屠牛の二
黒い外套に鳥打帽を冠った獣医が入って来た。人々は互に新年の挨拶を取換した。屠手の群はいずれも白い被服を着け、素足に冷飯草履という寒そうな風体で、それぞれ支度を始める。庭の隅にかがんで鋭い出刃包丁を磨ぐのもある。肉屋の亭主は板塀に立て掛けてあった大鉞を取って私に示した。薪割を見るような道具だ。一方に五六寸ほどの尖った鉄管が附けてある。その柄には乾いた牛の血が附着していた。屠殺に用いるのだそうだ。肉屋の亭主は沈着いた調子で、以前には太い釘の形状したのを用いたが、この管状の方が丈夫で、打撃に力が入ることなどを私に説明した。 南部産の黒い牡牛が、やがて中央の庭へ引出されることに成った。その鼻息も白く見えた。繋いであった他の二頭は遽かに騒ぎ始めた。屠手の一人は赤い牡牛の傍へ寄り、鼻面を押えながら「ドウ、ドウ」と言って制する。その側には雑種の牡牛が首を左右に振り、繋がれたまま柱を一廻りして、しきりに逃れよう逃れようとしている。殆んど本能的に、最後の抵抗を試みんとするがごとくに見えた。 死地に牽かれて行く牡牛はむしろ冷静で、目には紫色のうるみを帯びていた。皆な立って眺めている中で獣医は彼方此方と牛の周囲を廻って歩きながら、皮をつまみ、咽喉を押え、角を叩きなどして、最後に尻尾を持上げて見た。 検査が済んだ。屠手は多勢寄って群って、声を励ましたり、叱ったりして、じッとそこに動かない牛を無理やりに屠場の方へ引き入れた。屠場は板敷で、丁度浴場の広い流し場のように造られてある。牛の油断を見すまして、屠手の一人は細引を前後の脚の間に投げた。それをぐッと引絞めると、牛は中心を保てない姿勢に成って、重い体躯を横倒しに板の間の上に倒れた。その前額のあたりを目がけて、例の大鉞の鋭い尖った鉄管を骨も砕けよとばかりに打ち込むものがあった。牛は目を廻し、足をバタバタさせて、鼻息も白く、幽かな呻き声を残して置いて気息も絶えんとした。 この南部牛のまだ気息の残ったのを取繞いて、屠手のあるものは尻尾を引き、あるものは細引を引張り、あるものは出刃でもって咽喉のあたりを切った。そのうちに多勢して、倒れた牛の上に乗って、茶色な腹の辺と言わず、背と言わず、とんとん踏みつけると、赤黒い血が切られた咽喉のところから流れ出した。砕けた前額の骨の間へは棒を深く差込んで抉り廻すものもあった。気息のあるうちは、牛は身を悶えて、呻いたり、足をヒクヒクさせたりして苦んだが、血が流れ出した頃には全く気息も絶えた。 黒い大きな牛の倒れた姿が――前後の脚は一本ずつ屠場の柱にくくりつけられたままで、私達の眼前に横たわっていた。屠手の一人はその茶色の腹部の皮を縦に裂いて、見る間に脚の皮を剥き始めた。また一人は、例の大鉞を振って、牛の頭を二つ三つ打つうちに、白い尖った角がポロリと板の間へ落ちた。この南部牛の黒い毛皮から、白い脂肪に包まれた中身が顕われて来たのは、間もなくであった。 赤い牝牛が屠場へ引かれて来た。
屠牛の三
赤い牝牛に続いて、黒い雑種の牡も、型の如くに瞬く間に倒された。広い屠場には三頭の牛の体が横たわった。ふと板塀の外に豚の鳴き騒ぐ声が起った。庭へ出て見ると、白い、肥った、脚の短い豚が死物狂いに成って、哀しく可笑しげな声を揚げながら、庭中逃げ廻っていた。子供まで集って来た。追うものもあれば、逃げるものもあった。肉屋の亭主が手早く細引を投げ掛けると、数人その上に馬乗りに乗って脚を締めた。豚はそのまま屠場へ引摺られて行った。 「牛は宜う御座んすが、豚は喧しくって不可ません。危いことなぞは有りませんが、騒ぐもんですから――」 こういう肉屋の亭主に随いて、復た私は屠場へ入って見た。豚は五人掛りで押えられながらも、鼻を動かしたり、哀しげに呻って鳴いたりした。牛の場合とは違って、大鉞などが用いられるでも無かった。