然りと雖も、太祖の遺詔、考う可きも亦多し。皇太孫允、天下心を帰す、宜しく大位に登るべし、と云えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年少く勇乏しき、自ら謙譲して諸王の中の材雄に略大なる者に位を遜らんことを欲する者ありしが如きをも猜せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明の世を治むる、纔に三十一年、元の裔猶未だ滅びず、中国に在るもの無しと雖も、漠北に、塞西に、辺南に、元の同種の広大の地域を有して踞するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和に寇するあり。国外の情是の如し。而して域内の事、また英主の世を御せんことを幸とせずんばあらず。仁明孝友は固より尚ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐し、以て吾が民を福せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶、非耶。諸王は国中に臨きて京に至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の其封国を空しゅうして奸※[#「敖/馬」、UCS-9A41、268-4]の乗ずるところとならんことを虞るというも、諸王の臣、豈一時を托するに足る者無からんや。子の父の葬に趨るは、おのずから是れ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと為さんや。諸王をして葬に会せざらしむる詔は、果して是れ太祖の言に出づるか。太祖にして此詔を遺すとせば、太祖ひそかに其の斥けて聴かざりし葉居升の言の、諸王衆を擁して入朝し、甚しければ則ち間に縁りて起たんに、之を防ぐも及ぶ無き也、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼子にして父の葬に会するを得ず、父の意なりと謂うと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも亦疎にして薄きの憾無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に中らん、而も実に人情に遠いかな。凡そ施為命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと甚しきものは、意は善なるも、理は正しきも、計は中るも、見は徹するも、必らず弊に坐し凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは則ち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年高皇后の崩ずるや、奏王晋王燕王等皆国に在り、然れども諸王喪に奔りて京に至り、礼を卒えて還れり。太祖の崩ぜると、其后の崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。此も亦人を強いて人情に遠きを為さしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。豈弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端は先ずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は将に淮安に至らんとせるに当りて、斉泰は帝に言し、人をしてを賚らして国に還らしめぬ。燕王を首として諸王は皆悦ばず。これ尚書斉泰の疎間するなりと謂いぬ。建文帝は位に即きて劈頭第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父なり、尊族なり、封土を有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯、皇室の藩屏たるも何かあらん。嗚呼、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、抑又遺詔にあるか、諸王にあるか、之を知らざる也。又飜って思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を止むるの語ありしや否や。或は疑う、太祖の人情に通じ、世故に熟せる、まさに是の如きの詔を遺さゞるべし。若し太祖に果して登遐の日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に就くの時に於て、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も亦発駕奔喪の際に於て、半途にして擁遏せらるゝの不快事に会う無く、各其封に於て哭臨して、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事此に出でず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す可からず。人の情屈すれば則ち悦ばず、悦ばざれば則ち怨を懐き他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ之を知るの明無からん。故に曰く、太祖の遺詔に、諸王の入臨を止むる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰黄子澄の輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を矯むるの事も、世其例に乏しからず、是の如きの事、未だ必ずしも無きを保せず。然れども是れ推測の言のみ。真耶、偽耶、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の為か、為にあらざる耶、将又斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を遏めざる能わざるの勢の存せしか、非耶。建文永楽の間、史に曲筆多し、今新に史徴を得るあるにあらざれば、疑を存せんのみ、確に知る能わざる也。
