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千曲川のスケッチ(ちくまがわのスケッチ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-11 8:57:14 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



   その五


     山の温泉

 夕立ともつかず、時雨しぐれともつかないような、夏から秋に移り変る時の短い雨が来た。草木にそそぐ音は夕立ほど激しくない。最早初茸はつだけを箱に入れて、木の葉のついた樺色かばいろなやつや、緑青ろくしょうがかったやつなぞを近在の老婆達が売りに来る。
 一月ばかり前に、私は田沢温泉という方へ出掛けて行って来た。あの話を君にするのを忘れた。
 温泉地にも種々いろいろあるが、山の温泉は別種の趣がある。上田町に近い別所温泉なぞは開けた方で、したがって種々の便利もそなわっている。しかし山国らしい温泉の感じは、かえって不便な田沢、霊泉寺などに多くあじわわれる。あの辺にも相応な温泉宿は無いではないが、なにしろ土地の者が味噌みそや米を携えて労苦を忘れに行くという場所だ。自炊する浴客が多い。宿では部屋だけでも貸す。それに部屋付のかまどが具えてある。浴客は下駄穿げたばきのまま庭からすぐ楼梯はしごだんを上って、楼上の部屋へ通うことも出来る。この土足で昇降あがりおりの出来るように作られた建物を見ると、山深いところにある温泉宿の気がする。鹿沢かざわ温泉(山の湯)と来たら、それこそ野趣に富んでいるという話だ。
 半ば緑葉に包まれ、半ば赤いがけに成った山脈に添うて、千曲川の激流を左に望みながら、私は汽車で上田まで乗った。上田橋――赤く塗った鉄橋――あれを渡る時は、大河らしい千曲川の水を眼下めのしたながめて行った。私は上田附近の平地にある幾多の村落の間を歩いて通った。あの辺はいかにも田舎道いなかみちらしい気のするところだ。途中に樹蔭こかげもある。腰掛けて休む粗末な茶屋もある。
 青木村というところで、いかに農夫達が労苦するかを見た。彼等の背中に木の葉をして、それをわずかの日除ひよけとしながら、田の草を取って働いていた。私なぞは洋傘こうもりでもなければ歩かれない程の熱い日ざかりに。この農村を通り抜けると、すこし白く濁った川にいて、谷深く坂道を上るように成る。川の色を見ただけでも、湯場に近づいたことを知る。そのうちに、こんな看板の掛けてあるところへ出た。
     ┏━━━━━━━━━━━━━┓
     ┃ 湯           ┃
     ┃   ※(ます記号、1-2-23) み や ば ら ┃
     ┃ 本           ┃
     ┗━━━━━━━━━━━━━┛
 升屋ますやというは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞える楼上で、私達の学校の校長の細君が十四五人ばかりの女生徒を連れて来ているのに逢った。この娘達も私が余暇に教えに行く方の生徒だ。
 楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。
 十九夜の月の光がこの谷間たにあいに射し入った。人々が多く寝静まった頃、まだ障子を明るくして、盛んに議論している浴客の声も聞えた。
「身体は小さいけれど、そんな野蛮人じゃねえ」
 理屈りくつッぽい人達の言いそうな言葉だ。
 翌日は朝霧のこもった谿谷けいこくに朝の光が満ちて、近い山も遠く、家々から立登る煙は霧よりも白く見えた。浅間は隠れた。山のかなたは青がかった灰色に光った。白い雲が山脈に添うて起るのも望まれた。国さんという可憐かれんの少年も姉娘に附いて来ていて、温泉宿の二階で玩具おもちゃ銀笛ぎんてきを吹いた。
 そこは保福寺ほうふくじ峠と地蔵峠とに挟まれた谷間だ。二十日の月はその晩も遅くなって上った。水の流が枕に響いて眠られないので、一旦寝た私は起きて、こういう場所の月夜の感じをあじわった。高いてすり倚凭よりかかって聞くと、さまざまの虫の声が水音と一緒に成って、この谷間に満ちていた。その他暗い沢の底の方には種々な声があった。――遅くなって戸を閉める音、深夜の人の話声、犬の啼声なきごえ、楽しそうな農夫の唄。
 四日目の朝まだ暗いうちに、私達は月明りで仕度したくして、段々夜の明けて行く山道を別所の方へ越した。

