隠語を解く
曲独楽使いの浪速あやめが、女猿廻しになっている! これは山岸主税にとっては、全く驚異といわざるを得なかった。 しかも同一のその女が、自分へ二つの独楽をくれた。 そうしてその独楽には二つながら、秘密らしいものがからまっている。 (よし)と主税は決心した。 (女猿廻しを引っとらえ、秘密の内容を問いただしてやろう) そこで、主税は立ち上った。 するとその瞬間に龕燈が消えて、いままで明るかった反動として、四辺がすっかり闇となった。 主税の眼が闇に慣れて、木洩れの月光だけで林の中のようすが、朧気ながらも見えるようになった時には、女猿廻しの姿も、美童の姿も猿の姿も、眼前から消えてなくなっていた。
その翌日のことである、田安家の奥家老松浦頼母は、中納言家のご前へ出で、 「お館様これを」とこう言上して、一葉の紙片を差し出した。 泉水に水が落ちていて、その背後に築山があり、築山をめぐって桜の老樹が、花を渦高く咲かせており、その下を将軍家より頂戴したところの、丹頂の鶴が徘徊している――そういう中庭の風景を、脇息に倚って眺めていた田安中納言はその紙片を、無言で取上げ熟視された。 一杯に数字が書いてあった。 「これは何だ?」と、中納言家は訊かれた。 「隠語とのことにござります」 「…………」 「昨夜近習の山岸主税こと、怪しき女猿廻しを、ご用地にて発見いたし、取り抑えようといたしましたところ、女猿廻しには逃げられましたが、その者独楽を落としました由にて、とりあえず独楽を調べましたところ、この紙片が籠められておりましたとか……これがその独楽にござります」 頼母は懐中から独楽を出した。 中納言家はそれを手にとられたが、 「これは奥の秘蔵の独楽じゃ」 「奥方様ご秘蔵の独楽?」 「うん、わしには見覚えがある、これは奥の秘蔵の独楽じゃ。……それにしても怪しい猿廻しとは?」 「近頃、ひんぴんたるお館の盗難、それにどうやら関係あるらしく……」 「隠語の意味わかっておるかな?」 「主税儀解きましてござります」 「最初に『三十三』と記してあるが?」 「『こ』という意味の由にござります」 「『こ』という意味? どうしてそうなる?」 「いろは四十八文字の三十三番目が『こ』の字にあたるからと申しますことで」 「ははアなるほど」 「山岸主税申しますには、おおよそ簡単の隠語の種本は、いろは四十八文字にござりますそうで、それを上より数えたり、又、下より数えたりしまして、隠語としますそうにござります」 「すると二番目に『四十八』とあるが、これは『ん』の隠語だな」 「御意の通りにござります」 「三番目に『二十九』とあるが、……これは『や』の隠語だな」 「御意の通りにござります」 「その次にあるは『二十四』だから、言うまでもなく『う』の字の隠語、その次の『二十二』は『ら』の字の隠語、その次の『四十五』は『も』の字の隠語、『四十八』は『ん』の字の隠語、『四』は『に』の字の隠語、『三十五』は『て』の字の隠語。……これで全部終えたことになるが、この全部を寄せ集めれば……」 「こんやうらもんにて――となりまする」 「今夜裏門にて――いかにもそうなる」 「事件が昨夜のことにござりますれば、今夜とあるは昨夜のこと。で、昨夜館の裏門にて、何事かありましたと解釈すべきで……」 「なるほどな。……で、何事が?」 「山岸主税の申しまするには、お館の中に居る女の内通者が、外界の賊と気脈を通じ、昨夜裏門にて密会し……」 「館の中に居る女の内通者とは?」 「その数字の書体、女文字とのことで」 「うむ、そうらしい、わしもそう見た」 「それにただ今うかがいますれば、その独楽は奥方様の御秘蔵の品とか……さすれば奥方様の腰元あたりに、賊との内通者がありまして、そのような隠語を認めまして、その独楽の中へ密封し、ひそかに門外へ投げ出し、その外界の同類の手に渡し、昨夜両人裏門にて逢い……」 「なるほど」 「内通者がお館より掠めました品を、その同類の手に渡したか……あるいは今夜の悪事などにつき、ひそかに手筈を定めましたか……」 「うむ」と云うと中納言家には、眉の辺りに憂色を浮かべ、眼を半眼にして考え込まれた。
