼は、何をおいても、紙帳の中へはいり、この平和を失った、イライラしている心持ちを鎮めたいと思った。 彼は、声をさえ発し、紙帳へ走り寄った。それが生物であったならば、彼は紙帳を抱き締めたであろう。彼はやにわに紙帳の裾をかかげた。 「あッ」 彼は驚きで胸を反らせた。
新鮮な果実
紙帳の中に、彼の眼前に、彼以外の紙帳の主がいるではないか。そう、紙帳を箱とすれば、箱へ納まった京人形のように、一人の美しい娘が、謹ましくはあったが、充分寛いだ姿で、安らかに、長々と寝て、眠っているではないか。 (無断で俺の巣へ入り込んだ女め!) 憤怒が勃然と左門の胸へ燃え上がった。 (だが、女だ、綺麗な娘だ!) 左門の、少し黒ずんで見えていた唇へ、赤味が注し、眼へ光が射した。 左門は紙帳の中へはいった。彼は娘の顔をつくづくと見た。 (見覚えがある。飯塚薪左衛門の娘、栞だ!) 事の意外に左門はまたも驚いた。 過ぐる夜、飯塚家へ泊まった時、挨拶に出た栞という娘が、この紙帳の中に眠っていようとは! (不思議だなア) 左門は両眉の間へ皺を畳んだ。 (しかし、栞であろうと誰であろうと……) 左門は、やがて地に腹這い、蛇が鎌首を持ち上げるように、首を上げ、頤の下へ両手を支い、栞の姿をながめていた。栞は、そんなこととも知らず、片腕を枕にして、眠りつづけていた。友禅の襦袢の袖から、白い滑かな腕が覗いていたが、曲げた肘の附け根などは、円く軟らかく、薄桃色をなし、珠のようであった。 この頃、五味左門が身を隠していた、例の農家の、街道に添った納屋には、陽がなんどりと、長閑にあたっていた。 この辺の農家の誇りの一つとすることに、大きな納屋を持つということがあった。それは、鋤や鍬などの農具を、沢山に持っているということの証拠になるからであった。それでこの納屋も、土蔵ほどの大きさを持ってい、屋根に近い位置に、四角の窓を一つ穿っていた。その屋根に雀が停まっていて、羽づくろいし、その裾を、鼬が、チョロチョロと徘徊していたが、これは赤黄色い土壌と、灰色の板とで作られているこの納屋を、大変詩的な存在にしていた。 と、一人の武士が、刀の鞘を陽に照らし、自分の影を街道に落としながら、納屋の方へ歩いて来た。伊東頼母であった。頼母はあの夜、敵五味左門を取り逃がしたので、それを探し出し、敵わぬまでも勝負しようと、武蔵屋を出で、府中をはじめ、近所のそちこちを、今日まで三日間さがし廻った。だが左門の行衛は知れなかった。そこで一旦、飯塚薪左衛門の屋敷へ帰ろうと、今この街道を歩いて来たのであった。飯塚家へ帰るということは、彼にとっては喜びであった。恋人の栞と逢うことであるから。過ぐる夜、あの屋敷の庭で、純情の処女、栞と、手を取り交わして以来、栞が、何んと烈しく、一本気に、頼母を愛し出したことか。その愛の烈しさに誘われて、頼母も、今は、燃えるように、栞を愛しているのであった。その栞と逢えるのだ! 頼母は幸福で胸が一杯であった。武蔵屋での苦闘と、三日間左門を探し廻った辛労とで、頼母は少し痩せて見えた。頤など細まり、張っていた肩など、心持ち落ちたように見えた。 「や、これは!」 と、頼母は、納屋の前へさしかかり、何気なく窓を見上げた時、驚きの声をあげて足を止めた。窓にも陽があたっていて、明るかったが、納屋の内部は暗いと見え、窓の向こう側は闇であった。その闇を背後にして、明るい窓外に向き、一つの男の首級が、頼母の方へ顔を向けているではないか。陽のあたっている窓の枠を、黄金色の額縁とすれば、窓の内部の闇は、黒一色に塗りつぶされた背景であり、そういう額の面に、男の首級一個が、生白く描かれているといってよかった。首級は、乱れた髪を額へ懸け、眼を閉じ、無念そうに食いしばった口から幾筋も血を引いていた。 「首級だーッ」 と、頼母は、思わず叫んだ。と、首級はユルユルと動き、一方へ廻り、すぐに頼母の方へ、ぼんのくぼを見せたが、やがて窓枠からだんだんに遠退き、間もなく闇に融けて消えてしまった。しかし、すぐに続いて、今度は女の首級が一個、ユルユルと闇から浮き出して来、窓へ近寄り、頼母の方へ正面を向けた。やはり眼を閉じ、口を食いしばり、額へ乱れた髪をかけていた。しかし、その首級もユルユルと廻り、頼母へぼんのくぼを見せ、やがて闇の中へ消えた。頼母は全身を強ばらせ、両手を握りしめた。と、またも、窓へ、以前の男の首級があらわれた。 「典膳の首級だーッ」 と、頼母は夢中で喚いた。そう、その首級は見覚えのある渋江典膳の首級であった。 (しかし典膳は、三日前の晩に、お浦のために殺されて、川の中へ落とされたではないか! 何んということだ! 何んという! ……) 典膳の首級は、頼母にそう叫ばれると、閉じていた眼を開けた。血が白眼の部分を櫨の実のように赤く染めていた。だが、その典膳の首級は、例のようにユルユルと廻って、闇に消え、それに代わって、以前の女の首級が現われた。 「お浦だーッ」 そう、その首級はお浦の首級であった。
