お八重と女猿廻し
しかしお八重は「覚悟の前です」と、そういってでもいるかのように、髪の毛一筋動かさなかった。ただ柘榴の蕾のような唇を、心持噛んだばかりであった。 (どうしてこんなことになったのだろう?)と彼女は心ひそかに思った。 お八重は今から二年ほど前に、奥方様附の腰元として、雇い入れられた女なのであるが、今日の昼間奥方様に呼ばれ、奥方様のお部屋へ行った。すると奥方様は彼女に向かい、百までの数字を書いてごらんと云われた。不思議なことと思いながら、云われるままに彼女は書いた。彼女は部屋へ戻ってから、そのようにして数字を書かされた者が、自分一人ではなくて大奥全体の女が、同じように書かされたということを聞いて、少しばかり不安に思った。 すると、間もなく奥方様のお部屋へ、また彼女は呼び出された。行ってみると何とその部屋には、奥家老の松浦頼母がいて、一葉の紙片を突き出した。昨夜女猿廻しのお葉へ、独楽のなかへ封じ入れて投げて与えた、自分からの隠語の紙片であった。ハ――ッとお八重は溜息を吐いた。 頼母の訊問は烈しかった。 「隠語の文字と其方の文字、同一のものと思われる、其方この隠語を書いたであろう?」 「書きましてござります」 「お館の外の何者かと謀り、お館の器類を、数々盗んで持ち出したであろう?」 「お言葉通りにござります」 「これほどの大事を女の身一つで、行なったものとは思われぬ、何者に頼まれてこのようなことをしたか?」 「わたくしの利慾からにござります。決して誰人にも頼まれましたのではなく……」 「黙れ、浅はかな、隠し立ていたすか! 尋常な品物であろうことか、代々の将軍家より賜わった、当家にとっては至極の宝物ばかりを、選りに選って盗んだは、単なる女の利慾からではない。頼んだ者があるはずじゃ、何者が頼んだか名を明かせ!」 しかしお八重は口を噤んで、それについては一言も答えなかった。すると頼母は訊問を転じ、 「お館の外の共謀者、何者であるか素性を申せ!」 「申し上げることなりませぬ」 この訊問に対しても、お八重は答えを拒んだのであった。 そこで、お八重は座敷牢へ入れられた。 すると、このような深夜になってから、頼母一人がやって来て、また訊問にとりかかったのであった。 (どうしてこんなことになったのだろう?) (どうして秘密の隠語の紙が、ご家老様の手へなど渡ったのだろう?) これが不思議でならなかった。 (女猿廻しのあのお葉が、では頼母様の手に捕らえられたのでは?) お葉と宣っている女猿廻しは、お八重にとってはよい加担者であった。でもお葉を加担者に引き入れたのは、全く偶然のことからであった。――ある日お八重はお長屋の方へ、用を達すために何気なく行った。すると女の猿廻しが、お長屋で猿を廻していた。あんまりその様子が可愛かったので、多分の鳥目を猿廻しにくれた。これが縁の始まりで、その後しばしば女猿廻しとお八重は、あちこちのお長屋で逢って話した。その間にお八重はその女猿廻しが、聡明で大胆だということと、再々田安家のお長屋へ来て、猿を廻して稼ぐのは、単なる生活のためではなく、何らか田安家そのものに対して、企らむところがあってのことらしいと、そういうことを見て取った。そこでお八重は女猿廻しを呼んで、自分の大事を打ち明けた。 「妾は田安家の奥方様附の、腰元には相違ないけれど、その実は田安家に秘蔵されている、ある大切な器物を、盗み出すためにあるお方より、入り込ませられた者なのです。もっともその品を盗み出す以前に、その他のいろいろの器物を、盗み出すのではありますけれど。……ついては其方妾の加担者となって、盗んだ器物を機会を見て、妾から其方へ渡しますゆえ、其方その品を何処へなりと、秘密に隠しては下さるまいか。……是非にお頼みいたします。事成就の暁には、褒美は何なりと差し上げます」 こう大事を打ち明けた。