史を按じて兵馬の事を記す、筆墨も亦倦みたり。燕王事を挙げてより四年、遂に其志を得たり。天意か、人望か、数か、勢か、将又理の応に然るべきものあるか。鄒公瑾等十八人、殿前に於て李景隆を殴って幾ど死せしむるに至りしも、亦益無きのみ。帝、金川門の守を失いしを知りて、天を仰いで長吁し、東西に走り迷いて、自殺せんとしたもう。明史、恭閔恵皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后馬氏は火に赴いて死したもう。丙寅、諸王及び文武の臣、燕王に位に即かんことを請う。燕王辞すること再三、諸王羣臣、頓首して固く請う。王遂に奉天殿に詣りて、皇帝の位に即く。 是より先建文中、道士ありて、途に歌って曰く、
燕を逐ふ莫れ、 燕を逐ふ莫れ。 燕を逐へば、日に高く飛び、 高く飛びで、帝畿に上らん。
是に至りて人其言の応を知りぬ。燕王今は帝たり、宮人内侍を詰りて、建文帝の所在を問いたもうに、皆馬皇后の死したまえるところを指して応う。乃ち屍を燼中より出して、之を哭し、翰林侍読王景を召して、葬礼まさに如何すべき、と問いたもう。景対えて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。 建文帝の皇考興宗孝康皇帝の廟号を去り、旧の諡に仍りて、懿文皇太子と号し、建文帝の弟呉王允※[#「火+通」、UCS-71A5、339-9]を降して広沢王とし、衛王允※[#「火+堅」、UCS-719E、339-9]を懐恩王となし、除王允を敷恵王となし、尋で復庶人と為ししが、諸王後皆其死を得ず。建文帝の少子は中都広安宮に幽せられしが、後終るところを知らず。
魏国公徐輝祖、獄に下さるれども屈せず、諸武臣皆帰附すれども、輝祖始終帝を戴くの意無し。帝大に怒れども、元勲国舅たるを以て誅する能わず、爵を削って之を私第に幽するのみ。輝祖は開国の大功臣たる中山王徐達の子にして、雄毅誠実、父達の風骨あり。斉眉山の戦、大に燕兵を破り、前後数戦、毎に良将の名を辱めず。其姉は即ち燕王の妃にして、其弟増寿は京師に在りて常に燕の為に国情を輸せるも、輝祖独り毅然として正しきに拠る。端厳の性格、敬虔の行為、良将とのみ云わんや、有道の君子というべきなり。 兵部尚書鉄鉉、執えられて京に至る。廷中に背立して、帝に対わず、正言して屈せず、遂に寸磔せらる。死に至りて猶罵るを以て、大に油熬せらるゝに至る。参軍断事高巍、かつて曰く、忠に死し孝に死するは、臣の願なりと。京城破れて、駅舎に縊死す。礼部尚書陳廸、刑部尚書暴昭、礼部侍郎黄観、蘇州知府姚善、翰林修譚、王叔英、翰林王艮、淅江按察使王良、兵部郎中譚冀、御史曾鳳韶、谷府長史劉、其他数十百人、或は屈せずして殺され、或は自死して義を全くす。斉泰、黄子澄、皆執えられ、屈せずして死す。右副都御史練子寧、縛されて闕に至る。語不遜なり。帝大に怒って、命じて其舌を断らしめ、曰く、吾周公の成王を輔くるに傚わんと欲するのみと。子寧手をもて舌血を探り、地上に、成王安在の四字を大書す。帝益怒りて之を磔殺し、宗族棄市せらるゝ者、一百五十一人なり。左僉都御史景清、詭りて帰附し、恒に利剣を衣中に伏せて、帝に報いんとす。八月望日、清緋衣して入る。是より先に霊台奏す、文曲星帝座を犯す急にして色赤しと。是に於て清の独り緋を衣るを見て之を疑う。朝畢る。清奮躍して駕を犯さんとす。帝左右に命じて之を収めしむ。剣を得たり。清志の遂ぐべからざるを知り、植立して大に罵る。衆其歯を抉す。且抉せられて且罵り、血を含んで直に御袍にく。乃ち命じて其皮を剥ぎ、長安門に繋ぎ、骨肉を砕磔す。清帝の夢に入って剣を執って追いて御座を繞る。帝覚めて、清の族を赤し郷を籍す。村里も墟となるに至る。 戸部侍郎卓敬執えらる。帝曰く、爾前日諸王を裁抑す、今復我に臣たらざらんかと。