第九
一廻くるりと環にまはつて前足をついて、棒杭の上へ乗つて、お天気を見るのであらう、仰向いて空を見た。晴れるといまに行くよ。 母様は嘘をおつしやらない。 博士は頻に指しをして居たが、口[#「くち」は底本では「くゐ」]が利けないらしかつた、で、一散に駆けて、来て黙つて小屋の前を通らうとする。 「おぢさん/\。」 と厳しく呼んでやつた。追懸けて、 「橋銭を置いて去らつしやい、おぢさん。」 とさういつた。 「何だ!」 一通の声ではない、さつきから口が利けないで、あのふくれた腹に一杯固くなるほど詰め込み/\して置いた声を、紙鉄砲ぶつやうにはぢきだしたものらしい。 で、赤い鼻をうつむけて、額越に睨みつけた。 「何か」と今度は応揚[#「応揚」はママ]である。 私は返事をしませんかつた。それは驚いたわけではない、恐かつたわけではない。鮟鱇にしては少し顔がそぐはないから何にしやう、何に肖て居るだらう、この赤い鼻の高いのに、さきの方が少し垂れさがつて、上唇におつかぶさつてる工合といつたらない、魚より獣より寧ろ鳥の嘴によく肖て居る、雀か、山雀か、さうでもない。それでもないト考えて七面鳥に思ひあたつた時、なまぬるい音調で、 「馬鹿め。」 といひすてにして沈んで来る帽子をゆりあげて行かうとする。 「あなた。」とおつかさんが屹とした声でおつしやつて、お膝の上の糸屑を細い、白い、指のさきで二ツ三ツはじき落して、すつと出て窓の処へお立ちなすつた。 「渡をお置きなさらんではいけません。」 「え、え、え。」 といつたがぢれつたさうに、 「僕は何じやが、うゝ知らんのか。」 「誰です、あなたは。」と冷で。私こんなのをきくとすつきりする、眼のさきに見える気にくわないものに、水をぶつかけて、天窓から洗つておやんなさるので、いつでもかうだ、極めていゝ。 鮟鱇は腹をぶく/\さして、肩をゆすつたが、衣兜から名刺を出して、笊のなかへまつすぐに恭しく置いて、 「かういふものじや、これじや、僕じや。」 といつて肩書の処を指した、恐ろしくみぢかい指で、黄金の指輪の太いのをはめて居る。 手にも取らないで、口のなかに低声におよみなすつたのが、市内衛生会委員、教育談話会幹事、生命保険会社々員、一六会々長、美術奨励会理事、大日本赤十字社社員、天野喜太郎。 「この方ですか。」 「うゝ。」といつた時ふつくりした鼻のさきがふら/\して、手で、胸にかけた赤十字の徽章をはぢいたあとで、 「分つたかね。」 こんどはやさしい声でさういつたまゝまた行きさうにする。 「いけません。お払でなきやアあとへお帰ンなさい。」とおつしやつた。先生妙な顔をしてぼんやり立つてたが少しむきになつて、 「えゝ、こ、細いのがないんじやから。」 「おつりを差上げましやう。」 おつかさんは帯のあひだへ手をお入れ遊ばした。
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