燕王の兵を起したる建文元年七月より、恵帝の国を遜りたる建文四年六月までは、烽烟剣光の史にして、今一々之を記するに懶し。其詳を知らんとするものは、明史及び明朝紀事本末等に就きて考うべし。今たゞ其概略と燕王恵帝の性格風を知る可きものとを記せん。燕王もと智勇天縦、且夙に征戦に習う。洪武二十三年、太祖の命を奉じ、諸王と共に元族を漠北に征す。秦王晋王は怯にして敢て進まず、王将軍傅友徳等を率いて北出し、都山に至り、其将乃児不花を擒にして還る。太祖大[#「大」は底本では「大い」]に喜び、此より後屡諸将を帥いて出征せしむるに、毎次功ありて、威名大に振う。王既に兵を知り戦に慣る。加うるに道衍ありて、機密に参し、張玉、朱能、丘福ありて爪牙と為る。丘福は謀画の才張玉に及ばずと雖も、樸直猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、戦終って功を献ずるや必ず人に後る。古の大樹将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我之を知る、と歎美せしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福其首たり、淇国公に封ぜらる。其他将士の鷙悍※雄[#「敖/馬」、UCS-9A41、297-4]の者も、亦甚だ少からず。燕王の大事を挙ぐるも、蓋し胸算あるなり。燕王の張謝貴を斬って反を敢てするや、郭資を留めて北平を守らしめ、直に師を出して通州を取り、先ず薊州を定めずんば、後顧の患あらんと云える張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、次で夜襲して遵化を降す。此皆開平の東北の地なり。時に余居庸関を守る。王曰く、居庸は険隘にして、北平の咽喉也、敵此に拠るは、是れ我が背を拊つなり、急に取らざる可からずと。乃ち徐安、鐘祥等をしてを撃って、懐来に走らしむ。宗忠懐来に在り 兵三万と号す。諸将之を撃つを難んず。王曰く、彼衆く、我寡し、然れども彼新に集まる、其心未だ一ならず、之を撃たば必らず破れんと。精兵八千を率い、甲を捲き道を倍して進み、遂に戦って克ち、忠ととを獲て之を斬る。こゝに於て諸州燕に降る者多く、永平、欒州また燕に帰す。大寧の都指揮卜万、松亭関を出で、沙河に駐まり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、勢やゝ振う。燕王反間を放ち、万の部将陳亨、劉貞をして万を縛し獄に下さしむ。 帝黄子澄の言を用い、長興侯耿炳文を大将軍とし、李堅、寧忠を副えて北伐せしめ、又安陸侯呉傑、江陰侯呉高、都督都指揮盛庸、潘忠、楊松、顧成、徐凱、李文、陳暉、平安等に命じ、諸道並び進みて、直に北平を擣かしむ。時に帝諸将士を誡めたまわく、昔蕭繹、兵を挙げて京に入らんとす、而も其下に令して曰く、一門の内自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今爾将士、燕王と対塁するも、務めて此意を体して、朕をして叔父を殺すの名あらしむるなかれと。(蕭繹は梁の孝元皇帝なり。今梁書を按ずるに、此事を載せず。蓋し元帝兵を挙げて賊を誅し京に入らんことを図る。時に河東王誉、帝に従わず、却って帝の子方等を殺す。帝鮑泉を遣りて之を討たしめ、又王僧弁をして代って将たらしむ。帝は高祖武帝の第七子にして、誉は武帝の長子にして文選の撰者たる昭明太子統の第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)建文帝の仁柔の性、宋襄に近きものありというべし。それ燕王は叔父たりと雖も、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして兇器を弄し王師に抗す、其罪本より誅戮に当る。然るに是の如きの令を出征の将士に下す。これ適以て軍旅の鋭を殺ぎ、貔貅の胆を小にするに過ぎざるのみ、智なりという可からず。燕王と戦うに及びて、官軍時に或は勝つあるも、此令あるを以て、飛箭長槍、燕王を殪すに至らず。然りと雖も、小人の過や刻薄、長者の過や寛厚、帝の過を観て帝の人となりを知るべし。 八月耿炳文等兵三十万を率いて真定に至り、徐凱は兵十万を率いて河間に駐まる。炳文は老将にして、太祖創業の功臣なり。かつて張士誠に当りて、長興を守ること十年、大小数十戦、戦って勝たざる無く、終に士誠をして志を逞しくする能わざらしめしを以て、太祖の功臣を榜列するや、炳文を以て大将軍徐達に付して一等となす。後又、北は塞を出でゝ元の遺族を破り、南は雲南を征して蛮を平らげ、或は陝西に、或は蜀に、旗幟の向う所、毎に功を成す。特に洪武の末に至っては、元勲宿将多く凋落せるを以て、炳文は朝廷の重んずるところたり。今大兵を率いて北伐す、時に年六十五。樹老いて材愈堅く、将老いて軍益々固し。然れども不幸にして先鋒楊松、燕王の為に不意を襲われて雄県に死し、潘忠到り援わんとして月漾橋の伏兵に執えられ、部将張保敵に降りて其の利用するところとなり、遂に沱河の北岸に於て、燕王及び張玉、朱能、譚淵、馬雲等の為に大に敗れて、李堅、※忠[#「宀/必/冉」、UCS-5BD7、300-11]、顧成、劉燧を失うに至れり。ただ炳文の陣に熟せる、大敗して而も潰えず、真定城に入りて門を闔じて堅く守る。燕兵勝に乗じて城を囲む三日、下す能わず。燕王も炳文が老将にして破り易からざるを知り、囲を解いて還る。 炳文の一敗は猶復すべし、帝炳文の敗を聞いて怒りて用いず、黄子澄の言によりて、李景隆を大将軍とし、斧鉞を賜わって炳文に代らしめたもうに至って、大事ほとんど去りぬ。景隆は袴の子弟、趙括の流なればなり。趙括を挙げて廉頗に代う。建文帝の位を保つ能わざる、兵戦上には実に此に本づく。炳文の子[#「」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-7]」]は、帝の父懿文太子の長女江都公主を妻とす、[#「」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-7]」]父の復用いられざるを憤ること甚しかりしという。又[#「」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-8]」]の弟※[#「王+獻」、UCS-74DB、301-7]、遼東の鎮守呉高、都指揮使楊文と与に兵を率いて永平を囲み、東より北平を動かさんとしたりという。二子の護国の意の誠なるも知るべし。それ勝敗は兵家の常なり。