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血曼陀羅紙帳武士(ちまんだらしちょうぶし)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-3 6:56:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


    子供を産む妖怪蜘蛛

 五郎蔵は地団駄を踏み、いつか抜いた長脇差しを振り冠り、左門へ走りかかったが、にわかに足を止め、離座敷はなれの方を眺めると、
蜘蛛くもが! 大蜘蛛が!」
 と喚き、脇差しをダラリと下げてしまった。
 畳数枚にもあたる巨大な白蜘蛛が、暗い洞窟の中から這い出すように、今、離座敷はなれの、左門の部屋から、縁側の方へ這い出しつつあった。背を高く円く持ち上げ、四本の足を引き摺るように動かし、やや角ばって見える胴体を、縦に横に動かし――だから、太い、深い皺を全身に作り、それをウネウネと動かし、妖怪ばけもの蜘蛛は、やがて縁から庭へ下りた。と、離座敷が作っている地上の陰影かげから、蜘蛛は、月の光の中へ出た。蜘蛛の白い体に、無数に附着いてる斑点まだらは、五味左衛門のはらわたによってけられた血の痕であり、その後、左門によって、幾人かの人間が斬られ、その血が飛び散って出来た斑点でもあった。そうして、この巨大な妖怪蜘蛛は、紙帳なのであった。では、四筋の釣り手を切られ、さっきまで、部屋の中に、ベッタリと伏し沈んでいた紙帳が、生命いのちを得、自然と動き出し、歩き出して来たのであろうか? 幾人かの男女が、その内外で、斬られ、殺されて、はずかしめられ、怨みの籠っている紙帳である、それくらいの怪異は現わすかもしれない。
 庭を歩いて行く紙帳蜘蛛は、やがて疲労つかれたかのように、背を低めて地へ伏した。しかしすぐに立ち上がった。背が高く盛り上がった。と、それに引き絞られて、紙帳の四側面が内側へ窪み、切られ残りの釣り手のひもを持った四つの角が、そのためかえって細まり、さながら四本の足かのようになった。窪んだ箇所は黒い陰影を作り、隆起している角は骨のように白く見えた。紙帳蜘蛛は歩いて行く。と、蜘蛛は、地面へ、子供を産み落とした。彼が地面へ伏し沈み、やがて立って歩き出したその後へ、長い、巾の小広い、爬虫類を――くちなわを産み落としたのである。しかしそれは、黒繻子くろじゅすと、紫縮緬とを腹合わせにした、女帯であった。女帯は、地上に、とぐろを巻き尻尾しっぽにあたる辺を裏返し、その紫の縮緬の腹を見せていた。蜘蛛は、自分の影法師を地に敷きながら、庭をあてなく彷徨さまよって行った。と、また子供を産み落とした。紅裏をつけた、藍の小弁慶の、女物の小袖であった。蜘蛛は、庭の左手の方へ、這って行った。
 やがて、母屋と離座敷はなれとの間の通路みちから、この旅籠はたご、武蔵屋の構外そとへ出ようとした。そうしてまたそこで、地上へ、血溜りのような物を――胴抜きの緋の長襦袢を産み落とした。
 三個の死骸を間に挾み、左門と向かい合い、隙があったら斬り込もうと、刀を構えていた頼母も、その背後に、後見でもするように、引き添っていた五郎蔵も、刀を逆ノ脇に構え、頼母と向かい合っていた左門も、その左門を遠巻きにしていた五郎蔵の乾児たちも、そうして、この中庭の騒動に眼を覚まし、母屋の縁や、庭の隅などに集まっていた、無数の泊まり客や、旅籠のおんなや番頭たちは、この、紙帳蜘蛛の怪異に胆を奪われ、咳一つ立てず、手足を強張こわばらせ、呼吸いきを呑んでいた。不意に、左門の口から、呻くような声が迸ったかと思うと、紙帳を追って走り出した。
がすな!」という、五郎蔵の、烈しい声が響いた。瞬間に、乾児たちが、再度、四方から、左門へ斬りかかって行く姿が見えた。しかし左門が振り返りざま、宙へ刀を揮うや、真っ先に進んでいた乾児の一人が、左右へ手を開き、持っていた刀を、氷柱つららのように落とし、けざまに斃れた。
 蜘蛛の姿は消えていた。