     学窓の一

 夏休みも終って、た私は理学士やB君や、それから植物の教師などと学校でよく顔を合せるように成った。
 秋の授業を始める日に、まだ桜の葉の深く重なり合ったのが見える教室の窓の側で、私は上級の生徒に釈迦しゃかの話をした。
 私は『釈迦譜しゃかふ』を選んだ。あの本の中には、王子の一生が一篇の戯曲ドラマを読むように写出うつしだしてある。あの中から私は釈迦の父王の話、王子の若い友達の話なぞを借りて来て話した。青年の王子が憂愁に沈みながら、東西南北の四つの城門から樹園の方へ出て見るという一節は、私の生徒の心をも引いたらしい。一つの門を出たら、病人に逢った。人は病まなければ成らないかと王子は深思した。他の二つの門を出ると、老人に逢い、死者に逢った。人は老いなければ成らないか、人は死ななければ成らないか。この王子の逢着ほうちゃくする人生の疑問がいかにも簡素に表してある。最後に出た門の外で道者に逢った。そこで王子は心を決して、このLifeを解かんが為に、あらゆるものを破り捨てて行った。
 戯曲的ではないか。少年の頭脳にも面白いように出来ているではないか。私はこんな話を生徒にした後で、多勢居る諸君の中には実業に志すものもあろうし、軍人に成ろうというものもあろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込もあって欲しい、と言って聞かせた。
 私は生徒の方を見た。生徒は私の言った意味を何とったか、いずれも顔を見合せて笑った。中には妙な顔をして、頭をかかえているものもあった。

     学窓の二

 樹木が一年に三度ずつ新芽を吹くとは、今まで私は気がつかなかった。今は九月の若葉の時だ。
 学校の校舎の周囲まわりには可成かなり多くの樹木を植えてある。大きな桜の実の熟する頃なぞには、自分等の青年時代のことまでも思い起させたが、こうして夏休過に復たこの庭へ来て見ると、何となく白ッぽい林檎りんごの葉や、紅味を含んだ桜や、淡々しい青桐あおぎりなどが、校舎の白壁に映り合って、楽しい陰日向かげひなたを作っている。楽しそうに吹く生徒の口笛が彼方此方あちこちに起る。テニスのコートを城門の方へ移してからは、桜の葉蔭で角力すもうを取るものも多い。
 学校の帰りに、夏から病んでいるBの家を訪ねた。その家の裏を通り抜けて石段を下りると、林檎の畠がある。そこにも初秋らしい日があたっていた。

     田舎いなか教師

 朝顔の花を好んで毎年培養する理学士が、ある日学校の帰途かえりみちに、新しい弟子でしの話を私にして聞かせた。
 弟子と言っても朝顔を培養する方の弟子だ。その人は町に住む牧師で、一部の子供から「日曜学校の叔父さん」となつかしがられている。
 この叔父さんの説教最中に夕立が来た。まだ朝顔の弟子入をしたばかりの時だ。彼の心は毎日楽しんでいる畑の方へ行った。大事な貝割葉かいわればの方へ行った。雨に打たれる朝顔ばちの方へ行った。説教そこそこにして、彼は夕立の中を朝顔棚の方へ駈出かけだした。
「いかにも田舎の牧師さんらしいじゃ有りませんか」と理学士はこの新しい弟子の話をして、笑った。その先生はまた、火事見舞に来て、朝顔の話をして行くほど、自分でも好きな人だ。

     九月の田圃道たんぼみち

 傾斜に添うて赤坂(小諸町の一部)の家つづきの見えるところへ出た。
 浅間の山麓さんろくにあるこの町々はねむりから覚めた時だ。朝餐あさげの煙は何となく湿った空気の中に登りつつある。鶏の声も遠近おちこちに聞える。
 熟しかけた稲田の周囲まわりには、豆もさやを垂れていた。稲の中には既に下葉の黄色くなったのも有った。九月も半ば過ぎだ。稲穂は種々いろいろで、あるものはすすきの穂の色に見え、あるものは全く草の色、あるものは紅毛あかげの房を垂れたようであるが、その中で濃い茶褐色ちゃかっしょくのがもちごめを作った田であることは、私にも見分けがつく。
 朝日は谷々へ射して来た。
 田圃道の草露は足をらして、かゆい。私はその間を歩き廻って、蟋蟀こおろぎくのを聞いた。
 この節、浅間は日によって八回も煙をくことがある。
「ああ復た浅間が焼ける」と土地の人は言い合うのが癖だ。男や女が仕事しかけた手を休めて、屋外そとへ出て見るとか、空を仰ぐとかする時は、きっと浅間の方に非常に大きな煙のかたまりが望まれる。そういう時だけ火山のふもとに住んでいるような心地こころもちを起させる。こういうところに住み慣れたものは、平素ふだんは、そんなことも忘れ勝ちに暮している。
 浅間は大きな爆発の為に崩されたような山で、今いう牙歯山ぎっぱやま往時むかしの噴火口の跡であったろうとは、誰しも思うことだ。何か山の形状かたちに一定した面白味でもあるかと思って来る旅人は、大概失望する。浅間ばかりでなく、蓼科たでしな山脈の方をながめても、何の奇も無い山々ばかりだ。唯、面白いのは山の空気だ。昨日出て見た山と、今日出て見た山とは、殆んど毎日のように変っている。

