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運命(うんめい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/9/4 9:19:37 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 

妄(みだり)に動けば 悔(くい)あり、
道は 悖(もと)る可からず。
汝(なんじ) 才ありと謂(い)ふ勿(なか)れ、
後に 万世あり。


又嘗(かつ)て紙の銘を為る。曰く、

之(これ)を以(もっ)て言を立つ、其の道を載(の)せんを欲す。
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以て教(おしえ)を施す、其の義ならんを欲す。
之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。


 此(これ)等(ら)の文、蓋(けだ)し少時の為(つく)る所なり。嗚呼、運命遭逢(そうほう)、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、富貴(ふうき)我を遅(ま)つこと久し、これに臨みて命(めい)を拒まば、刀鋸(とうきょ)我に加わらんこと疾(と)し。嗚呼、正学先生(せいがくせんせい)、こゝに於(おい)て、成王(せいおう)いずくに在(あ)りやと論じ、こゝに於て筆を地に擲(なげう)って哭(こく)す。父に負(そむ)かず、師に負(そむ)かず、天に合(がっ)して人に合(がっ)せず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、凛々烈々(りんりんれつれつ)として、屈せず撓(たゆ)まず、苦節伯夷(はくい)を慕わんとす。壮なる哉(かな)。
 帝、孝孺の一族を収め、一人を収むる毎(ごと)に輙(すなわ)ち孝孺に示す。孝孺顧みず、乃(すなわ)ち之を殺す。孝孺の妻鄭氏(ていし)と諸子(しょし)とは、皆先(ま)ず経死(けいし)す。二女逮(とら)えられて淮(わい)を過ぐる時、相(あい)与(とも)に橋より投じて死す。季弟(きてい)孝友(こうゆう)また逮(とら)えられて将(まさ)に戮(りく)せられんとす。孝孺之を目して涙(なんだ)下りければ、流石(さすが)は正学の弟なりけり、

阿兄(あけい) 何ぞ必ずしも 涙潜々(さんさん)たらむ、
義を取り 仁を成す 此(この)間(かん)に在り。
華表(かひょう) 柱頭(ちゅうとう) 千歳(せんざい)の後(のち)、
旅魂(りょこん) 旧に依(よ)りて 家山(かざん)に到らん。


と吟じて戮(りく)せられぬ。母族林彦清(りんげんせい)等(ら)、妻族鄭原吉(ていげんきつ)等(ら)九族既に戮せられて、門生等まで、方氏(ほうし)の族として罪なわれ、坐死(ざし)する者およそ八百七十三人、遠謫(えんたく)配流(はいる)さるゝもの数う可からず。孝孺は終(つい)に聚宝門外(しゅうほうもんがい)に磔殺(たくさつ)せられぬ。孝孺慨然(がいぜん)、絶命の詞(し)を為(つく)りて戮に就(つ)く。時に年四十六、詞に曰く、

天降二乱離一兮孰知二其由一(てんらんりをくだしてたれかそのよしをしらん)。
奸臣得レ計兮謀レ国用レ猶(かんしんはかりごとをえてくにをはかるにゆうをもちゆ)。
忠臣発レ憤兮血涙交流(ちゅうしんいきどおりをはっしてけつるいこもごもながる)。
以レ此殉レ君兮抑又何求(ここをもってきみにじゅんずそもそもまたなにをかもとめん)。
嗚呼哀哉兮庶不二我尤一(あああわれなるかなこいねがわくはわれをとがめざれ)。


