解けた独楽の秘密
「やあ汝は!」と主税は叫んだ。 「両国橋で逢った浪人者!」 「そうよ」と浪人も即座に答えた。 「貴殿が手に入れた淀屋の独楽を、譲り受けようと掛け合った者よ。……隠すにもあたらぬ宣ってやろう、浪速の浪人飛田林覚兵衛! ……さてその時拙者は申した、貴殿の命を殺めても、淀屋の独楽を拙者が取ると! ……その期が今こそめぐって来たのじゃ!」 「淀屋の独楽とは? 淀屋の独楽とは?」 「どうせ汝は死んで行く奴、秘密を教えても大事あるまい、そこで秘密を教えてやる。……浪速の豪商淀屋辰五郎、百万にも余る巨富を積み、栄耀栄華を極めたが、元禄年間官のお咎めを受け、家財一切を没収されたこと、汝といえども伝え聞いていよう。……しかるに辰五郎、事の起こる前、ひそかに家財の大半を分け、絶対秘密の場所へ隠し、その隠し場所を三個の独楽へ……とここまで申したら、万事推量出来るであろう。……汝が手に入れたあの独楽こそ、淀屋の独楽の一つなのじゃ。……今後汝によって三つの独楽を、それからそれと手に入れられ、独楽に記されてある隠語を解かれ、淀屋の巨財の隠し場所を知られ、巨財を汝に探し出されては、長年その独楽の行方を尋ね、淀屋の巨財を手に入れようと、苦心いたしおる我らにとっては、一大事とも一大事! そこで汝をこの場において殺し、汝の屋敷に潜入し、独楽をこっちへ奪い取るのだ!」 二本の刀を交叉させ、鍔と鍔とを迫り合わせ、顔と顔とをひたと付けながら、覚兵衛はそう云うとグーッと押した。 それをやんわりと受けながら、主税は二歩ばかり後へ下った。 すると今度は山岸主税が、押手に出でてジリジリ[#「ジリジリ」は底本では「ヂリヂリ」]と進んだ。 二人の眼と眼とは暗い中で、さながら燠のように燃えている。 鍔迫り合いの危険さは、体の放れる一刹那にあった。遅れれば斬られ、逸まれば突かれる。さりとて焦躁れば息切れを起こして、結局斃されてしまうのであった。 いぜんとして二人は迫り合っている。 そういう二人を中へ囲んで、飛田林覚兵衛の一味の者は、抜身を構え位い取りをし、隙があったら躍り込み、主税を討って取ろうものと、気息を呑んで機を待っていた。 と、あらかじめの計画だったらしい、 「やれ」と大音に叫ぶと共に、覚兵衛は烈しい体あたりをくれ、くれると同時に引く水のように、サーッと自身後へ引き、すぐに飜然と横へ飛んだ。 主税は体あたりをあてられて、思わずタジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と後へ下ったが、踏み止まろうとした一瞬間に、相手に後へ引かれたため、体が延び足が進み、あたかも覚兵衛を追うかのように、覚兵衛の一味の屯している中へ、一文字に突き入った。 「しめた!」 「斬れ!」 「火に入る夏の虫!」 「わッはッはッ、斬れ、斬れ、斬れ!」 嘲笑、罵声、憎悪の声の中に、縦横に上下に走る稲妻! それかのように十数本の白刃が、主税の周囲で閃いた。 二声ばかり悲鳴が起こった。 バラバラと囲みが解けて散った。 乱れた髪、乱れた衣裳、敵の返り血を浴びて紅斑々! そういう姿の山岸主税は、血刀高々と頭上に捧げ、樫の木かのように立っている。 が、彼の足許には、死骸が二つころがっていた。 一人を取り囲んで十数人が、斬ろう突こうとしたところで、味方同士が邪魔となって、斬ることも突くことも出来ないものである。 そこを狙って敵二人まで、主税は討って取ったらしい。 地団太踏んで口惜しがったのは、飛田林覚兵衛であった。 「云い甲斐ない方々!」と杉の老木が、桶ほどの太さに立っている、その根元に突立ちながら、 「相手は一人、鬼神であろうと、討って取るに何の手間暇! ……もう一度引っつつんで斬り立てなされ! ……見られい彼奴め心身疲れ、人心地とてない有様! 今が機会じゃ、ソレ斬り立てられい!」 覚兵衛の言葉は事実であった。 先刻よりの乱闘に肉体も精神も疲労果てたらしい山岸主税は、立ってはいたが右へ左へ、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロとよろめいて、今にも仆れそうに見受けられた。