太祖の崩ぜるは閏五月なり、諸王の入京を遏められて悦ばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎卓敬というもの、密疏を上る。卓敬字は惟恭、書を読んで十行倶に下ると云われし頴悟聡敏の士、天文地理より律暦兵刑に至るまで究めざること無く、後に成祖をして、国家士を養うこと三十年、唯一卓敬を得たりと歎ぜしめしほどの英才なり。直慷慨にして、避くるところ無し。嘗て制度未だ備わらずして諸王の服乗も太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶相乱り、尊卑序無くんば、何を以て天下に令せんや、と説き、太祖をして、爾の言是なり、と曰わしめたり。其の人となり知る可きなり。敬の密疏は、宗藩を裁抑して、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事竟に寝みぬ。敬の言、蓋し故無くして発せず、必らず窃に聞くところありしなり。二十余年前の葉居升が言は、是に於て其中れるを示さんとし、七国の難は今将に発せんとす。燕王、周王、斉王、湘王、代王、岷王等、秘信相通じ、密使互に動き、穏やかならぬ流言ありて、朝に聞えたり。諸王と帝との間、帝は其の未だ位に即かざりしより諸王を忌憚し、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君を侮り、叔父の尊を挟んで不遜の事多かりしなり。入京会葬を止むるの事、遺詔に出づと云うと雖も、諸王、責を讒臣に托して、而して其の奸悪を除かんと云い、香を孝陵に進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、蓋し辞柄無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ離せざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔せざらん。疎隔し、離す、而して帝の為に密に図るものあり、諸王の為に私に謀るものあり、況んや藩王を以て天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるに於てをや。事遂に決裂せずんば止まざるものある也。 帝の為に密に図る者をば誰となす。曰く、黄子澄となし、斉泰となす。子澄は既に記しぬ。斉泰は水の人、洪武十七年より漸く世に出づ。建文帝位に即きたもうに及び、子澄と与に帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を遏めたる時の如き、諸王は皆謂えらく、泰皇考の詔を矯めて骨肉を間つと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。 諸王の為に私に謀る者を誰となす。曰く、諸王の雄を燕王となす。燕王の傅に、僧道衍あり。道衍は僧たりと雖[#ルビの「いえど」は底本では「いえども」]も、灰心滅智の羅漢にあらずして、却って是れ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に就く時、道衍躬ずから薦めて燕王の傅とならんとし、謂って曰く、大王臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽を奉りて大王がために戴かしめんと。王上に白を冠すれば、其文は皇なり、儲位明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、是の如きの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、而して燕王是の如きの怪僧を延いて帷※[#「巾+莫」、UCS-5E59、274-11]の中に居く。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲も毒ありというべし。道衍燕邸に至るに及んで袁を王に薦む。袁は字は廷玉、の人にして、此亦一種の異人なり。嘗て海外に遊んで、人を相するの術を別古崖というものに受く。仰いで皎日を視て、目尽く眩して後、赤豆黒豆を暗室中に布いて之を弁じ、又五色の縷を窓外に懸け、月に映じて其色を別って訛つこと無く、然して後に人を相す。其法は夜中を以て両炬を燃し、人の形状気色を視て、参するに生年月日を以てするに、百に一謬無く、元末より既に名を天下に馳せたり。其の道衍と識るに及びたるは、道衍が嵩山寺に在りし時にあり。袁道衍が相をつく/″\と観て、是れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎の如し。性必らず殺を嗜まん。劉秉忠の流なりと。劉秉忠は学内外を兼ね、識三才を綜ぶ、釈氏より起って元主を助け、九州を混一し、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に頼ると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮※[#「てへん+霍」、UCS-6509、275-10]の宜しきを得るに因るもの亦鮮からず。秉忠は実に奇偉卓犖の僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処に爬着するもの。是れより二人、友とし善し。道衍のを燕王に薦むるに当りてや、燕王先ず使者をしてと与に酒肆に飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に雑わり、おのれ亦衛士の服を服し、弓矢を執りて肆中に飲む。一見して即ち趨って燕王の前に拝して曰く、殿下何ぞ身を軽んじて此に至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩皆護衛の士なりと。頭を掉って是とせず。こゝに於て王起って入り、を宮中に延きて詳に相せしむ。諦視すること良久しゅうして曰く、殿下は龍行虎歩したまい、日角天を挿む、まことに異日太平の天子にておわします。御年四十にして、御鬚臍を過ぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位に登らせたまわんこと疑あるべからず、と白す。