 廖※(「金+庸」、第3水準1-93-36)(りょうよう)廖銘(りょうめい)は孝孺の遺骸(いがい)を拾いて聚宝門外(しゅうほうもんがい)の山上に葬りしが、二人も亦(また)収められて戮せられ、同じ門人林嘉猷(りんかゆう)は、かつて燕王父子の間に反間の計(はかりごと)を為(な)したるもの、此(これ)亦戮せられぬ。
 方氏一族是(かく)の如くにして殆(ほとん)ど絶えしが、孝孺の幼子徳宗(とくそう)、時に甫(はじ)めて九歳、寧海県(ねいかいけん)の典史(てんし)魏公沢(ぎこうたく)の護匿(ごとく)するところとなりて死せざるを得、後(のち)孝孺の門人兪公允(ゆこういん)の養うところとなり、遂(つい)に兪氏(ゆし)を冒(おか)して、子孫繁衍(はんえん)し、万暦(ばんれき)三十七年には二百余丁(よてい)となりしこと、松江府(しょうこうふ)の儒学の申文(しんぶん)に見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏[#「廖氏」は底本では「※(「やまいだれ+謬のつくり」、第4水準2-81-69)氏」]二子及び門人王※(おうじょ)[#「禾+余」、UCS-7A0C、395-2]等(ら)拾骸(しゅうがい)の功また空(むな)しからず、万暦に至って墓碑祠堂(しどう)成り、祭田(さいでん)及び嘯風亭(しょうふうてい)等備わり、松江(しょうこう)に求忠書院(きゅうちゅうしょいん)成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、豈(あに)後無く祠無くして泯然(びんぜん)として滅せんや。
 節(せつ)に死し族を夷(い)せらるゝの事、もと悲壮なり。是(ここ)を以て後の正学先生の墓を過(よ)ぎる者、愴然(そうぜん)として感じ、※(「さんずい+玄」、第3水準1-86-62)然(げんぜん)として泣かざる能(あた)わず。乃(すなわ)ち祭弔(さいちょう)慷慨(こうがい)の詩、累篇(るいへん)積章(せきしょう)して甚だ多きを致す。衛承芳(えいしょうほう)が古風一首、中(うち)に句あり、曰く、

古来 馬を叩(たた)く者、
采薇(さいび) 逸民を称す。
明(みん)の徳 ※(「言+巨」、第3水準1-92-4)(なん)ぞ周(しゅう)に遜(ゆず)らん。
乃(すなわ)ち其の仁を成す無からんや。


と。劉秉忠(りゅうへいちゅう)を慕うの人道衍(どうえん)は其の功を成して秉忠の如くなるを得(え)、伯夷(はくい)を慕うの人方希直(ほうきちょく)は其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。王思任(おうしじん)二律の一に句あり、曰く、