腰元の死
「頼母」 ややあって中納言家は口を開いた。 「これはいかにもお前の言う通り、館の中に内通者があるらしい。そうでなくてあのような品物ばかりが、次々に奪われるはずはない。……ところで頼母、盗まれた品だが、あれらの品を其方はどう思うな?」 「お大切の品物と存じまする」 「大切の由緒存じおるか?」 「…………」 「盗まれた品のことごとくは、柳営より下されたものなのじゃ」 「…………」 「我家のご先祖宗武卿が、お父上にしてその時の将軍家、すなわち八代の吉宗将軍家から、家宝にせよと賜わった利休の茶杓子をはじめとし、従来盗まれた品々といえば、その後代々の我家の主人が、代々の将軍家から賜わったものばかりじゃ」 「…………」 「それでわしはいたく心配しておるのじゃ。将軍家より賜わった品であるが故に、いつなんどき柳営からお沙汰があって、上覧の旨仰せらるるやもしれぬ。その時ないとは言われない。盗まれたなどと申したら……」 「お家の瑕瑾にござります」 「それも一品ででもあろうことか、幾品となく盗まれたなどとあっては……」 「家事不取り締りとして重いお咎め……」 「拝領の品であるが故に、他に遣わしたとは言われない」 「御意の通りにござります」 「頼母!」と沈痛の中納言家は言われた。 「この盗難の背後には、我家を呪い我家を滅ぼそうとする、[#「滅ぼそうとする、」は底本では「滅ぼそうとする。」]恐ろしい陰謀があるらしいぞ!」 「お館様!」と頼母も顔色を変え、五十を過ごした白い鬢の辺りを、神経質的に震わせた。 中納言家はこの時四十歳であったが、宗武卿以来聡明の血が伝わり、代々英主を出したが、当中納言家もその選に漏れず、聡明にして闊達であり、それが風貌にも現われていて鳳眼隆鼻高雅であった。 でも今は高雅のその顔に、苦悶の色があらわれていた。 「とにかく、内通者を至急見現わさねばならぬ」 「御意で。しかしいかがいたしまして?」 「これは奥に取り計らわせよう」 「奥方様にでござりまするか」 「うむ」と中納言家が言われた時、庭の築山の背後から女の悲鳴らしい声が聞こえ、つづいてけたたましい叫び声が聞こえ、すぐに庭番らしい小侍が、こなたへ走って来る姿が見えた。 「ご免」と頼母は一揖してから、ツカツカと縁側へ出て行ったが、 「これ源兵衛何事じゃ」と庭番の小侍へ声をかけた。 小侍は走り寄るなり、地面へ坐り手をつかえたが、 「お腰元楓殿が築山の背後にて、頓死いたしましてござります」 「ナニ」 頼母は胸を反らせ、 「楓殿が頓死 頓死とは?」 「奥方様のお吩咐とかで、三人の腰元衆お庭へ出てまいられ、桜の花お手折り遊ばされ、お引き上げなさろうとされました際、その中の楓殿不意に苦悶され、そのまま卒倒なされましたが、もうその時には呼吸がなく……」 「お館様!」と頼母は振り返った。 「履物を出せ、行ってみよう」 中納言家には立って来られた。 「それでは余りお軽々しく……」 「よい、行ってみよう、履物を出せ」 庭番の揃えた履物を穿き、中納言家には庭へ出られた。 もちろん頼母は後からつづいた。 庭番の源兵衛に案内され、築山の背後へ行った時には、苦しさに身悶えしたからであろう、髪を乱し、胸をはだけた、美しい十九の腰元楓が、横倒しに倒れて死んでいる側に、二人の腰元が当惑し恐怖し泣きぬれて立っていた。
第二の犠牲