すると女猿廻しは考えこんだが、 「田安様の品物が盗まれました際、その責任は田安様の、誰人に行くのでございましょうか?」と訊いた。 「それはまァ奥家老の松浦様へ」 「松浦へ! おお松浦頼母へ! ……では妾あなた様の、加担者になるでございましょう! ……そうしてあの松浦頼母めを、切腹になと召し放しになと!」と女猿廻しは力を籠めて云った。 それでお八重は女猿廻しのお葉が、何かの理由で松浦頼母に、深い怨みを抱いていることを、いち早く見て取ったが、しかしお葉がどういう理由から、松浦頼母に怨みを抱くかを、押して訊こうとはしなかった。
二つ目の独楽
とにかくこうして二人の女は、それ以来一味となり、お八重から渡す隠語を手蔓に、時と場所とを示し合わせ、お八重の盗み出す田安家の器物を、女猿廻しのお葉は受け取り、秘密の場所へ人知れず隠し、今日に及んで来たのであった。 (隠語の紙片が頼母様の手へ入った! ではお葉も頼母様のお手に、引っとらえられたのではあるまいか?) これがお八重の現在の不安であった。 (いやいや決してそんなことはない!) お八重はやがて打ち消した。 (でも隠語を認めた紙片が、頼母様のお手へ入った以上、それを封じ込めてやったあの独楽が、頼母様のお手へ入ったことは、確かなことといわなければならない!) これを思うとお八重の胸は、無念と口惜しさに煮えるのであった。 (淀屋の独楽を奪い取れ! これがあの方のご命令だった。……淀屋の独楽を奪い取ろうとして、妾は二年間このお屋敷で、腰元奉公をしていたのだ。そうしてようやく目的を達し、淀屋の独楽を奪い取ったら、すぐに他人に奪い返されてしまった。何と云ったらいいだろう!) 代々の将軍家から田安家へ賜わった、数々の器類を奪ったのも、目的の一つには相違なかったが、真の目的はそれではなくて、淀屋の独楽を奪うことであった。 彼女は田安家へ入り込むや否や、淀屋の独楽の在場所を探した。と、教えられてきた淀屋の独楽と、そっくりの型の独楽を奥方妙子様が、ご秘蔵なされていることを知った。しかし一つだけ不思議なことには、その独楽は淀屋の独楽と違って、いくら廻しても独楽の面へ、一つとして文字を現わさなかった。 「では淀屋の独楽ではないのだろう」と思って、お八重は奪うことを躊躇した。ところが此頃になって老女の一人が「あの独楽は以前には廻す毎に、文字を現わしたものでございますが、いつの間にやらその事がなくなって、この頃ではどのように廻したところで、文字など一字も現われません」と話した。 「ではやはり奥方様お持ちの独楽は、淀屋の独楽に相違ない」とそうお八重は見極めをつけ、とうとうその独楽を昨日奪って、折柄塀外へ来たお葉の手へ、投げて素早く渡したのであった。今夜裏門にて――と隠語に書いたのは、望みの品物を奪い取ったのだから、もうこの屋敷にいる必要はない。でお葉に裏門まで来て貰って、一緒にこの屋敷から逃げ出そうと思い、さてこそそのように書いたのであった。 「ご家老様」とお八重は云って、今までじっと俯向いて、膝頭を見詰めていた眼を上げて、頼母の顔を正視した。 「隠語を記しましたあの紙片を、ご家老様には何者より?」 「あれか」 すると松浦頼母は複雑の顔へ一瞬間、冷笑らしいものを漂わせたが、 「其方の恋人山岸主税が、わしの手にまで渡してくれたのよ!」 「え――ッ、まア! いえいえそんな!」 物に動じなかったお八重の顔が、見る見る蒼褪め眼が血走った。
お八重の受難