十族 魂(たま)の 暗き月に依(よ)る有り、
九原(きゅうげん) 愧(はじ)の 青灯に付する無し。


と、李維※(「木+貞」、第3水準1-85-88)(りいてい)五律六首の中(うち)に句あり、曰く、

国破れて 心 仍(なお)在(あ)り、
身危(あやう)ふして 舌 尚(なお)存す。


又句あり、曰く、

気は壮(さかん)なり 河山(かざん)の色、
神(しん)は留(とど)まる 宇宙の身(み)。



 燕王(えんおう)今は燕王にあらず、儼(げん)として九五(きゅうご)の位(くらい)に在り、明年を以(もっ)て改めて永楽(えいらく)元年と為(な)さんとす。而(しこう)して建文皇帝は如何(いかん)。燕王の言に曰く、予(よ)始め難に遘(あ)う、已(や)むを得ずして兵を以て禍(わざわい)を救い、誓って奸悪(かんあく)を除き、宗社を安んじ、周公(しゅうこう)の勲を庶幾(しょき)せんとす。意(おも)わざりき少主予が心を亮(まこと)とせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。明史(みんし)には記す、帝終る所を知らずと。又記す、或(あるい)は云(い)う帝地道(ちどう)より出(い)で亡(に)ぐと。又記す、※(「さんずい+眞」、第3水準1-87-1)黔(てんきん)巴蜀(ばしょく)の間(かん)、相(あい)伝(つた)う帝の僧たる時の往来の跡ありと。これ言(ことば)を二三にするものなり。帝果して火に赴(おもむ)いて死せるか、抑(そもそも)又髪(かみ)を薙(な)いで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先(ぎゅうけいせん)の伝の後に、忠賢奇秘録(ちゅうけんきひろく)および致身録(ちしんろく)等の事を記して、録は蓋(けだ)し晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝出亡(しゅつぼう)、諸臣庇護(ひご)の事を否定するの口気あり。然(しか)れども巻三百四、鄭和伝(ていかでん)には、成祖(せいそ)、恵帝(けいてい)の海外に亡(に)げたるを疑い、之(これ)を蹤跡(しょうせき)せんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すと記(しる)せり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、即(すなわ)ち永楽三年なり。永楽三年にして猶(なお)疑うあるは何ぞや。又給事中(きゅうじちゅう)胡※(こえい)[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、398-8]と内侍(ないし)朱祥(しゅしょう)とが、永楽中に荒徼(こうきょう)を遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人(せんにん)張三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)(ちょうさんぼう)を索(もと)めんとすというを其(その)名(な)とすと雖(いえど)も、山谷(さんこく)に仙を索(もと)めしむるが如き、永楽帝の聰明(そうめい)勇決にして豈(あに)真に其(その)事(こと)あらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知る可(べ)き也。蓋(けだ)し此(この)時に当って、元の余※(「薛/子」、第3水準1-47-55)(よけつ)猶(なお)所在に存し、漠北(ばくほく)は論無く、西陲南裔(せいすいなんえい)、亦(また)尽(ことごと)くは明(みん)の化(か)に順(したが)わず、野火(やか)焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするの勢(いきおい)あり。且つや天(てん)一豪傑を鉄門関辺の碣石(けっせき)に生じて、カザン(Kazan)弑(しい)されて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児(チモル)(Timur)と為す。西人(せいじん)の所謂(いわゆる)タメルラン也。帖木児(チモル)サマルカンドに拠(よ)り、四方を攻略して威を振(ふる)う甚だ大(だい)に、明(みん)に対しては貢(みつぎ)を納(い)ると雖も、太祖の末年に使(つかい)したる傅安(ふあん)を留(とど)めて帰らしめず、之(これ)を要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度(いんど)を掠(かす)めて、デリヒを取り、波斯(ペルシヤ)を襲い、土耳古(トルコ)を征し、心ひそかに支那(しな)を窺(うかが)い、四百余州を席巻して、大元(たいげん)の遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北(さいほく)に出征して、よく胡情(こじょう)を知る。部下の諸将もまた夷事(いじ)に通ずる者多し。王の南(みなみ)する、幕中(ばくちゅう)に番騎(ばんき)を蔵す。凡(およ)そ此(これ)等(ら)の事に徴して、永楽帝の塞外(さくがい)の状勢を暁(さと)れるを知るべし。若(も)し建文帝にして走って域外に出(い)で、崛強(くっきょう)にして自大なる者に依(よ)るあらば、外敵は中国を覦(うかが)うの便(べん)を得て、義兵は邦内(ほうない)に起る可(べ)く、重耳(ちょうじ)一たび逃れて却(かえ)って勢を得るが如きの事あらんとす。是(こ)れ永楽帝の懼(おそ)れ憂(うれ)うるところたらずんばあらず。鄭和(ていか)の艦(ふね)を泛(うか)めて遠航し、胡※(こえい)[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、401-2]の仙(せん)を索(もと)めて遍歴せる、密旨を啣(ふく)むところあるが如し。而(しこう)して又鄭は実に威を海外に示さんとし、胡(こ)は実に異を幽境に詢(と)えるや論無し。善(よ)く射る者は雁影(がんえい)を重ならしめて而して射、善(よ)く謀(はか)る者は機会を復ならしめて而して謀る。一箭(せん)二雁(がん)を獲(え)ずと雖(いえど)も、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝の智(ち)、豈(あに)敢(あえ)て建文を索(もと)むるを名として使(つかい)を発するを為(な)さんや。況(いわ)んや又鄭和は宦官(かんがん)にして、胡※(こえい)[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、400-8]と偕(とも)にせるの朱祥(しゅしょう)も内侍(ないし)たるをや。秘意察す可きあるなり。


