打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口

運命(うんめい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:19:37 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 

乾坤けんこん 果して何物ぞ、
開闔かいこう いにしえより有り。
世をこぞって たれかくあらざらん、
離会 あにたまたまなりとはんや。
ああわれ 蓬蒿ほうこうの人、
鄙猥ひわい 林籔りんそうかくる。
みずからづ 駑蹇どけんの姿、
なんぞ学ばん 牛馬の走るを。
呉山ござん ふかくしてしこうして深し、
性を養ひて 老朽を甘んず。
かつ 木石と共にりて、
氷檗ひょうばくと こころざし 堅く守りぬ。
人は云ふ ほう からたちむと、
あに同じからんや 魚のやな[#「网/卯」、354-11]るに。
※(「くさかんむり/霍」、第3水準1-91-37)れいかく わがはらわたみたし、
やぶれて 両肘りょうちゅうあらはる。
※(「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72)きりゅう 高位に在り、
たれきたりて 可否を問はん。
盤旋ばんせんす 草※そうもう[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、356-4]あいだに、
樵牧しょうぼく 日にあいたたく。
嘯詠しょうえい 寒山かんざんに擬し、
ただ 道を以て自負す。
忍びざりき 強ひて塗抹とまつして、
こいびて 里婦さとのおんなならふに。
山霊 かくるゝことをゆるさず、
辟歴はたたがみ 岡阜こうふを破りぬ。
門をでゝ 天日をる、
行也こうや いずくにぞ あえいやしくもせん。
一挙して 即ち北にのぼれば、
親藩 待つことこれ久しかりき。
天地 たちまち 大変して、
神龍 氷湫ひょうしゅうより起る。
万方 共によろこおどりて、
率土そっと 元后げんこういただく。
われを召して 南京なんけいに来らしめ、
爵賞加恩 厚し。
常時 天眷てんけんになふ、
愛にって しゅうを知らず。(下略)


 嘯詠寒山しょうえいかんざんに擬すの句は、このろうの行為にてらせば、矯飾きょうしょくの言に近きを覚ゆれども、もしれ知己にわずんば、強項きょうこうの人、あるい呉山ござんに老朽をあまんじて、一生世外せいがい衲子とっしたりしも、また知るべからず、いまにわか虚高きょこうの辞をすものと断ずからず。たゞ道衍の性の豪雄なる、嘯詠吟哦しょうえいぎんがあるい獅子しし繍毬しゅうきゅうろうして日を消するがごとくに、その身を終ることはこれ有るべし、寒山子かんざんしの如くに、蕭散閑曠しょうさんかんこう塵表じんぴょう逍遙しょうようして、其身をわするゝを可きやあらずや、疑う可き也。※(「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72)きりゅう高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するをゆるさず以下数句、燕王えんおう召出めしいだされしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王崛起くっきの事をいう。い得てなり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて吾身わがみを世にとなうるを言えるもの、また標置ひょうちすというべし。


