建文帝の国を遜らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋元傾覆の所以を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以て帝室に藩屏たらしめ、京師を拱衛せしめんと欲せり。是れ亦故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥外に傲り、奸邪間に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能わず、宗廟祀られざるに至るべし。若し夫れ衆く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣勢を得るの隙無し。こゝに於て、第二子※[#「木+爽」、UCS-6A09、252-3]を秦王に封じ、藩に西安に就かしめ、第三子棡を晋王に封じ、太原府に居らしめ、第四子棣を封じて燕王となし、北平府即ち今の北京に居らしめ、第五子※[#「木+肅」、UCS-6A5A、252-5]を封じて周王となし、開封府に居らしめ、第六子 を楚王とし、武昌に居らしめ、第七子榑を斉王とし、青州府に居らしめ、第八子梓を封じて潭王とし、長沙に居き、第九子※[#「木+巳」、252-7]を趙王とせしが、此は三歳にして殤し、藩に就くに及ばず、第十子檀を生れて二月にして魯王とし、十六歳にして藩に 州府に就かしめ、第十一子椿を封じて蜀王とし、成都に居き、第十二子柏を湘王とし、荊州府に居き、第十三子桂を代王とし、大同府に居き、第十四子※[#「木+英」、UCS-6967、252-11]を粛王とし、藩に甘州府に就かしめ、第十五子植を封じて遼王とし、広寧府に居き、第十六子※[#「木+「旃」の「丹」に代えて「冉」、252-12]を慶王として寧夏に居き、第十七子権を寧王に封じ、大寧に居らしめ、第十八子 を封じて岷王となし、第十九子※[#「木+惠」、UCS-6A5E、253-2]を封じて谷王となす、谷王というは其の居るところ宣府の上谷の地たるを以てなり、第二十子松を封じて韓王となし、開源に居らしむ。第二十一子模を瀋王とし、第二十二子楹を安王とし、第二十三子※[#「木+經のつくり」、UCS-6871、253-4]を唐王とし、第二十四子棟を郢王とし、第二十五子※[#「木+(ヨ/粉/廾)」、253-5]を伊王としたり。藩王以下は、永楽に及んで藩に就きたるなれば、姑らく措きて論ぜざるも、太祖の諸子を封じて王となせるも亦多しというべく、而して枝柯甚だ盛んにして本幹却って弱きの勢を致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝を授けられ、歳禄は万石、府には官属を置き、護衛の甲士、少き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服車旗邸第は、天子に下ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦至れりというべし。且つ元の裔の猶存して、時に塞下に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中に専制し、三護衛の重兵を擁するを得せしめ、将を遣りて諸路の兵を徴すにも、必ず親王に関白して乃ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦大なりというべし。太祖の意に謂えらく、是の如くなれば、本支相幇けて、朱氏永く昌え、威権下に移る無く、傾覆の患も生ずるに地無からんと。太祖の深智達識は、まことに能く前代の覆轍に鑑みて、後世に長計を貽さんとせり。されども人智は限有り、天意は測り難し、豈図らんや、太祖が熟慮遠謀して施為せるところの者は、即ち是れ孝陵の土未だ乾かずして、北平の塵既に起り、矢石京城に雨注して、皇帝遐陬に雲遊するの因とならんとは。 太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙に之を論じて、然る可からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其歳閏九月、たま/\天文の変ありて、詔を下し直言を求められにければ、山西の葉居升というもの、上書して第一には分封の太だ侈れること、第二には刑を用いる太だ繁きこと、第三には治を求むる太だ速やかなることの三条を言えり。其の分封太侈を論ずるに曰く、都城百雉を過ぐるは国の害なりとは、伝の文にも見えたるを、国家今や秦晋燕斉梁楚呉 の諸国、各其地を尽して之を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜ぎ、之に賜うに甲兵衛士の盛なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世の後は尾大掉わず、然して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則ち其の怨を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則ち険を恃みて衡を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚しければ則ち間に縁りて而して起たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗父兄弟子孫なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫なり。然るに世を易うるの後は迭に兵を擁して、以て皇帝を危くせり。昔は賈誼漢の文帝に勧めて、禍を未萌に防ぐの道を白せり。願わくば今先ず諸王の都邑の制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里を限りたまえと。居升の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験ありて、漢の七国の喩、眼のあたりの事となれるぞ是非無き。 七国の事、七国の事、嗚呼是れ何ぞ明室と因縁の深きや。葉居升の上書の出ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂というを建てたまい、古今の図書を充て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注の魏観字は※山[#「木+巳」、256-9]というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書の七図漢に叛ける事を講じ聞せたりと答え白す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対う。時に太祖肯ぜずして、否、其は講官の偏説なり。景帝太子たりし時、博局を投じて呉王の世子を殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯の説を聴きて、諸侯の封を削りたり、七国の変は実に此に由る。諸子の為に此事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓を撫し、国家の藩輔となりて、天下の公法を撓す無かれと言うべきなり、此の如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦し、親しきを親しむの恩を隆んにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼し、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。此の太祖の言は、正に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙くより此意ありたればこそ、其より二年ほどにして、洪武三年に、※[#「木+爽」、UCS-6A09、257-9]、棡、棣、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、257-9]、 、榑、梓、檀、※[#「木+巳」、257-10]の九子を封じて、秦晋燕周等に王とし、其甚しきは、生れて甫めて二歳、或は生れて僅に二ヶ月のものをすら藩王とし、次いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、而して又夙くより此意ありたればこそ、葉居升が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文太子に、七国反漢の事を喩したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯ばかり思いしことの、其身死すると共に直に禍端乱階となりて、懿文の子の允 、七国反漢の古を今にして窘まんとは。不世出の英雄朱元璋も、命といい数というものゝ前には、たゞ是一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。 七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承けて其御子允 皇太孫の位に即かせたもう。継紹の運まさに是の如くなるべきが上に、下は四海の心を繋くるところなり。上は一人の命を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲となりたまえる上は、齢猶弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王或は功あり或は徳ありと雖も、遠からず俯首して命を奉ずべきなれば、理に於ては当に之を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟み、大封の勢に藉り、且は叔父の尊きを以て、不遜の事の多かりければ、皇太孫は如何ばかり心苦しく厭わしく思いしみたりけむ。