そういうお八重を松浦頼母は、嘲笑いの眼で見詰めたが、 「去年の秋御殿で催された、観楓の酒宴以来其方と主税とが、恋仲になったということは、わしにおいては存じて居った。が、お八重其方も存じおるはずだが、其方を恋して其方という者を、主税より先に我物にしようと、懇望したものは誰だったかのう?」 頼母はお八重を嘗めるように見たが、 「わしであったはずじゃ、頼母であったはずじゃ」 云い云い頼母は老いても衰えない、盛り上っている肉太の膝を、お八重の方へニジリ[#「ニジリ」は底本では「ニヂリ」]寄せた。 お八重は背後へ体を退らせたが、しかしその瞬間去年の秋の、観楓の酒宴での出来事を、幻のように思い出した。 その日、夜になって座が乱れた。お八重は酒に酔わされたので、醒まそうと思って庭へ出た。と、突然背後から、彼女に触れようとする者があった。お八重は驚いて振り返ってみると、意外にも奥家老の松浦頼母で、 「其方がお館へ上った日以来、わしは其方に執心だったのじゃ」と云った。 すると、そこへちょうど折よく、これも酒の酔いを醒まそうとして、通り掛かった山岸主税が、 「や、これはご家老様にはお八重殿にご酔興なそうな。アッ、ハッ、ハッ、お気の毒千万、そのお八重殿とわたくしめとは、夫婦約束いたした仲でござる。わたくしめの許婚をお取りなさるは殺生、まずまずお許し下されませ」と冗談にまぎらせて仲を距て、お八重の危難を救ってくれた。 ところがこれが縁となって、お八重と主税とは恋仲となり、肉体こそ未だに純潔ではあれ、末は必ず夫婦になろうと約束を結んだのであった。しかるに一方松浦頼母も、お八重への恋慕を捨ようとはしないで、絶えずお八重を口説いたことであった。そうして今お八重にとって、命の瀬戸際というこの時になって、…… 「お八重」と頼母は唆かすように云った。 「今日の昼主税めわしの所へ参り、『私こと昨夜お館附近を、見廻り警戒いたしおりましたところ、怪しい女猿廻しめが、ご用地附近におりましたので、引っとらえようといたしましたところその猿廻しめは逃げましたが、独楽を落としましてござります。調べましたところ独楽に細工あって、隠語を認めましたこのような紙片が、封じ込めありましてございます。隠語を解けば――コンヤウラモンニテ、と。……思うにこれはお館の中に、女猿廻しの一味が居りまして、それと連絡をとりまして、お館の大切な器類を、盗み出したに相違なく、しかも女猿廻し一味のものは、女に相違ござりませぬ。何故と申せば隠語の文字、女文字ゆえでござりまする。左様、女にござりまする! 奥方様付のお腰元、お八重殿にごさりまする! わたくしお八重殿の文字の癖をよく存じておりまする』とな。……」 「嘘だ嘘だ! 嘘でごさりまする! 主税殿が何でそのようなことを!」 手を握りしめ歯切りをし、お八重はほとんど狂乱の様で、思わず声高に叫ぶように云った。 「妾の、妾の、主税様が!」 「フッフッフッ、ハッハッハッ、可哀そうや可哀そうやのうお八重、其方としては信じていた恋男が、そのようなことをするものかと、そう思うのは無理もないが、それこそ恋に眼の眩んだ、浅はかな女の思惑というもの、まことは主税というあの若造、軽薄で出世好みで、それくらいの所業など平気でやらかす、始末の悪い男なのじゃ。つまるところ恋女の其方を売って、自分の出世の種にしたのよ」 ここで頼母はお八重の顔を、上眼使いに盗むように見たが、 「だが、座敷牢へは入れたものの、其方の考え一つによって命助ける術もある。お八重、強情は張らぬがよい、この頼母の云うことを聞け! 頼母其方の命を助ける!」と又肉太の膝をムズリと、お八重の方へ進めて行った。
陥穽から男が
すると、お八重の蒼白の顔へ、サッと血の気の注すのが見えたが、 「えい穢らわしい、何のおのれに!」 次の瞬間にお八重の口から、絹でも裂くように叫ばれたのは、憎悪に充ちたこの声であった。 「たとえ打ち首になろうとも、逆磔刑にされようとも、汝ごときにこの体を、女の操を許そうや! 穢らわしい穢らわしい! ……山岸主税様が隠語の執筆家を、この八重と承知の上で、汝の許へ申し出たとか! 