その五
山の温泉
夕立ともつかず、時雨ともつかないような、夏から秋に移り変る時の短い雨が来た。草木にそそぐ音は夕立ほど激しくない。最早初茸を箱に入れて、木の葉のついた樺色なやつや、緑青がかったやつなぞを近在の老婆達が売りに来る。 一月ばかり前に、私は田沢温泉という方へ出掛けて行って来た。あの話を君にするのを忘れた。 温泉地にも種々あるが、山の温泉は別種の趣がある。上田町に近い別所温泉なぞは開けた方で、随って種々の便利も具わっている。しかし山国らしい温泉の感じは、反って不便な田沢、霊泉寺などに多く味われる。あの辺にも相応な温泉宿は無いではないが、なにしろ土地の者が味噌や米を携えて労苦を忘れに行くという場所だ。自炊する浴客が多い。宿では部屋だけでも貸す。それに部屋付の竃が具えてある。浴客は下駄穿のまま庭から直に楼梯を上って、楼上の部屋へ通うことも出来る。この土足で昇降の出来るように作られた建物を見ると、山深いところにある温泉宿の気がする。鹿沢温泉(山の湯)と来たら、それこそ野趣に富んでいるという話だ。 半ば緑葉に包まれ、半ば赤い崖に成った山脈に添うて、千曲川の激流を左に望みながら、私は汽車で上田まで乗った。上田橋――赤く塗った鉄橋――あれを渡る時は、大河らしい千曲川の水を眼下に眺めて行った。私は上田附近の平地にある幾多の村落の間を歩いて通った。あの辺はいかにも田舎道らしい気のするところだ。途中に樹蔭もある。腰掛けて休む粗末な茶屋もある。 青木村というところで、いかに農夫達が労苦するかを見た。彼等の背中に木の葉を挿して、それを僅かの日除としながら、田の草を取って働いていた。私なぞは洋傘でもなければ歩かれない程の熱い日ざかりに。この農村を通り抜けると、すこし白く濁った川に随いて、谷深く坂道を上るように成る。川の色を見ただけでも、湯場に近づいたことを知る。そのうちに、こんな看板の掛けてあるところへ出た。 ┏━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ 湯 ┃ ┃ み や ば ら ┃ ┃ 本 ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━┛ 升屋というは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞える楼上で、私達の学校の校長の細君が十四五人ばかりの女生徒を連れて来ているのに逢った。この娘達も私が余暇に教えに行く方の生徒だ。 楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。 十九夜の月の光がこの谷間に射し入った。人々が多く寝静まった頃、まだ障子を明るくして、盛んに議論している浴客の声も聞えた。 「身体は小さいけれど、そんな野蛮人じゃねえ」 理屈ッぽい人達の言いそうな言葉だ。 翌日は朝霧の籠った谿谷に朝の光が満ちて、近い山も遠く、家々から立登る煙は霧よりも白く見えた。浅間は隠れた。山のかなたは青がかった灰色に光った。白い雲が山脈に添うて起るのも望まれた。国さんという可憐の少年も姉娘に附いて来ていて、温泉宿の二階で玩具の銀笛を吹いた。 そこは保福寺峠と地蔵峠とに挟まれた谷間だ。二十日の月はその晩も遅くなって上った。水の流が枕に響いて眠られないので、一旦寝た私は起きて、こういう場所の月夜の感じを味った。高い欄に倚凭って聞くと、さまざまの虫の声が水音と一緒に成って、この谷間に満ちていた。その他暗い沢の底の方には種々な声があった。――遅くなって戸を閉める音、深夜の人の話声、犬の啼声、楽しそうな農夫の唄。 四日目の朝まだ暗いうちに、私達は月明りで仕度して、段々夜の明けて行く山道を別所の方へ越した。
学窓の一
夏休みも終って、復た私は理学士やB君や、それから植物の教師などと学校でよく顔を合せるように成った。 秋の授業を始める日に、まだ桜の葉の深く重なり合ったのが見える教室の窓の側で、私は上級の生徒に釈迦の話をした。 私は『釈迦譜』を選んだ。あの本の中には、王子の一生が一篇の戯曲を読むように写出してある。あの中から私は釈迦の父王の話、王子の若い友達の話なぞを借りて来て話した。青年の王子が憂愁に沈みながら、東西南北の四つの城門から樹園の方へ出て見るという一節は、私の生徒の心をも引いたらしい。一つの門を出たら、病人に逢った。人は病まなければ成らないかと王子は深思した。他の二つの門を出ると、老人に逢い、死者に逢った。