 道衍どうえんの一生を考うるに、えんたすけてさんを成さしめし所以ゆえんのもの、栄名厚利のためにあらざるがごとし。しか名利めいりの為にせずんば、何をくるしんでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王にいただかしめしぞ。道衍と建文帝けんぶんていと、深仇しんきゅう宿怨しゅくえんあるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解すからざるあるなり。道衍おのれの偉功によってもって仏道の為にすとわんか、仏道明朝みんちょうの為に圧逼あっぱくせらるゝありしにあらざる也。燕王覬覦きゆじょう無きあたわざりしといえども、道衍のせんして火をあおるにあらざれば、燕王いまだ必ずしも毒烟どくえん猛[※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)もうえんを揚げざるなり。道衍そも又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、呂尚りょしょう范増はんぞう、皆老いてしこうして後立つといえども、円頂黒衣の人を以て、諸行無常のおしえを奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。嗚呼ああ又解すべからずというべし。いて道衍の為に解さば、ただれ道衍が天にくるの気と、自らたのむの材と、※々もうもう[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]蕩々とうとう糾々きゅうきゅう昂々こうこうとして、屈すからず、たわむ可からず、しょうす可からず、おさう可からざる者、燕王にうに当って、※(「(ぼう+彡)/石」、第4水準2-82-32)かくぜんとして破裂し、爆然として迸発へいはつせるものというべき。予逃虚子集とうきょししゅうを読むに、道衍が英雄豪傑のあとに感慨するもの多くして、仏灯ぶっとう梵鐘ぼんしょうの間に幽潜するの情のすくなきを思わずんばあらざるなり。
 道衍の人となりの古怪なる、実に一沙門しゃもんを以て目す可からずと雖も、しかも文を好み道の為にするの情も、またなりとなす可からず。このゆえ太祖たいそ[#「太祖」は底本では「大祖」]実録じつろく重修ちょうしゅうするや、えん実にその監修をし、又支那しなありてより以来の大編纂だいへんさんたる永楽大典えいらくだいてんの成れるも、衍実に解縉かいしんともこれせるにて、れ皆文を好むのに出で、道余録どうよろくを著し、浄土簡要録じょうどかんようろくを著し、諸上善人詠しょじょうぜんじんえいを著せるは、是れ皆道の為にせるにづ。史に記す。道衍ばんに道余録を著し、すこぶる先儒をそしる、識者これをいやしむ。の故郷の長州ちょうしゅうに至るや、同産の姉をこうす、姉れず。その王賓おうひんう、賓もまたまみえず、ただはるかに語って曰く、和尚おしょう誤れり、和尚誤れりと。またいて姉を見る、姉これをののしる。道衍惘然ぼうぜんたりと。道衍の姉、儒を奉じぶつしりぞくるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史にでん無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの王達善おうたつぜんならんか。声を揚げて遙語ようごす、いやしむも亦はなはだし。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじてこれにくむも、また過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余さきに僧たりし時、元季げんきの兵乱にう。年三十に近くして、愚庵ぐあんきゅう和尚に径山けいざんに従って禅学を習う。いとまあれば内外の典籍を披閲ひえつしてもって才識に資す。因って河南かなん二程先生にていせんせいの遺書と新安しんあん晦庵朱先生かいあんしゅせんせいの語録をる。(中略)三先生既に斯文しぶん宗主そうしゅ、後学の師範たり、仏老ぶつろう※斥じょうせき[#「てへん+(嚢-口二つ)」、361-8]すというと雖も、必ずまさに理にって至公無私なるべし、すなわち人心服せん。三先生多く仏書をさぐらざるに因ってぶつ底蘊ていおんを知らず。一に私意を以て邪※じゃひ[#「言+皮」、UCS-8A56、361-10]ことばを出して、枉抑おうよくはなはだ過ぎたり、世の人も心また多く平らかならず、いわんやその学をそうする者をやと。(下略)道余録はすなわ程氏ていし遺書いしょの中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条をもくして、極めて謬誕びょうたんなりとし、条をい理に拠って一々剖柝ぼうせきせるものなり。こう成って巾笥きんしに蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵たいてい禅子の常談にして、別に他の奇無し。けだ明道めいどう伊川いせん晦庵かいあんぶつを排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するがごとき、もとこれ弁じやすきの事たり。たんを張り目を怒らし、手をほこにし気をさかんにするを要せず。道衍の峻機しゅんき険鋒けんぼうを以て、しずかに幾百年前の故紙こしに対す、縦説横説、はなはれ容易なり。