乾坤 果して何物ぞ、 開闔 古より有り。 世を 挙って 孰か 客に 非ざらん、 離会 豈偶なりと 云はんや。 嗟予 蓬蒿の人、 鄙猥 林籔に 匿る。 自から 慚づ 駑蹇の姿、 寧ぞ学ばん 牛馬の走るを。 呉山 窈くして 而して深し、 性を養ひて 老朽を甘んず。 且 木石と共に 居りて、 氷檗と 志 堅く守りぬ。 人は云ふ 鳳 枳に 栖むと、 豈同じからんや 魚の ※[#「网/卯」、354-11]に 在るに。 藜 我腸を 充し、 衣蔽れて 両肘露はる。 龍 高位に在り、 誰か 来りて 可否を問はん。 盤旋す 草※[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、356-4]の 間に、 樵牧 日に 相叩く。 嘯詠 寒山に擬し、 惟 道を以て自負す。 忍びざりき 強ひて 塗抹して、 乞媚びて 里婦に 効ふに。 山霊 蔵るゝことを 容さず、 辟歴 岡阜を破りぬ。 門を 出でゝ 天日を 睹る、 行也 焉にぞ 肯て 苟もせん。 一挙して 即ち北に 上れば、 親藩 待つこと 惟久しかりき。 天地 忽ち 大変して、 神龍 氷湫より起る。 万方 共に 忻び 躍りて、 率土 元后を 戴く。 吾を召して 南京に来らしめ、 爵賞加恩 厚し。 常時 天眷を 荷ふ、 愛に 因って 醜を知らず。(下略)
嘯詠寒山に擬すの句は、此老の行為に照せば、矯飾の言に近きを覚ゆれども、若夫れ知己に遇わずんば、強項の人、或は呉山に老朽を甘んじて、一生世外の衲子たりしも、また知るべからず、未だ遽に虚高の辞を為すものと断ず可からず。たゞ道衍の性の豪雄なる、嘯詠吟哦、或は獅子の繍毬を弄して日を消するが如くに、其身を終ることは之有るべし、寒山子の如くに、蕭散閑曠、塵表に逍遙して、其身を遺るゝを得可きや否や、疑う可き也。龍高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するを容さず以下数句、燕王に召出されしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王崛起の事をいう。道い得て佳なり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて吾身を世に徇うるを言えるもの、亦善く標置すというべし。
道衍の一生を考うるに、其の燕を幇けて簒を成さしめし所以のもの、栄名厚利の為にあらざるが如し。而も名利の為にせずんば、何を苦んでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王に戴かしめしぞ。道衍と建文帝と、深仇宿怨あるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解す可からざるある也。道衍己の偉功によって以て仏道の為にすと云わんか、仏道明朝の為に圧逼せらるゝありしに非る也。燕王覬覦の情無き能わざりしと雖も、道衍の扇を鼓して火を煽るにあらざれば、燕王未だ必ずしも毒烟猛[を揚げざるなり。道衍抑又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、呂尚、范増、皆老いて而して後立つと雖も、円頂黒衣の人を以て、諸行無常の教を奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。嗚呼又解すべからずというべし。若し強いて道衍の為に解さば、惟是れ道衍が天に禀くるの気と、自ら負むの材と、※々[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]、蕩々、糾々、昂々として、屈す可からず、撓む可からず、消す可からず、抑う可からざる者、燕王に遇うに当って、然として破裂し、爆然として迸発せるものというべき耶、非耶。予其の逃虚子集を読むに、道衍が英雄豪傑の蹟に感慨するもの多くして、仏灯梵鐘の間に幽潜するの情の少きを思わずんばあらざるなり。 道衍の人となりの古怪なる、実に一沙門を以て目す可からずと雖も、而も文を好み道の為にするの情も、亦偽なりとなす可からず。此故に太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]実録を重修するや、衍実に其監修を為し、又支那ありてより以来の大編纂たる永楽大典の成れるも、衍実に解縉等と与に之を為せるにて、是れ皆文を好むの余に出で、道余録を著し、浄土簡要録を著し、諸上善人詠を著せるは、是れ皆道の為にせるに出づ。史に記す。道衍晩に道余録を著し、頗る先儒を毀る、識者これを鄙しむ。其の故郷の長州に至るや、同産の姉を候す、姉納れず。其友王賓を訪う、賓も亦見えず、但遙に語って曰く、和尚誤れり、和尚誤れりと。復往いて姉を見る、姉これを詈る。道衍惘然たりと。道衍の姉、儒を奉じ仏を斥くるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史に伝無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの王達善ならんか。声を揚げて遙語す、鄙しむも亦甚し。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじて之を悪むも、亦過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余曩に僧たりし時、元季の兵乱に値う。年三十に近くして、愚庵の及和尚に径山に従って禅学を習う。暇あれば内外の典籍を披閲して以て才識に資す。