恩讐卍巴
お浦の首級は、頼母の叫び声を聞くと、眼を開けようとして、瞼を痙攣させたが、開く間もなく、一方へ廻り、窓から遠退き、闇へ消えた。とたんに、軟らかい生物の体を、木刀などで打つような音がし、それに続いて悲鳴が聞こえたが、見よ! 窓を! 典膳の首級とお浦の首級とが、ぶつかり合い、噛み合いながら、キリキリ、キリキリと、眉間尺のように廻り出したではないか。 頼母は、夢中で納屋の扉へ飛び付いた。 刹那、納屋の中から、 「丁だ!」という声が聞こえ、それに応じるように、「半だ!」という声が響いた。 頼母は納屋の扉を引き開け、内へ飛び込んだ。開けられた戸口から、外光が射し込み、闇であった納屋の内部を昼間に変えたが、頼母に見えた光景は、地獄絵であった。渋江典膳とお浦とが背後手に縛られ、高く梁に釣り下げられてい、その下に立った五郎蔵一家の用心棒の、望月角右衛門が、木刀で、男女を撲っているではないか。撲られる苦痛で、典膳とお浦とは身悶えし、身悶えするごとに、二人の体は、宙で、縒じれたり捻じれたりし、額や頤をぶっつけ合わせた。そういう二人の顔は、窓の高さに存在った。だから窓の外から見れば、二個の首級が、噛み合い食い合いしているように見えるのであった。納屋の壁には、鋤だの鍬だの鎌だのの農具が立てかけてあり、地面には、馬盥だのだの稲扱きだのが置いてあったが、そのずっと奥の方に、裸体蝋燭が燃えており、それを囲繞んで、六人の男が丁半を争っていた。五郎蔵の乾児どもであった。その横に立って、腕組みをし、勝負を見ているのは、これも用心棒の小林紋太郎で、その南京豆のような顔は、蝋燭の光で黄疸病のように見えていた。 これらの輩は、戸のあく音を聞くと、一斉にそっちを見たが、 「染八か」「何をしていたんだ」「喜代三はどうした」「いい勝負がはじまっている」「仲間にはいりな」 などと声をかけた。 井戸の方へ水を飲みに行った二人の身内の一人が、帰って来たものと思ったらしい。しかし明るい戸口の外光を背負って立っている男が、染八でもなく喜代三でもなく、武士だったので、乾児たちは一度に口を噤んでしまった。 頼母に一番近く接していた角右衛門が、真っ先に侵入者の何者であるかを見てとった。 「わ、わりゃア伊東頼母!」 と叫ぶと、持っていた樫の木刀を、真剣かのように構えた。しかしこの老獪な用心棒は、打ち込んで行く代わりに背後へ退き、粗壁へ守宮のように背中を張り付け、正面に、梁から、ダラリと人形芝居の人形のように下がり、尚グルグルと廻っている、典膳とお浦との体の横手から、恐そうに頼母を見詰めた。 乾児たちは角右衛門の声を聞くと、一斉に立ち上がった。蝋燭が仆れて消えた。 「いかにも伊東頼母!」 「探しているところだ!」 「いいところへ来やがった」 「たたんでしまえ!」 「誘拐め!」 「盗賊め!」 乾児たちは口々に喚きだした。 「親分にお知らせして……さよう親分にお知らせした方がよろしい。……拙者一走りして……」と、臆病者の紋太郎は、侵入者が頼母だと知った瞬間、一躍して、乾児たちの背後へ隠れたが、今度はいち早く、納屋から逃げ出そうとして、そう叫びながら、乾児たちを掻き分けて前へ出、頼母の体によって半分以上塞がってはいるが、しかし尚明るく見えている戸口を狙った。 頼母は、この意外なありさまに度胆を抜かれたが、そのうち自分が、何か誤解されているらしいことに感付いた。 「方々――いや五郎蔵殿のお身内、拙者はいかにも伊東頼母、先夜、父の敵五味左門に邂逅いました際には、ご助力にあずかり、千万忝けのうござった。お礼申す。その夜お断わりもいたさず武蔵屋を立ち退きましたは、とり逃がしました左門を探し出そうためで。……しかし挨拶なしにお暇いたしましたは拙者の不調法、お詫びつかまつる。……いやナニここへ参りましたのもほんの偶然からで。……さよう、窓から、お浦殿の顔と典膳めの顔とが……どっちみち偶然からで。……それにいたしましても、只今のお言葉、ちと不穏当! 合点ゆきませぬ! ……誘拐者とは? 盗賊とは?」 と云い云い、頼母は、油断なく四方へ眼を配った。
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