闇に降る刃
その浪人の背後姿を、主税はしばらく見送ったが、 (変な男だ)と口の中で呟き、やがて自分も人波を分け、浅草の方へ歩き出した。 歩きながら袖の中の独楽を、主税はしっかりと握りしめ、 ――あの浪人をはじめとして、同志だという多数の人々が、永年この独楽を探していたという。ではこの独楽には尋常ならない、価値と秘密があるのだろう。よし、では、急いで家へ帰って、根気よく独楽を廻すことによって、独楽の面へ現われる文字を集め、その秘密を解き価値を発見けてやろう。――興味をもってこう思った。 (駕籠にでも乗って行こうかしら?) (いや)と彼は思い返した。 (暗い所へでも差しかかった時、あの浪人か浪人の同志にでも、突然抜身を刺し込まれたら、駕籠では防ぎようがないからな。……先刻の浪人の剣幕では、それくらいのことはやりかねない) 用心しいしい歩くことに決めた。 平川町を通り堀田町を通った。 右手に定火消の長屋があり、左手に岡部だの小泉だの、三上だのという旗本屋敷のある、御用地近くまで歩いて来た時には、夜も多少更けていた。 御用地を抜ければ田安御門で、それを通れば自分の屋敷へ行けた。それで、主税は安堵の思いをしながら、御用地の方へ足を向けた。 しかし、小泉の土塀を巡って、左の方へ曲がろうとした時、 「居たぞ!」「捕らえろ!」「斬ってしまえ!」と言う、荒々しい男の声が聞こえ、瞬間数人の武士が殺到して来た。 (出たな!)と主税は刹那に感じ、真先に切り込んで来た武士を反し、横から切り込んで来た武士の鳩尾へ、拳で一つあてみをくれ、この勢いに驚いて、三人の武士が後へ退いた隙に、はじめて刀を引っこ抜き、正眼に構えて身を固めた。 すると、その時一人の武士が、主税を透かして見るようにしたが、 「や、貴殿は山岸氏ではないか」と驚いたように声をかけた。 主税も驚いて透かして見たが、 「何だ貴公、鷲見ではないか」 「さようさよう鷲見与四郎じゃ」 それは同じ田安家の家臣で、主税とは友人の関係にある、近習役の鷲見与四郎であった。 見ればその他の武士たちも、ことごとく同家中の同僚であった。 主税は唖然として眉をひそめたが、 「呆れた話じゃ、どうしたというのだ」 「申し訳ない、人違いなのじゃ」 言い言い与四郎は小鬢を掻いた。 「承知の通りのお館の盗難、そこで拙者ら相談いたし、盗人をひっ捕らえようといたしてな、今夜もお館を中心にして、四方を見廻っていたところ、猿廻しめに邂逅いたした」 「猿廻し? 猿廻しとは?」 「長屋の女小供の噂によれば、この頃若い猿廻しめが、しげしげお長屋へやって来て、猿を廻して銭を乞うそうじゃ」 「そこで、怪しいと認めたのじゃな」 「いかにも、怪しいと認めたのじゃ。……その怪しい猿廻しめに、ついそこで逢ったので、ひっ捕らえようとしたところ、逃げ出しおって行方不明よ」 「なに逃げ出した? それなら怪しい」 「……そこへ貴殿が土塀を巡って、突然姿をあらわしたので……」 「猿まわしと見誤ったというのか?」 「その通りじゃ、いやはやどうも」 「拙者猿は持っていない」 「御意で、いやはや、アッハッハッ」 「そそっかしいにも程があるな」 「程があるとも、一言もない、怪我なかったが幸いじゃ」 「すんでに貴公を斬るところだった。これから貴公たちどうするつもりじゃ」 「剛腹[#「剛腹」はママ]じゃ。このままではのう。……そこでこの辺りをもう一度探して……」 「人違いをして叩っ切られるか」 「まさか、そうそうは、アッハッハッ。……貴殿も一緒に探さぬかな」 「厭なことじゃ。ご免蒙ろう。……今日拙者は非番なのでな、そこで両国へ行ったところ、あそこへ行くと妙なもので、田舎者のような気持になる。それで拙者もその気になって、曲独楽の定席へ飛び込んだものよ。すると、そこに綺麗な女太夫がいて……」 「ははあ、その美形を呼び出して、船宿でか? ……こいつがこいつが!」 「何の馬鹿らしいそのようなこと。……もう女には飽きている身じゃ。……ただその美しい女太夫から、珍らしい物を貰うたので、これから緩々屋敷へ帰って、その物を味わおうとこういうのじゃ。……ご免」と主税は歩き出した。
