十九
「(はい、辻の手前で富山の反魂丹売に逢いましたが、一足先にやっぱりこの路へ入りました。) (ああ、そう。)と会心の笑を洩して婦人は蘆毛の方を見た、およそ耐らなく可笑しいといったはしたない風采で。 極めて与し易う見えたので、 (もしや此家へ参りませなんだでございましょうか。) (いいえ、存じません。)という時たちまち犯すべからざる者になったから、私は口をつぐむと、婦人は、匙を投げて衣の塵を払うている馬の前足の下に小さな親仁を見向いて、 (しょうがないねえ、)といいながら、かなぐるようにして、その細帯を解きかけた、片端が土へ引こうとするのを、掻取ってちょいと猶予う。 (ああ、ああ。)と濁った声を出して白痴が件のひょろりとした手を差向けたので、婦人は解いたのを渡してやると、風呂敷を寛げたような、他愛のない、力のない、膝の上へわがねて宝物を守護するようじゃ。 婦人は衣紋を抱き合せ、乳の下でおさえながら静に土間を出て馬の傍へつつと寄った。 私はただ呆気に取られて見ていると、爪立をして伸び上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度鬣を撫でたが。 大きな鼻頭の正面にすっくりと立った。丈もすらすらと急に高くなったように見えた、婦人は目を据え、口を結び、眉を開いて恍惚となった有様、愛嬌も嬌態も、世話らしい打解けた風はとみに失せて、神か、魔かと思われる。 その時裏の山、向うの峰、左右前後にすくすくとあるのが、一ツ一ツ嘴を向け、頭を擡げて、この一落の別天地、親仁を下手に控え、馬に面して彳んだ月下の美女の姿を差覗くがごとく、陰々として深山の気が籠って来た。 生ぬるい風のような気勢がすると思うと、左の肩から片膚を脱いだが、右の手を脱して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着ていたその単衣を円げて持ち、霞も絡わぬ姿になった。 馬は背、腹の皮を弛めて汗もしとどに流れんばかり、突張った脚もなよなよとして身震をしたが、鼻面を地につけて一掴の白泡を吹出したと思うと前足を折ろうとする。 その時、頤の下へ手をかけて、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を蔽うが否や、兎は躍って、仰向けざまに身を翻し、妖気を籠めて朦朧とした月あかりに、前足の間に膚が挟ったと思うと、衣を脱して掻取りながら下腹をつと潜って横に抜けて出た。 親仁は差心得たものと見える、この機かけに手綱を引いたから、馬はすたすたと健脚を山路に上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん、――見る間に眼界を遠ざかる。 婦人は早や衣服を引かけて縁側へ入って来て、突然帯を取ろうとすると、白痴は惜しそうに押えて放さず、手を上げて、婦人の胸を圧えようとした。 邪慳に払い退けて、きっと睨んで見せると、そのままがっくりと頭を垂れた、すべての光景は行燈の火も幽に幻のように見えたが、炉にくべた柴がひらひらと炎先を立てたので、婦人はつと走って入る。空の月のうらを行くと思うあたり遥に馬子歌が聞えたて。」
二十
「さて、それからご飯の時じゃ、膳には山家の香の物、生姜の漬けたのと、わかめを茹でたの、塩漬の名も知らぬ蕈の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢どころではござらぬ。 品物は侘しいが、なかなかのお手料理、餓えてはいるし、冥加至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に肱をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。 縁側に居た白痴は誰も取合ぬ徒然に堪えられなくなったものか、ぐたぐたと膝行出して、婦人の傍へその便々たる腹を持って来たが、崩れたように胡坐して、しきりにこう我が膳を視めて、指をした。 (うううう、うううう。) (何でございますね、あとでお食んなさい、お客様じゃあありませんか。) 白痴は情ない顔をして口を曲めながら頭を掉った。 (厭? しょうがありませんね、それじゃご一所に召しあがれ。貴僧、ご免を蒙りますよ。) 私は思わず箸を置いて、 (さあどうぞお構いなく、とんだご雑作を頂きます。) (いえ、何の貴僧。お前さん後ほどに私と一所にお食べなさればいいのに。困った人でございますよ。)とそらさぬ愛想、手早くおなじような膳を拵えてならべて出した。 飯のつけようも効々しい女房ぶり、しかも何となく奥床しい、上品な、高家の風がある。 白痴はどんよりした目をあげて膳の上を睨めていたが、 (あれを、ああ、ああ、あれ。)といってきょろきょろと四辺をす。 婦人はじっと瞻って、 (まあ、いいじゃないか。そんなものはいつでも食られます、今夜はお客様がありますよ。) (うむ、いや、いや。)と肩腹を揺ったが、べそを掻いて泣出しそう。 