敬曰く、先帝若し敬が言に依りたまわば、殿下豈此に至るを得たまわんやと。帝怒りて之を殺さんと欲す。而も其才を憐みて獄に繋ぎ、諷するに管仲・魏徴の事を以てす。帝の意、敬を用いんとする也。敬たゞ涕泣して可かず。帝猶殺すに忍びず。道衍白す、虎を養うは患を遺すのみと。帝の意遂に決す。敬刑せらるゝに臨みて、従容として嘆じて曰く、変宗親に起り、略経画無し、敬死して余罪ありと。神色自若たり。死して経宿して、面猶生けるが如し。三族を誅し、其家を没するに、家たゞ図書数巻のみ。卓敬と道衍と、故より隙ありしと雖も、帝をして方孝孺を殺さゞらしめんとしたりし道衍にして、帝をして敬を殺さしめんとす。敬の実用の才ありて浮文の人にあらざるを看るべし。建文の初に当りて、燕を憂うるの諸臣、各意見を立て奏疏を上る。中に就て敬の言最も実に切なり。敬の言にして用いらるれば、燕王蓋し志を得ざるのみ。万暦に至りて、御史屠叔方奏して敬の墓を表し祠を立つ。敬の著すところ、卓氏遺書五十巻、予未だ目を寓せずと雖も、管仲魏徴の事を以て諷せられしの人、其の書必ず観る可きあらん。
卓敬を容るゝ能わざりしも、方孝孺を殺す勿れと云いし道衍は如何の人ぞや。眇たる一山僧の身を以て、燕王を勧めて簒奪を敢てせしめ、定策決機、皆みずから当り、臣天命を知る、何ぞ民意を問わん、というの豪懐を以て、天下を鼓動し簸盪し、億兆を鳥飛し獣奔せしめて憚らず、功成って少師と呼ばれて名いわれざるに及んで、而も蓄髪を命ぜらるれども肯んぜず、邸第を賜い、宮人を賜われども、辞して皆受けず、冠帯して朝すれども、退けば即ち緇衣、香烟茶味、淡然として生を終り、栄国公を贈られ、葬を賜わり、天子をして親ずから神道碑を製するに至らしむ。又一箇の異人というべし。魔王の如く、道人の如く、策士の如く、詩客の如く、実に袁[#「袁」は底本では「袁洪」]の所謂異僧なり。其の詠ずるところの雑詩の一に曰く、
志士は 苦節を守る、 達人は 玄言に滞らんや。 苦節は 貞くす可からず、 玄言 豈其れ然らんや。 出ると処ると 固より定有り、 語るも黙するも 縁無きにあらず。 伯夷 量 何ぞ隘き、
宣尼 智 何ぞ円なる。 所以に 古 の君子、 命に安んずるを 乃ち賢と為す。
苦節は貞くす可からずの一句、易の爻辞の節の上六に、苦節、貞くすれば凶なり、とあるに本づくと雖も、口気おのずから是道衍の一家言なり。況んや易の貞凶の貞は、貞固の貞にあらずして、貞※[#「毎+卜」、345-6]の貞とするの説無きにあらざるをや。伯夷量何ぞ隘きというに至っては、古賢の言に拠ると雖も、聖の清なる者に対して、忌憚無きも亦甚しというべし。其の擬古の詩の一に曰く、
良辰 遇ひ難きを 念ひて、 筵を開き 綺戸に当る。 会す 我が 同門の友、 言笑 一に何ぞ ※[#「月+無」、UCS-81B4、346-2]ある。 素絃 清商を 発し、 余響 樽爼を 繞る。 緩舞 呉姫 出で、 軽謳 越女 来る。 但欲ふ 客の ※酔[#「てへん+弃」、346-7]せんことを、 籌 何ぞ 肯て数へむ。 流年 ※[#「犬/(犬+犬)」、UCS-730B、346-9]馳を嘆く、 力有るも 誰か得て 阻めむ。 人生 須らく歓楽すべし、 長に辛苦せしむる 勿れ。
擬古の詩、もとより直に抒情の作とす可からずと雖も、此是れ緇を披て香を焚く仏門の人の吟ならんや。其の北固山を経て賦せる懐古の詩というもの、今存するの詩集に見えずと雖も、僧宗一読して、此豈釈子の語ならんや、と曰いしという。北固山は宋の韓世忠兵を伏せて、大に金の兀朮を破るの処たり。其詩また想う可き也。劉文貞公の墓を詠ずるの詩は、直に自己の胸臆をぶ。文貞は即ち秉忠にして、袁[#「袁」は底本では「袁洪」]の評せしが如く、道衍の燕に於けるは、秉忠の元に於けるが如く、其の初の僧たる、其の世に立って功を成せる、皆相肖たり。蓋し道衍の秉忠に於けるは、岳飛が関張と比しからんとし、諸葛亮が管楽に擬したるが如く、思慕して而して倣模せるところありしなるべし。詩に曰く、