是れ其のる可き無き所以ゆえんなり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道めいどうの言をののしって、あに道学の君子のわざならんやとい、明道の執見しっけん僻説へきせつ委巷いこうの曲士のごとし、誠にわらう可き也、と云い、明道何ぞすなわち自らくるしむことかくの如くなるや、と云い、伊川いせんげんを評しては、これは是れ伊川いせんみずからこの説を造って禅学者をう、伊川が良心いずくにかる、と云い、かんを以て天をうかがうが如しとは夫子ふうしみずからうなりと云い、程夫子ていふうし崛強くっきょう自任じにんす、聖人の道を伝うる者、かくの如くなる可からざる也、と云い、晦庵かいあんの言をなんしては、朱子の※(「寐」の「未」に代えて「自/木」、第4水準2-8-10)げいご、と云い、ただ私意をたくましくして以て仏をそしる、と云い、朱子もまた怪なり、と云い、晦庵かくの如くに心を用いば、市井しせいの間の小人の争いて販売する者の所為しょいと何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、愚弄ぐろう嘲笑ちょうしょうすることはなはだ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れけだその姉のれず、その友の見ざるに至れる所以ゆえんならずんばあらず。道衍の言を考うるに、※(「既/木」、第3水準1-86-3)たいがい禅宗ぜんしゅうに依り、楞伽りょうが楞厳りょうごん円覚えんがく法華ほっけ華厳けごん等の経に拠って、程朱ていしゅの排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。しかれども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日において、抗争反撃の弁をたくましくす。書のおおやけにさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすとうと雖も、亦あらそいを好むというべし。も亦道衍が※々蕩々もうもうとうとう[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]の気の、む能わずして然るもの
 道衍はかくの如きの人なり、而してなお卓侍郎たくじろうるゝ能わず、これゆるさんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。もとよりあいからざるのわたくしありしにるとは云え、又実に卓の才の大にしての偉なるをみたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、卓惟恭たくいきょうもまた雄傑の士というべし。
 道衍の卓敬に対する、衍の詩句をりて之を評すれば、道衍りょう何ぞせまきやと云う可きなり。しかるに道衍の方正学ほうせいがくに対するはすなわおおいに異なり。方正学の燕王にけるは、実にあいれざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人をはらわんとするを名として、其のもくして以て事を構えしんを破り、天下を誤るとなせる者は、斉黄練方せいこうれんほうの四人なりき。斉は斉泰せいたいなり、黄は黄子澄こうしちょうなり、練は練子寧れんしねいなり、しかして方は即ち方正学ほうせいがくなり。燕王にして功の成るや、もとよりこの四人を得て甘心かんしんせんとす。道衍は王の心腹しんぷくなり、はじめよりこれを知らざるにあらず。しかるに燕王の北平ほくへいを発するに当り、道衍これをこうに送り、ひざまずいてひそかもうしていわく、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に方孝孺ほうこうじゅあり、学行がくこうあるをもっきこゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ずくだらざらんも、さいわいに之を殺したもうなかれ、之を殺したまわばすなわち天下の読書の種子しゅし絶えんと。燕王これを首肯しゅこうす。道衍の卓敬にける、私情の憎嫉ぞうしつありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は宗濂そうれんの門下の巨珠にして、道衍と宋濂とはけだし文字の交あり。道衍のわかきや、学を好み詩をたくみにして、濂の推奨するところとなる。道衍あに孝孺が濂の愛重あいちょうするところの弟子ていしたるを以て深く知るところありて庇護ひごするか、あるいは又孝孺の文章学術、一世の仰慕げいぼするところたるを以て、これを殺すは燕王の盛徳をやぶり、天下の批議を所以ゆえんなるをはかりてはばかるか、はた又真に天下読書の種子の絶えんことをおそるゝか、そもそも亦孝孺の※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)げんれい操履そうり、燕王の剛邁ごうまいの気象、二者あいわば、氷塊の鉄塊とあいち、鷲王しゅうおう龍王りゅうおうとのあいたたかうが如き凄惨狠毒せいさんこんどくの光景を生ぜんことを想察してあらかじめ之を防遏ぼうあつせんとせるか、今皆確知するあたわざるなり。
 方孝孺は如何いかなる人ぞや。孝孺あざな希直きちょく、一字は希古きこ寧海ねいかいの人。父克勤こくきん済寧せいねい知府ちふたり。治を為すに徳をもととし、心をくるしめて民のためにす。田野でんやひらき、学校を興し、勤倹身を持し、敦厚とんこう人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今耕耘こううんいとまあらず、何ぞ又※(「金+插のつくり」、第3水準1-93-28)ほんそうに堪えんと。中書省ちゅしょしょうに請いてえきむるを得たり。是よりき久しくひでりせしが、役の罷むに及んで甘雨かんうおおいに至りしかば、済寧の民歌って曰く。

