独楽を奪われる
八重を小脇に引っ抱え、血に濡れた刀をひっさげて、山岸主税は庭へ出た。 猿によって縛めの縄を切られ、勇躍してお八重へ走り寄り、その縛めの縄を解いた。すると、そこへ二人の武士が来た。やにわに一人を斬り伏せて、お八重を抱え廊下を走り、雨戸を蹴破り庭へ出た。 そういう山岸主税であった。 すぐに月光が二人を照らした。その月光の蒼白いなかに、二つの女の人影があったが、 「山岸様!」 「お八重様!」 と、同時に叫んで走り寄って来た。 「あッ、そなたはあやめ殿!」 「まあまああなたはお葉様か!」 主税とお八重とは驚いて叫んだ。 「事情は後から……今は遁れて! ……こっちへこっちへ!」と叫びながら、あやめは門の方へ先頭に立って走った。 後につづいて一同も走った。開けられてある門を出れば、田安家お屋敷の廓内であった。 木立をくぐり建物を巡り、廓の外へ出ようものと、男女四人はひた走った。するとその時背後から、追い迫って来る数人の足音が聞こえた。 (一人二人叩っ斬ってやろう) 今まで苦しめられた鬱忿と、女たちを逃がしてやる手段としても、そうしなければなるまいと主税は咄嗟に決心した。 「拙者にかまわず三人には、早く土塀を乗り越えて、屋敷より外へお出でなされ。……拙者は彼奴らを一人二人! ……」 云いすてると主税は引っ返した。 「それでは妾も!」と強気のあやめが、主税の後から後を追った。 「お葉や、お前はお八重様を連れて……」 「あい。……それでは。……お八重様!」 二人の女は先へ走った。主税の正面から浪人の一人が、命知らずにも斬り込んで来た。 「怨、晴らすぞ!」と主税は喚き、片膝折り敷くと思ったが、抜き持っていた刀を横へ払った。斬られた浪人は悲鳴と共に、手から刀を氷柱のように落とし、両手で右の脇腹を抑え、やがて仆れてノタウチ廻った。 すると、その横をひた走って、あやめの方へ突き進む男があった。 「八重! 女郎! 逃がしてたまるか!」 あやめをお八重と間違えたらしく、こう叫んで大手を拡げたのは、太夫元の勘兵衛であった。 「汝は勘兵衛! 生きていたのか!」 お高祖頭巾をかなぐり捨たあやめは、内懐中へ片手を差し入れたまま、さすがに驚いて声をかけた。 「わりゃアあやめ!」と仰天し、勘兵衛も震えながら音をあげた。 「どうしてここへ こんな夜中に!」――でもようやく元気を取り戻すと、 「生き返ったのよ、業が深いからのう。……あんな生温い締め方では……」 「そうか、それじゃアもう一度」 あやめの手が素早く内懐中から抜かれて、高く頭上へ振りかぶられた。瞬間「わーッ」と勘兵衛は叫び、両手で咽喉を掻きむしった。 「これでもか! これでもか! これでもか」 ピンと延びている紐を手繰り、勘兵衛を地上に引き摺り引き摺り、 「くたばれ! 殺す! 今度こそ殺す! ……お父様の敵! 敵の片割れ!」 「山岸氏参るぞ――ッ」と、もう一人の浪人と、主税の横から迫ったのは、飛田林覚兵衛であった。が、覚兵衛はお八重らしい女が、もう一人の女と遥か彼方を、木立をくぐって走って行くのを見るや、 「南部氏……主税は……貴殿へお任せ! ……拙者はお八重を!」と浪人へ叫び、二人の女を追っかけた。 頼母は一旦は走り出たが、部屋へ置いて来た独楽のことが、気にかかってならなかった。 それで屋敷へ取って返し、廊下を小走り部屋へ入った。 「あッ」 頼母は立縮んだ。 赤いちゃんちゃんこを着た一匹の小猿が、淀屋の独楽を両手に持ち、胸の辺りに支えて覗いているではないか。 頼母はクラクラと眼が廻った。 「…………」 無言で背後から躍りかかった。 その頼母の袖の下をくぐり、藤八猿は独楽を握ったまま、素早く廊下へ飛び出した。 「はーッ」と不安の溜息を吐き、後を追って頼母も廊下へ出た。数間の先を猿は走っている。 「はーッ」 頼母はよろめきながら追った。猿は庭へ飛び下りた。頼母も庭へ飛び下りたが、猿の姿は見えなかった。 頼母はベタベタと地へ坐った。 「取られた! ……独楽を! ……淀屋の独楽を! ……猿に! ……はーッ……猿に! 猿に!」
恋のわび住居