愛する人を
「そうだ!」「やれ!」と覚兵衛の一味が、さながら逆浪の寄せるように、主税を目掛けて寄せた時、遥かあなたの木間から、薄赤い一点の火の光が、鬼火のように不意に現われて、こなたへユラユラと寄って来た。 「南無三宝! 方々待たれい! 火の光が見える、何者か来る! 目つけられては一大事! 残念ながら一まず引こう! 味方の死人負傷者を片付け、退散々々方々退散」と杉の根元にいる覚兵衛が、狼狽した声でそう叫んだ。 いかにも訓練が行き届いていた。その声に応じて十数人の、飛田林覚兵衛の一味達は、仆れている死人や負傷者を抱え、林を分け藪を巡り、いずこへともなく走り去った。 で、その後には気味の悪いような、静寂ばかりがこの境地に残った。 常磐木――杉や松や柏や、榎、桧などの間に立ち雑って、仄白い花を咲かせていた桜の花がひとしきり、花弁を瀧のように零したのは、逃げて行く際に覚兵衛の一味が、それらの木々にぶつかったからであろう。 と、俄然主税の体が、刀をしっかりと握ったまま腐木のように地に仆れた。斬られて死んで斃れたのではなかった。 心身まったく疲労果て、気絶をして仆れたのである。 そういう主税の仆れている体へ、降りかかっているのは落花であり、そういう主税の方へ寄って来るのは薄赤い燈の光であった。 そうして薄赤いその燈の光は、昨夜御用地の林の中で、老人と少年と女猿廻しとが、かかげていたところの龕燈の火と、全く同じ光であった。その龕燈の燈が近づいて来る。ではあの老人と少年と、女猿廻しとがその燈と共に、近付いて来るものと解さなければならない。 でもにわかにその龕燈の燈は、大藪の辺りから横に逸れ、やがて大藪の陰へかくれ、ふたたび姿を現わさなかった。 そこで又この境地はひっそりとなり、鋭い切先の一所を、ギラギラ月光に光らせた抜身を、いまだにしっかり握っている主税が、干鱈のように仆れているばかりであった。 時がだんだんに経って行った。 やがて、主税は気絶から覚めた。 誰か自分を呼んでいるようである。 そうして、自分の後脳の下に、暖かい柔らかい枕があった。 主税はぼんやり眼を開けて見た。 自分の顔のすぐの真上に、自分の顔へ蔽いかぶさるように、星のような眼と、高い鼻と、薄くはあるが大型の口と、そういう道具の女の顔が、周囲を黒の楕円形で仕切って、浮いているのが見て取られた。 お高祖頭巾で顔を包んだ、浪速あやめの顔であった。 (あやめがどうしてこんな所に?) 気力は恢復してはいなかったが、意識は返っていた主税はこう思って、口に出してそれを云おうとした。 でも言葉は出せなかった。それ程に衰弱しているのであった。眼を開けていることも出来なくなった。そこで彼は眼を閉じた。 そう、主税に膝枕をさせ、介抱している女はあやめであった。鼠小紋の小袖に小柳繻子の帯、紫の半襟というその風俗は、女太夫というよりも、町家の若女房という風であり、お高祖頭巾で顔を包んでいるので、謎を持った秘密の女めいても見えた。 「山岸様、山岸主税様! お気が付かれたそうな、まア嬉しい! 山岸様々々々!」とあやめはいかにも嬉しそうに、自分の顔を主税の顔へ近づけ、情熱的の声で云った。 「それに致しましても何て妾は、申し訳のないこといたしましたことか! どうぞお許しなすって下さいまし。……ほんの妾の悪戯[#ルビの「いたずら」は底本では「いたづら」]心から、差しあげた独楽が原因となって、こんな恐ろしいことになるなんて。……それはあの独楽には何か秘密が、――深い秘密のあるということは、妾にも感づいてはおりましたが、でもそのためにあなた様へ、あの独楽を上げたのではごさいません。……ほんの妾の出来心から。……それもあなた様がお可愛らしかったから。……まあ厭な、なんて妾は……」 これがもし昼間であろうものなら、彼女の頬に赤味が注し、恥らいでその眼が潤んだことを、見てとることが出来たであろう。
勘兵衛や武士を殺した者は?