又燕府の将校官属を相せしめたもうに、一々指点して曰く、某は公たるべし、某は侯たるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王語の洩れんことを慮り、陽に斥けて通州に至らしめ、舟路密に召して邸に入る。道衍は北平の慶寿寺に在り、は燕府に在り、燕王と三人、時々人を屏けて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。は柳荘居士と号す。時に年蓋し七十に近し。抑亦何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子忠徹の伝うるところの柳荘相法、今に至って猶存し、風鑑の津梁たり。と永楽帝と答問するところの永楽百問の中、帝鬚の事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書となすと雖も、尽く斥く可からざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其の著わすところ、今古識鑑八巻ありて、明志採録す。予未だ寓目せずと雖も、蓋し藻鑑の道を説く也。と忠徹と、偕に明史方伎伝に見ゆ。の燕王に見ゆるや、鬚長じて臍を過ぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、吾が年将に四旬ならんとす、鬚豈能く復長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠というものを薦む。金忠も亦の人なり、少くして書を読み易に通ず。卒伍に編せらるゝに及び、卜を北平に売る。卜多く奇中して、市人伝えて以て神となす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜して卦を得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意漸くにして固し。忠後に仕えて兵部尚書を以て太子監国に補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。
帝の側には黄子澄斉泰あり、諸藩を削奪するの意、いかでこれ無くして已まん。燕王の傍には僧道衍袁あり、秘謀を醸するの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既に是の如し、風声鶴唳、人相驚かんと欲し、剣光火影、世漸く将に乱れんとす。諸王不穏の流言、朝に聞ゆること頻なれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、疇昔の東角門の言を憶えたもうや、と仰す。子澄直ちに対えて、敢て忘れもうさずと白す。東角門の言は、即ち子澄七国の故事を論ぜるの語なり。子澄退いて斉泰と議す。泰曰く、燕は重兵を握り、且素より大志あり、当に先ず之を削るべしと。子澄が曰く、然らず、燕は予め備うること久しければ、卒に図り難し。宜しく先ず周を取り、燕の手足を剪り、而して後燕図るべしと。乃ち曹国公李景隆に命じ、兵を調して猝に河南に至り、周王※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]及び其の世子妃嬪を執え、爵を削りて庶人となし、之を雲南に遷しぬ。※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]は燕王の同母弟なるを以て、帝もかねて之を疑い憚り、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]も亦異謀あり、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-4]の長史王翰というもの、数々諫めたれど納れず、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-5]の次子汝南王有※[#「火+動」、279-5]の変を告ぐるに及び、此事あり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、幾干月を距らざる也。冬十一月、代王桂暴虐民を苦むるを以て、蜀に入りて蜀王と共に居らしむ。 諸藩漸く削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、前軍都督府断事高巍書を上りて政を論ず。巍は遼州の人、気節を尚び、文章を能くす、材器偉ならずと雖も、性質実に惟美、母の蕭氏に事えて孝を以て称せられ、洪武十七年旌表せらる。其の立言正平なるを以て太祖の嘉納するところとなりし又是一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り巍と御史韓郁とは説を異にす。巍の言に曰く、我が高皇帝、三代の公に法り、秦の陋を洗い、諸王を分封して、四裔に藩屏たらしめたまえり。然れども之を古制に比すれば封境過大にして、諸王又率ね驕逸不法なり。削らざれば則ち朝廷の紀綱立たず。之を削れば親を親むの恩を傷る。賈誼曰く、天下の治安を欲するは、衆く諸侯を建てゝ其力を少くするに若くは無しと。臣愚謂えらく、今宜しく其意を師とすべし、晁錯が削奪の策を施す勿れ、主父偃が推恩の令に効うべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王の権は、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下益々親親の礼を隆んにし、歳時伏臘、使問絶えず、賢者は詔を下して褒賞し、不法者は初犯は之を宥し、再犯は之を赦し、三犯改めざれば、則ち太廟に告げて、地を削り、之を廃処せんに、豈服順せざる者あらんやと。帝之を然なりとは聞召したりけれど、勢既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満ちたりければ、高巍の説も用いられて已みぬ。 建文元年二月、諸王に詔りして、文武の吏士を節制し、官制を更定するを得ざらしむ。此も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月西平侯沐晟、岷王梗の不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮宗麟を誅し、王を廃して庶人となす。