たれか我が役をめしぞ、
使君しくんの 力なり。
たれか我がしょかしめしぞ、
使君の 雨なり。
使君よ 去りたまふなかれ、
我が民の 父なり 母なり。


 克勤の民意をかくの如くなりしかば、事をること三年にして、戸口増倍し、一郡饒足じょうそくし、男女怡々いいとして生をたのしみしという。克勤愚菴ぐあんと号す。宋濂そうれん愚庵先生方公墓銘文ほうこうぼめいぶんあり。滔々とうとう数千言すせんげんつぶさに其の人となりを尽す。うちに記す、晩年ますます畏慎いしんを加え、昼のす所の事、夜はすなわち天にもうすと。愚庵はたゞに循吏じゅんりたるのみならざるなり。濂又曰く、いにしえわゆる体道たいどう成徳せいとくの人、先生誠に庶幾焉ちかしと。けだし濂が諛墓ゆぼの辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。天賦てんぷも厚く、庭訓ていきんも厳なりしならん。幼にして精敏、双眸そうぼう烱々けいけいとして、日に書を読むこと寸にち、文をすに雄邁醇深ゆうまいじゅんしんなりしかば、郷人呼んで小韓子しょうかんしとなせりという。其の聰慧そうけいなりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、ことごとく称して太史公たいしこうとなして、姓氏を以てせず。濂あざなは、景濂けいれんそのせん金華きんか潜渓せんけいの人なるを以て潜渓せんけいごうす。太祖れんていめて曰く、宋景濂ちんつかうること十九年、いまかつて一げんいつわりあらず、一人いちにんたんそしらず、始終無し、たゞに君子のみならず、そもそも賢とう可しと。太祖の濂をることかくの如し。濂の人品おもう可きなり。孝孺洪武こうぶの九年を以て、濂にまみえて弟子ていしとなる。濂時に年六十八、孝孺を得ておおいに之を喜ぶ。潜渓が方生の天台にかえるを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生希直きちょくを得たり、其の人となりや凝重ぎょうちょうにして物にうつらず、穎鋭えいえいにして以てこれを理にしょくす、ままはっ[#「ままはっ」は底本では「ままはっ」]して文をす、水のいて山のづるが如し、喧啾けんしゅうたる百鳥のうち、此の孤鳳皇こほうおうを見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重ぎょうちょう穎鋭えいえいの二句、老先生眼裏がんりの好学生を写しいだきたってしん有り。此の孤鳳皇こほうおうを見るというに至っては、推重すいちょうまた至れり。詩十四章、其二に曰く、

おもふ が 初めて来りし時、
才思 繭糸けんしごとし。
之をいて すでいとぐちを見る、
染めてせ 五色ごしき


其九に曰く、

すべからく知るべし 九仭きゅうじんの山も、
功 あるいは 一くるを。
学は 貴ぶ 日にしたがつてあらたなるを、
慎んで 中道に廃するなかれ。


其十に曰く、

羣経ぐんけい 明訓めいくん こうたり、
白日 青天にかかる。
いやしくただに 文辞におぼれなば、
蛍※けいしゃく[#「火+爵」、UCS-721D、370-6] けんを争はんと欲するなり。


其十一に曰く、

も こうも 亦何人なんぴとぞや、
顔面 ついことならじ。
あえて ※(「央/皿」、第3水準1-88-73)ぼんおううちせんや、
まさに ※(「王+連」、第3水準1-88-24)これんとなるべし。


其終章に曰く、

明年 二三月、
羅山らざん 花 まさに開かん。
高きに登りて 日に盻望べんぼうし、
く 重ねてきたるをたむ。


 その才をしょうし、其学を勧め、の流れて文辞の人とならんことを戒め、其のふるって聖賢の域に至らんことを求め、他日また再び大道を論ぜんことを欲す。潜渓せんけいが孝孺に対する、称許しょうきょも甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。嗚呼ああ、老先生、たれか好学生を愛せざらん、好学生、たれか老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年丁巳ていしけいを執って浦陽ほように潜渓にきぬ。従学四年、業おおいに進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其のしもに出で、先輩胡翰こかん蘇伯衡そはくこうまたみずかかずとうに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓がこれを送る五十四いんの長詩あり。そのいんうちに記して曰く、つまびらかに其の進修の功をうに、日々にことなるありて、月々に同じからず、わずかに四春秋を越ゆるのみにして而して英発光著えいはつこうちょかくの如し、のち四春秋ならしめば、すなわち其の至るところ又如何いかなるを知らず、近代を以て之を言えば、欧陽少卿おうようしょうけい蘇長公そちょうこうはいは、しばらく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸のじょう角逐かくちくせば、たれか後となりいずれか先となるを知らざる也。今この説をす、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にしてまさに其の知言にして、せいに許す者のあらざるを信ずべき也。しかりといえども予の生に許すところの者、なんぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るをおしみ、ためこの詩をす、既に其の素有の善を揚げ、またつとむるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩やことば自在じざいにして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、

上一页  [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]  ...  下一页 >>  尾页




打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口