それから一月の日が経った。桜も散り連翹も散り、四辺は新緑の候となった。 荏原郡馬込の里の、農家の離家に主税とあやめとが、夫婦のようにして暮らしていた。 表面は夫婦と云ってはいるが、体は他人の間柄であった。 三間ほどある部屋のその一つ、夕陽の射している西向きの部屋に、三味線を膝へ抱え上げ、あやめが一人で坐っていた。
逢うことのまれまれなれば恋ぞかし いつも逢うては何の恋ぞも
爪びきに合わせてあやめは唄い出した。隆達節の流れを汲み、天保末年に流行した、新隆達の小唄なのである。 あやめの声には艶があった。よく慣らされている咽喉から出て、その声は細かい節となり、悩ましい初夏の午さがりを、いよいよ悩ましいものにした。 少し汗ばんでいる額の辺りへ、ばらりとほつれた前髪をかけ、薄紫の半襟から脱いた、白蝋のような頸を前に傾げ、潤いを持たせた切長の眼を、半眼にうっとりと見ひらいて、あやめは唄っているのであった。
やるせなや帆かけて通る船さえも 都鳥 番いは 水脈にせかれたり
不意にあやめは溜息をし、だるそうに三味線を膝の上へ置くと、襖ごしに隣室へ声をかけた。 「主税さま、何をしておいで?」 そとから舞い込んで来たらしい、雌雄の黄蝶がもつれ合いながら、襖へ時々羽を触れては、幽かな音を立てていた。 「例によりまして例の如くで」 主税の声が襖のむこうから、物憂そうに聞こえてきた。 「あやめ殿にはご機嫌そうな、三味線を弾いて小唄をうとうて」 「そう覚しめして?」と眉と眉との間へ、縦皺を二筋深く引き、 「昼日中なんの機嫌がよくて、三味線なんか弾きましょう」 「…………」 主税からの返事は聞こえてこなかった。 「ねえ主税様」と又あやめは云った。 「心に悶えがあったればこそ、座頭の沢市は三味線を弾いて、小唄をうたったじゃアありませんか」 隣室からは返事がなく、幽かな空咳が聞こえてきた。 不平そうにあやめは立ち上ったが、開けられてある障子の間から、縁側や裏庭が見え、卯の花が雪のように咲いている、垣根を越して麦や野菜の、広々とした青い畑が、数十町も展開けて見えた。 (何だろう? 人だかりがしているよ) あやめは縁側へ出て行って、畑の中の野道の上に、十数人の男女が集まっているのへ、不思議そうに視線を投げた。 しかし距離が大分遠かったので、野道が白地の帯のように見え、人の姿が蟻のように見えるだけであった。 そこであやめは眼を移し、はるかあなたの野の涯に、起伏している小山や谷を背に、林のような木立に囲まれ、宏大な屋敷の立っているのを見た。 あやめにとっては実家であり、不思議と怪奇と神秘と伝説とで、有名な荏原屋敷であった。 あやめはしばらくその荏原屋敷を、憧憬と憎悪とのいりまじった眼で、まじろぎもせず眺めていたが、野道の上の人だかりが、にわかに動揺を起こしたので、慌ててその方へ眼をやった。
怪老人の魔法
野道の上に立っているのは、例の「飛加藤の亜流」と呼ばれた、白髪白髯の老人と、昼も点っている龕燈を持った珠玉のように美しい少年とであり、百姓、子守娘、旅人、行商人、托鉢僧などがその二人を、面白そうに囲繞いていた。 不思議な事件が行なわれていた。 美少年が手にした龕燈の光を、地面の一所へ投げかけていた。夕陽が強く照っている地面へ、龕燈の光など投げかけたところで、光の度に相違などないはずなのであるが、でもいくらかは違っていて、やはりそこだけが琥珀色の、微妙な色を呈していた。 と、その光の圏内へ、棒が一本突き出された。飛加藤の亜流という老人が、自然木の杖を突き出したのである。円味を帯びたその杖の先が、地面の一所を軽く突いて、一つの小さい穴をあけると、その穴の中から薄緑色の芽が、筆の穂先のように現われ出で、見る見るうちにそれが延びて、やがて可愛らしい双葉となった。 「これは変だ」「どうしたというのだ」「こう早く草が延びるとは妙だ」と、たかっていた人々は、恐ろしさのあまり飛退いた。双葉はぐんぐんと生長を続け、蔓が生え、それが延び、蔓の左右から葉が生い出でた。二尺、三尺、一間、三間! 蔓は三間も延びたのである。 と、忽然蔓の頂上へ、笠ほどの大きさの花が咲いた。 「わッ」 人々は声をあげ、驚きと賞讃と不気味さをもって、夕顔のような白い花を、まぶしそうにふり仰いで眺めた。 「アッハッハッ、幻じゃ! 実在ではない仮の象じゃ!」 