 その蜘蛛が、しばらく経って姿をあらわしたのは、武蔵屋から数町離れた、瀬の速い川の岸であった。その岸を紙帳蜘蛛は、よろめきよろめき、喘ぎ喘ぎ、這っていた。でも、とうとう疲労つかれきったのであろう、四足を縮め、胴体に深いしわを作り、ベタベタと地へ腹這った。円く高く盛り上がっていた背もたわみ、全体の相が角張り、蜘蛛というより、やはり、一張りの紙帳が、地面へ捨てられたような姿となった。川面を渡って、烈しく風が吹くからであったが、紙帳は、痙攣けいれんを起こしたかのように、ふるえつづけた。と、不意に紙帳は寝返りを打った。風が、その内部なかへ吹き込んだため、紙帳が一方へ傾き、ワングリと口を開けたのである。忽然、紙帳は、一間ほど舞い上がった。もうそれは蜘蛛ではなく、紙鳶たこであった。巨大な、白地に斑点を持った紙鳶は、蒼々と月の光のみなぎっている空を飛んで、三間ほどの彼方むこうへ落ちた。でも、また、すぐに、川風に煽られ、舞い上がり、藪や、小丘や、森や、林の点綴つづられている、そうして、麦畑や野菜畑が打ち続いている平野の方へ、飛んで行った。

    怨恨上と下

 最初、紙帳の舞い上がった地面に、一人の女が仆れていた。お浦であった。水色のきぬを腰に纒っているばかりの彼女は、水から上がった人魚のようであった。
 彼女は疲労つかれ果てていた。左門によって気絶させられたところ、頼母に踏まれて正気づいた、そこで彼女は夢中で遁がれようとした。が、彼女を蔽うている紙帳が、彼女にまつわり、中から出ることが出来なかった。冷静に考えて、行動したならば、紙帳から脱出のがれだすことなど、何んでもなかったのであろうが、次から次と――部屋の間違い、気絶、斬り合いの叫喚さけび、次から次と起こって来た事件のため、さすがの彼女も心を顛倒てんとうさせていた。そのため、紙帳を冠ったまま、無二無三に逃げ廻ったのである。体をもがくにつれて、帯や衣裳は脱げて落ちた。
 藻屑もくずのように振り乱した髪を背に懸け、長いうなじを延びるだけ延ばし、円い肩から、豊かな背の肉を、弓形にくねらせ、片頬を地面へくっ付けたまま、今にも呼吸が切れそうなほどにも、烈しく喘いでいるのであった。
咽喉のどが乾く! 水が飲みたい!)
 彼女はこればかりを思っていた。
(川があるらしい、水の音がする)
 この時までも、小脇に抱いていた天国の刀箱を、依然小脇に抱いたままで、彼女は川縁の方へ這って行った。
 一方は宿の家並みで、雨戸をとざした暗い家々が、数町の彼方あなたに立ち並んでおり、反対側は髪川で、速い瀬が、月の光を砕いて、銀箔を敷いたようにはしってい、その対岸に、今を盛りの桜の老樹が、並木をなして立ち並んでい、烈しい風に、吹雪のように花を散らし、花は、川を渡り、お浦の肉体の上へまで降って来た。そうして、その桜並木の遙か彼方むこうの、斜面をなしている丘の上の、諏訪神社の辺りでは、火祭りの松明たいまつの火が、数百も列をなし、うねり、渦巻き、揉みに揉んでいるのが、火龍が荒れまわっているかのように見えた。
 お浦は、やっと川縁まで這い寄った。彼女は、崖の縁を越して、前の方へ腕を延ばした。すぐそこに川が流れているものと思ったかららしい。
(水が飲みたい、水を!)
 しかし川は、彼女のいる川縁から、一丈ばかり下の方を流れていた。そうして、川縁から川までの崖は、中窪みに窪んでい、その真下は岩組であった。
 その岩組の間に挾まり、腰から下を水に浸し、両手で岩に取り縋り、半死半生になっている男があった。渋江典膳であった。
 彼は、この髪川の上流、竹藪の側で、お浦のため短刀で刺された上、川の中へ落とされた。女の力で刺したのと、衣裳の上からだったのとで、傷は浅かった。しかし、川へ落ちた時、後脳を打ち、気絶した。でも、気絶したのは、典膳にとっては幸運だった。水を飲まなかった。その典膳は、ここまで流されて来、ここの岩組の間に挾まり、長い間浮いているうちに蘇生した。蘇生はしたが、衰弱しきっている彼は、川から這い上がることさえ出来なかった。助けを呼ぶにも、声さえ出なかった。彼はただ、岩に取り縋っているだけで精一杯であった。
 彼の心は、五郎蔵とお浦とに対する、怒りと怨みとで一杯であった。
彼奴きゃつら二人に復讐するためばかりにも、生き抜いてやらなけりゃア)
 こう思っているのであった。
(昔の同志、同じ浪人組の仲間を、頭分たる彼奴が、女を使って殺そうとしたとは! 卑怯な奴、義理も人情も知らない奴! ……そっちがその気なら、こっちもこっち、彼奴の素姓をあばき、その筋へ訴え出てやろう。即座に縛り首だ! 五郎蔵め、思い知るがいい! ……お浦もお浦だ、女の分際で、色仕掛けで俺をたばかり、殺そうとは! どうともして引っ捕らえ、なぶり殺しにしてやらなけりゃア!)
 川から上がりたい、水から出たいと、彼は縋っている手に力をこめ、岩を這い上がろうとした。しかし、腰から下を浸している水の、何んと粘っこく、もちかのように感じられることか! どうにも水切りすることが出来ないのであった。
 と、その時、頭上から、土塊つちくれと一緒に、何物か崖をすべって落ちて来、岩に当たり、かすかな音を立て、水へ落ちた。
 典膳は、水面を見た。細い長い木箱はこが、月光で銀箔のように光っている水に浮いて、二、三度漂い廻ったが、やがて下流の方へ流れて行った。
 典膳は、崖の上を振り仰いだ。
 生々なまなまと白く、肥えて円い、女の腕が、長く延びて差し出されてい、指が、何かを求めるように、閉じたり開いたりしていた。
「あ」
 と、典膳は、思わず声を上げた。意外だったからである。しかし、次の瞬間には、誰か、女が、この身を助けよう、引き上げようとして、手を差し出してくれたのだと思った。
「お助けくださいまするか、かたじけのうござる。生々世々しょうじょうよよ、ご恩に着まするぞ」
 と、典膳は、咽喉のどこびりついて容易に出ない声を絞って云い、一気に勇気を出し、川から岩の上へ這い上がった。