     山中生活

 理学士の住んでいる家のあたりは、荒町の裏手で、酢屋のKという娘の家の大きな醤油蔵しょうゆぐらの窓なぞが見える。その横について荒町の通へ出ると、畳表、鰹節かつぶし、茶、雑貨などを商う店々の軒を並べたところに、可成大きな鍛冶屋かじやがある。高い暗い屋根の下で、古風なまげに結った老爺ろうや鉄槌てっついの音をさせている。
 この昔気質むかしかたぎの老爺が学校の体操教師の父親おとっさんだ。
 朝風の涼しい、光の熱い日に、私は二人ばかり学生を連れて、その家の鍛冶場のわきを裏口へ通り抜け、体操の教師と一緒に浅間の山腹を指して出掛けた。
 山家やまがと言っても、これから私達が行こうとしているところは真実ほんとうの山の中だ。深い山林の中に住む人達の居る方だ。
 あわ小豆あずき飼馬かいばの料にするとかいうひえなぞの畠が、私達の歩るいて行く岡部おかべの道に連なっていた。花の白い、茎の紅い蕎麦そばの畠なぞも到るところにあった。秋のさかりだ。体操の教師は耕作のことにくわしい人だから、諸方ほうぼうに光って見える畠を私に指して見せて、あそこに大きな紫紅色の葉を垂れたのが「わたり粟」というやつだとか、こっちの方に細い青黒いさやを垂れたのが「こうれい小豆」という種類だとか、御蔭で私は種々なことを教えてもらった。この体操教師は稲田を眺めたばかりで、その種類を区別するほど明るかった。
 五六本松の岡にって立っているのを望んだ。囁道祖神ささやきどうそじんのあるのは其処そこだ。
 寺窪てらくぼというところへ出た。農家が五六軒ずつ、ところどころに散在するほどの極く辺鄙へんぴな山村だ。君に黒斑山くろふやまのことは未だ話さなかったかと思うが、矢張浅間の山つづきだ、ホラ、小諸の城址しろあとにある天主台――あの石垣の上の松の間から、黒斑のように見える山林の多い高い傾斜、そこを私達は今歩いて行くところだ。あの天主台から黒斑山のすそにあたって、遠く点のような白壁を一つ望む。その白壁の見えるのもこの山村だ。
 塩俵をしょって腰をゆがめながら歩いて行く農夫があった。体操の教師は呼び掛けて、
「もう漬物つけものですか」と聞いた。
「今やりやすと二割方得ですよ」
 荒い気候と戦う人達は今から野菜を貯えることを考えると見える。
 前の前の晩に降った涼しい雨と、前の日の好い日光とで、すこしはきのこの獲物もあるだろう。こういう体操教師の後にいて、私は学生と共に松林の方へ入った。この松林は体操教師の持山だ。松葉の枯れ落ちた中に僅かに数本の黄しめじと、牛額うしびたいとしか得られなかった。それから笹の葉の間なぞを分けて「部分木ぶぶんぼくの林」ととなえる方に進み入った。
 私達は可成深い松林の中へ来た。若い男女の一家族と見えるのが、青松葉の枝を下したり、それを束ねたりして働いているのに逢った。女の方は二十前後の若い妻らしい人だが、垢染あかじみた手拭てぬぐいかぶり、襦袢肌抜じゅばんはだぬ尻端折しりはしょりという風で、前垂を下げて、藁草履わらぞうり穿いていた。赤い荒くれた髪、粗野な日に焼けた顔は、男とも女ともつかないような感じがした。どう見ても、ミレエの百姓画の中に出て来そうな人物だ。
 その弟らしいのが三四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるでよもぎのように見えた。でも、すこやかな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。
 母らしい人も林の奥から歩いて来た。一同仕事をめて、私達の方をめずらしそうに眺めていた。
 この人達の働くあたりから岡つづきに上って行くとこう平坦たいらな松林の中へ出た。刈草をしょった男が林の間の細道を帰って行った。日はれて、湿った草の上にあたっていた。深い林の中の空気は、水中を行く魚かなんぞのようにその草刈男を見せた。
 がらがらと音をさせて、しばを積んだ車も通った。その音は寂しい林の中に響き渡った。
 熊笹くまざさ、柴などを分けて、私達はきのこを探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。枯葉をかま掻除かきのけて見るとたまにあるのは紅蕈べにたけという食われないのか、腐敗した初蕈はつだけ位のものだった。しまいには探し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなく成った。軽い腰籠こしごを提げたまま南瓜かぼちゃの花の咲いた畠のあるところへ出て行った。山番の小屋が見えた。