あやめがあの独楽を手に入れたのは、浪速高津[#ルビの「なにわこうづ」は底本では「なにわこうず」]の古物商からであった。それも孕独楽一揃いとして、普通に買入れたのに過ぎなかった。その親独楽も十個の子独楽も、名工四国太夫の製作にかかわる、名品であるということは、彼女にもよく解っていた。そうして子独楽の中の一個だけが、廻すとその面へ文字を現わすことをも彼女はよく解っていた。 すると、或日一人の武士が、飛田林覚兵衛と宣りながら、彼女の許へ訪ねて来て、孕独楽を譲ってくれるようにと云った。しかしあやめは商売道具だから、独楽は譲れないと断った。すると覚兵衛は子独楽の一つ、文字を現わす子独楽を譲ってくれるようにと云い、莫大な金高を切り出した。それであやめはその子独楽が、尋常の品でないことを知った。それにその子独楽一つだけを譲れば、孕独楽は後家独楽になってしまう。そこであやめは断った。 しかし、覚兵衛は断念しないで、その後もあやめを付け廻し、或いは嚇し或いは透かし[#「透かし」はママ]て、その子独楽を手中に入れようとした。それがあやめの疳に障り、感情的にその子独楽を、覚兵衛には譲るまいと決心した。と同時にその子独楽が、あやめには荷厄介の物に思われて来た。その中あやめは縁があって、江戸の両国へ出ることになった。 そこで浪速から江戸へ来た。するとどうだろう飛田林覚兵衛も、江戸へ追っかけて来たではないか。 こうして昨日の昼席となった。 舞台で孕独楽を使っていると、間近の桟敷で美貌の若武士が――すなわち山岸主税なのであるが、熱心に芸当を見物していた。ところが同じその桟敷に、飛田林覚兵衛もいて、いかにも子独楽が欲しそうに、眼を据えて見物していた。 (可愛らしいお方)と主税に対しては思い、(小面憎い奴)と覚兵衛に対しては感じ、この二つの心持から、あやめは悪戯[#ルビの「いたずら」は底本では「いたづら」]をしてしまったのである。即ち舞台から例の小独楽を、見事に覚兵衛の眼を掠め、主税の袖の中へ投げ込んだのである。 (孕独楽が後家独楽になろうとままよ、妾にはあんな子独楽用はない。……これで本当にサバサバしてしまった) あやめはそう思ったことであった。 そうして彼女は今日の昼席から、定席へも出演ないことに決心し、宿所をさえ出て行方を眩ましてしまった。それは彼女にとっては一生の大事業を、決行することに心を定め、その準備に取りかかったからであった。 でも彼女は夕方になった時、職場が恋しくなって来た。そこでこっそり出かけて行った。ところが裏木戸の辺りまで行って見ると、太夫元の勘兵衛と山岸主税とが、自分のことについて話しているではないか。そこで、彼女は側の空店の中へ、素早く入って身を忍ばせ、二人の話を立聞きした。その中に勘兵衛が無礼の仕打ちを、主税に対してとろうとした。 (どうで勘兵衛は遅かれ早かれ、妾が手にかけて殺さなければ、虫の納まらない奴なのだから、いっそ此処で殺してしまおう) あやめは心をそう定めた。 で、手練の独楽の紐を――麻と絹糸と女の髪の毛とで、蛇のように強い弾力性を持たせて、独特に作った独楽の紐を、雨戸の隙から繰り出して、勘兵衛の首へ巻き付けて、締めて他愛なく殺してしまった。 (これで妾の一生の大事業の、一つだけを片付けたというものさ) もっと苦しめて殺してやれなかったことに、心外さこそは覚えたが、殺したことには満足を感じ、彼女は紐を手繰り寄せ、懐中へ納めて様子をうかがった。 すると小屋から人が出て来るらしく、主税が急いで立ち去った。 そこであやめも空店から走り出し、主税の後を追っかけた。 主税が自分を両国広小路の、独楽の定席へ訪ねて来たのは、自分が主税の袖へ投げ込んだ独楽の、秘密を聞きたかったに相違ないと、そうあやめは思ったので、主税に逢ってそれを話そうと、さてこそ主税を追っかけたのであったが、愛を感じている相手だっただけに、突然近付いて話しかけることが、彼女のような女にも面伏せであり、そこでただ彼女は主税の行く方へ、後から従いて行くばかりであった。そのあげく、お茶の水のここへ来た。その結果がこの有様となった。 「山岸様!」とあやめは呼んで、膝の上に乗っている主税の顔へ、また自分の顔を近付けて行った。 「大藪の中から紐を繰り出し、お侍さんの一人を絞め殺しましたのは、このあやめでございます。……わたしの差し上げた独楽のことから、このような大難にお逢いなされ、あなた様にはさぞこのあやめが、憎い女に思われるでございましょうが、あなた様のお為に人間一人を、締め殺しましたことにお免じ下され、どうぞお許しなすって下さいまし」