    栞の恋心

 腕の主はいうまでもなくお浦で、お浦は、このになっても、恋しい男の頼母へ渡そうと、抱えていた天国の刀箱を、不覚にも川の中へ落としたので驚き、延ばしている腕を一層延ばし、思わず指をうごめかしたのであった。その時彼女は、崖下から、人声らしいものの、聞こえて来るのを聞いた。彼女は狂喜し、地を摺って進み、肩と胸とを、崖縁からはみ出させ、崩れた髪で、額縁のように包んだ顔を覗かせ、崖下を見下ろし、
「もし、どなたかおいででございますか。刀箱を落としましてございます。その辺にありはしますまいか? ……あ、水が飲みたい! 水を汲んでくださいまし」
 典膳は、この時、もう岩の上に坐りこんでいたが、女の声を聞いても、耳に入れようとはせず、ただ、女の腕に縋り、それを手頼たよりに、崖の上へあがろうと、ひしと女の手を握った。
「お願いでございます。この手を、グッとお引きくださいまし。それを力に、私、崖を上がるでございましょう。ご女中、さ、グッとこの手を……」
 お浦は、突然手を握られて、ハッとしたが、咽喉の渇きがいよいよ烈しくなって来たので、握られた手を振り放そうとはせず、
「水を! まず、水を! ……その後にお力になりましょう。手をお引きいたすでございましょう。……おお、水を!」
 この二人を照らしているものは、練絹ねりぎぬで包んだような、おぼろの月であった。
 典膳は、やっと、ヒョロヒョロと立ち上がった。お浦の体は、いよいよ崖の方へはみ出した。
 二人の顔はヒタと会った。
「…‥……」
「…………」
 鵜烏うがらすが、川面をはすに翔けながら、啼き声をこぼした。