又湘王柏偽りて鈔を造り、及び擅に人を殺すを以て、勅を降して之を責め、兵を遣って執えしむ。湘王もと膂力ありて気を負う。曰く、吾聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、豈能く僕隷の手に辱しめられて生活を求めんやと。遂に宮を闔じて自ら焚死す。斉王榑もまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王桂もまた終に廃せられて庶人となり、大同に幽せらる。 燕王は初より朝野の注目せるところとなり、且は威望材力も群を抜けるなり、又其の終に天子たるべきを期するものも有るなり、又私に異人術士を養い、勇士勁卒をも蓄え居れるなり、人も疑い、己も危ぶみ、朝廷と燕と竟に両立する能わざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王※[#「木+肅」、UCS-6A5A、282-3]の執えらるゝを見て、燕王は遂に壮士を簡みて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を容す能わず。たま/\北辺に寇警ありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して塞を出でしめ、其の羽翼を去りて、其の咽喉を扼せんとし、乃ち工部侍郎張をもて北平左布政使となし、謝貴を以て都指揮使となし、燕王の動静を察せしめ、巍国公徐輝祖、曹国公李景隆をして、謀を協せて燕を図らしむ。 建文元年正月、燕王長史葛誠をして入って事を奏せしむ。誠、帝の為に具に燕邸の実を告ぐ。こゝに於て誠を遣りて燕に還らしめ、内応を為さしむ。燕王覚って之に備うるあり。二月に至り、燕王入覲す。皇道を行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史曾鳳韶これを劾せしが、帝曰く、至親問う勿れと。戸部侍郎卓敬、先に書を上って藩を抑え禍を防がんことを言う。復密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平は、形勝の地にして、士馬精強に、金元の由って興るところなり、今宜しく封を南昌に徒したもうべし。然らば則ち万一の変あるも控制し易しと、帝敬に対えたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ此に及ぶことあらんやと。敬曰く、隋文揚広は父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を弑す。燕王の傲慢なる、何をか為さゞらん。敬の言、敦厚を欠き、帝の意、醇正に近しと雖も、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、悲む可きかな、敬の言却って実に切なり。然れども帝黙然たること良久しくして曰く、卿休せよと。三月に至って燕王国に還る。都御史暴昭、燕邸の事を密偵して奏するあり。北平の按察使僉事の湯宗、按察使陳瑛が燕の金を受けて燕の為に謀ることを劾するあり。よって瑛を逮捕し、都督宗忠をして兵三万を率い、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下に隷し、開平に屯して、名を辺に備うるに藉り、都督の耿※[#「王+獻」、UCS-74DB、284-4]に命じて兵を山海関に練り、徐凱をして兵を臨清に練り、密に張謝貴に勅して、厳に北平の動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を視、国に帰れるより疾に托して出でず、之を久しゅうして遂に疾篤しと称し、以て一時の視聴を避けんとせり。されども水あるところ湿気無き能わず、火あるところは燥気無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸倪諒というもの変を上り、燕の官校于諒周鐸等の陰事を告げゝれば、二人は逮えられて京に至り、罪明らかにして誅せられぬ。こゝに於て事燕王に及ばざる能わず、詔ありて燕王を責む。燕王弁疏する能わざるところありけん、佯りて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食を奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、或は土壌に臥して、時を経れど覚めず、全く常を失えるものゝ如し。張謝貴の二人、入りて疾を問うに、時まさに盛夏に属するに、王は爐を囲み、身を顫わせて、寒きこと甚しと曰い、宮中をさえ杖つきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂う者もあり、朝廷も稍これを信ぜんとするに至りけるが、葛誠ひそかにと貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を緩くして、後日の計に便にせんまでの詐に過ぎず、本より恙無きのみ、と知らせたり。たま/\燕王の護衛百戸の庸というもの、闕に詣り事を奏したりけるを、斉泰請いて執えて鞠問しけるに、王が将に兵を挙げんとするの状をば逐一に白したり。 待設けたる斉泰は、たゞちに符を発し使を遣わし、往いて燕府の官属を逮捕せしめ、密に謝貴張をして、燕府に在りて内応を約せる長史葛誠、指揮盧振と気脈を通ぜしめ、北平都指揮張信というものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を執えしむ。信は命を受けて憂懼為すところを知らず、情誼を思えば燕王に負くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能わず、進退両難にして、行止ともに艱く、左思右慮、心終に決する能わねば、苦悶の色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、汝の深憂太息することよ、と詰り問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母大に驚いて曰く、不可なり、汝が父の興、毎に言えり王気燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能く擒にするところにあらざるなり、燕王に負いて家を滅することなかれと。