三
「今にもう一人ここへ来て寝るそうじゃが、お前様と同国じゃの、若狭の者で塗物の旅商人。いやこの男なぞは若いが感心に実体な好い男。 私が今話の序開をしたその飛騨の山越をやった時の、麓の茶屋で一緒になった富山の売薬という奴あ、けたいの悪い、ねじねじした厭な壮佼で。 まずこれから峠に掛ろうという日の、朝早く、もっとも先の泊はものの三時ぐらいには発って来たので、涼しい内に六里ばかり、その茶屋までのしたのじゃが朝晴でじりじり暑いわ。 慾張抜いて大急ぎで歩いたから咽が渇いてしようがあるまい、早速茶を飲もうと思うたが、まだ湯が沸いておらぬという。 どうしてその時分じゃからというて、めったに人通のない山道、朝顔の咲いてる内に煙が立つ道理もなし。 床几の前には冷たそうな小流があったから手桶の水を汲もうとしてちょいと気がついた。 それというのが、時節柄暑さのため、恐しい悪い病が流行って、先に通った辻などという村は、から一面に石灰だらけじゃあるまいか。 (もし、姉さん。)といって茶店の女に、 (この水はこりゃ井戸のでござりますか。)と、きまりも悪し、もじもじ聞くとの。 (いんね、川のでございます。)という、はて面妖なと思った。 (山したの方には大分流行病がございますが、この水は何から、辻の方から流れて来るのではありませんか。) (そうでねえ。)と女は何気なく答えた、まず嬉しやと思うと、お聞きなさいよ。 ここに居て、さっきから休んでござったのが、右の売薬じゃ。このまた万金丹の下廻と来た日には、ご存じの通り、千筋の単衣に小倉の帯、当節は時計を挟んでいます、脚絆、股引、これはもちろん、草鞋がけ、千草木綿の風呂敷包の角ばったのを首に結えて、桐油合羽を小さく畳んでこいつを真田紐で右の包につけるか、小弁慶の木綿の蝙蝠傘を一本、おきまりだね。ちょいと見ると、いやどれもこれも克明で分別のありそうな顔をして。 これが泊に着くと、大形の浴衣に変って、帯広解で焼酎をちびりちびり遣りながら、旅籠屋の女のふとった膝へ脛を上げようという輩じゃ。 (これや、法界坊。) なんて、天窓から嘗めていら。 (異なことをいうようだが何かね、世の中の女が出来ねえと相場がきまって、すっぺら坊主になってやっぱり生命は欲しいのかね、不思議じゃあねえか、争われねえもんだ、姉さん見ねえ、あれでまだ未練のある内がいいじゃあねえか、)といって顔を見合せて二人でからからと笑った。 年紀は若し、お前様、私は真赤になった、手に汲んだ川の水を飲みかねて猶予っているとね。 ポンと煙管を払いて、 (何、遠慮をしねえで浴びるほどやんなせえ、生命が危くなりゃ、薬を遣らあ、そのために私がついてるんだぜ、なあ姉さん。おい、それだっても無銭じゃあいけねえよ、憚りながら神方万金丹、一貼三百だ、欲しくば買いな、まだ坊主に報捨をするような罪は造らねえ、それともどうだお前いうことを肯くか。)といって茶店の女の背中を叩いた。 私はそうそうに遁出した。 いや、膝だの、女の背中だのといって、いけ年を仕った和尚が業体で恐入るが、話が、話じゃからそこはよろしく。」
四
「私も腹立紛れじゃ、無暗と急いで、それからどんどん山の裾を田圃道へかかる。 半町ばかり行くと、路がこう急に高くなって、上りが一カ処、横からよく見えた、弓形でまるで土で勅使橋がかかってるような。上を見ながら、これへ足を踏懸けた時、以前の薬売がすたすたやって来て追着いたが。 別に言葉も交さず、またものをいったからというて、返事をする気はこっちにもない。どこまでも人を凌いだ仕打な薬売は流眄にかけて故とらしゅう私を通越して、すたすた前へ出て、ぬっと小山のような路の突先へ蝙蝠傘を差して立ったが、そのまま向うへ下りて見えなくなる。 その後から爪先上り、やがてまた太鼓の胴のような路の上へ体が乗った、それなりにまた下りじゃ。 売薬は先へ下りたが立停ってしきりに四辺をしている様子、執念深く何か巧んだかと、快からず続いたが、さてよく見ると仔細があるわい。 路はここで二条になって、一条はこれからすぐに坂になって上りも急なり、草も両方から生茂ったのが、路傍のその角の処にある、それこそ四抱、そうさな、五抱もあろうという一本の檜の、背後へ蜿って切出したような大巌が二ツ三ツ四ツと並んで、上の方へ層なってその背後へ通じているが、私が見当をつけて、心組んだのはこっちではないので、やっぱり今まで歩いて来たその幅の広いなだらかな方が正しく本道、あと二里足らず行けば山になって、それからが峠になるはず。 と見ると、どうしたことかさ、今いうその檜じゃが、そこらに何もない路を横断って見果のつかぬ田圃の中空へ虹のように突出ている、見事な。根方の処の土が壊れて大鰻を捏ねたような根が幾筋ともなく露れた、その根から一筋の水がさっと落ちて、地の上へ流れるのが、取って進もうとする道の真中に流出してあたりは一面。 田圃が湖にならぬが不思議で、どうどうと瀬になって、前途に一叢の藪が見える、それを境にしておよそ二町ばかりの間まるで川じゃ。礫はばらばら、飛石のようにひょいひょいと大跨で伝えそうにずっと見ごたえのあるのが、それでも人の手で並べたに違いはない。 もっとも衣服を脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道にはちと難儀過ぎて、なかなか馬などが歩行かれる訳のものではないので。 売薬もこれで迷ったのであろうと思う内、切放れよく向を変えて右の坂をすたすたと上りはじめた。見る間に檜を後に潜り抜けると、私が体の上あたりへ出て下を向き、 (おいおい、松本へ出る路はこっちだよ、)といって無造作にまた五六歩。 岩の頭へ半身を乗出して、 (茫然してると、木精が攫うぜ、昼間だって容赦はねえよ。)と嘲るがごとく言い棄てたが、やがて岩の陰に入って高い処の草に隠れた。 しばらくすると見上げるほどな辺へ蝙蝠傘の先が出たが、木の枝とすれすれになって茂の中に見えなくなった。 (どッこいしょ、)と暢気なかけ声で、その流の石の上を飛々に伝って来たのは、茣蓙の尻当をした、何にもつけない天秤棒を片手で担いだ百姓じゃ。」
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