第十
母様はうそをおつしやらない、博士が橋銭をおいてにげて行くと、しばらくして雨が晴れた。橋も蛇籠も皆雨にぬれて、黒くなつて、あかるい日中へ出た。榎の枝からは時々はら/\と雫が落ちる、中流へ太陽がさして、みつめて居るとまばゆいばかり。 「母様遊びに行かうや。」 此時鋏をお取んなすつて、 「あゝ。」 「ねイ、出かけたつて可の、晴れたんだもの。」 「可けれど、廉や、お前またあんまりお猿にからかつてはなりませんよ。さう、可塩梅にうつくしい羽の生へた姉さんが何時でもいるんぢやあありません。また落つこちやうもんなら。」 ちよいと見向いて、清い眼で御覧なすつて莞爾してお俯向きで、せつせと縫つて居らつしやる。 さう、さう! さうであつた。ほら、あの、いま頬つぺたを掻いてむく/\濡れた毛からいきりをたてゝ日向ぼつこをして居る、憎らしいツたらない。 いまじやあもう半年も経つたらう、暑さの取着の晩方頃で、いつものやうに遊びに行つて、人が天窓を撫でゝやつたものを、業畜、悪巫山戯をして、キツ/\と歯を剥いて、引掻きさうな権幕をするから、吃驚して飛退かうとすると、前足でつかまへた、放さないから力を入れて引張り合つた奮みであつた。左の袂がびり/\と裂てちぎれて取たはづみをくつて、踏占めた足がちやうど雨上りだつたから、堪りはしない、石の上を辷つて、ずる/\と川へ落ちた。わつといつた顔へ一波かぶつて、呼吸をひいて仰向けに沈むだから、面くらつて立たうとするとまた倒れて眼がくらむで、アツとまたいきをひいて、苦しいので手をもがいて身躰を動かすと唯どぶん/\と沈むで行く、情ないと思つたら、内に母様の坐つて居らつしやる姿が見えたので、また勢ついたけれど、やつぱりどぶむ/\と沈むから、何うするのかなと落着いて考へたやうに思ふ。それから何のことだらうと考えたやうにも思はれる、今に眼が覚めるのであらうと思つたやうでもある、何だか茫乎したが俄に水ン中だと思つて叫ばうとすると水をのんだ。もう駄目だ。 もういかんとあきらめるトタンに胸が痛かつた、それから悠々と水を吸つた、するとうつとりして何だか分らなくなつたと思ふと溌と糸のやうな真赤な光線がさして、一巾あかるくなつたなかにこの身躰が包まれたので、ほつといきをつくと、山の端が遠く見えて私のからだは地を放れて其頂より上の処に冷いものに抱へられて居たやうで、大きなうつくしい眼が、濡髪をかぶつて私の頬ん処へくつゝいたから、唯縋り着いてじつと眼を眠つた[「眠つた」に「ママ」の注記]覚がある。夢ではない。 やつぱり片袖なかつたもの、そして川へ落こちて溺れさうだつたのを救はれたんだつて、母様のお膝に抱かれて居て、其晩聞いたんだもの。だから夢ではない。 一躰助けて呉れたのは誰ですッて、母様に問ふた。私がものを聞いて、返事に躊躇をなすつたのは此時ばかりで、また、それは猪だとか、狼だとか、狐だとか、頬白だとか、山雀だとか、鮟鱇だとか鯖だとか、蛆だとか、毛虫だとか、草だとか、竹だとか、松茸だとか、しめぢだとかおいひでなかつたのも此時ばかりで、そして顔の色をおかへなすつたのも此時ばかりで、それに小さな声でおつしやつたのも此時ばかりだ。 そして母様はかうおいひであつた。 (廉や、それはね、大きな五色の翼があつて天上に遊んで居るうつくしい姉さんだよ)
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