人は老いなければ成らないか、人は死ななければ成らないか。この王子の逢着する人生の疑問がいかにも簡素に表してある。最後に出た門の外で道者に逢った。そこで王子は心を決して、このLifeを解かんが為に、あらゆるものを破り捨てて行った。 戯曲的ではないか。少年の頭脳にも面白いように出来ているではないか。私はこんな話を生徒にした後で、多勢居る諸君の中には実業に志すものもあろうし、軍人に成ろうというものもあろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込もあって欲しい、と言って聞かせた。 私は生徒の方を見た。生徒は私の言った意味を何と釈ったか、いずれも顔を見合せて笑った。中には妙な顔をして、頭を擁えているものもあった。
学窓の二
樹木が一年に三度ずつ新芽を吹くとは、今まで私は気がつかなかった。今は九月の若葉の時だ。 学校の校舎の周囲には可成多くの樹木を植えてある。大きな桜の実の熟する頃なぞには、自分等の青年時代のことまでも思い起させたが、こうして夏休過に復たこの庭へ来て見ると、何となく白ッぽい林檎の葉や、紅味を含んだ桜や、淡々しい青桐などが、校舎の白壁に映り合って、楽しい陰日向を作っている。楽しそうに吹く生徒の口笛が彼方此方に起る。テニスのコートを城門の方へ移してからは、桜の葉蔭で角力を取るものも多い。 学校の帰りに、夏から病んでいるBの家を訪ねた。その家の裏を通り抜けて石段を下りると、林檎の畠がある。そこにも初秋らしい日が映っていた。
田舎教師
朝顔の花を好んで毎年培養する理学士が、ある日学校の帰途に、新しい弟子の話を私にして聞かせた。 弟子と言っても朝顔を培養する方の弟子だ。その人は町に住む牧師で、一部の子供から「日曜学校の叔父さん」と懐かしがられている。 この叔父さんの説教最中に夕立が来た。まだ朝顔の弟子入をしたばかりの時だ。彼の心は毎日楽しんでいる畑の方へ行った。大事な貝割葉の方へ行った。雨に打たれる朝顔鉢の方へ行った。説教そこそこにして、彼は夕立の中を朝顔棚の方へ駈出した。 「いかにも田舎の牧師さんらしいじゃ有りませんか」と理学士はこの新しい弟子の話をして、笑った。その先生はまた、火事見舞に来て、朝顔の話をして行くほど、自分でも好きな人だ。
九月の田圃道
傾斜に添うて赤坂(小諸町の一部)の家つづきの見えるところへ出た。 浅間の山麓にあるこの町々は眠から覚めた時だ。朝餐の煙は何となく湿った空気の中に登りつつある。鶏の声も遠近に聞える。 熟しかけた稲田の周囲には、豆も莢を垂れていた。稲の中には既に下葉の黄色くなったのも有った。九月も半ば過ぎだ。稲穂は種々で、あるものは薄の穂の色に見え、あるものは全く草の色、あるものは紅毛の房を垂れたようであるが、その中で濃い茶褐色のが糯を作った田であることは、私にも見分けがつく。 朝日は谷々へ射して来た。 田圃道の草露は足を濡らして、かゆい。私はその間を歩き廻って、蟋蟀の啼くのを聞いた。 この節、浅間は日によって八回も煙を噴くことがある。 「ああ復た浅間が焼ける」と土地の人は言い合うのが癖だ。男や女が仕事しかけた手を休めて、屋外へ出て見るとか、空を仰ぐとかする時は、きっと浅間の方に非常に大きな煙の団が望まれる。そういう時だけ火山の麓に住んでいるような心地を起させる。こういうところに住み慣れたものは、平素は、そんなことも忘れ勝ちに暮している。 浅間は大きな爆発の為に崩されたような山で、今いう牙歯山が往時の噴火口の跡であったろうとは、誰しも思うことだ。何か山の形状に一定した面白味でもあるかと思って来る旅人は、大概失望する。浅間ばかりでなく、蓼科山脈の方を眺めても、何の奇も無い山々ばかりだ。唯、面白いのは山の空気だ。昨日出て見た山と、今日出て見た山とは、殆んど毎日のように変っている。
山中生活