一日東角門に坐して、侍読の太常卿黄子澄というものに、諸王驕慢の状を告げ、諸叔父各大封重兵を擁し、叔父の尊きを負みて傲然として予に臨む、行末の事も如何あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰いたもう。子澄名は 、分宜の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖も、世故に練達することは未だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国叛きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰か能く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心安く思召せ、と七国の古を引きて対うれば、太孫は子澄が答を、げに道理なりと信じたまいぬ。太孫猶齢若く、子澄未だ世に老いず、片時の談、七国の論、何ぞ図らん他日山崩れ海湧くの大事を生ぜんとは。 太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同閏五月西宮に崩ず。其遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度と無く畏るべき危険の境を冒して、無産無官又無家、何等の恃むべきをも有たぬ孤独の身を振い、終に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮[#ルビの「おも」は底本では「おもい」]い竭して民を済い、而して礼を尚び学を重んじ、百忙の中、手に書を輟めず、孔子の教を篤信し、子は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此に依拠し、又蚤歳にして仏理に通じ、内典を知るも、梁の武帝の如く淫溺せず、又老子を愛し、恬静を喜び、自から道徳経註二巻を撰し、解縉をして、上疏の中に、学の純ならざるを譏らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚せず、嘗て宗濂に謂って、人君能く心を清くし欲を寡くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々 々として自ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰い、詩文を善くして、文集五十巻、詩集五巻を著せるも、 同と文章を論じては、文はたゞ誠意溢出するを尚ぶと為し、又洪武六年九月には、詔して公文に対偶文辞を用いるを禁じ、無益の彫刻藻絵を事とするを遏めたるが如き、まことに通ずること博くして拘えらるゝこと少く、文武を兼ねて有し、智有を併せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝の諡号に負かざる朱元璋、字は国瑞の世を辞して、其身は地に入り、其神は空に帰せんとするに臨みて、言うところ如何。一鳥の微なるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず可く考う可きもの無からんや。遺詔に曰く、朕皇天の命を受けて、大任に世に膺ること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何せん寒微より起りて、古人の博智無く、善を好し悪を悪むこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼す、慮るに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を得、其れ奚んぞ哀念かこれ有らん。皇太孫允 、仁明孝友にして、天下心を帰す、宜しく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐し、以て吾が民を福せよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして異にする勿れ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川は、其の故に因りて改むる勿れ、天下の臣民は、哭臨する三日にして、皆服を釈き、嫁娶を妨ぐるなかれ。諸王は国中に臨きて、京師に至る母れ。諸の令の中に在らざる者は、此令を推して事に従えと。 嗚呼、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕の情景、百歳の下、人をして欽仰せしむるに足るものあり。奈何せん寒微より起りて、智浅く徳寡し、といえるは、謙遜の態度を取り、反求の工夫に切に、諱まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕に在り、といえるは、英雄も亦大限の漸く逼るを如何ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚にぞ哀念かこれ有らん、と云える、流石に孔孟仏老の教に於て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑少きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真豪傑、生きて長春不老の癡想を懐かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容として逼らず、晏如として れず、偉なる哉、偉なる哉。皇太孫允 、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一言や鉄の鋳られたるが如し。衆論の糸の紛るゝを防ぐ。これより前、太孫の儲位に即くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖も、太孫の人となり仁孝聡頴にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚だ欠く。此を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其詩婉美柔弱、豪壮瑰偉の処無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句の属対をなさしめしに、大に旨に称わず、復び以て燕王棣に命ぜられけるに、燕王の語は乃ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌偉にして髭髯美わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]に肖たること多かりしかば、太祖も此を悦び、人も或は意を寄するものありたり。此に於て太祖密に儲位を易えんとするに意有りしが、劉三吾之を阻みたり。三吾は名は如孫、元の遺臣なりしが、博学にして、文を善くしたりければ、洪武十八年召されて出でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡、朱善と与に、世称して三老と為す。人となり慷慨にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与りて定むる所多く、帝の洪範の注成るや、命を承けて序を為り、勅修の書、省躬録、書伝会要、礼制集要等の編撰総裁となり、居然たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節に臨むに至りては、屹として奪う可からず。懿文太子の薨ずるや、身を挺んでゝ、皇孫は世嫡なり、大統を承けたまわんこと、礼也、と云いて、内外の疑懼を定め、太孫を立てゝ儲君となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言無からん、乃ち曰く、若し燕王を立て給わば秦王晋王を何の地に置き給わんと。秦王※[#「木+爽」、UCS-6A09、265-7]、晋王棡は、皆燕王の兄たり。孫を廃して子を立つるだに、定まりたるを覆すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世豈事無くして已まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其事止みけるなり。是の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏めて、特に厳しく皇太孫允 宜しく大位に登るべしとは詔を遺されたるなるべし。太祖の治を思うの慮も遠く、皇孫を愛するの情も篤しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨三日にして服を釈き、嫁娶を妨ぐる勿れ、と云える、何ぞ倹素にして仁恕なる。文帝の如くせよとは、金玉を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福あらしめんとなり。諸王は国中に臨きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋し其意諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺 、辺土の黠豪等、或は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原の勢を成すに至らんことを虞るるに似たり。此も亦愛民憂世の念、おのずから此に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。
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