婦人は困じ果てたらしい、傍のものの気の毒さ。 (嬢様、何か存じませんが、おっしゃる通りになすったがよいではござりませんか。私にお気遣はかえって心苦しゅうござります。)と慇懃にいうた。 婦人はまたもう一度、 (厭かい、これでは悪いのかい。) 白痴が泣出しそうにすると、さも怨めしげに流眄に見ながら、こわれごわれになった戸棚の中から、鉢に入ったのを取り出して手早く白痴の膳につけた。 (はい。)と故とらしく、すねたようにいって笑顔造。 はてさて迷惑な、こりゃ目の前で黄色蛇の旨煮か、腹籠の猿の蒸焼か、災難が軽うても、赤蛙の干物を大口にしゃぶるであろうと、そっと見ていると、片手に椀を持ちながら掴出したのは老沢庵。 それもさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたろうという握太なのを横銜えにしてやらかすのじゃ。 婦人はよくよくあしらいかねたか、盗むように私を見てさっと顔を赭らめて初心らしい、そんな質ではあるまいに、羞かしげに膝なる手拭の端を口にあてた。 なるほどこの少年はこれであろう、身体は沢庵色にふとっている。やがてわけもなく餌食を平らげて湯ともいわず、ふッふッと大儀そうに呼吸を向うへ吐くわさ。 (何でございますか、私は胸に支えましたようで、ちっとも欲しくございませんから、また後ほどに頂きましょう、) と婦人自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけてな。」
二十一
「しばらくしょんぼりしていたっけ。 (貴僧、さぞお疲労、すぐにお休ませ申しましょうか。) (難有う存じます、まだちっとも眠くはござりません、さっき体を洗いましたので草臥もすっかり復りました。) (あの流れはどんな病にでもよく利きます、私が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽れましても、半日あすこにつかっておりますと、水々しくなるのでございますよ。もっともあのこれから冬になりまして山がまるで氷ってしまい、川も崕も残らず雪になりましても、貴僧が行水を遊ばしたあすこばかりは水が隠れません、そうしていきりが立ちます。 鉄砲疵のございます猿だの、貴僧、足を折った五位鷺、種々なものが浴みに参りますからその足跡で崕の路が出来ますくらい、きっとそれが利いたのでございましょう。 そんなにございませんければこうやってお話をなすって下さいまし、寂しくってなりません、本当にお愧しゅうございますが、こんな山の中に引籠っておりますと、ものをいうことも忘れましたようで、心細いのでございますよ。 貴僧、それでもお眠ければご遠慮なさいますなえ。別にお寝室と申してもございませんがその代り蚊は一ツも居ませんよ、町方ではね、上の洞の者は、里へ泊りに来た時蚊帳を釣って寝かそうとすると、どうして入るのか解らないので、梯子を貸せいと喚いたと申して嬲るのでございます。 たんと朝寐を遊ばしても鐘は聞えず、鶏も鳴きません、犬だっておりませんからお心安うござんしょう。 この人も生れ落ちるとこの山で育ったので、何にも存じません代り、気のいい人でちっともお心置はないのでござんす。 それでも風俗のかわった方がいらっしゃいますと、大事にしてお辞儀をすることだけは知ってでございますが、まだご挨拶をいたしませんね。この頃は体がだるいと見えてお惰けさんになんなすったよ。いいえ、まるで愚なのではございません、何でもちゃんと心得ております。 さあ、ご坊様にご挨拶をなすって下さい。まあ、お辞儀をお忘れかい。)と親しげに身を寄せて、顔を差し覗いて、いそいそしていうと、白痴はふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくり一礼。 (はい、)といって私も何か胸が迫って頭を下げた。 そのままその俯向いた拍子に筋が抜けたらしい、横に流れようとするのを、婦人は優しゅう扶け起して、 (おお、よくしたねえ。) 天晴といいたそうな顔色で、 (貴僧、申せば何でも出来ましょうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でもあの水でも復りませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。それにご覧なさいまし、お辞儀一ツいたしますさえ、あの通り大儀らしい。 ものを教えますと覚えますのにさぞ骨が折れて切のうござんしょう、体を苦しませるだけだと存じて何にもさせないで置きますから、だんだん、手を動かす働も、ものをいうことも忘れました。それでもあの、謡が唄えますわ。二ツ三ツ今でも知っておりますよ。さあお客様に一ツお聞かせなさいましなね。) 白痴は婦人を見て、また私が顔をじろじろ見て、人見知をするといった形で首を振った。」
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