教団の祖師
でも主税は返辞をしなかった。 ますます衰弱が激しくなり、又神気が朦朧となり、返辞をすることが出来ないからであった。 (このお方死ぬのではあるまいか?) こう思うと彼女は悲しかった。 (実家を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが、真底から可愛しいと思われたのは、偶然にお逢いしたこの方ばかり。……それだのにこのお方死なれるのかしら?) 月の位置が移ったからであろう。梢から射していた月光が、円い巨大な柱のように、あやめと主税との二人の体の上へ、蛍草の色に降りて来ていた。その明るい光の輪の中では、産れて間もないらしい細い羽虫が、塵のように飛び交っていた。そうして明るい光の輪の底には、白芙蓉のように蒼白い、彫刻のように端正の、主税の顔が弱々しく、眼を閉じ口を閉じて沈んでいた。 (こうしてはいられない) にわかにあやめは気がついて思った。 (町へ行って駕籠を雇って、主税様をお屋敷へお送りしなければ) そこで、あやめは立ち上った。
この時から半刻ばかり経った時、龕燈の光で往来を照らしながら、老人と少年と女猿廻しとが、秋山様通りの辺りを通っていた。昨夜御用地の林の中にいた、その一組に相違なかった。 お屋敷町のこの辺りは、この時刻には人通りがなく、犬さえ歩いてはいなかった。武家屋敷の武者窓もとざされていて、戸外を覗いている人の顔など、一つとして見えてはいなかった。で、左右を海鼠壁によって、高く仕切られているこの往来には、真珠色の春の夜の靄と、それを淹して射している月光とが、しめやかに充ちているばかりであった。 伊賀袴を穿いた美少年が、手に持っている龕燈で、時々海鼠壁を照らしたりした。と、その都度壁の面へ、薄赤い光の輪が出来た。 龕燈を持った美少年を先に立て、その後から老人と女猿廻しとが、肩を並べて歩いて行くのであった。 「ねえお爺様……」と女猿廻しは云って、編笠は取って腰へ付け、星のような眼の、高い鼻の、薄くはあるが大型の口の、そういう顔を少し上向け、老人を仰ぎながら審かしそうに続けた。 「なぜたかが一本ばかりの木を、三十年も護って育てましたの?」 「それはわしにも解らないのだよ」 袖無を着、伊賀袴を穿き、自然木の杖を突いた老人は、卯の花のように白い長い髪を、肩の辺りでユサユサ揺りながら、威厳はあるが優しい声で云った。 「なぜたかが一本ばかりのそんな木を、三十年もの間育てたかと、そういう疑いを抱くことよりそんなたかが一本ばかりの木を、迷わず怠らず粗末にせず、三十年もの間護り育てた、そのお方の根気と誠心と、敬虔な心持に感心して、そのお方のお話を承わろうと、そう思った方がいいようだよ」 「ええそれはそうかもしれませんけれど。……で、その木は何の木ですの?」 「榊の木だということだが、松であろうと杉であろうと、柳であろうと柏の木であろうと、そんなことはどうでもよいのだよ」 「それでたくさんのいろいろの人が、そのお方の所に伺って、お教えを乞うたと有仰るのね?」 「そうなのだよ、そうなのだよ。そんなに根気のよい、そんなに誠心の敬虔のお心を持ったお方なら、私達の持っている心の病気や、体の病気を癒して下されて、幸福な身の上にして下さるかもしれないと、悩みを持ったたくさんの人達が、そのお方の所へ伺って、自分たちの悩みを訴えたのだよ」 「するとそのお方がその人達の悩みを、みんな除去って下すったのね」 「解り易い言葉でお説きなされて、心の病気と体の病気を、みんな除去って下されたのだよ」 「それでだんだん信者が増えて、大きな教団になったと有仰るのね」 「そうなのだよ。