因って河南の二程先生の遺書と新安の晦庵朱先生の語録を観る。(中略)三先生既に斯文の宗主、後学の師範たり、仏老を※斥[#「てへん+(嚢-口二つ)」、361-8]すというと雖も、必ず当に理に拠って至公無私なるべし、即ち人心服せん。三先生多く仏書を探らざるに因って仏の底蘊を知らず。一に私意を以て邪※[#「言+皮」、UCS-8A56、361-10]の辞を出して、枉抑太だ過ぎたり、世の人も心亦多く平らかならず、況んや其学を宗する者をやと。(下略)道余録は乃ち程氏遺書の中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条を目して、極めて謬誕なりと為し、条を逐い理に拠って一々剖柝せるものなり。藁成って巾笥に蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵禅子の常談にして、別に他の奇無し。蓋し明道、伊川、晦庵の仏を排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するが如き、本是弁じ易きの事たり。膽を張り目を怒らし、手を戟にし気を壮にするを要せず。道衍の峻機険鋒を以て、徐に幾百年前の故紙に対す、縦説横説、甚だ是れ容易なり。是れ其の観る可き無き所以なり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道の言を罵って、豈道学の君子の為ならんやと云い、明道の執見僻説、委巷の曲士の若し、誠に咲う可き也、と云い、明道何ぞ乃ち自ら苦むこと此の如くなるや、と云い、伊川の言を評しては、此は是れ伊川みずから此説を造って禅学者を誣う、伊川が良心いずくにか在る、と云い、管を以て天を窺うが如しとは夫子みずから道うなりと云い、程夫子崛強自任す、聖人の道を伝うる者、是の如くなる可からざる也、と云い、晦庵の言を難しては、朱子の語、と云い、惟私意を逞しくして以て仏を詆る、と云い、朱子も亦怪なり、と云い、晦庵此の如くに心を用いば、市井の間の小人の争いて販売する者の所為と何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、愚弄嘲笑すること太だ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れ蓋し其姉の納れず、其友の見ざるに至れる所以ならずんばあらず。道衍の言を考うるに、大禅宗に依り、楞伽、楞厳、円覚、法華、華厳等の経に拠って、程朱の排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。然れども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に於て、抗争反撃の弁を逞しくす。書の公にさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと曰うと雖も、亦争を好むというべし。此も亦道衍が※々蕩々[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]の気の、已む能わずして然るもの耶、非耶。 道衍は是の如きの人なり、而して猶卓侍郎を容るゝ能わず、之を赦さんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。素より相善からざるの私ありしに因るとは云え、又実に卓の才の大にして器の偉なるを忌みたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、卓惟恭もまた雄傑の士というべし。 道衍の卓敬に対する、衍の詩句を仮りて之を評すれば、道衍量何ぞ隘きやと云う可きなり。然るに道衍の方正学に対するは則ち大に異なり。方正学の燕王に於けるは、実に相容れざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人を掃わんとするを名として、其の目して以て事を構え親を破り、天下を誤るとなせる者は、斉黄練方の四人なりき。斉は斉泰なり、黄は黄子澄なり、練は練子寧なり、而して方は即ち方正学なり。燕王にして功の成るや、もとより此四人を得て甘心せんとす。道衍は王の心腹なり、初よりこれを知らざるにあらず。然るに燕王の北平を発するに当り、道衍これを郊に送り、跪いて密に啓して曰く、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に方孝孺あり、学行あるを以て聞ゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ず降らざらんも、幸に之を殺したもう勿れ、之を殺したまわば則ち天下の読書の種子絶えんと。燕王これを首肯す。道衍の卓敬に於ける、私情の憎嫉ありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は宗濂の門下の巨珠にして、道衍と宋濂とは蓋し文字の交あり。道衍の少きや、学を好み詩を工にして、濂の推奨するところとなる。道衍豈孝孺が濂の愛重するところの弟子たるを以て深く知るところありて庇護するか、或は又孝孺の文章学術、一世の仰慕するところたるを以て、之を殺すは燕王の盛徳を傷り、天下の批議を惹く所以なるを慮りて憚るか、将又真に天下読書の種子の絶えんことを懼るゝか、抑亦孝孺の厳の操履、燕王の剛邁の気象、二者相遇わば、氷塊の鉄塊と相撃ち、鷲王と龍王との相闘うが如き凄惨狠毒の光景を生ぜんことを想察して預め之を防遏せんとせるか、今皆確知する能わざるなり。 方孝孺は如何なる人ぞや。孝孺字は希直、一字は希古、寧海の人。父克勤は済寧の知府たり。治を為すに徳を本とし、心を苦めて民の為にす。田野を闢き、学校を興し、勤倹身を持し、敦厚人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今耕耘暇あらず、何ぞ又畚に堪えんと。中書省に請いて役を罷むるを得たり。是より先き久しく旱せしが、役の罷むに及んで甘雨大に至りしかば、済寧の民歌って曰く。