屠手はいきなり出刃を揮って生きている豚の咽喉を突いた。これに私はすくなからず面喰って、眺めていると豚は一層声を揚げて鳴いた。牛の冷静とは大違いだ。豚の咽喉からは赤い血が流れて出た。その毛皮が白いだけ、余計に血の色が私の眼に映った。三人ばかりの屠手がその上に乗ってドシドシ踏み付けるかと見るうちに、忽ち豚の気息は絶えた。 年をとった屠手の頭は彼方此方と屠場の中を廻って指図しながら歩いていた。その手も、握っている出刃も、牛と豚の血に真紅く染まって見えた。最初に屠られた南部牛は、三人掛りで毛皮も殆んど剥ぎ取られた。すこし離れてこの光景を眺めると、生々とした毛皮からは白い気の立つのが見える。一方には竹箒で板の間の血を掃く男がある。蹲踞んで出刃を磨くものもある。寒い日の光は注連を飾った軒先から射し入って、太い柱や、そこに並んで倒れている牛や、白い被服を着けた屠手等の肩なぞを照らしていた。 そのうちに、ある屠手の出刃が南部牛の白い腹部のあたりに加えられた。卵色の膜に包まれた臓腑がべろべろと溢れ出た。屠手の中には牛の爪先を関節のところから切り放して、土間へ投出すのもあり、胴の中程へ出刃を入れて肉を裂くものもあった。牛の体からは膏が流れて、それが血のにおいに混って、屠場に満ちた。
屠牛の四
私は赤い牝牛が「引割」という方法に掛けられるのを見た。それは鋸で腰骨を切開いて、骨と骨の間に横木を入れ、後部の脚に綱を繋いで逆さに滑車で釣し上げるのだ。屠手は三人掛りでその綱を引いた。 「そら、巻くぜ」 「ああまだ尻尾を切らなくちゃ」 屠手の頭は手ずからその尻尾を切り放った。 「さあー車々」と言うものもあれば、「ホラ、よいせ」と掛声するものもあって、牝牛の体は柱と柱の間に高く逆さに掛った。脊髄の中央から真二つにそれを鋸で引割るのだ。ザクザクと、まるで氷でも引くように。 「どうも切れなくて不可」 「鋸が切れないのか、手が切れないのか」 と頭は頭らしいことを言って、笑い眺めていた。 巡査が入って来た。子供達はおずおずと屠場を覗いていた。犬もボンヤリ眺めていた。巡査は逢う人毎に「御目出度う」と言ったまま、火のある小屋の方へ行った。このごちゃごちゃした屠場の中を獣医は見て廻って、「オイ正月に成ったら御装束をもっと奇麗にしよや」 古びた白の被服を着けた屠手は獣医の方を見た。 「ハイ」 「醤油で煮染めたような物じゃ困るナ」 南部牛は既に四つの大きな肉の塊に成って、その一つズツの股が屠場の奥の方に釣された。屠手の頭はブリキの箱を持って来て、大きな丸い黒印をベタベタと牛の股に捺して歩いた。 不思議にも、屠られた牛の傷ましい姿は、次第に見慣れた「牛肉」という感じに変って行った。豚も最早一時前まで鳴き騒いだ豚の形体はなくて、紅味のある豚肉に成って行った。南部牛の頭蓋骨は赤い血に染みたままで、片隅に投出してあったが、屠手が海綿でその血を洗い落した。肉と別々にされた骨の主なる部分は、薪でも切るように、例の大鉞で四つほどに切断せられた。屠手の頭も血にまみれた両手を洗って腰の煙草入を取出し、一服やりながら皆なの働くさまを眺めた。 「このダンベラは、どうかして其方へ片付けろ」 と獣医は屠手に言付けて、大きな風呂敷包を見るような臓腑を片付けさしたが、その辺の柱の下には赤い牝牛の尻尾、皮、小さな二つの角なぞが残っていた。 肉屋の若い者はガラガラと箱車を庭の内へ引き込んだ。箱にはアンペラを敷いて、牛の骨を投入れた。 「十貫六百――八貫二百――」 なぞと読み上げる声が屠場の奥に起った。屠手は二人掛りで大きな秤を釣して、南部牛や雑種や赤い牝牛の肉の目方を計る。肉屋の亭主は手帳を取出し一々それを鉛筆で書留めた。 肉と膏と生血のにおいは屠場に満ち満ちていた。板の間の片隅には手桶に足を差入れて、牛の血を洗い落している人々もある。牝牛の全部は早や車に積まれて門の外へ運び去られた。 「三貫八百――」 それは最後に計った豚の片股を読み上げる声だった。肉屋の亭主に言わせると、牛は殆んど廃る部分が無い。頭蓋骨は肥料に売る。臓腑と角とは屠手の利に成る。こんな話を聞きながら、間もなく私は亭主と連立って屠牛場の門を出た、枯々な桑畠の間には、喜び騒ぐ犬の声々と共に、牛豚の肉を満載した車の音が高く響き渡った。