信愈々惑いて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信遂に怒って曰く、何ぞ太甚しきやと。乃ち意を決して燕邸に造る。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、径ちに門に至りて見ゆることを求め、ようやく召入れらる。されども燕王猶疾を装いて言わず。信曰く、殿下爾したもう無かれ、まことに事あらば当に臣に告げたもうべし、殿下もし情を以て臣に語りたまわずば、上命あり、当に執われに就きたもうべし、如し意あらば臣に諱みたもう勿れと。燕王信の誠あるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは子なりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍を召して、将に大事を挙げんとす。 天耶、時耶、燕王の胸中颶母まさに動いて、黒雲飛ばんと欲し、張玉、朱能等の猛将梟雄、眼底紫電閃いて、雷火発せんとす。燕府を挙って殺気陰森たるに際し、天も亦応ぜるか、時抑至れるか、風暴雨卒然として大に起りぬ。蓬々として始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然として至り、澎然として瀉ぎ、猛打乱撃するの雨と伴なって、乾坤を震撼し、樹石を動盪しぬ。燕王の宮殿堅牢ならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦吹かれて空に飄り、然として地に堕ちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何の兆ぞ。さすがの燕王も心に之を悪みて色懌ばず、風声雨声、竹折るゝ声、樹裂くる声、物凄じき天地を睥睨して、惨として隻語無く、王の左右もまた粛として言わず。時に道衍少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆や、と白す。本より此の異僧道衍は、死生禍福の岐に惑うが如き未達の者にはあらず、膽に毛も生いたるべき不敵の逸物なれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何、とありけるに、昂然として答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨簷瓦を堕す。時に取っての祥とも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言に聞えければ、燕王も堪えかねて、和尚何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎ罵る。道衍騒がず、殿下聞しめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を以てすと申す、瓦墜ちて砕けぬ、これ黄屋に易るべきのみ、と泰然として対えければ、王も頓に眉を開いて悦び、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。彼邦の制、天子の屋は、葺くに黄瓦を以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるに易るべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然凛然、糾々然、直にまさに天下を呑まんとするの勢をなさしめぬ。 燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って衛らしめぬ。矢石未だ交るに至らざるも、刀鎗既に互に鳴る。都指揮使謝貴は七衛の兵、并びに屯田の軍士を率いて王城を囲み、木柵を以て端礼門等の路を断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るの詔、及び王府の官属を逮うべきの詔至りぬ。秋七月布政使張、謝貴と与に士卒を督して皆甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一言の支吾あらんには、巌石鶏卵を圧するの勢を以て臨まんとするの状を為し、貴の軍の殺気の迸るところ、箭をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だ寡く、彼の軍は甚だ多し、奈何せんと。朱能進んで曰く、先ず張謝貴を除かば、余は能く為す無き也と。王曰く、よし、貴を擒にせんと。壬申の日、王、疾癒えぬと称し、東殿に出で、官僚の賀を受け、人をしてと貴とを召さしむ。二人応ぜず。復内官を遣して、逮わるべき者を交付するを装う。二人乃ち至る。衛士甚だ衆かりしも、門者呵して之を止め、と貴とのみを入る。と貴との入るや、燕王は杖を曳いて坐し、宴を賜い酒を行り宝盤に瓜を盛って出す。王曰く、たま/\新瓜を進むる者あり、卿等と之を嘗みんと。自ら一瓜を手にしけるが、忽にして色を作して詈って曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族、尚相互に恤ぶ、身は天子の親属たり、而も旦夕に其命を安んずること無し、県官の我を待つこと此の如し、天下何事か為す可からざらんや、と奮然として瓜を地に擲てば、護衛の軍士皆激怒して、前んでと貴とを擒え、かねて朝廷に内通せる葛誠盧振等を殿下に取って押えたり。王こゝに於て杖を投じて起って曰く、我何ぞ病まん、奸臣に迫らるゝ耳、とて遂に貴等を斬る。貴等の将士、二人が時を移して還らざるを見、始は疑い、後は覚りて、各散じ去る。王城を囲める者も、首脳已に無くなりて、手足力無く、其兵おのずから潰えたり。張が部下北平都指揮の彭二、憤慨已む能わず、馬を躍らして大に市中に呼わって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門に殺到す。燕王の勇卒来興、丁勝の二人、彭二を殺しければ、其兵も亦散じぬ。