それからまた向ふから渡つて来てこの橋を越して場末の穢い町を通り過ぎると、野原へ出る。そこン処は梅林で上の山が桜の名所で、其下に桃谷といふのがあつて、谷間の小流には、菖浦、燕子花が一杯咲く。頬白、山雀、雲雀などが、ばら/\になつて唄つて居るから、綺麗な着物を着た問屋の女だの、金満家の隠居だの、瓢を腰へ提げたり、花の枝をかついだりして千鳥足で通るのがある、それは春のことで。夏になると納涼だといつて人が出る、秋は茸狩に出懸けて来る、遊山をするのが、皆内の橋を通らねばならない。 この間も誰かと二三人づれで、学校のお師匠さんが、内の前を通つて、私の顔を見たから、丁寧にお辞義[#「義」に「ママ」の注記]をすると、おや、といつたきりで、橋銭を置かないで行つてしまつた。 「ねえ、母様、先生もづるい[#「づるい」はママ]人なんかねえ。」 と窓から顔を引込ませた。
第二
「お心易立なんでしやう、でもづるい[#「づるい」はママ]んだよ。余程さういはうかと思つたけれど、先生だといふから、また、そんなことで悪く取つて、お前が憎まれでもしちやなるまいと思つて黙つて居ました。」 といひ/\母様は縫つて居らつしやる。 お膝の前に落ちて居た、一ツの方の手袋の格恰が出来たのを、私は手に取つて、掌にあてゝ見たり、甲の上へ乗ツけて見たり、 「母様、先生はね、それでなくつても僕のことを可愛がつちやあ下さらないの。」 と訴へるやうにいひました。 かういつた時に、学校で何だか知らないけれど、私がものをいつても、快く返事をおしでなかつたり、拗ねたやうな、けんどんなやうな、おもしろくない言をおかけであるのを、いつでも情いと思ひ/\して居たのを考へ出して、少し欝いで来て俯向いた。 「何故さ。」 何、さういふ様子の見えるのは、つひ四五日前からで、其前には些少もこんなことはありはしなかつた。帰つて母様にさういつて、何故だか聞いて見やうと思つたんだ。 けれど、番小屋へ入ると直飛出して遊んであるいて、帰ると、御飯を食べて、そしちやあ横になつて、母様の気高い美しい、頼母しい、温当な、そして少し痩せておいでの、髪を束ねてしつとりして居らつしやる顔を見て、何か談話をしい/\、ぱつちりと眼をあいてるつもりなのが、いつか其まんまで寝てしまつて、眼がさめると、また直支度を済まして、学校へ行くんだもの。そんなこといつてる隙がなかつたのが、雨で閉籠つて淋しいので思ひ出した序だから聞いたので、 「何故だつて、何なの、此間ねえ、先生が修身のお談話をしてね、人は何だから、世の中に一番えらいものだつて、さういつたの。母様違つてるわねえ。」 「むゝ。」 「ねツ違つてるワ、母様。」 と揉くちやにしたので、吃驚して、ぴつたり手をついて畳の上で、手袋をのした。横に皺が寄つたから、引張つて、 「だから僕、さういつたんだ、いゝえ、あの、先生、さうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も皆おんなじ動物だつて。」 「何とおつしやつたね。」 「馬鹿なことをおつしやいつて。」 「さうでしやう。それから、」 「それから、だつて、犬や猫が、口を利きますか、ものをいひますかツて、さういふの。いひます。雀だつてチツチツチツチツて、母様と父様と、児と朋達と皆で、お談話をしてるじやあありませんか。僕眠い時、うつとりしてる時なんぞは、耳ン処に来て、チツチツチて、何かいつて聞かせますのツてさういふとね、詰らない、そりや囀るんです。ものをいふのぢやあなくツて、囀るの、だから何をいふんだか分りますまいツて聞いたよ。僕ね、あのウだつてもね、先生、人だつて、大勢で、皆が体操場で、てんでに何かいつてるのを遠くン処で聞いて居ると、何をいつてるのか些少も分らないで、ざあ/\ツて流れてる川の音とおんなしで僕分りませんもの。それから僕の内の橋の下を、あのウ舟漕いで行くのが何だか唄つて行くけれど、何をいふんだかやつぱり鳥が声を大きくして長く引ぱつて鳴いてるのと違ひませんもの。ずツと川下の方でほう/\ツて呼んでるのは、あれは、あの、人なんか、犬なんか、分りませんもの。雀だつて、四十雀だつて、軒だの、榎だのに留まつてないで、僕と一所に坐つて話したら皆分るんだけれど、離れてるから聞こえませんの。だつてソツとそばへ行つて、僕、お談話しやうと思ふと、皆立つていつてしまひますもの、でも、いまに大人になると、遠くで居ても分りますツて、小さい耳だから、沢山いろんな声が入らないのだつて、母様が僕、あかさんであつた時分からいひました。犬も猫も人間もおんなじだつて。ねえ、母様、だねえ母様、いまに皆分るんだね。」
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