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その十
千曲川に沿うて
これまで私が君に話したことで、君は浅間山脈と蓼科山脈との間に展開する大きな深い谷の光景を略想像することが出来たろうと思う。私は君の心を浅間の山腹へ連れて行って、あそこから見渡した千曲川の話もしたし、ずっと上流の方へ誘って行ってそこにある山々、村々の話もした。暇さえあれば私は千曲川沿岸の地方を探るのを楽みとした。私は岩村田から香坂へ抜け、内山峠を越して上州の方へも下りて見たし、依田川という千曲川の支流に随いて和田峠から諏訪の方へも出て見たし、霊泉寺の温泉から梅木峠を旅して別所温泉の方へ廻ったこともある。田沢温泉のことは君にも話した。君は私と共に、千曲川の上流にある主なる部分を見たというものだ。私は更に下流の方へ――越後に近い方まで君の心を誘って行こう。 軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りて来た汽車、それに私が乗ったのは一月の十三日だ。この汽車が通って来た碓氷の隧道には――一寸あの峠の関門とも言うべきところに――巨大な氷柱の群立するさまを想像してみたまえ。それから寒帯の地方と気候を同じくするという軽井沢附近の落葉松林に俗に「ナゴ」と称えるものが氷の花のように附着するさまを想像してみたまえ。 汽車が小諸を離れる時、プラットフォムの上に立つ駅夫等の呼吸も白く見えた。窓の硝子越に眺めると田、野菜畠、桑畠、皆な雪に掩われて、谷の下の方を暗い藍色な千曲川の水が流れて行った。村落のあるところには人家の屋根も白く、土壁は暗く、肥桶をかついで麦畠の方へ通う農夫等も寒そうであった。田中の駅を通り過ぎる頃、浅間、黒斑、烏帽子等の一帯の山脈の方を望むと空は一面に灰色で、連続した山々に接した部分だけ朦朧と白く見えた。Unseen Whiteness――そんな言葉より外にあの深い空を形容してみようが無かった。窓側に遠く近く見渡される麦畠のサクの窪みへは雪が積って、それがウネウネと並行した白い線を描いた中に、枯々な雑木なぞがポツンポツンと立つのも見えた。 雪国の鬱陶しさよ。汽車は犀川を渡った。あの水を合せてから、千曲川は一層大河の趣を加えるが、その日は犀川附近の広い稲田も、岸にある低い楊も、白い土質の崖も、柿の樹の多い村落も、すべて雪に掩われて見えた。その沈んだ眺望は唯の白さでなくて、紫がかった灰色を帯びたものだった。遠い山々は重く暗い空に隠れて、かすかに姿をあらわして見せた。この一面の雪景色の中で、僅かに単調を破るものは、ところどころに見える暗い杜と、低く舞う餓えた烏の群とのみだ。行手には灰色な雪雲も垂下って来た。次第に私は薄暗い雪国の底の方へ入って行く気がした。ある駅を離れる頃には雪も降って来た。 この旅は私独りでなく小諸から二人の連があった。いずれも私の家に近いところの娘達で、I、Kという連中だ。この二人は小諸の小学を卒えて、師範校の講習を受ける為に飯山まで行くという。汽車の窓から親達の住む方を眺めて、眼を泣きはらして来る程の年頃で、知らない土地へ二人ぎり出掛るとは余程の奮発だ。でもまだ真実に娘々したところのある人達で、互に肘で突付き合ったり、黄ばんだ歯をあらわして快活に笑ったり、背後から友達を抱いて車中の退屈を慰めたりなどする。