 こういう事件があってから三日の日が経った。
 その三日目の朝、飯塚薪左衛門の娘のしおりは、屋敷を出て、郊外を彷徨さまよった。さまよいながらも彼女の眼は、府中の方ばかりを眺めていた。連翹れんぎょうすももの花で囲まれた農家や、その裾を丈低い桃の花木で飾った丘や、朝陽を受けて薄瑪瑙色うすめのういろに輝いている野川や、鶯菜うぐいすなや大根の葉に緑濃く彩色いろどられている畑などの彼方あなたに、一里の距離へだたりを置いて、府中の宿が、その黒っぽい家並みを浮き出させていた。
(今日あたり頼母様にはお帰りあそばすかもしれない)
(いいえ、頼母様、是非お帰りあそばしてくださいまし)
 山水のように澄んでいる眼には、愛情の熱が燃え、柘榴ざくろつぼみのように、謹ましく紅い唇には、思慕の艶が光り、肌理きめ細かに、蒼いまでに白い皮膚には、憧憬あこがれ光沢つやさえ付き、恋を知った処女おとめ栞の、おお何んとこの三日の間に、美しさを増し、なまめかしさを加えたことだろう! 彼女は過ぐる夜、屋敷の中庭で、頼母と会って以来、それまで、春をしらずに堅く閉ざしていた花の蕾が、一時に花弁はなびらを開き、色やかおりを悩ましいまでに発散はなすように、栞も、恋心を解放はなし、にわかに美しさを加えたのであった。
わたし良人おっとは頼母様の他にはない)
 処女の一本気が、恋となった時、行きつくところはここであった。まして栞のように、発狂している父親を看病し、老いたるしもべ乳母うばや、荒々しい旅廻りの寄食浪人などばかりに囲繞とりまかれ、陰欝な屋敷に育って来た者は、型の変った箱入り娘というべきであり、箱入り娘は、最初にぶつかって来た異性に、全生涯をかそうとするものであるにおいてをや。殊に相手が、若く、凜々しく、頼り甲斐のある、無双の美丈夫であるにおいてをや。
(頼母様、早くお帰りなされてくださりませ)
 その頼母は、自分たち飯塚家に、わけても父薪左衛門にあだをする、松戸の五郎蔵という博徒の親分が、何故父親に仇をするのか、五郎蔵の本当の素姓は何か? それを、自分たちのために探り知るべく、出かけて行ってくれたのであった。
(頼母様、お会いしとうございます。早くお帰りなされてくださいまし)
 五郎蔵の素姓も、五郎蔵が、何故父親に仇をするのかをも、頼母の口から聞きたくはあったが、しかしそれよりも、狂わしいまでに恋している処女おとめは、ただひたむきに、恋人の顔が見たいのであった。
 髪川から、灌漑用に引かれているせきへりには、すみれや、紫雲英げんげや、碇草いかりそうやが、精巧な織り物をべたように咲いてい、水面には、水馬みずすましが、小皺のような波紋を作って泳いでい、底の泥には、泥鰌どじょうの這った痕が、柔らかい紐のように付いていた。ことごとくはるたけなわの景色であった。
「おや」と呟いて、栞は、堰の縁へ、赤緒の草履の足を止めた。水面に、水藻をまとい、目高の群に囲まれながら、天国と箱書きのある刀箱が、浮いていたからである。