嘘だ、嘘です、何の何の、主税様がそのようなことをなされますものか! ……なるほど、あるいは主税様は、なにかの拍子に女猿廻しから、独楽に封じた隠語の紙を、お手に入れられたかもしれませぬが、わたくしの筆癖と隠語の文字とが、似ているなどと申しますものか! もし又それにお気附きになったら、わたしの為に計られて、かえってそれを秘密にして、葬ってしまったでございましょう! わたしに対する主税様の、熱い烈しい愛情からすれば……」 「黙れ!」と忍び音ではあったけれど、怒りと憎悪との鋭い声で、突然頼母は一喝したが、ヌッとばかりに立ち上った。 「何かと言えば主税様! そうか、それほど山岸主税が、其方には大切で恋しいか! ……よーしそれではその主税めを! ……が、まアよい、まアその中に、その主税様を忘れてしまって、頼母様、頼母様と可憐らしく、わしを呼ぶようになるであろう。またそのように呼ばせてもみせる。……とはいえ今の其方の様子ではのう。……第一正気でいられては……、眠れ!」と云うと壁の一所を、不意に頼母は指で押した。 と、その瞬間「あッ」という悲鳴が、お八重の口から迸り、忽然としてそのお八重の姿が、座敷牢から消えてなくなり、その代わりにお八重の坐って居た箇所へ、畳一畳ばかりの長方形の穴が、黒くわんぐりと口を開けた。陥穽にお八重は落ちたのであった。頼母は壁際に佇んだまま、陥穽の口を見詰めていた。すると、その口から男の半身が、妖怪のように抽け出して来たが、 「お殿様、上首尾です」――こうその男は北叟笑みながら云った。 「そうか。そこで、気絶でもしたか?」 「ノンビリとお眠りでございます。……やんわりとした積藁の上に、お八重様にはお眠ねで」 「強情を張る女には、どうやらこの手がよいようだのう」 「死んだようになっている女の子を、ご介抱なさるのは別の味で……ところでお殿様お下りなさいますか? ……すこし梯子は急でござんすが」 「まさか穴倉の底などへは。……命じて置いた場所へ運んで行け」 「かしこまりましてございます」 奥眼と云われる窪んだ眼、鉤鼻と云われる険しい鼻、そういう顔をした四十五六歳の、陥穽から抽け出て来た男は、また陥穽の中へ隠れようとした。 と、頼母は声をかけた。 「八重めが途中で正気に返ったら、猿轡など噛ませて声立てさせるな。よいか勘兵衛、わかったろうな」 「わかりましてござります」 その男――勘兵衛は頷いて云った。 勘兵衛? いかにもその男は、両国広小路の曲独楽の定席の、太夫元をしていた勘兵衛であった。でもその勘兵衛は今日の夕方、その定席の裏木戸口で、浪速あやめのために独楽の紐で、締め殺されたはずである。それだのに生きてピンシャンしているとは? しかも田安家の奥家老、松浦頼母というような、大身の武士とこのように親しく、主従かのように振舞っているとは? しかしそういうさまざまの疑問を、座敷牢の中へ残したまま、勘兵衛は陥穽の中へ消えてしまった。と、下っていた陥穽の蓋が、自ずと上へ刎ね上り、陥穽の口を閉ざしてしまった。 頼母が網行燈をひっさげて、座敷牢から立去った後は、闇と静寂ばかりが座敷牢を包み、人気は全く絶えて[#「絶えて」は底本では「耐えて」]しまった。
それから少時の時が経った。 同じ廓内の一所に、奥家老松浦頼母の屋敷が、月夜に厳めしく立っていた。その屋敷の北の隅に、こんもりとした植込に囲まれ、主屋と別に建物が立っていた。 土蔵造りにされているのが、この建物を陰気にしている。 と、この建物の一つの部屋に、山岸主税が高手籠手に縛られ、柱の傍に引き据えられてい、その周囲に五人の覆面の武士が、刀を引き付けて警戒してい、その前に淀屋の独楽の一つを、膝の上へ載せた松浦頼母が、主税を睨みながら坐ってい、そうしてその横に浪人組の頭の、飛田林覚兵衛が眼を嘲笑わせ、これも大刀を膝の前へ引き付け、主税を眺めている光景を、薄暗い燭台の黄色い光が朦朧として照していた。 それにしてもどうして山岸主税が、こんな所に縛られているのだろう? そうして何故に飛田林覚兵衛が、こんな所へ現われて、松浦頼母の家来かのように、悠然と控えているのだろう?