猿廻し
歩きながら考えた。 何故この頃お館には、金子などには眼をくれず、器物ばかりを狙って盗む、ああいう盗難があるのだろう? それも一度ならずも二度三度、頻々としてあるのだろう? (ある何物かを手に入れようとして、それに関係のありそうな器物を、狙いうちにして盗んでいるようだ。……そのある物とは何だろう?) これまで盗まれた器物について、彼は記憶を辿ってみた。 蒔絵の文庫、青銅の香爐、明兆の仏書、利休の茶柄杓、世阿弥筆の謠の本……等々高価の物ばかりであった。 (盗難も盗難だがこのために、お館の中が不安になり、お互い同士疑い合うようになり、憂鬱の気の漂うことが、どうにもこうにもやりきれない) こう主税は思うのであった。 (お互い同士疑い合うのも、理の当然ということが出来る。お館の中に内通者があって、外の盗賊と連絡取ればこそ、ああいう盗みが出来るのだからなア。……そこで内通者は誰だろうかと、お互い同士疑い合うのさ) 主税はこんなことを考えながら、御用地の辺りまで歩いて来た。 御用地なので空地ではあるが、木も雑草も繁っており、石材なども置いてあり、祠なども立っており、水溜や池などもある。そういう林であり藪地なのであった。 と、その林の奥の方から、キ――ッという猿の啼声が、物悲しそうに聞こえてきた。 (おや)と主税は足を止めた。 (いかに藪地であろうとも、猿など住んでいるはずはない。……では話の猿廻しが?) そこで主税は堰を飛び越え、御用地の奥の方へ分け入った。草の露が足をぬらし、木の枝が顔を払ったりした。 また猿の啼声が聞こえてきた。 で、主税は突き進んだ。 すると、果たして一人の猿廻しが、猿を膝の上へ抱き上げて、祠の裾の辺りへうずくまり、編笠をかむった顔を俯向けて、木洩れの月光に肩の辺りを明るめ、寂しそうにしているのが見えた。 「猿廻し!」と声をかけ、突然主税はその前へ立った。 「用がある、拙者と一緒に参れ!」 「あッ」と猿廻しは飛び上ったが、木の間をくぐって逃げようとした。 「待て!」 主税は足を飛ばせ、素早くその前へ走って行き、左右に両手を開いて叫んだ。 「逃げようとて逃がしはせぬ、無理に逃げればぶった斬るぞ!」 「…………」 しかし無言で猿廻しは、両手で猿を頭上に捧げたが、バッとばかりに投げつけた。 キ――ッと猿は宙で啼き、主税の顔へ飛びついて来た。 「馬鹿者!」 怒号して拳を固め、猿を地上へ叩き落とし、主税は猛然と躍りかかった。 だが、何と猿廻しの素早いことか、こんもり盛り上っている山査子の叢の、丘のように高い裾を巡って、もう彼方へ走っていた。 すぐに姿が見えなくなった。 (きゃつこそ猿だ! なんという敏捷さ!) 主税は一面感心もし、また一面怒りを感じ、憮然として佇んだが、気がついて地上へ眼をやった。 叩き落とした猿のことが、ちょっと気がかりになったからである。 木洩れの月光が銀箔のような斑を、枯草ばかりで青草のない、まだ春なかばの地面のあちこちに、露を光らせて敷いていて、ぼっと地面は明るかったが、猿の姿は見えなかった。 (たしかこの辺りへ叩き落としたはずだが) 主税は地面へ顔を持って行った。 「あ」 声に出して思わず言った。 小独楽が一個落ちているではないか。 主税は袖を探ってみた。 袖の中にも小独楽はあった。 (では別の独楽なのだな) 地上の独楽を拾い上げ、主税は眼に近く持って来た。その独楽は大きさから形から、袖の中の独楽と同じであった。 「では」と呟いて左の掌の上で、主税は独楽を捻って廻し、月光の中へ掌を差し出し、廻る独楽の面をじっと見詰めた。 しかし、独楽の面には、なんらの文字も現われなかった。 (この独楽には細工はないとみえる) いささか失望を感じながら、廻り止んだ独楽をつまみ上げ、なお仔細く調べてみた。 すると、独楽の面の手触りが何となく違うように思われた。 (はてな?)と主税は指に力を罩め、その面を強く左の方へ擦った。