夕顔の花から二間ほど離れ、夕顔の花を仰ぎ見ながら、杖に寄っていた飛加藤の亜流は、払子のような白髯を顫わせながら、皮肉に愉快そうにそう云った。 「何で夕顔がこのように早く、このように大きく育つことがあろう! みんなケレンじゃ、みんな詭計じゃ! わしは不正直が嫌いだから、ほんとうのことを云っておく、みんなこいつはケレンじゃと。……ただし、印度の婆羅門僧は、こういうことをケレンでなく、実行するということだが、わしは一度も見たことがないから、真偽のほどは云い切れない。……しかしじゃ、皆さん、生きとし生けるものは、ことごとく愛情を基としていて、愛情あれば生長するし、愛情がなければ育たない。だからあるいはわしという人間が、特に愛情を強く持って『夕顔の花よお開き』と念じ、それだけの経営をやったなら、夕顔の花はその愛に感じ、多少は早く咲くかもしれない。……いやそれにしても現在の浮世、愛情の深い真面目の人間が、めっきり少くなったのう。……そこでわしは昼も龕燈をともして、真面目の人間よどこかにいてくれと、歩きまわって探しているのさ。……ここにお立ち合いの皆様方は、みんな真面目のお方らしい。そこでわしはわしの信ずる、人間の道をお話しして……いや待てよ、一人だけ、邪悪の人間がいるようだ。死にかわり生きかわり執念深く、人に禍いをする悪人がいる。――こういう悪人へ道を説いても駄目だ。説かれた道を悪用して、一層人間に禍いする! こういう悪人へ制裁を加え、懲すのがわしの務めなのじゃ……」 突然高く自然木の杖が、夕顔の花と向かい合い、夕焼の空へかざされた。そうしてその杖が横へ流れた途端、夕顔の蔓の一所が折れ、夕顔の花が人間の顔のように、グッタリと垂れて宙に下った。 同時に獣の悲鳴のような声が、たかっている人達の間から起こり、すぐに乾いている野道から、パッと塵埃が立ち上った。 見れば一人の人間が、首根ッ子を両手で抑え、野道の上を、塵埃の中を、転げ廻りノタウッている。 意外にもそれは勘兵衛であった。二度までも浪速あやめによって、締め殺されたはずの勘兵衛であった。
怨める美女
その距離が遠かったので、縁に立って見ているあやめの眼には、こういう異変った出来事も、人だかりが散ったり寄ったりしていると、そんなようにしか見えなかった。 あやめは座敷へ引き返し、間の襖の前に立ち、そっとその襖を引き開けた。 山岸主税がこっちへ背を向け、首を垂れて襟足を見せ、端然として坐ってい、その彼の膝のすこし向うの、少し古びた畳の上で、淀屋の独楽が静かに廻っていた。また何か文字でも現われまいかと、今日も熱心に淀屋の独楽を、彼は廻しているのであった。 「あッ!」と主税は思わず叫んだ。 「何をなさる、これは乱暴!」 でももうその時には主税の体は、背後からあやめの手によって、横倒しに倒されていた。 「悪巫山戯もいい加減になされ。人が見ましたら笑うでござろう」 主税は寝たままで顔を上げて見た。すぐ眼の上にあるものといえば、衣裳を通して窺われる、ふっくりとしたあやめの胸と、紫の艶めかしい半襟と、それを抜いて延びている滑らかな咽喉と、俯向けている顔とであった。 その顔の何と異様なことは! 眼には涙が溜まり唇は震え、頬の色は蒼褪め果て、まるで全体が怨みと悲しみとで、塗り潰されているようであった。そうしてその顔は主税の眼に近く、五寸と離れずに寄って来ていたので、普通より倍ほどの大きさに見えた。 「情無しのお方! 情知らずのお方!」 椿の花のような唇が開いて、雌蕊のような前歯が現われたかと思うと、咽ぶような訴えるような、あやめの声がそう云った。 「松浦頼母の屋敷を遁れ、ここに共住みいたしてからも、時たま話す話といえば、お八重様とやらいうお腰元衆の噂、そうでなければ淀屋の独楽を、日がな一日お廻しなされて、文字が出るの出ないのと……お側に居る妾などへは眼もくれず、……ご一緒にこそ住んで居れ、夫婦でもなければ恋人でも……それにいたしても妾の心は、貴郎さまにはご存知のはず……一度ぐらいは可愛そうなと。……お思いなすって下さいましても……」 高い長い鼻筋の横を、涙の紐が伝わった。 「ねえ主税さま」とあやめは云って、介えている手へ力を入れた。 