Naiveな、可憐な、見ていても噴飯したくなるような連中だ。御蔭で私も紛れて行った。Iの方は私の家の大屋さんの娘だ。 豊野で汽車を下りた。そのあたりは耕地の続いた野で、附近には名高い小布施の栗林もある。その日は四阿、白根の山々も隠れてよく見えなかった。雪の道を踏んで行くうちに、路傍に梨や柿の枯枝の見える、ある村の坂のところへ掛った。そこは水内の平野を見渡すような位置にある。私が一度その坂の上に立った時は秋で、豊饒な稲田は黄色い海を見るようだった。向の方には千曲川の光って流れて行くのを望んだこともあった。遠く好い欅の杜を見て置いたが、黄緑な髪のような梢からコンモリと暗い幹の方まで、あの樹木の全景は忘られずにある。雪の中を私達は蟹沢まで歩いた。そこまで行くと、始めて千曲川に舟を見る。
川船
降ったり休んだりした雪は、やがて霙に変って来た。あの粛々降りそそぐ音を聞きながら、私達は飯山行の便船が出るのを待っていた。男は真綿帽子を冠り、藁靴を穿き、女は紺色染の真綿を亀の甲のように背中に負って家の内でも手拭を冠る。それがこの辺で眼につく風俗だ。休茶屋を出て川の岸近く立って眺めると上高井の山脈、菅平の高原、高社山、その他の山々は遠く隠れ、対岸の蘆荻も枯れ潜み、洲の形した河心の砂の盛上ったのも雪に埋もれていた。奥深く、果てもなく白々と続いた方から、暗い千曲川の水が油のように流れて来る。これが小諸附近の断崖を突いて白波を揚げつつ流れ下る同じ水かと思うと、何となく大河の勢に変って見える。上流の方には、高い釣橋が多いが、ここへ来ると舟橋も見られる。 そのうちに乗客が集って来た。私達は雪の積った崖に添うて乗場の方へ降りた。屋根の低い川船で、人々はいずれも膝を突合せて乗った。水に響く艪の音、屋根の上を歩きながらの船頭の話声、そんなものがノンキな感じを与える。船の窓から眺めていると、雪とも霙ともつかないのが水の上に落ちる。光線は波に銀色の反射を与えた。 こうして蟹沢を離れて行った。上今井というところで、船を待つ二三の客が岸に立っていた。船頭はジャブジャブ水の中へ入って行って、男や女の客を負って来た。砂の上を離れる舟底の音がしたかと思うと、又た艪の音が起った。その音は千曲川の静かな水に響いてあだかも牛の鳴声の如く聞える。舟が鳴くようにも。それを聞いていると、何とでも此方の思った様に聞えて、同行のIの苗字を思出せばそのように、Kの苗字を思出せば又そのように響いて来る。無邪気の娘達は楽しそうに聞き入った。両岸は白い雪に包まれた中にも、ところどころに村々の人家、雑木林、森なぞを望み、雪仕度して岸の上を行く人の影をも望んだ。その岸の上を以前私が歩いた時は、豆粟などの畠の熟する頃で、あの莢や穂が路傍に垂下っていた。そう、そう、私はあの時、この岸の下の方に低い楊の沢山蹲踞っているのを瞰下して、秋の日にチラチラする雑木の霜葉のかげからそれを眺めた時は、丁度羊の群でも見るような気がした。川船は今、その下を通るのだ。どうかすると、水に近い楊の枯枝が船の屋根に触れて、それを潜り抜けて行く時にはバラバラ音がした。 船の中は割合に暖かだった。同じ雪国でも高原地に比べると気候の相違を感ずる。それだけ雪は深い。午後の日ざしの加減で、対岸の山々が紫がかった灰色の影を水に映して見せる。私は船窓を開けて、つぶやくような波の音を聞いたり、舷にあたる水を眺めたりして行った。この川船は白いペンキで塗って、赤い二本の筋をあらわしてある。 ある舟橋に差掛った。船は無作法にその下を潜り抜けて行った。 黒岩山を背景にして、広々とした千曲川の河原に続いた町の眺めが私達の眼前に展けた。雪の中には鶏の鳴声も聞える。人家の煙も立ちこめている。それが旧い飯山の城下だ。
雪の海