 鄭和(ていか)は王景弘(おうけいこう)等(ら)と共に出(いで)て使(つかい)しぬ。和の出(い)づるや、帝、袁柳荘(えんりゅうそう)の子の袁忠徹(えんちゅうてつ)をして相(そう)せしむ、忠徹曰(いわ)く可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、舶(ふね)長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州(そしゅう)劉家河(りゅうかか)より海(かい)に泛(うか)びて福建(ふくけん)に至り、福建五虎門(ごこもん)より帆を揚げて海に入る。閲(えつ)三年にして、五年九月還(かえ)る。建文帝の事、得る有る無し。而(しか)れども諸番国(しょばんこく)の使者和(か)に随(したが)って朝見し、各々(おのおの)其(その)方物(ほうぶつ)を貢(こう)す。和(か)又三仏斉国(さんぶつせいこく)の酋長(しゅうちょう)を俘(とりこ)として献ず。帝大(おおい)に悦(よろこ)ぶ。是(これ)より建文の事に関せず、専(もは)ら国威を揚げしめんとして、再三和(か)を出(いだ)す。和の使(つかい)を奉ずる、前後七回、其(そ)の間、或(あるい)は錫蘭山(セイロンざん)(Ceylon)の王阿烈苦奈児(アレクナル)と戦って之を擒(とりこ)にして献じ、或(あるい)は蘇門答剌(スモタラ)(Sumotala)の前の前の偽王(ぎおう)の子蘇幹剌(スカンラ)と戦って、其(その)妻子を併(あわ)せて俘(とりこ)として献じ、大(おおい)に南西諸国に明(みん)の威を揚げ、遠く勿魯漠斯(ホルムス)(Holumusze ペルシヤ)麻林(マリン)(Mualin? アフリカ?)祖法児(ズファル)(Dsuhffar アラビヤ)天方(てんほう)(“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史(みんし)外国伝(がいこくでん)西南方のやゝ詳(つまびらか)なるは、鄭和に随行したる鞏珍(きょうちん)の著わせる西洋番国志(せいようばんこくし)を採りたるに本(もと)づく歟(か)という。
 胡※(こえい)[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、402-1]等(ら)もまた得る無くして已(や)みぬ。然(しか)も張三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)(ちょうさんぼう)を索(もと)めしこと、天下の知る所たり。乃(すなわ)ち三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)の居(お)りし所の武当(ぶとう) 大和山(たいかざん)に観(かん)を営み、夫(ふ)を役(えき)する三十万、貲(し)を費(ついや)す百万、工部侍郎(こうぶじろう)郭※(かくつい)[#「王+追」、402-3]、隆平侯(りゅうへいこう)張信(ちょうしん)等(ら)、事に当りしという。三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)嘗(かつ)て武当の諸(しょ)巌壑(がんがく)に游(あそ)び、此(この)山(やま)異日必ず大(おおい)に興(おこ)らんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。