そうなのだよ」 「そのお方どんなお方ですの?」 「わしのような老人なのだよ」 「そのお方の名、何て有仰るの?」 「信者は祖師様と呼んでいるよ。……でも反対派の人達は『飛加藤の亜流』だと云っているよ」 「飛加藤? 飛加藤とは?」 「戦国時代に現われた、心の邪な忍術使いでな、衆人の前で牛を呑んで見せたり、観世縒で人間や牛馬を作って、それを生かして耕作させたり、一丈の晒布に身を変じて、大名屋敷へ忍び込んだり、上杉謙信の寝所へ忍び、大切な宝刀を盗んだりした、始末の悪い人間なのだよ」
植木師の一隊
「どうしてお偉いお祖師様のことを、飛加藤の亜流などというのでしょう?」 「祖師様のなさるいろいろの業が、忍術使いのまやかしの業のように、人達の眼に見えるからだよ」 「お爺さん、あなたもそのお祖師様の、信者のお一人なのでごさいますのね」 「ああそうだよ、信者の一人なのだよ」 「お爺さんのお名前、何て有仰るの?」 「世間の人はわしの事を、飛加藤の亜流だと云っているよ」 「ではもしやお爺さんが、そのお偉いお祖師様では?」 しかし老人は返辞をしないで、優しい意味の深い微笑をした。 三人は先へ進んで行った。 背中の猿は眠ったと見えて、重さが少し加わって来た。それを女猿廻しは揺り上げながら、 (実家を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが真底から偉いと思ったお方は、このご老人の他にはない。このお方がきっとお祖師様なのだよ) (でも妾は一生の大事業の、その小口に取りかかったのに、こんなお爺さんと連立って、こんなお話をして歩くなんて、よいことだろうか悪いことだろうか?) こうも彼女には思われるのであった。 三人は先へ進んで行った。 やがて、四辻の交叉点へ出た。 それを左の方へ曲がりかけた時、右手の方から一隊の人数が、粛々とこっちへ歩いて来た。 根元の辺りを菰で包んだ、松だの柏だの桜だの梅だの、柳だの桧だのの無数の植木を、十台の大八車へ舁き乗せて、それを曳いたりそれを押したり、また左右に付添ったりして、四十人ほどの植木師らしい男が、こっちへ歩いて来るのであった。深夜だから音を立てまいとしてか、車の輪は布で巻かれていた。植木師の風俗も変わっていた。岡山頭巾で顔をつつみ、半纏の代わりに黒の短羽織を着、股引の代わりに裁着を穿き、そうして腰に一本ずつ[#「一本ずつ」は底本では「一本づつ」]、短い刀を差していた。 車の上の植木はいずれも高価な、立派な品らしく見受けられたが、往来の左右の海鼠壁よりも高く、月夜の空の方へ葉や枝を延ばし、車の揺れるに従って、それをユサユサと揺する様子は、林が歩いてでも来るようであった。 その一隊が三人の前まで来た時、手を左右に振りながら、警戒するように『叱!』と云った。近寄るなとでも云っているようであった。 「叱!」「叱!」と口々に云った。 一隊は二人の前を通り過ぎようとした。 すると、この辺りの屋敷へ呼ばれ、療治を済ませて帰るらしい、一人の按摩が向う側の辻から、杖を突きながら現われたが、その一隊の中へうっかりと入った。 「叱!」「叱!」という例の声が、植木師の声などとは思われないような、威嚇的の調子をもって、一際高く響きわたり、ふいに行列が立ち止まった。 数人の植木師が走って来て、一所へ集まって囁き合い、ひとしきりそこに混乱が起こった。 がすぐに混乱は治まって、一隊は粛々と動き出し、林は先へ進んで行った。しかし見れば往来の一所に、黒い大きな斑点が出来ていた。 按摩の死骸が転がっているのである。 「お爺さん!」と恐ろしさに女猿廻しは叫んで、老人の腕に縋りついた。それを老人は抱えるようにしたが、 「障わったからじゃ。……殺されたのじゃ」 「何に、お爺さん、何に障わったから?」 「木へ! そう、一本の木へ!」 それから老人は歩き出した。三人はしばらく沈黙して歩いた。道がまた辻になっていた。 それを右へ曲がった時、屋敷勤めの仲間らしい男が、仰向けに道に仆れているのが見えた。 その男も死んでいた。 「お爺さん、またここにも!」 「障わったからじゃ。殺されたのじゃ」 「お爺さん、お爺さん、あなたのお力で……」 「あの木で殺された人間ばかりは、わしの力でもどうにもならない」 悪魔の一隊は今も近くの、裏通りあたりを通っていると見え、そうして又も人を殺したと見え、 「叱!」「叱!」という混乱した声が、三人の耳へ聞こえてきた。