一晩に四尺も降り積るというのが、これから越後へかけての雪の量だ。飯山へ来て見ると、全く雪に埋もれた町だ。あるいは雪の中から掘出された町と言った方が適当かも知れぬ。 この掘出されたという感じを強く与えるものは、町の往来に高く築き上げてある雪の山だ。屋根から下す多量な雪を、人々が集って積み上げ積み上げするうちに、やがて人家の軒よりも高く成る。それが往来の真中に白壁の如く続いている。家々の軒先には「ガンギ」というものを渡して、その下を用事ありげな人達が往来している。屋内の暗さも大凡想像されよう。それに高い葭簾で家をかこうということが、一層屋内を暗くする。私は娘達を残して置いて、独りで町へ出てみた。チラチラ雪の中で橙火の点く頃だった。私は天の一方に、薄暗い灰色な空が紅色を帯びるのを望んだ。丁度遠いところの火事が曇った空に映ずるように。それが落日の反射だった。 雪煙もこの辺でなければ見られないものだ。実に陰鬱な、頭の上から何か引冠せられているような気のするところだ。土地の人が信心深いというのも、偶然では無いと思う。この町だけに二十何カ処の寺院がある。同じ信州の中でも、ここは一寸上方へでも行ったような気が起る。言葉遣いからして高原の地方とは違う。 暗くなるまで私は雪の町を見て廻った。荷車の代りに橇が用いられ、雪の上を馬が挽いて通るのもめずらしかった。蒲で編んだ箕帽子を冠り、色目鏡を掛け、蒲脚絆を着け、爪掛を掛け、それに毛布だの、ショウルだので身を包んだ雪装束の人達が私の側を通った。 復た霙が降って来た。千曲川の岸へ出て見ると、そこは川船の着いたところで対岸へ通うウネウネと長い舟橋の上には人の足跡だけ一筋茶色に雪の上に印されたのが望まれた。時には雪鞋穿いた男にも逢ったが、往来の人の影は稀だった。高社、風原、中の沢、その他信越の境に聳ゆる山々は、唯僅かに山層のかたちを見せ、遠い村落も雪の中に沈んだ。千曲川の水は寂しく音もなく流れていた。 しかし試みにサクサクと音のする雪を踏んで、舟橋の上まで行って見ると、下を流れる水勢は矢のように早い。そこから河原を望んだ時は一面の雪の海だった――そうだ、白い海だ。その白さは、唯の白さでなく、寂莫とした底の知れないような白さだった。見ているうちに、全身顫えて来るような白さだった。
愛のしるし
飯山で手拭が愛のしるしに用いられるという話を聞いた。縁を切るという場合には手拭を裂くという。だからこの辺の近在の女は皆な手拭を大切にして、落して置くことを嫌うとか。 これは縁起が好いとか、悪いとかいう類の話に近い。でも優しい風俗だ。
山の上へ
「水内は古代には一面の水沢であったろう――その証拠には、飯山あたりの町は砂石の上に出来ている。土を掘って見ると、それがよく分る」 種々の土地の話を聞き、同行した娘達を残して置いて翌朝私は飯山を発った。舟橋を渡って、対岸から町の方に城山なぞを望み、それから岸の上の桑畠の雪に埋れた中を橇で走らせた。その橇は人力車の輪を取除して、それに「いたや」の堅い木片で造った橇を代用したようなものだ。梶棒と後押棒とあって人夫が二人掛りで引いたり押したりする。低い橇の構造だから梶棒を高く揚げると、乗った客はいくらか尻餅ついた形になる。とは言え、この乗りにくい橇が私の旅の心を喜ばせた。私は子供のような物めずらしさを以て人夫達の烈しい呼吸を聞いた。凍った雪の上を疾走して行った時は、どうかすると私は桑畠の中へ橇諸共ブチマケラレそうな気がした。 「ホウ――ヨウ――」という掛声と共に、雪の上を滑る橇の音、人夫達がサクサク雪を踏んで行く音まで私の耳に快感を起させた。川船で通って来た岸の雪景色は私の前に静かに廻転した。 中野近くで橇を降りた。道路に雪のある間は足も暖かであったが、そのうちに黄ばんだ泥をこねて行くような道に成って、冷く、足の指も萎れた。親切な飯山の宿で、爪掛を貰って、それを私は草鞋の先に掛けて穿て来た。 一月十四日のことで村々では「ものづくり」というものを祝った。「みずくさ」という木の赤い条に、米の粉をまるめて繭の形をつくる。それを神棚に飾りつける。養蚕の前祝だという。 帰りには、日光の為に眼もまぶしく、雪の反射で悩まされた。その日は千曲川の水も黄緑に濁って見えた。 豊野から復た汽車で、山の上の方へ戻って行った時は次第に寒さの加わることを感じた。けれども私は薄暗い陰気な雪の中からいくらか明るい空の方へ出て来たような気がして、ホッと息を吐いた。