 建文帝(けんぶんてい)は如何(いか)にせしぞや。伝えて曰(いわ)く、金川門(きんせんもん)の守(まもり)を失うや、帝自殺せんとす。翰林院編修(かんりんいんへんしゅう)程済(ていせい)白(もう)す、出亡(しゅつぼう)したまわんには如(し)かじと。少監(しょうかん)王鉞(おうえつ)跪(ひざまず)いて進みて白(もう)す。昔高帝(こうてい)升遐(しょうか)したもう時、遺篋(いきょう)あり、大難に臨まば発(あば)くべしと宣(のたま)いぬ。謹んで奉先殿(ほうせんでん)の左に収め奉れりと。羣臣(ぐんしん)口々に、疾(と)く出(いだ)すべしという。宦者(かんじゃ)忽(たちまち)にして一の紅(くれない)なる篋(かたみ)を舁(か)き来(きた)りぬ。視(み)れば四囲は固(かた)むるに鉄を以てし、二鎖(さ)も亦(また)鉄を灌(そそ)ぎありて開くべくも無し。帝これを見て大(おおい)に慟(なげ)きたまい、今はとて火を大内(たいだい)に放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。此(この)時(とき)程済は辛くも篋(かたみ)を砕き得て、篋中(きょうちゅう)の物を取出(とりいだ)す。出(い)でたる物は抑(そも)何ぞ。釈門(しゃくもん)の人ならで誰(たれ)かは要すべき、大内などには有るべくも無き度牒(どちょう)というもの三張(ちょう)ありたり。度牒は人の家を出(いで)て僧となるとき官の可(ゆる)して認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には応文(おうぶん)の名の録(ろく)され、一には応能(おうのう)の名あり、一には応賢(おうけん)の名あり。袈裟(けさ)、僧帽、鞋(くつ)、剃刀(かみそり)、一々倶(とも)に備わりて、銀十錠(じょう)添わり居(い)ぬ。篋(かたみ)の内に朱書あり、之(これ)を読むに、応文は鬼門(きもん)より出(い)で、余(よ)は水関(すいかん)御溝(ぎょこう)よりして行き、薄暮にして神楽観(しんがくかん)の西房(せいぼう)に会せよ、とあり。衆臣驚き戦(おのの)きて面々相(あい)看(み)るばかり、しばらくは言(ものい)う者も無し。やゝありて天子、数なり、と仰(おお)[#ルビの「おお」は底本では「おおせ」]せあり。帝の諱(いみな)は允※(「火+文」、第4水準2-79-61)(いんぶん)、応文(おうぶん)の法号、おのずから相応ずるが如し。且つ明(みん)の基(もとい)を開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となり玉(たま)いたれ、元(げん)の順宗(じゅんそう)の至正(しせい)四年年(とし)十七におわしける時は、疫病大(おおい)に行われて、御父(おんちち)御母兄上幼き弟皆亡(う)せたまえるに、家貧にして棺槨(かんかく)の供(そなえ)だに為(な)したもう能(あた)わず、藁葬(こうそう)という悲しくも悲しき事を取行(とりおこな)わせ玉わんとて、仲(なか)の兄と二人してみずから遺骸(いがい)を舁(か)きて山麓(さんろく)に至りたまえるに、※(「糸+更」、第4水準2-84-30)(なわ)絶えて又如何(いかん)ともする能(あた)わず、仲の兄馳(はせ)還(かえ)って※(「糸+更」、第4水準2-84-30)を取りしという談だに遺(のこ)りぬ。其の仲の兄も亦(また)亡せたれば、孤身依(よ)るところなく、遂(つい)に皇覚寺(こうかくじ)に入りて僧と為(な)り、食(し)を得んが為(ため)に合※(「さんずい+肥」、第3水準1-86-85)(ごうひ)に至り、光(こう)固(こ)汝(じょ)頴(えい)の諸州に托鉢(たくはつ)修行し、三歳の間は草鞋(そうあい)竹笠(ちくりゅう)、憂(う)き雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、如是因(にょぜいん)、如是縁(にょぜえん)、今また袈裟(けさ)念珠(ねんじゅ)の人たらんとす。不思議というも余(あま)りあり。程済即(すなわ)ち御意に従いて祝髪(しゅくはつ)しまいらす。万乗の君主金冠を墜(おと)し、剃刀(ていとう)の冷光翠髪(すいはつ)を薙(な)ぐ。悲痛何ぞ能(よ)く堪(た)えんや。呉王(ごおう)の教授揚応能(ようおうのう)は、臣が名度牒(どちょう)に応ず、願わくは祝髪して随(したが)いまつらんと白(もう)す。監察御史(かんさつぎょし)葉希賢(しょうきけん)、臣が名は賢(けん)、応賢(おうけん)たるべきこと疑(うたがい)無しと白(もう)す。各(おのおの)髪を剃(そ)り衣(い)を易(か)えて牒(ちょう)を披(ひら)く。殿(でん)に在りしもの凡(およ)そ五六十人、痛哭(つうこく)して地に倒れ、倶(とも)に矢(ちか)って随(したが)いまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とて麾(さしまね)いて去らしめたもう。御史(ぎょし)曾鳳韶(そうほうしょう)、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、後(のち)果して燕王の召(めし)に応(おう)ぜずして自殺しぬ。諸臣大(おおい)に慟(なげ)きて漸(ようや)くに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば一舟(いっしゅう)の岸に在(あ)るあり。