    名刀天国

(天国といえば、気を狂わせておられるお父様が、狂気の中でも、何彼と仰せられておられた名剣の筈だが……)
 それが、こんな堰に浮いているとは不思議だと、栞は、しばらく刀箱を見ていたが、やがてしゃがむと、刀箱それを引き上げた。箱からしたたるビードロのようなしずくを切り、彼女は、両手で刀箱を支え、じっと見入った。ゆかしい古代紫の絹の打ち紐で、箱はゆわえられていた。箱は、まさの細かい、桐の老木で作ったものであり、天国と書かれた書体も、墨色も、古くみやびていた。
(ともかくもお父様へお目にかけて……)
 その裾の辺りへ去年の枯れ草を茂らせ、ところどころ壁土を落とした築地ついじ。鋲は錆び、瓦は破損いたみ、久しく開けないために、扉に干割ひわれの見える大門。――こういうものに囲まれた彼女の屋敷は、廃屋の見本のようなものであったが、栞は、その大門の横の潜門くぐりをくぐって屋敷の中へはいって行った。
 その栞が、しばらく経った時には屋敷の奥の、古びた十畳ばかりの部屋に、父、薪左衛門と向かいあって坐っていた。
 栞は、膝の上の刀箱を、父の方へ差し出したが、
「ただ今お話し申し上げました、堰の水に浮いておりました刀箱は、これでございます。ご覧なさりませ、天国と、箱書きしてございます」
 と云い、緞子どんすの厚い座布団の上へ坐り、蒔絵まきえの脇息へ倚っている、父親の顔を見た。
 薪左衛門は、その卯の花のように白い総髪を、肩の上でユサリと揺り、おちつきなく、キョトキョト動く眼を、グッと据えたが、やっと咽喉から押し出したような嗄れ声で、
「ナニ、天国※(感嘆符疑問符、1-8-78) ……まことか! ……まことなりやお手柄、我ら助かる! 身の面目になる!」
 と云ったが、突然、棚から陶器すえものが転げ落ちるような声で笑い出し、
贋物にせものであろう、贋物であろう、贋物の天国、鑑定してやろうぞ!」
 と、鉤のように曲がっている左右の指で、ムズと箱を掴んだ。紐が解かれ、蓋が開けられた。箱の底に沈んでいたのは、古錦襴の袋に入れられた白鞘の剣であった。やがて鞘は払われ、刀身があらわれた。
 薪左衛門は、狂人ながら、さすがは武士、白木の柄を両手に持ち、柄頭を丹田たんでんへ付け、鉾子ぼうし先を、はすに、両眼の間、ずっと彼方むこうに立て、ジッと刀身を見詰めた。立派であった。
 それにしても、この奥まった部屋の暗いことは! 年中陽の光が射さないからであった。それで、この部屋にあって、鮮明あざやかに見えているものといえば、例の、卯の花のように白い薪左衛門の頭髪かみと、化粧を施さないでも、天性雪のように白い、栞の顔ばかりであった。
 いや、もう一つあった。薪左衛門によって保持たもたれている天国の剣であった。
 おお、この「持つ人の善悪に関わらず、持つ人に福徳を与う」とまで、云い伝えられている、日本最古の刀匠――大宝年中、大和やまとに住していた天国の作の、二尺三寸の刀身の、何んと、部屋の暗さの中に、煌々こうこうたる光を放していることか! その刀身の姿は細く、肌は板目で、女性を連想おもわせるほどに優美であり、にえ多く、小乱れのだれ刃も見えていた。そうして、切っ先から、四寸ほど下がったあたりから、両刃もろはになっていた。何より心を搏たれることは、それが兇器の剣でありながら、微塵みじんも殺伐の気のないことで、剣というよりも、名玉を剣の形に延べた、気品の高い、匂うばかりに美しい、一つの物像もののかたちといわなければならないことであった。
「まあ」と、栞は、思わず感嘆の声を上げ、水仙の茎のような、白い細いうなじを差し延べ、眼を見張り、刀身を見詰めた。
 それにも増して、刀身へ穴でも穿けるかのように、その刀身を見詰めているのは、おきのように熱を持った薪左衛門の眼であった。
 薪左衛門も栞も、時の経つのを忘れているようであった。どこにいるのかも忘れているようであった。
 人は往々にして、真の驚異や、真の感激や、真の美意識に遭遇ぶつかった時、時間とき空間ところとを忘却わすれるものであるが、この時の二人がまさにそれであった。