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その十一
山に住む人々の一
以前私が飯山からの帰りがけに――雪の道を橇で帰ったとは反対の側にある新道に添うて――黄ばんだ稲田の続いた静間平を通り、ある村はずれの休茶屋に腰掛けたことが有った。その時、私は善光寺の方へでも行く「お寺さんか」と聞かれて意外の問に失笑した事が有った。同行の画家B君は外国仕込の洋服を着、ポケットに写生帳を入れていたが、戯れに「お寺さん」に成り済まして一寸休茶屋の内儀をまごつかせた。私が笑えば笑う程、余計に内儀は私達を「お寺さん」にして了って、仮令内幕は世俗の人と同じようでも、それも各自の身に具ったものであることなどを、半ば羨み、半ば調戯うような調子で言った。この内儀の話は、飯山から長野あたりへかけての「お寺さん」の生活の一面を語るものだ。 私は飯山行の話の中で、土地の人の信心深いことや、あの山間の小都会に二十何ヶ所の寺院のあることや、そういう旧態の保存されているところは一寸上方へでも行ったような気のする事を君に言って置いた。この古めかしい空気は、激しく変り行く「時」の潮流の中で、何時まで突き壊されずに続くものだろうか。とにかく、長い冬季を雪の中に過すような気候や地勢と相待って、一般の人の心に宗教的なところのあるのは事実のようだ。これは千曲川の下流に行って特にそう感ぜられる。 長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの内で行われるドラマチックな儀式とを見たばかりだし、それに眺望の好い往生寺の境内を歩いて見た位のもので、実際どういう人があるのか、精しくは知らない。飯山の方では私は何となく高い心を持った一人の老僧に逢ってみた。連添う老婦人もなかなかのエラ者だ。この人達は古い大きな寺院を経営し、年をとっても猶活動を忘れないでいるという風だ。その寺では、丁度檀家に法事があるとやらで、御画像というものを箱に入れ鄭重な風呂敷包にして借りて行く男なぞを見かけた。一寸したことだが、古風に感じた。 君は印度に於ける仏蹟探検の事実を聞いたことがあるか。その運動に参加した僧侶の一人は、この老僧の子息さんで、娘の婿にあたる学士も矢張一行の中に加わった人だ。学士は当時英国留学中であったが、病弱な体躯を提げて一行に加わり、印度内地及び錫蘭に於ける阿育王の遺跡なぞを探り、更に英国の方へ引返して行く途中で客死した。この学士の記念の絵葉書が、沢山飯山の寺に遺っていたが、熱帯地方の旅の苦みを書きつけてあったのなぞは殊に、私の心を引いた。老僧の子息さんは兵役に服しているとかで、その人には私は逢ってみなかった。旧い朽ちかかったような寺院の空気の中から、とにかくこういう新人物が生れている。そしてそういう人達の背後には、親であり又た舅姑である老僧夫婦のような人達があって、幾十年となく宗教的な生活を送って来たことが想像される。 しかし飯山地方に古めかしい宗教的の臭気が残っていて、二十何ヵ所の寺院が仮令維持の方法に苦みながらも旧態を保存しているということは、偶然でない。私はその老僧から、飯山の古い城主の中には若くて政治的生涯を離れ、僧侶の服を纏い、一生仏教の伝道に身を委ねた人のあったことを聞いた。