美しき囚人
同じこの夜のことであった。 田安家の大奥の一室に、座敷牢が出来ていて、腰元風の若い女と、奥家老の松浦頼母とが、向かい合って坐っていた。 「八重、其方は強情だのう」 眼袋の出来ている尻下りの眼へ、野獣的の光を湛え、酷薄らしい薄い唇を、なめずるように舌で濡らしながら、頼母はネットリとお八重へ云った。 「将軍家より頂戴した器類を、館より次々に盗み出したことは、潔よく其方も白状したではないか。では何者に頼まれて、そのようなだいそれた悪事をしたか、これもついでに云ってしまうがよい。……其方がどのようにシラを切ったところで、其方一人の考えから、そのような悪事を企てたものとは、誰一人として思うものはないのだからのう」 云うことは田安家の奥家老として、もっとも千万のことであり、問い方も厳しくはあったけれど、しかし頼母の声や態度の中には、不純な夾雑物が入っていて、ひどく厭らしさを感じさせるのであった。 「ご家老様」とお八重は云って、白百合のように垂れていた頸を、物憂そうに重々しく上げた。 「ご家老様へお尋ねいたしまするが、貴郎様がもしもお館様より、これこれのことを致して参れと、ご命令をお受け遊ばされて、ご使命を執り行ない居られます途中で、相手の方に見現わされました際、貴郎様にはお館様のお名を、口にお出しなさるでございましょうか?」 「なにを馬鹿な、そのようなこと、わしは云わぬの、決して云わぬ」 「八重も申しはいたしませぬ」 「…………」 頼母は無言で眉をひそめたが、やがてその眉をのんびりさせると、大胆な美しいお八重の姿を、寧ろ感心したように眺めやった。 まことお八重は美しかった。年は二十二三でもあろうか、細々とした長目の頸は、象牙のように白く滑かであり、重く崩れて落ちそうな程にも、たくさんの髪の島田髷は、鬘かのように艶やかであった。張の強い涼しい眼、三ヶ月形の優しい眉、高くはあるがふっくりとした鼻、それが純粋の処女の気を帯びて、瓜実形の輪郭の顔に、綺麗に調和よく蒔かれている。 小造りの体に纏っている衣裳は、紫の矢飛白の振袖で、帯は立矢の字に結ばれていた。 そういう彼女が牢格子の中の、薄縁を敷いた上に膝を揃えて、端然として坐っている姿は「美しい悲惨」そのものであった。牢の中は薄明るかった。というのは格子の外側に、頼母が提げて来たらしい、網行燈が置いてあって、それから射している幽かな光が、格子の間々から射し入って、明暗を作っているからであった。 「見上げたの、見上げたものじゃ」 ややあってから松浦頼母は、感心したような声で云った。 「武家に仕える女の身として、そういう覚悟は感心なものじゃ。……使命を仕損じた暁には、たとえ殺されても主人の名は云わぬ! なるほどな、感心なものじゃ」 しかし、何となくその云い方には、おだてるような所があった。そうしてやはり不純なものが、声の中に含まれていた。 「天晴れ女丈夫と云ってもよい。……処刑するには惜しい烈婦じゃ。……とはいえ、お館の掟としてはのう」 網行燈の光に照らされ、猪首からかけて右反面が、薄瑪瑙色にパッと明るく、左反面は暗かったが、明るい方の眼をギラリと光らせ、頼母はにわかに怯かすように云った。 「いよいよ白状いたさぬとあれば、明日其方を打ち首にせよとの、お館様よりのお沙汰なのだぞよ!」
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