手折った桜の枝が地に落ちていて、花が屍の辺りに散り敷いているのが、憐れさの風情を添えていた。 中納言家は傷わしそうに、楓の死骸を見下ろしていたが、 「玄達を呼んでともかくも手当てを」 こう頼母に囁くように云い、四辺を仔細に見廻したが、ふと審しそうに呟かれた。 「この頃に庭を手入れしたと見えるな」 頼母は庭番の源兵衛へ、奥医師の玄達を連れて来るように吩咐け、それから中納言家へ頭を下げ、 「数日前に庭師を入れまして、樹木の植込み手入れ刈込み、庭石の置き換えなどいたさせました」 「そうらしいの、様子が変わっている」 改めて中納言家は四辺を見廻された。 桜の老樹や若木に雑って、棕櫚だの梅だの松だの楓だの、竹だの青桐だのが、趣深く、布置整然と植込まれてい、その間に珍奇な庭石が、春の陽に面を照らしながら、暖かそうに据えられてあった。 ずっとあなたに椿の林があって、その中に亭が立っていた。 間もなく幾人かの侍臣と共に、奥医師玄達が小走って来た。大奥の腰元や老女たちも、その後から狼狽て走って来た。 玄達はすぐに死骸の側へかがみ仔細に死骸を調べ出した。 「駄目か?」と中納言家は小声で訊かれた。 「全く絶望にござります」 玄達も小声で答えた。 「死因は何か?」 「さあその儀――いまだ不明にござりまする。……腹中の食物など調べましたなら……」 「では、外傷らしいものはないのだな」 「はい、いささかも……外傷らしいものは」 「ともかくも死骸を奥へ運んで、外科医宗沢とも相談し、是非死因を確かめるよう」 「かしこまりましてござります」 やがて楓の死骸は侍臣たちによって、館の方へ運ばれた。 「不思議だのう」と呟きながら、なお中納言家は佇んでおられた。 その間には侍臣や腰元たちは、楓を殺した敵らしいものが、どこかその辺りに隠れていないかと、それを探そうとでもするかのように、木立の間や岩の陰や、椿の林などへ分け入った。 広いといっても庭であり、植込みが繁っているといっても、たかが庭の植込みであって、怪しい者など隠れていようものなら、すぐにも発見されなければならなかった。 何者も隠れていなかったらしく、人々はポツポツと戻って来た。 と、不意に人々の間から、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。 老女と一緒に来た腰元の中の一人、萩枝という二十一の小肥りの女が、両手で空を掴みながら、クルリと体を回転し、そのまま地上へ転がったのである。 狼狽して人々は飛び退いた。 その人の垣に囲まれたまま、萩枝は地上を転がり廻り、胸を掻き髪をり、 「苦しい! 麻痺る! ……助けて助けて!」と嗄れた声で叫んだが、見る見る顔から血の気が消え、やがて延びて動かなくなった。
この日の宵のことであった。山岸主税は両国広小路の、例の曲独楽の定席小屋の、裏木戸口に佇んで、太夫元の勘兵衛という四十五六の男と、当惑しながら話していた。 「ではもうあやめは居ないというのか」 「へい、この小屋にはおりません」 「つまり席を退いたのだな」 「と云うことになりましょうね」 どうにも云うことが曖昧であった。 それに何とこの辺りは、暗くそうして寂しいことか。 裏木戸に面した反対側は、小借長屋らしく思われたが、どうやら空店になっているらしく、ビッシリ雨戸がとざされていて、火影一筋洩れて来なかった。 洞窟の穴かのように、長方形に空いている木戸口にも、燈というものは点いていなかった。しかし、遥かの小屋の奥から、ぼんやり蝋燭の光が射して来ていて、眼の窪んだ、鼻の尖った、頬骨の立った悪相の持主の、勘兵衛という男を厭らしい存在として、照らし出してはいるのであった。 「昨日まではこの小屋に出ていたはずだが、いつあやめは席を退いたのだ?」 こう主税は又訊いた。 「退いたとも何とも申しちゃアいません。ただ彼女今日はいないので」 「一体あやめはどこに住んでいるのだ?」 「さあそいつは……そいつはどうも……それより一体貴郎様は、どうして何のために彼女を訪ねて、わざわざおいでなすったんで?」 かえって怪訝そうに勘兵衛は訊いた。
第三の犠牲