悪家老の全貌
お茶の水で飛田林覚兵衛に襲われ、浪速あやめに助けられ、そのあやめが雇ってくれた駕籠で山岸主税は屋敷へかえって来た。 すると、屋敷の門前で、五人の覆面武士に襲撃された。まだ主税は身心衰弱していたので、他愛もなく捕らえられ、目隠しをされて運ばれた。 その目隠しを取られたところが、今居るこの部屋であり、自分の前には意外も意外、主家の奥家老である松浦頼母と、自分を襲った浪人の頭、飛田林覚兵衛がいるではないか! 夢に夢見るという心持、これが主税の心持であった。 「主税」と頼母は威嚇するように云った。 「淀屋の独楽を所持しおること、飛田林覚兵衛より耳にした。その独楽を当方へ渡せ!」 それから頼母は自分の膝の上の独楽を、掌にのせて見せびらかすようにしたが、 「これが二つ目の淀屋の独楽じゃ。以前は田安殿奥方様が、ご秘蔵あそばされていたものじゃ。が、拙者代わりの品物を作り、本物とすり換えて本物の独楽は、疾より拙者所持しておる。――と、このように秘密のたくらみまで、自分の口から云う以上、是が非であろうと其方の所持しておる独楽を、当方へ取るという拙者の決心を、其方といえども感ずるであろうな。隠し立てせずと独楽を渡せ! ……おおそれからもう一つ、其方に明かせて驚かすことがある。其方を襲った飛田林覚兵衛、此処におる覚兵衛じゃが、これは実はわしの家来なのじゃ」 「左様で」と初めて飛田林覚兵衛は、星の入っている薄気味悪い眼を、ほの暗い燭台の燈に光らせながら、 「拙者、松浦様の家来なのだ。淀屋の独楽を探そうため、浪速くんだりまで参ったのじゃ。浪速あやめが独楽を持っていた。で、取ろうといたしたところ、あの女め強情に渡しおらぬ。そのうち江戸へ来てしまった。そこで拙者も江戸へ帰って、どうかして取ろうと苦心しているうちに、チョロリと貴殿に横取りされてしまった。と知った時松浦様へ、すぐご報告すればよかったのだが、独楽を探そうために長の年月、隠れ扶持をいただいておる拙者としては、自分の力で独楽を手に入れねばと、そこで貴殿を襲ったのじゃが、ご存知の通り失敗してしもうた。そこでとうとう我を折って、今夜松浦様へ小鬢を掻き掻き、つぶさに事情をお話しすると、では主税めを捕らえてしまえとな。……で、こういう有様となったので」 「主税」と今度は松浦頼母が、宥めすかすように猫撫声で云った。 「淀屋の財宝が目つかった際には、幾割かの分はくれてやる。その点は充分安心してよろしい。だから云え、どこにあるか。淀屋の独楽がどこにあるか。……それさえお前が云ってくれたなら、人を遣わして独楽を持って来させる。そうしてそれが事実淀屋の独楽であったら、即座に其方の縄目を解き、我々の同士の一人として、わしの持っている独楽へ現われて来る隠語を、早速見せても進ぜるし、二つの独楽をつき合わせ、互いの隠語をつなぎ合わせ、淀屋の財宝の在場所を調べるその謀議にもあずからせよう」 「黙れ!」と主税は怒声を上げた。 「逆臣! いや悪党!」 乱れた鬢髪、血走った眼、蒼白の顔色、土気色の口、そういう形相を燭台の燈の、薄暗い中で強ばらせ、肋骨の見えるまではだかった胸を、怒りのために小顫いさせ、主税は怒声を上げ続けた。 「お館様の寛大仁慈に、汝つけ込んで年久しく、田安家内外に暴威を揮い、専横の振舞い致すということ、我ばかりでなく家中の誰彼、志ある人々によって、日頃取沙汰されていたが、よもや奥方様ご秘蔵の、淀屋の独楽を奪い取り、贋物をお側に置いたとは、――そこまでの悪事を致しおるとは、何たる逆賊! 悪臣! ……いかにも拙者浪速あやめより、淀屋の独楽を貰い受けた。それも偶然貰い受けたばかりで、それには大して執着はない。長年その独楽を得ようとして、探し求めていたというからには、進んで呉れてやらないものでもない。……が、何の汝ごときに――主君の家を乱脈に導き、奥方様のお大切の什器を、盗んだという汝如きに与えようや、呉れてやろうか! それを何ぞや一味にしてくれるの、財宝の分け前与うるのと! わッはッはッ、何を戯言! 一味になるは愚かのこと、縄引き千切り此処を脱け出し、直々お館にお眼通りいたし、汝の悪行を言上し、汝ら一味を狩りとる所存じゃ! 財宝の分け前与えると わッはッはッ、片腹痛いわい! 逆に汝の独楽を奪い、隠語の文字ことごとく探り、淀屋の財宝は一切合財、この主税が手に入れて見せる! 解け、頼母、この縄を解け!」 主税は満身の力を罩め、かけられている縄を千切ろうとした。土気色の顔にパッと朱が注し、額から膏汗が流れ出した。