     山番

 番小屋の立っている処は尾の石と言って、黒斑山くろふやまの直ぐ裾にあたる。
 三峯神社とした盗難除とうなんよけの御札を貼付はりつけた馬小屋や、はぎなぞを刈って乾してある母屋おもやの前に立って、日のあたった土壁の色なぞを見た時は、私は余程人里から離れた気がした。
 鋭い眼付きの赤犬が飛んで来た。しきりと私達をあやしむようにえた。この犬は番人に飼われて、種々いろいろな役に立つと見えた。
 番小屋の主人が出て来て私達を迎えてくれた頃は、赤犬も頭をでさせるほどに成った。主人はひげらずに林の監督をやっているような人であった。細君は襷掛たすきがけで、この山の中に出来た南瓜かぼちゃなぞを切りながら働いていた。
 四人の子供も庭へ出て来た。一番年長うえのは最早もう十四五になる。狭い帯を〆《しめ》て藁草履わらぞうりなぞを穿いた、しかし髪の毛の黒いだ。年少とししたの子供は私達の方を見て、何となくキマリの悪そうなはじを帯びた顔付をしていた。その側には、トサカの美しい、白い雄鶏おんどりが一羽と、灰色な雌鶏めんどりが三羽ばかりあそんでいたが、やがてこれも裏の林の中へ隠れてしまった。
 小屋は二つに分れて、一方の畳を敷いたところは座敷ではあるが、実際平素ふだんは寝室と言った方が当っているだろう。家族が食事したり、茶を飲んだり、客を迎えたりする炉辺ろばたの板敷には薄縁うすべりを敷いて、耕作の道具食器の類はすべてそのあたりに置き並べてある。何一つ飾りの無い、すすけた壁に、石版画の彩色したのや、木版刷の模様のついた暦なぞが貼付けてあるのを見ると、そんな粗末な版画でも何程かこの山の中に住む人達の眼をよろこばすであろうと思われた。暮の売出しの時に、近在から町へ買物に来る連中がよくこの版画を欲しがるのも、無理は無いと思う。
 私達は草鞋掛わらじがけのまま炉辺で足を休めた。細君が辣韮らっきょう塩漬しおづけにしたのと、茶を出して勧めてくれた。かわいた私達の口には小屋で飲んだ茶がウマかった。冬はこの炉に焚火たきびたやしたことが無いと、主人が言った。ここまで上ると、余程気候も違う。
 一緒に行った学生は、小屋の裏の方まで見に廻って、柿は植えても渋が上らないことや、梅もあるが味が苦いことや、桃だけはこの辺の地味にも適することなど種々な話を主人から聞いて来た。
 やがて昼飯時だ。
 庭の栗の樹の蔭で、私達は小屋で分けてもらったきのこを焼いた。主人は薄縁を三枚ばかり持って来て、樹の下へ敷いてくれた。そこで昼飯が始まった。細君は別に鶏と茄子なすの露、南瓜とうなすの煮付を馳走振ちそうぶりに勧めてくれた。いずれも大鍋おおなべにウンとあった。私達は各自めいめい手盛でやった。学生は握飯、パンなぞを取出す。体操の教師はまた、好きな酒を用意して来ることを忘れなかった。
 この山の中で林檎りんごを試植したら、地梨じなしの虫が上って花のみつを吸う為に、実らずに了った。これは細君が私達の食事する側へ来ての話だった。赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をシャブった。
 食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって大凡おおよそ一万坪の広い地面だけあるが、自分の代となってからは家族もすくなし、手も届きかねて、荒れたままに成っているところも有る、とのことだ。
 私達が訪ねて来たことは、余程主人の心を悦ばせたらしい。主人はむッつりとした鬚のある顔に似合わず種々な話をした。蕎麦そばは十俵の収穫があるとか、試植した銀杏いちょう、杉、竹などは大半枯れ消えたとか、栗も十三俵ほどいてみたが、十四度も山火事に逢ううちに残ったのは既に五六間の高さに成ってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少いとか話した。
 落葉松からまつの畠も見えた。その苗は草のようにやわらかで、日をうけて美しくかがやいていた。畠の周囲まわりには地梨も多い。黄に熟したやつは草の中に隠れていても、直ぐと私達の眼についた。もっとも、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。
 主人は又、山火事の恐しいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。これから一里ばかり上ったところに、炭焼小屋があって、今はくぬぎの木炭を焼いているという話もした。
 この山番のある尾の石は、高峰と称える場所の一部とか。尾の石から菱野ひしのの湯までは十町ばかりで、毎日入湯に通うことも出来るという。菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思出した。あの田舎娘いなかむすめの村は菱野だから。
 土地案内を知った体操教師の御蔭で、めずらしいところを見た。こうした山の中は、めったに私なぞの来られる場所では無い。一度私は歴史の教師と連立ってここよりもっと高い位置にある番小屋に泊ったことも有る。
 彼処あそこはまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。
 別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。白樺しらかんばなぞの混った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。
 白樺の幹は何処どこの林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早もう美しく黄ばんだのも混っていた。


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