理学士の住んでいる家のあたりは、荒町の裏手で、酢屋のKという娘の家の大きな醤油蔵の窓なぞが見える。その横について荒町の通へ出ると、畳表、鰹節、茶、雑貨などを商う店々の軒を並べたところに、可成大きな鍛冶屋がある。高い暗い屋根の下で、古風な髷に結った老爺が鉄槌の音をさせている。 この昔気質の老爺が学校の体操教師の父親さんだ。 朝風の涼しい、光の熱い日に、私は二人ばかり学生を連れて、その家の鍛冶場の側を裏口へ通り抜け、体操の教師と一緒に浅間の山腹を指して出掛けた。 山家と言っても、これから私達が行こうとしているところは真実の山の中だ。深い山林の中に住む人達の居る方だ。 粟、小豆、飼馬の料にするとかいう稗なぞの畠が、私達の歩るいて行く岡部の道に連なっていた。花の白い、茎の紅い蕎麦の畠なぞも到るところにあった。秋のさかりだ。体操の教師は耕作のことに委しい人だから、諸方に光って見える畠を私に指して見せて、あそこに大きな紫紅色の葉を垂れたのが「わたり粟」というやつだとか、こっちの方に細い青黒い莢を垂れたのが「こうれい小豆」という種類だとか、御蔭で私は種々なことを教えて貰った。この体操教師は稲田を眺めたばかりで、その種類を区別するほど明るかった。 五六本松の岡に倚って立っているのを望んだ。囁道祖神のあるのは其処だ。 寺窪というところへ出た。農家が五六軒ずつ、ところどころに散在するほどの極く辺鄙な山村だ。君に黒斑山のことは未だ話さなかったかと思うが、矢張浅間の山つづきだ、ホラ、小諸の城址にある天主台――あの石垣の上の松の間から、黒斑のように見える山林の多い高い傾斜、そこを私達は今歩いて行くところだ。あの天主台から黒斑山の裾にあたって、遠く点のような白壁を一つ望む。その白壁の見えるのもこの山村だ。 塩俵を負って腰を曲めながら歩いて行く農夫があった。体操の教師は呼び掛けて、 「もう漬物ですか」と聞いた。 「今やりやすと二割方得ですよ」 荒い気候と戦う人達は今から野菜を貯えることを考えると見える。 前の前の晩に降った涼しい雨と、前の日の好い日光とで、すこしは蕈の獲物もあるだろう。こういう体操教師の後に随いて、私は学生と共に松林の方へ入った。この松林は体操教師の持山だ。松葉の枯れ落ちた中に僅かに数本の黄しめじと、牛額としか得られなかった。それから笹の葉の間なぞを分けて「部分木の林」と称える方に進み入った。 私達は可成深い松林の中へ来た。若い男女の一家族と見えるのが、青松葉の枝を下したり、それを束ねたりして働いているのに逢った。女の方は二十前後の若い妻らしい人だが、垢染みた手拭を冠り、襦袢肌抜ぎ尻端折という風で、前垂を下げて、藁草履を穿いていた。赤い荒くれた髪、粗野な日に焼けた顔は、男とも女ともつかないような感じがした。どう見ても、ミレエの百姓画の中に出て来そうな人物だ。 その弟らしいのが三四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるで蓬のように見えた。でも、健かな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。 母らしい人も林の奥から歩いて来た。一同仕事を休めて、私達の方をめずらしそうに眺めていた。 この人達の働くあたりから岡つづきに上って行くとこう平坦な松林の中へ出た。刈草を負った男が林の間の細道を帰って行った。日は泄れて、湿った草の上に映っていた。深い林の中の空気は、水中を行く魚かなんぞのようにその草刈男を見せた。 がらがらと音をさせて、柴を積んだ車も通った。その音は寂しい林の中に響き渡った。 熊笹、柴などを分けて、私達は蕈を探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。枯葉を鎌で掻除けて見ると稀にあるのは紅蕈という食われないのか、腐敗した初蕈位のものだった。終には探し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなく成った。軽い腰籠を提げたまま南瓜の花の咲いた畠のあるところへ出て行った。山番の小屋が見えた。
山番
番小屋の立っている処は尾の石と言って、黒斑山の直ぐ裾にあたる。 三峯神社とした盗難除の御札を貼付けた馬小屋や、萩なぞを刈って乾してある母屋の前に立って、日の映った土壁の色なぞを見た時は、私は余程人里から離れた気がした。 鋭い眼付きの赤犬が飛んで来た。しきりと私達を怪むように吠えた。この犬は番人に飼われて、種々な役に立つと見えた。 番小屋の主人が出て来て私達を迎えてくれた頃は、赤犬も頭を撫でさせるほどに成った。主人は鬚も剃らずに林の監督をやっているような人であった。細君は襷掛で、この山の中に出来た南瓜なぞを切りながら働いていた。 四人の子供も庭へ出て来た。一番年長のは最早十四五になる。狭い帯を〆《しめ》て藁草履なぞを穿いた、しかし髪の毛の黒い娘だ。年少の子供は私達の方を見て、何となくキマリの悪そうな羞を帯びた顔付をしていた。その側には、トサカの美しい、白い雄鶏が一羽と、灰色な雌鶏が三羽ばかりあそんでいたが、やがてこれも裏の林の中へ隠れて了った。 