「こう貴郎さまの身近くに寄って、貴郎さまを見下ろすのは、これで二度目でございますわねえ。一度はお茶ノ水の夜の林で、覚兵衛たちに襲われて、貴郎さまがお怪我をなさいました時。……あの時妾は心のたけを、はじめてお打ち明けいたしましたわねえ……そうして今日は心の怨みを! ……でも、この次には、三度目には? ……いえいえ三度目こそは妾の方が、貴郎さまに介抱されて……それこそ本望! 女の本望! ……」 涙が主税の顔へ落ちた。しかし主税は眼を閉じていた。 (無理はない)と彼は思った。 (たとえば蛇の生殺しのような、そんな境遇に置いているのだからなあ) 一月前のことである、松浦頼母の屋敷の乱闘で、云いかわしたお八重とは別れ別れとなった。あやめの妹だという女猿廻しの、お葉という娘とも別れ別れとなった。殺されたか捕らえられたか、それともうまく遁れることが出来て、どこかに安全に住んでいるか? それさえいまだに不明であった。
三下悪党
主税とあやめばかりは幸福にも、二人連れ立って遁れることが出来た。 しかし主税は田安家お長屋へ、帰って行くことは出来なかった。いずれ頼母があの夜の中に、田安中納言様へ自分のことを、お八重を奪って逃げた不所存者、お館を騒がした狼藉者として、讒誣中傷したことであろう。そんなところへうかうか帰って行って、頼母の奸悪を申し立てたところで、信じられようはずはない。切腹かそれとも打ち首にされよう。これは分かりきった話であった。 そこで主税は自然の成り行きとして、浪人の身の上になってしまった。そうしてこれも自然の成り行きとして、あやめと一緒に住むようになった。 「おりを見て荏原屋敷へ忍び入り、お実父様の敵を討たなければ……」 あやめとしてはこういう心持から、又、一方主税としては、「淀屋の財宝と荏原屋敷とは、深い関係があるらしいから、探ってみよう」という心持から、二人合意で荏原屋敷の見える、ここの農家の離家を借りて、夫婦のように住居して来たのであった。 しかるに二人して住んでいる間も、主税に絶えず思い出されることは、云いかわした恋人お八重のことで、従って自ずとそれが口へ出た。そうでない時には淀屋の独楽を廻し、これまでに現われ出た文字以外の文字が、なお現われはしまいかと調べることであった。 しかしもちろん主税としては、あやめの寄せてくれる思慕の情を、解していないことはなく、のみならずあやめは自分の生命を、二度までも救ってくれた恩人であった! (あやめの心に従わなければ……) このように思うことさえあった。 しかし恋人お八重の生死が、凶とも吉とも解らない先に、他の女と契りを交わすことは、彼の心が許さなかった。そこでこれまではあやめに対して、故意と冷淡に振舞って来た。 が、今になってそのあやめから、このように激しく訴えられては、主税としては無理なく思われ、心が動かないではいられなかった。 堅く眼を閉じてはいたけれど、あやめの泣いていることが感じられる。 (決して嫌いな女ではない) なかば恍惚となった心の中で、ふと主税はそう思った。 (綺麗で、情熱的で、覇気があって、家格も血統も立派なあやめ! 好きな女だ好きな女だ! ……云いかわしたお八重という女さえなければ……) 恋人ともなり夫婦ともなり、末長く暮らして行ける女だと思った。 (しかもこのように俺を愛して!) カッと[#「カッと」は底本では「カツと」]胸の奥の燃えるのを感じ、全身がにわかに汗ばむのを覚えた。 (いっそあやめと一緒になろうか) 悲しみを含んだ甘い感情が、主税の心をひたひたと浸した。 あやめは涙の眼を見張って、主税の顔を見詰めている。 涙の面紗を通して見えているものは、畳の上の主税の顔であった。男らしい端麗な顔であった。わけても誘惑的に見えているものは、潤いを持ったふくよかな口であった。 いつか夕陽が消えてしまって、野は黄昏に入りかけていた。少し開いている障子の隙から、その黄昏の微光が、部屋の中へ入り込んで来て、部屋は雀色に仄めいて見え、その中にいる若い男女を、悩ましい艶かしい塑像のように見せた。 横倒しになっている主税の足許に、その縁を白く微光らせながら、淀屋の独楽が転がっている。 と、その独楽を睨みながら、障子の外の縁側の方へ、生垣の裾から這い寄って来る、蟇のような男があった。三下悪党の勘兵衛であった。
