第十二
日が暮れかゝると彼方に一ならび、此方に一ならび縦横になつて、梅の樹が飛々に暗くなる。枝々のなかの水田の水がどむよりして淀むで居るのに際立つて真白に見えるのは鷺だつた、二羽一処にト三羽一処にト居てそして一羽が六尺ばかり空へ斜に足から糸のやうに水を引いて立つてあがつたが音がなかつた、それでもない。 蛙が一斉に鳴きはじめる。森が暗くなつて、山が見えなくなつた。 宵月の頃だつたのに曇てたので、星も見えないで、陰々として一面にものゝ色が灰のやうにうるんであつた、蛙がしきりになく。 仰いで高い処に朱の欄干のついた窓があつて、そこが母様のうちだつたと聞く、仰いで高い処に朱の欄干のついた窓があつてそこから顔を出す、其顔が自分の顔であつたんだらうにトさう思ひながら破れた垣の穴ん処に腰をかけてぼんやりして居た。 いつでもあの翼の生へたうつくしい人をたづねあぐむ、其昼のうち精神の疲労ないうちは可んだけれど、度が過ぎて、そんなに晩くなると、いつもかう滅入つてしまつて、何だか、人に離れたやうな世間に遠ざかつたやうな気がするので、心細くもあり、裏悲しくもあり、覚束ないやうでもあり、恐ろしいやうでもある、嫌な心持だ、嫌な心持だ。 早く帰らうとしたけれど気が重くなつて其癖神経は鋭くなつて、それで居てひとりでにあくびが出た。あれ! 赤い口をあいたんだなと、自分でさうおもつて、吃驚した。 ぼんやりした梅の枝が手をのばして立つてるやうだ。あたりをすと真くらで、遠くの方で、ほう、ほうツて、呼ぶのは何だらう。冴えた通る声で野末を押ひろげるやうに、啼く、トントントントンと谺にあたるやうな響きが遠くから来るやうに聞こえる鳥の声は、梟であつた。 一ツでない。 二ツも三ツも。私に何を談すのだらう、私に何を談すのだらう、鳥がものをいふと慄然として身の毛が慄立つた。 ほんとうに其晩ほど恐かつたことはない。 蛙の声がます/\高くなる、これはまた仰山な、何百、何うして幾千と居て鳴いてるので、幾千の蛙が一ツ一ツ眼があつて、口があつて、足があつて、身躰があつて、水ン中に居て、そして声を出すのだ。一ツ一ツトわなゝいた。寒くなつた。風が少し出て樹がゆつさり動いた。 蛙の声がます/\高くなる、居ても立つても居られなくツて、そつと動き出した、身躰が何うにかなつてるやうで、すつと立ち切れないで蹲つた、裾が足にくるまつて、帯が少し弛むで、胸があいて、うつむいたまゝ天窓がすはつた。ものがぼんやり見える。 見えるのは眼だトまたふるえた。 ふるえながら、そつと、大事に、内証で、手首をすくめて、自分の身躰を見やうと思つて、左右へ袖をひらいた時もう思はずキヤツと叫んだ。だつて私が鳥のやうに見えたんですもの。何んなに恐かつたらう。 此時背後から母様がしつかり抱いて下さらなかつたら、私何うしたんだか知れません。其はおそくなつたから見に来て下すつたんで泣くことさへ出来なかつたのが、 「母様!」といつて離れまいと思つて、しつかり、しつかり、しつかり襟ん処へかぢりついて仰向いてお顔を見た時、フツト気が着いた。 何うもさうらしい、翼の生へたうつくしい人は何うも母様であるらしい。もう鳥屋には、行くまい、わけてもこの恐い処へと、其後ふつゝり。 しかし何うしても何う見ても母様にうつくしい五色の翼が生へちやあ居ないから、またさうではなく、他にそんな人が居るのかも知れない、何うしても判然しないで疑はれる。 雨も晴れたり、ちやうど石原も辷るだらう。母様はあゝおつしやるけれど、故とあの猿にぶつかつて、また川へ落ちて見やうか不知。さうすりやまた引上げて下さるだらう。見たいな! 翼の生へたうつくしい姉さん。だけれども、まあ、可、母様が居らつしやるから、母様が居らつしやつたから。(完)
(「新著月刊」第一号 明治30年4月)
●表記について
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- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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