不思議な老人
「おおそうか、蓋なのか」と、擦ったに連れて独楽の面が弛み、心棒を中心にして持ち上ったので、そう主税は呟いてすぐにその蓋を抜いてみた。 独楽の中は空洞になっていて畳んだ紙が入れてあった。 何か書いてあるようである。 そこで、紙を延ばしてみた。
三十三、四十八、二十九、二十四、二十二、四十五、四十八、四、三十五
と書いてあった。 (何だつまらない)と主税は呟き、紙を丸めて捨ようとしたが、 (いや待てよ、隠語かもしれない) ふとこんなように思われたので、またその紙へ眼を落とし、書かれてある数字を口の中で読んだ。 それから指を折って数え出した。 かなり長い間うち案じた。 「そうか!」と声に出して呟いた時には、主税の顔は硬ばっていた。 (ふうん、やはりそうだったのか、……しかし一体何者なのであろう?) 思いあたることがあると見えて、主税はグッと眼を据えて、空の一所へ視線をやった。 と、その視線の遥かかなたの、木立の間から一点の火光が、薄赤い色に輝いて見えた。 その火はユラユラと揺れたようであったが、やがて宙にとどまって、もう揺れようとはしなかった。 (こんな夜更けに御用地などで、火を点もすものがあろうとは?) 重ね重ね起こる変わった事件に、今では主税は当惑したが、しかし好奇心は失われないばかりか、かえって一層増して来た。 (何者であるか見届けてやろう) 新規に得た独楽を袖の中へ入れ、足を早めて火光の見える方へ、木立をくぐり藪を巡って進んだ。 火光から数間のこなたまで来た時、その火光が龕燈の光であり、その龕燈は藪を背にした、栗の木の枝にかけられてある。――ということが見てとられた。 だがその他には何があったか? その火の光に朦朧と照らされ、袖無を着、伊賀袴を穿いた、白髪白髯の老人と、筒袖を着、伊賀袴を穿いた、十五六歳の美少年とが、草の上に坐っていた。 いやその他にも居るものがあった。 例の猿廻しと例の猿とが同じく草の上に坐っていた。 (汝!)と主税は心から怒った。 (汝、猿廻しめ、人もなげな! 遠く逃げ延びて隠れればこそ、このような手近い所にいて、火まで燈して平然としているとは! 見おれ[#「見おれ」は底本では「見をれ」]、こやつ、どうしてくれるか!) 突き進んで躍りかかろうとした。しかし足が言うことをきかなかった。 と云って足が麻痺したのではなく、眼の前にある光景が、変に異様であり妖しくもあり、厳かでさえあることによって、彼の心が妙に臆れ、進むことが出来なくなったのである。 (しばらく様子を見てやろう) 木の根元にうずくまり、息を詰めて窺った。 老人は何やら云っているようであった。 白い顎鬚が上下に動き、そのつど肩まで垂れている髪が、これは左右に揺れるのが見えた。 どうやら老人は猿廻しに向かって、熱心に話しているらしかった。 しかし距離が遠かったので、声は聞こえてこなかった。 主税はそれがもどかしかったので、地を這いながら先へ進み、腐ちた大木の倒れている陰へ、体を伏せて聞耳を立てた。 「……大丈夫じゃ、心配おしでない、猿めの打撲傷など直ぐにも癒る」 こういう老人の声が聞こえ、 「躄者さえ立つことが出来るのじゃからのう。――もう打撲傷は癒っているかもしれない。……これこれ小猿よ立ってごらん」 言葉に連れて地に倒れていた猿が、毬のように飛び上り、宙で二三度翻筋斗を打ったが、やがて地に坐り手を膝へ置いた。 「ね、ごらん」と老人は云った。 「あの通りじゃ、すっかり癒った。……いや誠心で祈りさえしたら、一本の稲から無数の穂が出て、花を咲かせて実りさえするよ」 その時猿廻しは編笠を脱いで、恭しく辞儀をした。 その猿廻しの顔を見て、主税は思わず、 「あッ」と叫んだ。それは女であるからであった。しかも両国の曲独楽使いの、女太夫のあやめであった。
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