生きている勘兵衛
「馬鹿者、騒ぐな、静かに致せ!」 主税のそういう悲惨な努力を、皮肉と嘲りとの眼をもって、憎々しく見ていた頼母は云った。 「縄は解けぬ、切れもしないわい! ……お前がこの場で執るべき道は、お前の持っておる独楽をわしに渡し、わしの一味配下となるか、それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽をひし隠しに隠し、わしの配下に殺されるか、さあこの二つの道しかない! ……生きるつもりか、死ぬつもりか どうだ主税、どっちに致す!」 頼母は改めてまた主税を見詰めた。 しかし主税は返事さえしないで、憎しみと怒りとの籠った眼で、刺すように頼母を睨むばかりであった。 そういう主税を取り囲んで、まだ覆面を取らない五人の浪人は、すわといわば主税を切り伏せようと、刀の柄へ手をかけている。飛田林覚兵衛は例の気味の悪い、星の入っている眼を天眼に据えて、これも刀の柄へ手をかけながら、松浦頼母の横手から、主税の挙動を窺っていた。 部屋の気勢は殺気を帯び、血腥い事件の起こる前の、息詰るような静寂にあった。 「そうか」と頼母はやがて云った。 「物を云わぬな、黙っているな、ようし、そうか、では憂目を!」 覚兵衛の方へ顔を向け、 「こやつにあれを見せてやれ!」 覚兵衛は無言で立ち上り、隣室への襖をあけた。 何がそこに有ったろう? 猿轡をはめられ腕を縛られ、髪をふり乱した腰元のお八重が、桔梗の花の折れたような姿に、畳の上に横倒しになってい、それの横手に蟇かのような姿に、勘兵衛が胡座を掻いているのであった。 「お八重!」と思わず声を筒抜かせ、主税は猛然と飛び立とうとした。 「動くな!」と瞬間、覆面武士の一人が、主税の肩を抑えつけた。 「お八重、どうして、どうしてここへは おおそうしてその有様は」 お八重は顔をわずかに上げた。起きられないほど弱っているらしい。こっちの部屋から襖の間を通して、射し込んで行く幽かな燈の光に、蛾のように白いお八重の顔が、鬢を顫わせているのが見えた。猿轡をはめられている口であった。物云うことは出来なかった。 「お八重さんばっかりに眼をとられて、あっしを見ねえとは阿漕ですねえ」 胡座から立て膝に直ったかと思うと、こう勘兵衛が冷嘲すように云った。 「見忘れたんでもござんすまいに」 「わりゃア勘兵衛!」と主税は叫んだ。 「死んだはずの勘兵衛が!」 「いかにも殺されたはずの勘兵衛で、へへへ!」と白い歯を見せ、 「あの時あっしア確かにみっしり、締め殺されたようでござんすねえ。……殺そうとした奴ア解っていまさア。‥…あやめの阿魔に相違ねえんで。……あの阿魔以前からあっしの命を、取ろう取ろうとしていたんですからねえ。……取られる理由もあるんですから、まあまあそいつア仕方ねえとしても、どうやらあっしというこの人間、あんなちょろっかの締め方じゃア、殺されそうもねえ罪業者と見え、次の瞬間にゃア生き返って、もうこの通りピンピンしていまさあ。……そこでこの屋敷へ飛んで来て、淀屋の独楽を取らねえ先に、あやめの阿魔に逃げられたってこと、松浦様にご報告すると……」 「それでは汝も松浦頼母の……」 重ね重ねの意外の事件に、主税は心を顛倒させながら、嗄れた声で思わず叫んだ。
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