千曲川のスケッチ |
新潮文庫、新潮社 |
1955(昭和30)年4月20日、1970(昭和45)年5月5日25刷改版 |
1998(平成10)年8月25日68刷 |
1998(平成10)年8月25日68刷 |
序
敬愛する吉村さん――樹さん――私は今、序にかえて君に宛てた一文をこの書のはじめに記すにつけても、矢張呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸く今纏めることが出来た。 樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生れない前から君の家にまだ少年の身を托して、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋久松町の小学校へ通われる頃は、私は白金の明治学院へ通った。君と私とは殆んど兄弟のようにして成長して来た。私が木曾の姉の家に一夏を送った時には君をも伴った。その時がたしか君に取っての初旅であったと覚えている。私は信州の小諸で家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻と共に君を迎えた。その時の君は早や中学を卒えようとするほどの立派な青年であった。君は一夏はお父さんを伴って来られ、一夏は君独りで来られた。この書の中にある小諸城址の附近、中棚温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあろうと思う。私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、この書の全部を君に宛てて書いた。山の上に住んだ時の私からまだ中学の制服を着けていた頃の君へ。これが私には一番自然なことで、又たあの当時の生活の一番好い記念に成るような心地がする。 「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」 これは私が都会の空気の中から脱け出して、あの山国へ行った時の心であった。私は信州の百姓の中へ行って種々なことを学んだ。田舎教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。私の心は詩から小説の形式を択ぶように成った。この書の主なる土台と成ったものは三四年間ばかり地方に黙していた時の印象である。 樹さん、君のお父さんも最早居ない人だし、私の妻も居ない。私が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変えた。しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。今でも私は千曲川の川上から川下までを生々と眼の前に見ることが出来る。あの浅間の麓の岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。あの土のにおいを嗅ぐような気がする。私がつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」と「家」の一部、最近の短篇なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。このスケッチの中で知友神津猛君が住む山村の附近を君に紹介しなかったのは遺憾である。私はこれまで特に若い読者のために書いたことも無かったが、この書はいくらかそんな積りで著した。寂しく地方に住む人達のためにも、この書がいくらかの慰めに成らばなぞとも思う。
大正元年 冬
藤村
[#改ページ]
その一
学生の家
地久節には、私は二三の同僚と一緒に、御牧ヶ原の方へ山遊びに出掛けた。松林の間なぞを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上では大分蕨を採った。それから鴇窪という村へ引返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を送った。 私は今、小諸の城址に近いところの学校で、君の同年位な学生を教えている。君はこういう山の上への春がいかに待たれて、そしていかに短いものであると思う。四月の二十日頃に成らなければ、花が咲かない。梅も桜も李も殆んど同時に開く。城址の懐古園には二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。すると、毎年きまりのように風雨がやって来て、一時にすべての花を浚って行って了う。私達の教室は八重桜の樹で囲繞されていて、三週間ばかり前には、丁度花束のように密集したやつが教室の窓に近く咲き乱れた。休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。学生等はその下を遊び廻って戯れた。殊に小学校から来たての若い生徒と来たら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。どうだろう、それが最早すっかり初夏の光景に変って了った。一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋れていた。 私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりでは無い。平原、小原、山浦、大久保、西原、滋野、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る。こういう学生は多く農家の青年だ。学校の日課が済むと、彼等は各自の家路を指して、松林の間を通り鉄道の線路に添い、あるいは千曲川の岸に随いて、蛙の声などを聞きながら帰って行く。山浦、大久保は対岸にある村々だ。牛蒡、人参などの好い野菜を出す土地だ。滋野は北佐久の領分でなく、小県の傾斜にある農村で、その附近の村々から通って来る学生も多い。 ここでは男女が烈しく労働する。君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどということを知るまい。外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に収穫休みというものがあるとか。何かの本でそんなことを読んだことがあった。私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。多忙しい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければ成らない。彼等は又、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。 Sという学生は小原村から通って来る。ある日、私はSの家を訪ねることを約束した。私は小原のような村が好きだ。そこには生々とした樹蔭が多いから。それに、小諸からその村へ通う畠の間の平かな道も好きだ。 私は盛んな青麦の香を嗅ぎながら出掛けて行った。右にも左にも麦畠がある。風が来ると、緑の波のように動揺する。その間には、麦の穂の白く光るのが見える。こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は圧しつけられるような心持に成る。可怖しい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。 近頃Sの家では牛乳屋を始めた。可成大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。十人、十五人の大きな家族さえある。Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃な家族の人達が私の心を惹いた。 君は農家を訪れたことがあるか。入口の庭が広く取ってあって、台所の側から直に裏口へ通り抜けられる。家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。この家の土間は葡萄棚などに続いて、その横に牛小屋が作ってある。三頭ばかりの乳牛が飼われている。 Sの兄は大きなバケツを提げて、牛小屋の方から出て来た。戸口のところには、Sが母と二人で腰を曲めて、新鮮な牛乳を罎詰にする仕度をした。暫時、私は立って眺めていた。 やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々な話を聞いた。牛の性質によって温順しく乳を搾らせるのもあれば、それを惜むのもある。アバレるやつ、沈着いたやつ、いろいろある。牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西の入の牧場なぞが設けてあることを聞いた。 晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。
鉄砲虫
この山の上で、私はよく光沢の無い茶色な髪の娘に逢う。どうかすると、灰色に近いものもある。草葺の小屋の前や、桑畠の多い石垣の側なぞに、そういう娘が立っているさまは、いかにも荒い土地の生活を思わせる。 「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」 学校の小使が私にこんなことを言った。
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