    名刀の威徳

「栞や」と、不意に、薪左衛門は、優しいおだやかな声で云った。
「これは、天国の剣に相違ないよ。私には見覚えがある。遠い昔に――二十年もの昔でもあろうか、五味左衛門という者の屋敷から、天国の剣を強奪……いやナニ、頂戴したことがあるが、それがこの剣なのだよ。……ゆえあってその天国の剣は、今まで行衛不明となり、同志、来栖勘兵衛からは……いやナニ、誰でもよい、同志の一人からは、わしがその剣を隠匿したようにいられたが……それにしても、栞や、よくそなた、この剣を目付け出してくれたのう」
 その云い方は、全然、正気の人間の云い方であり、その声音こわねは、これも正気の人間の、五音の調った、清々すがすがしい声音であった。
「まあお父様!」と、栞は叫ぶように云い、父親が、正気に返ったらしいのに狂喜し、のめるように膝で進み、薪左衛門の膝へ取り縋った。
「そのお顔は! そのお声は! ……おおおお、お父様、すっかり正気の人間に! ……」
 いかさま、ほんのさっきまでは、薪左衛門の顔は、狂人特有の、ひそんだ眉、上擦った眼、食いしばった口、蒼白の顔色、そういう顔だったのに、何んと現在いまの顔は、のびのびとした眉の、沈着おちついた眼の、穏かに軽く結んだ口の、尋常の人の容貌に返っているではないか。これはどうしたことなのであろう? 奇蹟的事件にぶつかった時、人は往々、濁った気持ちや、狂った精神こころを、本来の正気に戻すことがあるものであるが、薪左衛門にとっては、天国の剣の出現は、その奇蹟的事件といっていいらしく、そのため、烈しい感動を受け、日頃の狂疾が、一時的に恢復したのかもしれない。
「ナニ正気の人間に?」
 と、薪左衛門は、栞の言葉を、不審いぶかしそうに聞き咎めた。
「栞や、正気の人間とは?」
「おお、お父様お父様、あなた様は、長らくの間、ご乱心あそばしておいでなされたのでございます」
「乱心?」
「はい、過ぐる年、松戸の五郎蔵という、博徒の親分が参りまして、お父様と、お話しいたしましてございますが、その時、突然お父様には、『おのれ、来栖勘兵衛、まだこの俺を苦しめるのか!』と叫ばれまして、その時以来、ずっとご乱心……」
「…………」
「そればかりか、お父様には、以前からお持ちの、腰の刀傷が元で、躄者いざりに……」
「ナニ、躄者に?」と、叫んだかと思うと、薪左衛門は、腰を延ばし、ノッと立ち上がった。立てなかった。
「おおおお栞や、わしは躄者じゃ! ……躄者じゃ躄者じゃ、わしは躄者じゃ! ……ワ、わしは、イ、躄者じゃーッ」
 時が沈黙のまま経って行った。天井裏で烈しい音がし、悲しそうな鼠の啼き声が聞こえた。こういう古屋敷の天井裏などには、大きな蛇が住んでいるものである。それがはりから落ちて、鼠を呑んだらしい。
 時が経って行った。
 薪左衛門の顔には、恐怖、悲哀、絶望、苦悶の表情が、深刻に刻まれていた。当然といえよう。乱心していたということだけでさえ、恥ずかしいことだのに、躄者にさえなったという。生まれもつかぬ躄者に。
 薪左衛門は眼を閉じた。その瞼が痙攣を起こしているのは、感情を抑えているからであろう。栞の肩を抱いている手が、烈しく顫えているのも、感情を抑えているからであろう。
 父の苦悶の顔を、下から見上げている栞の顔にも、恐怖と不安と悲哀とがあった。
(烈しいお父様の苦悶が、お父様を駆って、また乱心に……)
 これが栞には恐ろしく悲しいのであった。
 やがて薪左衛門は弱々しく眼を開けた。その眼についたのは、右手に捧げている天国の剣であった。剣は、依然として、珠を延べたかのように、気高い、穏かな光を放し、宙に保たれていた。この剣の威徳には、煙りさえも近寄れないのであろうか? と云うのは、少しでもお父様の狂ったお心を静めてあげようと、優しい娘心から、栞は、毎日この部屋で香を焚くのであって、今も床の間に置いてある唐金の香炉から、蒼白い煙りが立ち昇ってい、その一片が、刀の切っ先をクルクルと捲いた。しかし何かに驚いたかのように、煙りの輪は、急に散り、消え、後には、暗い空間に、刀身ばかりが、孤独におごそかに輝いているではないか。
 それを見詰めている薪左衛門の眼は、次第に平和になり、顔からも、悲哀や苦悶や絶望の色が消えた。

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