又、白隠、恵端、その他すぐれた宗教家がそこに深い歴史的の因縁を遺していることも聞いた。 こういうことは高原の地方にはあまり無いことだ。第一そういう土地柄で無いし、そういう歴史の背景も無いし法の残燈を高く掲げているような老僧のような人も見当らない。私は小諸辺で幾人かの僧侶に逢ってみたが、実際社会の人達に逢っていると殆んど変りが無いように思った。養蚕時が来れば、寺の本堂の側に蚕の棚が釣られる。僧侶も労働して、長い冬籠の貯えを造らなければ成らない。
山に住む人々の二
学問の普及ということはこの国の誇りとするものの一つだ。多くの児童を収容する大校舎の建築物をこうした山間に望む景色は、一寸他の地方に見られない。そういう建物は何かの折に公会堂の役に立てられる。小諸でも町費の大部分を傾けて、他の町に劣らない程の大校舎を建築した。その高い玻璃窓は町の額のところに光って見える。 こういう土地だから、良い教育家に成ろうと思う青年の多いのも不思議は無い。種々な家の事情からして遠く行かれないような学問好きな青年は、多く国に居て身を立てることを考える。毎年長野の師範学校で募集する生徒の数に比べて、それに応じようとする青年の数は可なり多い。私達の学校にも、その準備の為に一二年在学する生徒がよくある。 一体にこの山国では学者を尊重する気風がある。小学校の教師でも、他の地方に比べると、比較的好い報酬を受けている。又、社会上の位置から言っても割合に尊敬を払われている。その点は都会の教育家などの比でない。新聞記者までも「先生」として立てられる。長野あたりから新聞記者を聘して講演を聴くなぞはここらでは珍しくない。何か一芸に長じたものと見れば、そういう人から新智識を吸集しようとする。小諸辺のことで言ってみても、名士先生を歓迎する会は実に多い。あだかも昔の御関所のように、そういう人達の素通りを許さないという形だ。 御蔭で私もここへ来てから種々な先生方の話を拝聴することが出来た。故福沢諭吉氏も一度ここを通られて、何か土産話を置いて行かれたとか。その事は私は後で学校の校長から聞いた。朝鮮亡命の客でよく足を留めた人もある。旅の書家なぞが困って来れば、相応に旅費を持たせて立たせるという風だ。概して、軍人も、新聞記者も、教育家も、美術家も、皆な同じように迎えらるる傾きがある。 こうした熱心な何もかも同じように受入れようとする傾きは、一方に於いて一種重苦しい空気を形造っている。強いて言えば、地方的単調……その為には全く気質を異にする人でも、同じような話しか出来ないようなところがある。 それから佐久あたりには殊に消極的な勇気に富んでいる人を見かける。ここには極くノンキな人もいるが又非常に理窟ッぽい人もいる。 何故こう信州人は理窟ッぽいだろう、とはよく聞く話だが、一体に人の心が激しいからだと思う。槲の葉が北風に鳴るように、一寸したことにも直に激し顫えるような人がある。それにつけて思出すことは、私が小諸へ来たばかりの時、青年会を起そうという話が町の有志者の間にあった。一同光岳寺の広間に集った時は、盛んな議論が起った。私達の学校のI先生なぞは、若い人達を相手に薄暗くなるまでも火花を散らしたものだ。皆な草臥れて、規則だけは出来たが、到頭その青年会はお流れに成って了ったことが有った。 一方に、極く静かな心を持った人と言えば、私達の学校で植物科を受持っているT君なぞがその一人であろう。ほんとに学者らしい、そして静かな心だ。どんな場合でも、私はT君の顔色の変ったのを見たことが無い。小諸からすこし離れた西原という村から出た人だ。T君の顔を見ると私は学校中で誰に逢うよりも安心する。
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