二つ目の独楽を持って
田安屋敷の乱闘の際に、あやめによって独楽の紐で、首を締められ一旦は死んだが、再び業強く生き返り、勘兵衛はその翌日からピンシャンしていた。 そうして今日は頼母のお供をし、頼母の弟の主馬之進の家へ、――向こうに見える荏原屋敷へ来た。その途中で見かけたのが、野道での人だかりであった。そこで自分だけ引返して来て、群集に雑って魔法を見ていた。と、老人の小太い杖で、首根っ子をしたたか撲られた。息の止まりそうなその痛さ! 無我夢中で逃げて来ると、百姓家が立っていた。水でも貰おうと入り込んでみると、意外にも主税とあやめとが、艶な模様を描いているではないか。 淀屋の独楽さえ置いてある。 (凄いような獲物だ)と勘兵衛は思った。 (独楽を引っ攫って荏原屋敷へ駆けつけ、頼母様へ献上してやろう) 勘兵衛はこう心を定めると、ソロリソロリと縁側の方へ、身をしずかに這い寄せて行った。 まだ痛む首根っ子を片手で抑え、別の片手を縁のふちへかけ、開いている障子の隙間から、部屋の中を窺っている勘兵衛の姿は、迫って来る宵闇の微光の中で、まこと大きな蟇のように見えた。 頼母の屋敷で奪い取った、二つ目[#「二つ目」は底本では「二つの目」]の淀屋の独楽を、玩具のように両手に持った、藤八猿を背中に背負い、猿廻しのお葉がこの百姓家の方へ、野道を伝わって歩いて来たのも、ちょうどこの頃のことであった。 離家の門口まで来た。 (この家じゃアないかしら?)と思案しながら佇んだ。 藤八猿の着ている赤いちゃんちゃんこと、お葉の冠っている白手拭とが、もう蚊柱の立ち初めている門の、宵闇の中で際立って見えた。 (案内を乞うて見ようかしら?) 思い惑いながら佇んでいる。 田安屋敷の乱闘のおり、幸いお葉も遁れることが出来た。でも姉のあやめとも、腰元のお八重とも、姉の恋人だという山岸主税とも、一緒になれずに一人ぼっちとなった。 (姉さんが恋しい、姉さんと逢いたい。主税様の行方が解ったら、姉さんの行方も解るかも知れない) ふとお葉はこう思って、今日の昼こっそり田安家のお長屋、主税の屋敷の方へ行ってみた。すると幸いにも主税の親友の、鷲見与四郎と逢うことが出来た。 「馬込のこうこういう百姓家の離家に、あやめという女と住んで居るよ」と、そう与四郎は教えてくれた。 主税にとって鷲見与四郎は、親友でもあり同志でもあった。――頼母の勢力を覆えそうとする、その運動の同志だったので、与四郎へだけは自分の住居を、主税はそっと明かしていたのであった。 聞かされたお葉は躍り上って、すぐに馬込の方へ足を向け、こうして今ここへやって来たのであった。 (この家らしい)とお葉は思った。 (考えていたって仕方がない。案内を乞おう、声をかけてみよう。……いいえそれより藤八を舞わして、座敷の中へ入れてみよう) お葉は肩から藤八猿を下ろした。 藤八猿は二つ目の淀屋の独楽を、大切そうに手に持ったまま、地面へヒラリと飛び下りた。 藤八猿はこの独楽を手に入れて以来、玩具のようにひどく気に入っていると見え、容易に手放そうとはしないのである。 「今日の最後の芸当だよ、器用に飛び込んで行って舞ってごらん」 人間にでも云い聞かせるように云って、お葉は土間へ入って行った。
蝋燭の燈の下で
「お猿廻しましょう」と声がかかり、赤いちゃんちゃんこを着た藤八猿が、奥の部屋へ毬のように飛び込んで来たので主税とあやめとははっとした。 「まあ藤八だよ!」と叫んだのは、襟を掻き合わせたあやめであり、 「独楽を持っている、淀屋の独楽を!」と、つづいて叫んだのは主税であった。 その前で藤八猿は独楽を持ったまま、綺麗に飜斗を切って見せた。 「捕らえろ! 捕らえて淀屋の独楽を!」 二人が藤八猿を追っかけると、猿は驚いて門口の方へ逃げた。それを追って門口まで走った…… と、土間の宵闇の中に、女猿廻しが静かに立っていた。 「ま、やっぱりあやめお姉様!」 「お前は妹! まアお葉かえ!」
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页
|