蘇東坡が所謂善く奕する者も日に勝って日に敗るゝものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、驕児を挙ぐ。燕王手を拍って笑って、李九江は膏梁の豎子のみ、未だ嘗て兵に習い陣を見ず、輙ち予うるに五十万の衆を以てす、是自ら之を坑にする也、と云えるもの、酷語といえども当らずんばあらず。炳文を召して回らしめたる、まことに歎ずべし。 景隆小字は九江、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の薦むるに因るも、又別に所以有るなり。景隆は李文忠の子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み経を治め、其の家居するや恂々として儒者の如く、而も甲をき馬に騎り槊を横たえて陣に臨むや、風発、大敵に遇いて益壮に、年十九より軍に従いて数々偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重[#「愛重」は底本では「受重」]するところとなれるのみならず、西安に水道を設けては人を利し、応天に田租を減じては民を恵み、誅戮を少くすることを勧め、宦官を盛[#ルビの「さか」は底本では「さかん」]んにすることを諫め、洪武十五年、太祖日本懐良王の書に激して之を討たんとせるを止め、(懐良王、明史に良懐に作るは蓋し誤也。懐良王は、後醍醐帝の皇子、延元三年、征西大将軍に任じ、筑紫を鎮撫す。菊池武光等之に従い、興国より正平に及び、勢威大に張る。明の太祖の辺海毎に和寇に擾さるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを以て威嚇するや、王答うるに書を以てす。其略に曰く、乾坤は浩蕩たり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪なり、諸邦を作して以て分守す。蓋し天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる也。吾聞く、天朝戦を興すの策ありと、小邦亦敵を禦ぐの図あり。豈肯て途に跪いて之を奉ぜんや。之に順うも未だ其生を必せず、之に逆うも未だ其死を必せず、相逢う賀蘭山前、聊以て博戯せん、吾何をか懼れんやと。太祖書を得て慍ること甚だしく、真に兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和元年に当る。時に王既に今川了俊の為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝[#「後村上帝」は底本では「御村上帝」]の皇子良成王に譲り、筑後矢部に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務をば執りたまわず、年代齟齬[#「齟齬」は底本では「齬齟」]するに似たり。然れども王と明との交渉は夙に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此事我が国に史料全く欠け、大日本史も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚にあらず。)一個優秀の風格、多く得可からざるの人なり。洪武十七年、疾を得て死するや、太祖親しく文を為りて祭を致し、岐陽王に追封し、武靖と諡し、太廟に配享したり。景隆は是の如き人の長子にして、其父の蓋世の武勲と、帝室の親眷との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統ぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀、雍容都雅、顧盻偉然、卒爾に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡出でゝ軍を湖広陝西河南に練り、左軍都督府事となりたるほかには、為すところも無く、其功としては周王を執えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮にして羊質、所謂治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を※[#「足へん+諜のつくり」、UCS-8E40、305-1]み剣を揮いて進み、創を裹み歯を切って闘うが如き経験は、未だ曾て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其真を得たりしなり。 李景隆は大兵を率いて燕王を伐たんと北上す。帝は猶北方憂うるに足らずとして意を文治に専らにし、儒臣方孝孺等と周官の法度を討論して日を送る、此間に於て監察御史韓郁(韓郁或は康郁に作る)というもの時事を憂いて疏を上りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒となし、諸王は太祖の遺体なり、孝康の手足なりとなし、之を待つことの厚からずして、周王湘王代王斉王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為に計る者の過にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為し、諺に曰く、親者之を割けども断たず、疎者之を続げども堅からずと、是殊に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈し、湘王を封じ、周王を京師に還し、諸王世子をして書を持し燕に勧め、干戈を罷め、親戚を敦うしたまえ、然らずんば臣愚おもえらく十年を待たずして必ず噬臍の悔あらん、というに在り。其の論、彝倫を敦くし、動乱を鎮めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時既に去り、勢既に成るの後に於て、此言あるも、嗚呼亦晩かりしなり。帝遂に用いたまわず。 景隆の炳文に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五敗兆を具せるを指摘し、我之を擒にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平を世子に守らしめ、東に出でゝ、遼東の江陰侯呉高を永平より逐い、転じて大寧に至りて之を抜き、寧王を擁して関に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲、梁明等、世子を奉じて防守甚だ力むと雖も、景隆が軍衆くして、将も亦雄傑なきにあらず、都督瞿能の如き、張掖門に殺入して大に威勇を奮い、城殆ど破る。