小屋は二つに分れて、一方の畳を敷いたところは座敷ではあるが、実際平素は寝室と言った方が当っているだろう。家族が食事したり、茶を飲んだり、客を迎えたりする炉辺の板敷には薄縁を敷いて、耕作の道具食器の類はすべてその辺に置き並べてある。何一つ飾りの無い、煤けた壁に、石版画の彩色したのや、木版刷の模様のついた暦なぞが貼付けてあるのを見ると、そんな粗末な版画でも何程かこの山の中に住む人達の眼を悦ばすであろうと思われた。暮の売出しの時に、近在から町へ買物に来る連中がよくこの版画を欲しがるのも、無理は無いと思う。 私達は草鞋掛のまま炉辺で足を休めた。細君が辣韮の塩漬にしたのと、茶を出して勧めてくれた。渇いた私達の口には小屋で飲んだ茶がウマかった。冬はこの炉に焚火を絶したことが無いと、主人が言った。ここまで上ると、余程気候も違う。 一緒に行った学生は、小屋の裏の方まで見に廻って、柿は植えても渋が上らないことや、梅もあるが味が苦いことや、桃だけはこの辺の地味にも適することなど種々な話を主人から聞いて来た。 やがて昼飯時だ。 庭の栗の樹の蔭で、私達は小屋で分けて貰った蕈を焼いた。主人は薄縁を三枚ばかり持って来て、樹の下へ敷いてくれた。そこで昼飯が始まった。細君は別に鶏と茄子の露、南瓜の煮付を馳走振に勧めてくれた。いずれも大鍋にウンとあった。私達は各自手盛でやった。学生は握飯、パンなぞを取出す。体操の教師はまた、好きな酒を用意して来ることを忘れなかった。 この山の中で林檎を試植したら、地梨の虫が上って花の蜜を吸う為に、実らずに了った。これは細君が私達の食事する側へ来ての話だった。赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をシャブった。 食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって大凡一万坪の広い地面だけあるが、自分の代となってからは家族も少し、手も届きかねて、荒れたままに成っているところも有る、とのことだ。 私達が訪ねて来たことは、余程主人の心を悦ばせたらしい。主人はむッつりとした鬚のある顔に似合わず種々な話をした。蕎麦は十俵の収穫があるとか、試植した銀杏、杉、竹などは大半枯れ消えたとか、栗も十三俵ほど播いてみたが、十四度も山火事に逢ううちに残ったのは既に五六間の高さに成ってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少いとか話した。 落葉松の畠も見えた。その苗は草のように嫩かで、日をうけて美しくかがやいていた。畠の周囲には地梨も多い。黄に熟したやつは草の中に隠れていても、直ぐと私達の眼についた。尤も、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。 主人は又、山火事の恐しいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。これから一里ばかり上ったところに、炭焼小屋があって、今は椚の木炭を焼いているという話もした。 この山番のある尾の石は、高峰と称える場所の一部とか。尾の石から菱野の湯までは十町ばかりで、毎日入湯に通うことも出来るという。菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思出した。あの田舎娘の村は菱野だから。 土地案内を知った体操教師の御蔭で、めずらしいところを見た。こうした山の中は、めったに私なぞの来られる場所では無い。一度私は歴史の教師と連立ってここよりもっと高い位置にある番小屋に泊ったことも有る。 彼処はまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。 別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。白樺なぞの混った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。 白樺の幹は何処の林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早美しく黄ばんだのも混っていた。
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