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高野聖(こうやひじり)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 13:25:57 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: ちくま日本文学全集 泉鏡花
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1991(平成3)年10月20日
校正に使用: 1995(平成7)年8月15日第2刷

底本の親本: 現代日本文學大系 5 樋口一葉・明治女流文學・泉鏡花集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1972(昭和47)年5月15日

 

   一

参謀さんぼう本部編纂へんさんの地図をまた繰開くりひらいて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手をさわるさえ暑くるしい、旅の法衣ころもそでをかかげて、表紙をけた折本になってるのを引張ひっぱり出した。
 飛騨ひだから信州へえる深山みやまの間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立こだちも無い、右も左も山ばかりじゃ、手をばすととどきそうなみねがあると、その峰へ峰が乗り、いただきかぶさって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。
 道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午しょうごと覚しい極熱ごくねつの太陽の色も白いほどにえ返った光線を、深々といただいた一重ひとえ檜笠ひのきがさしのいで、こう図面を見た。」
 旅僧たびそうはそういって、握拳にぎりこぶしを両方まくらに乗せ、それで額を支えながら俯向うつむいた。
 道連みちづれになった上人しょうにんは、名古屋からこの越前敦賀えちぜんつるが旅籠屋はたごやに来て、今しがた枕に就いた時まで、わたしが知ってる限り余り仰向あおむけになったことのない、つまり傲然ごうぜんとして物を見ないたちの人物である。
 一体東海道掛川かけがわ宿しゅくから同じ汽車に乗り組んだと覚えている、腰掛こしかけすみこうべを垂れて、死灰しかいのごとくひかえたから別段目にも留まらなかった。
 尾張おわり停車場ステイションほかの乗組員は言合いいあわせたように、残らず下りたので、はこの中にはただ上人と私と二人になった。
 この汽車は新橋を昨夜九時半にって、今夕こんせき敦賀に入ろうという、名古屋では正午ひるだったから、飯に一折のすしを買った。旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、ふたを開けると、ばらばらと海苔のりかかった、五目飯ちらしの下等なので。
(やあ、人参にんじん干瓢かんぴょうばかりだ。)と粗忽そそッかしく絶叫ぜっきょうした。私の顔を見て旅僧はこらえ兼ねたものと見える、くっくっと笑い出した、もとより二人ばかりなり、知己ちかづきにはそれからなったのだが、聞けばこれから越前へ行って、派はちがうが永平寺えいへいじに訪ねるものがある、ただし敦賀に一ぱくとのこと。
 若狭わかさへ帰省する私もおなじところとまらねばならないのであるから、そこで同行の約束やくそくが出来た。
 かれは高野山こうやさんせきを置くものだといった、年配四十五六、柔和にゅうわななんらのも見えぬ、なつかしい、おとなしやかな風采とりなりで、羅紗らしゃ角袖かくそで外套がいとうを着て、白のふらんねるの襟巻えりまきをしめ、土耳古形トルコがたぼうかぶり、毛糸の手袋てぶくろめ、白足袋しろたび日和下駄ひよりげたで、一見、僧侶そうりょよりは世の中の宗匠そうしょうというものに、それよりもむしろ俗か。
(お泊りはどちらじゃな、)といって聞かれたから、私は一人旅の旅宿のつまらなさを、しみじみ歎息たんそくした、第一ぼんを持って女中が坐睡いねむりをする、番頭が空世辞そらせじをいう、廊下ろうか歩行あるくとじろじろ目をつける、何より最もがたいのは晩飯の支度したくが済むと、たちまちあかり行燈あんどんえて、薄暗うすぐらい処でお休みなさいと命令されるが、私は夜がけるまでることが出来ないから、その間の心持といったらない、ことにこのごろは夜は長し、東京を出る時から一晩のとまりが気になってならないくらい、差支さしつかえがなくば御僧おんそうとご一所いっしょに。
 快くうなずいて、北陸地方を行脚あんぎゃの節はいつでもつえを休める香取屋かとりやというのがある、もとは一けん旅店りょてんであったが、一人女ひとりむすめの評判なのがなくなってからは看板をはずした、けれどもむかしから懇意こんいな者は断らず泊めて、老人としより夫婦が内端うちわに世話をしてくれる、よろしくばそれへ、そのかわりといいかけて、折を下に置いて、
(ご馳走ちそうは人参と干瓢ばかりじゃ。)
 とからからと笑った、つつしみ深そうな打見うちみよりは気の軽い。

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