主税があやめを訪ねて来たのは、何と思って自分へ独楽をくれたのか? どうして猿廻しなどに身をやつしていたのか? その事情を訊こうと思ったからであった。 昼の中に来るのが至当なのであったが、昼の中彼は屋敷へ籠って――お館へは病気を云い立てて休み――例の独楽を廻しに廻し、現われて来る文字を寄せ集め、秘密を知るべく努力した。 しかし、結果は徒労だった。 というのは、その後に現われて来た文字は「に有りて」という四つの文字と「飛加藤の亜流」という訳のわからない、六つの文字に過ぎなかったからで…… そこで彼は夕方駕籠を飛ばせて、ここへ訪ねて来たのであった。そうしてあやめに逢いたいと言った。 すると勘兵衛という男が出て来て、極めて曖昧な言葉と態度で、あやめは居ないというのである。 「少し尋ねたい仔細があってな」 主税はこっちでも曖昧味を現わし、 「それで訪ねて参ったのだが、居ないとあっては止むを得ぬの。どれ、それでは帰るとしようか」 「ま、旦那様ちょっとお待ちなすって」 勘兵衛の方が周章て止めた。 「実は彼女がいなくなったのであっしはすっかり参っていますので。何せ金箱でございますからな。へい大事な太夫なので。……それであっしも小屋の者も、大騒ぎをして探していますので」 「しかし宿所には居るのだろう?」 「それが貴郎様、居ないんで」 「宿所にもいない、ふうんそうか。一体宿所はどこなのだ?」 「へい、宿所は……さあ宿所は……神田辺りなのでございますが……それはどうでもよいとして、宿所にもいず小屋へも来ない。昨夜ポカンと消えてしまったんで」 「ふうん、昨夜消えてしまった。……猿廻しに身をやつして消えてしまったのではあるまいかな」 「え、何だって? 猿廻しにだって?」 勘兵衛はあっけにとられたように、 「旦那、そりゃア一体何のことで?」 (しまった)と主税は後悔した。 (云わでものことを口走ってしまった) 主税は口を噤んで横をむいた。 「こいつア変だ! 変ですねえ旦那! ……旦那何か知ってますね!」と勘兵衛はにわかにかさにかかり、 「あやめの阿魔が消えてしまった途端に、これまで縁のなかったお侍さんが、ヒョッコリ訪ねておいでなすって、根掘り葉掘りあやめのことをお訊きになる。その後で猿廻しに身をやつしてなんて、変なことを仰せになる! ……旦那、お前さんあの阿魔を、あやめの阿魔をおびき出し……」 「黙れ!」と主税は一喝した。 「黙っておればこやつ無礼! 拙者を誘拐しか何かのように……」 「おお誘拐しだとも、誘拐しでなくて何だ! あやめの阿魔を誘拐して、彼女の持っている秘密を奪い、一儲けしようとするのだろう! ……が、そうならお気の毒だ! 彼女はそんな秘密などより、荏原屋敷の奴原を……」 「荏原屋敷だと おおその荏原屋敷とは……」 「そうれ、そうれ、そうれどうだ! 荏原屋敷まで知っている汝、どうでも平記帳面の侍じゃアねえ! 食わせ者だア――食わせものだア――ッ……わーッ」 と、これはどうしたことだろう。にわかに勘兵衛は悲鳴を上げ、両手で咽喉の辺りを掻きったかと思うと、前のめりにバッタリと地へ倒れた。 「どうした勘兵衛!」と主税は驚き、介抱しようとして屈み込んだ。 その主税の眼の前の地上を、小蛇らしいものが一蜒りしたが、空店の雨戸の隙の方へ消えた。 息絶えたらしい勘兵衛の体は、もう延びたまま動かなかった。 「どうしたどうした!」 「勘兵衛の声だったぞ」と小屋の中から人声がし、幾人かの人間がドヤドヤと、木戸口の方へ来るらしかった。 (巻添えを食ってはたまらない) こう思った主税が身を飜えして、この露路から走り出したのは、それから間もなくのことであった。
白刃に囲まれて
この時代のお茶の水といえば、樹木と藪地と渓谷と川とで、形成られた別天地で、都会の中の森林地帯であった。 昼間こそ人々は往き来したが、夜になるとほとんどだれも通らず、ただひたすら先を急いで迂回することをいとう人ばかりが、恐々ながらもこの境地を、走るようにしてとおるばかりであった。 そのお茶の水の森林地帯へ、山岸主税が通りかかったのは、亥の刻を過ごした頃であった。 あやめが行方不明となった、勘兵衛という太夫元が、何者かに頓死させられた、この二つの意外な事件によって、さすがの彼も心を痛め、この時まであてなく江戸の市中を、さまよい歩いていたのであった。 (荏原屋敷とは何だろう?) このことが彼の気になっていた。 独楽の隠語の中にもこの字があった。勘兵衛という男もこの言葉を云った。そうしてあやめという曲独楽使いも、この屋敷に関係があるらしい。 (荏原郡の馬込の郷に、そういう屋敷があるということは、以前チラリと耳にはしたが) しかし、それとて非常に古い屋敷――大昔から一貫した正しい血統を伝えたところの、珍らしい旧家だということばかりを、人づてに聞いたばかりであった。 (がしかしこうなってみれば、その屋敷の何物かを調べてみよう) 主税はそんなように考えた。 独楽のことも勿論気にかかっていた。 ――どれほどあの独楽を廻してみたところで、これまでに現われた隠語以外に、新しい隠語が現われそうにもない。そうしてこれまでの隠語だけでは、何の秘密をも知ることは出来ない。どうやらこれは隠語を隠した独楽は、あれ以外にも幾個かあるらしく、それらの独楽を悉皆集めて全部の隠語を知った時、はじめて秘密が解けるものらしい。 (とすると大変な仕事だわい) そう思わざるを得なかった。 しかし何より主税の心を、憂鬱に抑えているものは、頻々とあるお館の盗難と、猿廻しに変装したあやめとが、密接の関係にあることで、今日あやめを小屋へ訪ねたのも、その真相を探ろうためなのであった。 (猿廻しから得た独楽と隠語と、お館の中に内通者ありという、自分の意見とを松浦殿へ、今朝方早く差し上げたが、その結果女の内通者が、お館の中で見付かったかしら?) 考えながら主税は歩いて行った。 腐ちた大木が倒れていたり、水溜りに月光が映っていたり、藪の陰から狐らしい獣が、突然走り出て道を遮ったりした。 不意に女の声が聞こえた。 「あぶない! 気をおつけ! 背後から!」 瞬間に主税は地へ仆れた。 「あッ」 その主税の体へ躓[#ルビの「つまず」は底本では「つまづ」]き、背後から切り込んで来た一人の武士が、こう叫んで主税のからだ越しにドッとばかりに向こうへ仆れた。 疾風迅雷も物かわと、二人目の武士が左横から、なお仆れている主税を目掛け、拝み討ちに切り付けた。 「わ、わ、わ、わ――ッ」とその武士は喚いた。脇腹から血を吹き出しているのが、木洩れの月光に黒く見えた。 その武士が足を空ざまにして、丸太ん棒のように仆れた時には、とうに飛び起き、飛び起きざまに引き抜き、引き抜いた瞬間には敵を斬っていた、小野派一刀流では無双の使い手の、山岸主税は返り血を浴びずに、そこに聳えていた大楠木の幹を、背負うようにして立っていた。 が、それにしても何と大勢の武士に、主税は取巻かれていることか! 数間を距てて十数人の人影が、抜身をギラギラ光らせながら、静まり返っているではないか。 (何物だろう?)と主税は思った。 しかし、問さえ発っせられなかった。 前から二人、左右から一人ずつ、四人の武士が殺到して来た。 (死中活!) 主税は躍り出で、前の一人の真向を割り、返す刀で右から来た一人の、肩を胸まで斬り下げた。 とは云え、その次の瞬間には、主税は二本の白刃の下に、身をさらさざるを得なかった。 しかし、辛うじてひとりの武士の、真向へ来た刀を巻き落とした。 でも、もう一人の武士の刀を、左肩に受けなければならなかった。 (やられた!) しかし何たる奇跡か! その武士は刀をポタリと落とし、その手が首の辺りを掻きむしり、前のめりにドッと地上へ倒れた。 勘兵衛の死に態と同じであった。 その時であった側の大藪の陰から、女の声が聞こえてきた。 「助太刀してあげてよ、ね、助太刀して!」 「参るぞーッ」という怒りの大音が、その時女の声を蔽うたが、一人の武士が大鷲さながらに、主税を目掛けて襲いかかった。 悄然たる太刀音がし、二本の刀が鍔迫り合いとなり、交叉された二本の白刃が、粘りをもって右に左に前に後ろに捻じ合った。 主税は刀の間から、相手の顔を凝視した。 両国橋で逢った浪人武士であった。
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