此勢に乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北に転戦して元兵と相馳駆し、千軍万馬の間に老い来れる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明に至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門をも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の余は、走って居庸関を守り、馬宣は東して薊州に走り、宋忠は開平より兵三万を率いて居庸関に至りしが、敢て進まずして、退いて懐来を保ちたり。 煙は旺んにして火は遂に熾えたり、剣は抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の正朔を奉ぜず、敢て建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、道衍を帷幄の謀師とし、金忠を紀善として機密に参ぜしめ、張玉、朱能、丘福を都指揮僉事とし、張部下にして内通せる李友直を布政司参議と為し、乃ち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今奸臣の為に謀害せらる。祖訓に云わく、朝に正臣無く、内に奸逆あれば、必ず兵を挙げて誅討し、以て君側の悪を清めよと。こゝに爾将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の成王を輔くるに法とらん。爾等それ予が心を体せよと。一面には是の如くに将士に宣言し、又一面には書を帝に上りて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を鞏固にして、盤石の計を為したまえり。然るに奸臣斉泰黄子澄、禍心を包蔵し、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、292-11]、榑、栢、桂、の五弟、数年ならずして、並びに削奪せられぬ、栢や尤憫むべし、闔室みずから焚く、聖仁上に在り、胡ぞ寧ぞ此に忍ばん。蓋陛下の心に非ず、実に奸臣の為す所ならん。心尚未だ足らずとし、又以て臣に加う。臣藩を燕に守ること二十余年、寅み畏れて小心にし、法を奉じ分に循う。誠に君臣の大分、骨肉の至親なるを以て、恒に思いて慎を加う。而るに奸臣跋扈し、禍を無辜に加え、臣が事を奏するの人を執えて、※楚[#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5][#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5]楚」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、293-5]楚」]。 刺※[#「執/糸」、UCS-7E36、293-5]し、備さに苦毒を極め、迫りて臣不軌を謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張等を北平城の内外に分ち、甲馬は街衢に馳突し、鉦鼓は遠邇に喧鞠し、臣が府を囲み守る。已にして護衛の人、貴を執え、始めて奸臣欺詐の謀を知りぬ。窃に念うに臣の孝康皇帝に於けるは、同父母兄弟なり、今陛下に事うるは天に事うるが如きなり。譬えば大樹を伐るに、先ず附枝を剪るが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、社稷危からん。臣伏して祖訓を覩るに云えることあり、朝に正臣無く、内に奸悪あらば、則ち親王兵を訓して命を待ち、天子密かに諸王に詔し、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで俯伏して命を俟つ、と言辞を飾り、情理を綺えてぞ奏しける。道衍少きより学を好み詩を工にし、高啓と友とし善く、宋濂にも推奨され、逃虚子集十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、或は又金忠の輩や詞を綴りけん、いずれにせよ、柔を外にして剛を懐き、己を護りて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然として此書のみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝に情無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就く可きを覚ゆ。されども擅に謝張を殺し、妄に年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。後苑に軍器を作り、密室に機謀を錬る、これ分に循うにあらず。君側の奸を掃わんとすと云うと雖も、詔無くして兵を起し、威を恣にして地を掠む。其辞は則ち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、亦理に於て欠け、情に於て薄し。夫れ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意を懐いて諸王に臨むは、上は太祖の意を壊り、下は宗室の親を破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、抔土未だ乾かず、直に其意を破り、諸王を削奪せんとするは、是れ理に於て欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところ是の如くなれば、燕王等手を袖にし息を屏くるも亦削奪罪責を免かれざらんとす。太祖の血を承けて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ俛首して寃に服するに忍びんや。瓜を投じて怒罵するの語、其中に機関ありと雖も、又尽く偽詐のみならず、本より真情の人に逼るに足るものあるなり。畢竟両者各理あり、各非理ありて、争鬩則ち起り、各情なく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於て誰か能く其の是非を判せんや。高巍の説は、敦厚悦ぶ可しと雖も、時既に晩く、卓敬の言は、明徹用いるに足ると雖も、勢回し難く、朝旨の酷責すると、燕師の暴起すると、実に互に已む能わざるものありしなり。是れ所謂数なるものか、非耶。
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