誰(たれ)ぞと見るに神楽観(しんがくかん)の道士王昇(おうしょう)にして、帝を見て叩頭(こうとう)して万歳を称(とな)え、嗚呼(ああ)、来(きた)らせたまえるよ、臣昨夜の夢に高(こう)皇帝の命を蒙(こうむ)りて、此(ここ)にまいり居(い)たり、と申す。乃(すなわ)ち舟に乗じて太平門(たいへいもん)に至りたもう。昇(しょう)導きまいらせて観(かん)に至れば、恰(あたか)も已(すで)に薄暮なりけり。陸路よりして楊応能(ようおうのう)、葉希賢(しょうきけん)等(ら)十三人同じく至る。合(ごう)二十二人、兵部侍郎(へいぶじろう)廖平(りょうへい)、刑部侍郎(けいぶじろう)金焦(きんしょう)、編修(へんしゅう)趙天泰(ちょうてんたい)、検討(けんとう)程亨(ていこう)、按察使(あんさつし)王良(おうりょう)、参政(さんせい)蔡運(さいうん)、刑部郎中(けいぶろうちゅう)梁田玉(りょうでんぎょく)、中書舎人(ちゅうしょしゃじん)梁良玉(りょうりょうぎょく)、梁中節(りょうちゅうせつ)、宋和(そうか)、郭節(かくせつ)、刑部司務(けいぶしむ)馮※(ひょうかく)[#「さんずい+寉」、405-12]、鎮撫(ちんぶ)牛景先(ぎゅうけいせん)、王資(おうし)、劉仲(りゅうちゅう)、翰林侍詔(かんりんじしょう)鄭洽(ていこう)、欽天監正(きんてんかんせい)王之臣(おうししん)、太監(たいかん)周恕(しゅうじょ)、徐王府賓輔(じょおうふひんほ)史彬(しひん)と、楊応能(ようおうのう)、葉希賢(しょうきけん)、程済(ていせい)となり。帝、今後はたゞ師弟を以(もっ)て称し、必ずしも主臣の礼に拘(かかわ)らざるべしと宣(のたま)う。諸臣泣いて諾す。廖平こゝに於(おい)て人々に謂(い)って曰く、諸人の随(したが)わんことを願うは、固(もと)よりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室の累(るい)無くして、膂力(りょりょく)の捍(ふせ)ぎ衛(まも)るに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、余(よ)は倶(とも)に遙(はるか)に応援を為(な)さば、可ならんと。帝も、然(しか)るべしと為したもう。応能、応賢の二人は比丘(びく)と称し、程済は道人(どうじん)と称して、常に左右に侍し、馮※(ひょうかく)[#「さんずい+寉」、406-8][#「馮※[#「さんずい+寉」、406-8]」は底本では「憑※[#「さんずい+寉」、406-8]」]は馬二子(ばじし)と称し、郭節(かくせつ)は雪菴(せつあん)と称し、宋和(そうか)は雲門僧(うんもんそう)と称し、趙天泰(ちょうてんたい)は衣葛翁(いかつおう)と称し、王之臣(おうししん)は補鍋(ほか)を以(もっ)て生計を為さんとして老補鍋(ろうほか)と称し、牛景先(ぎゅうけいせん)は東湖樵夫(とうこしょうふ)と称し、各々(おのおの)姓を埋(うず)め名を変じて陰陽(いんよう)に扈従(こしょう)せんとす。帝は※(「さんずい+眞」、第3水準1-87-1)南(てんなん)に往(ゆ)きて西平侯(せいへいこう)に依(よ)らんとしたもう。史彬(しひん)これを危ぶみて止(とど)め、臣(しん)等(ら)の中の、家いさゝか足りて、旦夕(たんせき)に備う可(べ)き者の許(もと)に錫(しゃく)を留(とど)めたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしと白(もう)す。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、鄭洽(ていこう)、郭節、王資、史彬(しひん)、梁良玉の七家を、かわる/″\主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、葉(しょう)、楊、牛、馮(ひょう)、宋、史なり。余(よ)は皆涙を揮(ふる)って別れまいらす。帝は道を※(「さんずい+栗」、第4水準2-79-2)陽(りつよう)に取りて、呉江(ごこう)の黄渓(こうけい)の史彬の家に至りたもうに、月の終(おわり)を以て諸臣また漸(ようや)く相(あい)聚(あつ)まりて伺候(しこう)す。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王位(くらい)に即(つ)きて、諸官員の職を抛(なげう)って遯去(のがれさ)りし者の官籍を削る。呉江(ごこう)の邑丞(ゆうじょう)鞏徳(きょうとく)、蘇州府(そしゅうふ)の命を以て史彬が家に至り、官を奪い、且(かつ)曰く、聞く君が家建文(けんぶん)皇帝をかしずくと。彬(ひん)驚いて曰く、全く其(その)事(こと)無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江を出(い)で、舟に上(のぼ)りて京口(けいこう)に至り、六合(ろくごう)を過ぎ、陸路襄陽(じょうよう)に至り、廖平が家に至りたもうに、其(その)後(あと)を訊(と)う者ありければ、遂(つい)に意を決して雲南(うんなん)に入りたもう。

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