孰か我が役を罷めしぞ、 使君の 力なり。 孰か我が黍を活かしめしぞ、 使君の 雨なり。 使君よ 去りたまふ勿れ、 我が民の 父なり 母なり。
克勤の民意を得る是の如くなりしかば、事を視ること三年にして、戸口増倍し、一郡饒足し、男女怡々として生を楽みしという。克勤愚菴と号す。宋濂に故愚庵先生方公墓銘文あり。滔々数千言、備に其の人となりを尽す。中に記す、晩年益畏慎を加え、昼の為す所の事、夜は則ち天に白すと。愚庵はたゞに循吏たるのみならざるなり。濂又曰く、古に謂わゆる体道成徳の人、先生誠に庶幾焉と。蓋し濂が諛墓の辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。天賦も厚く、庭訓も厳なりしならん。幼にして精敏、双眸烱々として、日に書を読むこと寸に盈ち、文を為すに雄邁醇深なりしかば、郷人呼んで小韓子となせりという。其の聰慧なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉く称して太史公となして、姓氏を以てせず。濂字は、景濂、其先金華の潜渓の人なるを以て潜渓と号す。太祖濂を廷に誉めて曰く、宋景濂朕に事うること十九年、未だ嘗て一言の偽あらず、一人の短を誚らず、始終二無し、たゞに君子のみならず、抑賢と謂う可しと。太祖の濂を視ること是の如し。濂の人品想う可き也。孝孺洪武の九年を以て、濂に見えて弟子となる。濂時に年六十八、孝孺を得て大に之を喜ぶ。潜渓が方生の天台に還るを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生希直を得たり、其の人となりや凝重にして物に遷らず、穎鋭にして以て諸を理に燭す、間発[#「間発」は底本では「発間」]して文を為す、水の湧いて山の出づるが如し、喧啾たる百鳥の中、此の孤鳳皇を見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重穎鋭の二句、老先生眼裏の好学生を写し出し来って神有り。此の孤鳳皇を見るというに至っては、推重も亦至れり。詩十四章、其二に曰く、
念ふ 子が 初めて来りし時、 才思 繭糸の若し。 之を抽いて 已に緒を見る、 染めて就せ 五色の衣。
其九に曰く、
須らく知るべし 九仭の山も、 功 或は 一簣に少くるを。 学は 貴ぶ 日に随つて新なるを、 慎んで 中道に廃する勿れ。
其十に曰く、
羣経 明訓 耿たり、 白日 青天に麗る。 苟も徒に 文辞に溺れなば、 蛍※[#「火+爵」、UCS-721D、370-6] 妍を争はんと欲するなり。
其十一に曰く、
姫も 孔も 亦 何人ぞや、 顔面 了に 異ならじ。 肯て 盆の 中に 墮せんや、 当に 瑚の 器となるべし。
其終章に曰く、
明年 二三月、 羅山 花 正に開かん。 高きに登りて 日に盻望し、 子が能く 重ねて来るを遅たむ。
其才を称し、其学を勧め、其の流れて文辞の人とならんことを戒め、其の奮って聖賢の域に至らんことを求め、他日復再び大道を論ぜんことを欲す。潜渓が孝孺に対する、称許も甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。嗚呼、老先生、孰か好学生を愛せざらん、好学生、孰か老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年丁巳、経を執って浦陽に潜渓に就きぬ。従学四年、業大に進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其の下に出で、先輩胡翰も蘇伯衡も亦自ら如かずと謂うに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓が之を送る五十四韻の長詩あり。其引の中に記して曰く、細らかに其の進修の功を占うに、日々に異なるありて、月々に同じからず、僅に四春秋を越ゆるのみにして而して英発光著や斯の如し、後四春秋ならしめば、則ち其の至るところ又如何なるを知らず、近代を以て之を言えば、欧陽少卿、蘇長公の輩は、姑らく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸の場に角逐せば、孰か後となり孰か先となるを知らざる也。今此説を為す、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にして当に其の知言にして、生に許す者の過に非ざるを信ずべき也。然りと雖も予の生に許すところの者、寧ぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るを惜み、為に是詩を賦す、既に其の素有の善を揚げ、復勗むるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩や辞を行る自在にして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、
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