良驥 色 羣に同じく、 至人 迹 俗に混ず。 知己 苟も 遇はざれば、 終世 怨み ※[#「讀+言」、UCS-8B9F、348-2]まず。 偉なる 哉 蔵春公や、 箪瓢 巌谷に 楽む。 一朝 風雲 会す。 君臣 おのづから 心腹なり。 大業 計 已に成りて、 勲名 簡牘に照る。 身 退いて 即ち長往し、 川流れて 去つて 復ること無し。 住城 百年の 後、 鬱々たり 盧溝の北。 松楸 烟靄 青く、 翁仲 蕪 緑なり。 強梁も 敢て犯さず、 何人か 敢て 樵牧せん。 王侯の 墓 累々たるも、 廃すること 草宿をも待たず。 惟公 民望に 在り、 天地と 傾覆を同じうす。 斯人 作す 可からず、 再拝して 還一 哭す。
蔵春は秉忠の号なり。盧溝は燕の城南に在り。此詩劉文貞に傾倒すること甚だ明らかに、其の高風大業を挙げ、而して再拝一哭すというに至る。性情行径相近し、俳徊感慨、まことに止む能わざるものありしならん。又別に、春日劉太保の墓に謁するの七律あり。まことに思慕の切なるを証すというべし。東游せんとして郷中諸友に別るゝの長詩に、
我 生れて 四方の志あり、 楽まず 郷井の 中を。 茫乎たる 宇宙の内、 飄転して 秋蓬の如し。 孰か云ふ 挾む所無しと、 耿々たるもの 吾胸に存す。 魚の に 止まるを 為すに忍びんや、 禽の 籠に 囚はるゝを 作すを 肯ぜんや。 三たび登ると 九たび 到ると、 古徳と 与に同じうせんと欲す。 去年は 淮楚に 客たりき、 今は 往かんとす 浙水の東。 身を 竦てゝ 雲衢に入る、 一錫 游龍の如し。 笠は 衝く 霏々の霧、 衣は払ふ 々の風。
の句あり。身を竦てゝの句、颯爽悦ぶ可し。其末に、
江天 正に秋清く、 山水 亦容を改む。 沙鳥は 烟の際に白く、 嶼葉は 霜の前に紅なり。
といえる如き、常套の語なれども、また愛す可し。古徳と同じゅうせんと欲するは、是れ仮にして、淮楚浙東に往来せるも、修行の為なりしや游覧の為なりしや知る可からず。然れども詩情も亦饒き人たりしは疑う可からず。詩に於ては陶淵明を推し、笠沢の舟中に陶詩を読むの作あり、中に淵明を学べる者を評して、
応物は趣 頗合し、 子瞻は 才 当るに足る。
と韋、蘇の二士を挙げ、其他の模倣者を、
里婦 西が顰に効ふ、 咲ふ可し 醜愈張る。
と冷笑し、又公暇に王維、孟浩然、韋応物、柳子厚の詩を読みて、四子を賛する詩を為せる如き、其の好む所の主とするところありて泛濫ならざるを示せり。当時の詩人に於ては、高啓を重んじ、交情また親しきものありしは、奉レ答二高季迪一、寄二高編脩一、賀二高啓生一レ子、訪二高啓鍾山寓舎一辱二詩見一レ貽、雪夜読二高啓詩一等の詩に徴して知るべく、此老の詩眼暗からざるを見る。逃虚集十巻、続集一巻、詩精妙というにあらずと雖も、時に逸気あり。今其集に就て交友を考うるに、袁[#「袁」は底本では「韋」]と張天師とは、最も親熟するところなるが如く、贈遺の什甚だ少からず。と道衍とは本より互に知己たり。道衍又嘗て道士席応真を師として陰陽術数の学を受く。因って道家の旨を知り、仙趣の微に通ず。詩集巻七に、挽二席道士一とあるもの、疑うらくは応真、若[#ルビの「も」は底本では「もし」]しくは応真の族を悼めるならん。張天師は道家の棟梁たり、道衍の張を重んぜるも怪むに足る無きなり。故友に於ては最も王達善を親む。故に其の寄二王助教達善一の長詩の前半、自己の感慨行蔵を叙して忌まず、道衍自伝として看る可し。詩に曰く、
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