而も景隆の器の小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを俟ちて倶に進めと令し、機に乗じて突至せず。是に於て守る者便を得、連夜水を汲みて城壁に灌げば、天寒くして忽ち氷結し、明日に至れば復登ることを得ざるが如きことありき。燕王は予め景隆を吾が堅城の下に致して之を殱さんことを期せしに、景隆既にに入り来りぬ、何ぞ箭を放たざらんや。大寧より還りて会州に至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬を右軍に、徐忠を前軍に、降将房寛を後軍に将たらしめ、漸く南下して京軍と相対したり。十一月、京軍の先鋒陳暉、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷して曰く、天若し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷果して合す。燕の師勇躍して進み、暉の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃し、遂に連りに其七営を破って景隆の営に逼る。張玉等も陣を列ねて進むや、城中も亦兵を出して、内外交攻む。景隆支うる能わずして遁れ、諸軍も亦粮を棄てゝ奔る。燕の諸将是に於て頓首して王の神算及ぶ可からずと賀す。王曰く、偶中のみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には謙す。燕王が英雄の心を攬るも巧なりというべし。 景隆が大軍功無くして、退いて徳州に屯す。黄子澄其敗を奏せざるを以て、十二月に至って却って景隆に太子太師を加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌を攻めて之を降す。 前に疏を上りて、諸藩を削るを諫めたる高巍は、言用いられず、事遂に発して天下動乱に至りたるを慨き、書を上りて、臣願わくは燕に使して言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に上りたり。其略に曰く、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]升遐したまいて意わざりき大王と朝廷と隙あらんとは。臣おもえらく干戈を動かすは和解に若かずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に見えん。昔周公流言を聞きては、即ち位を避けて東に居たまいき。若し大王能く首計の者を斬りたまい、護衛の兵を解き、子孫を質にし、骨肉猜忌の疑を釈き、残賊離間の口を塞ぎたまわば、周公と隆んなることを比すべきにあらずや。然るを慮こゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇を襲いたもう。されば事に任ずる者、口に藉くことを得て、殿下文臣を誅することを仮りて実は漢の呉王の七国に倡えて晁錯を誅せんとしゝに効わんと欲したもうと申す。今大王北平に拠りて数群を取りたもうと雖も、数月以来にして、尚爾たる一隅の地を出づる能わず、較ぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ其一をも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の統べたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は則ち君臣たり、親は則ち骨肉たるも、尚離れ間たりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。巍が念こゝに至るごとに大王の為に流涕せずんばあらざる也。願わくは大王臣が言を信じ、上表謝罪し、甲を按き兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥あり、天人共に悦びて、太祖在天の霊も亦安んじたまわん。迷を執りて回らず、小勝を恃み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、為す可からざるの悖事を僥倖するを敢てしたまわば、臣大王の為に言すべきところを知らざる也。況んや、大喪の期未だ終らざるに、無辜の民驚きを受く。仁を求め国を護るの義と、逕庭あるも亦甚し。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪するの批議無きにあらじ。もし幸にして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何の人と謂い申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣の微命、もとより死を畏れず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩を蒙りて、臣が孝行を旌したもうを辱くす。巍既に孝子たる、当に忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に見ゆるを得ば、巍も亦以て愧無かるべし。巍至誠至心、直語して諱まず、尊厳を冒涜す、死を賜うも悔無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。と憚るところ無く白しける。されど燕王答えたまわねば、数次書を上りけるが、皆効無かりけり。 巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の此に対して如何の感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し戦を開く、巍の言善しと雖も、大河既に決す、一葦の支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其言と、忠孝敦厚の人たるに負かず。数百歳の後、猶読む者をして愴然として感ずるあらしむ。魏と韓郁とは、建文の時に於て、人情の純、道理の正に拠りて、言を為せる者也。
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