その三
山荘
浅間の方から落ちて来る細流は竹藪のところで二つに別れて、一つは水車小屋のある窪い浅い谷の方へ私の家の裏を横ぎり、一つは馬場裏の町について流れている。その流に添う家々は私の家の組合だ。私は馬場裏へ移ると直ぐその組合に入れられた。一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ。私は本町へ買物に出るにも組合の家の横手からすこし勾配のある道を上らねばならぬ。 組合頭は勤勉な仕立屋の亭主だ。この人が日頃出入する本町のある商家から、商売も閑な頃で店の人達は東沢の別荘へ休みに行っている、私を誘って仕立屋にも遊びに来ないか、とある日番頭が誘いに来たとのことであった。 私は君に古城の附近をすこし紹介した。町家の方の話はまだ為なかった。仕立屋に誘われて商家の山荘を見に行った時のことを話そう。 君は地方にある小さい都会へ旅したことが有るだろう。そこで行き逢う人々の多くは ――近在から買物に来た男女だとか、旅人だとかで――案外町の人の少いのに気が着いたことが有るだろう。田舎の神経質はこんなところにも表れている。小諸がそうだ。裏町や、小路や、田圃側の細い道なぞを択んで、勝手を知った人々は多く往ったり来たりする。 私は仕立屋と一緒に、町家の軒を並べた本町の通を一瞥して、丁度そういう田圃側の道へ出た。裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれている。中には高い三層の窓が城郭のように曇日に映じている。その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾と対照を成して土地の気質や殷富を表している。 麦秋だ。一年に二度ずつ黄色くなる野面が、私達の両側にあった。既に刈取られた麦畠も多かった。半道ばかり歩いて行く途中で、塩にした魚肉の薦包を提げた百姓とも一緒に成った。 仕立屋は百姓を顧みて、 「もうすっかり植付が済みましたかネ」 「はい、漸く二三日前に。これでも昔は十日前に植付けたものでごわすが、近頃はずっと遅く成りました。日蔭に成る田にはあまり実入も無かったものだが、この節では一ぱいに取れますよ」 「暖くなった故かナ」 「はい、それもありますが、昔と違って田の数がずっと殖えたものだから、田の水もウルミが多くなってねえ」 百姓は眺め眺め答えた。 東沢の山荘には商家の人達が集っていた。店の方には内儀さん達と、二三の小僧とを残して置いて、皆なここへ遊びに来ているという。東京の下町に人となった君は――日本橋天馬町の針問屋とか、浅草猿屋町の隠宅とかは、君にも私に可懐しい名だ――恐らく私が今どういう人達と一緒に成ったか、君の想像に上るであろうと思う。 山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。左に浅い谷を囲んだ松林の方は曇って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士の山巓も望まれるという。池の辺に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。仕立屋は庭の高麗檜葉を指して見せて、特に東京から取寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹かなかった。 私達は眺望のある二階の部屋へ案内された。田舎縞の手織物を着て紺の前垂を掛けた、髪も質素に短く刈ったのが、主人であった。この人は一切の主権を握る相続者ではないとのことであったが、しかし堅気な大店の主人らしく見えた。でっぷり肥った番頭も傍へ来た。池の鯉の塩焼で、主人は私達に酒を勧めた。階下には五六人の小僧が居て、料理方もあれば、通いをするものもあった。 一寸したことにも、質素で厳格な大店の家風は表れていた。番頭は、私達の前にある冷豆腐の皿にのみ花鰹節が入って、主人と自分のにはそれが無いのを見て、「こりゃ醤油ばかしじゃいけねえ。オイ、鰹節をすこしかいて来ておくれ」 と楼梯のところから階下を覗いて、小僧に吩咐けた。間もなく小僧はウンと大きく削った花鰹節を二皿持って上って来た。 やがて番頭は階下から将棋の盤を運んだ。それを仕立屋の前に置いた。二枚落しでいこうと番頭が言った。仕立屋は二十年以来ぱったり止めているが、万更でも無いからそれじゃ一つやるか、などと笑った。主人も好きな道と見えて、覗き込んで、仕立屋はなかなか質が好いようだとか、そこに好い手があるとか、しきりと加勢をしたが、そのうちに客の敗と成った。番頭は盃を啣んで、「さあ誰でも来い」という顔付をした。「お貸しなさい、敵打だ」と主人は飛んで出て、番頭を相手に差し始める。どうやら主人の手も悪く成りかけた。番頭はぴッしゃり自分の頭を叩いて、「恐れ入ったかな」と舌打した。到頭主人の敗と成った。復た二番目が始まった。 階下では、大きな巾着を腰に着けた男の児が、黒い洋犬と戯れていたが、急に家の方へ帰ると駄々をコネ始めた。小僧がもてあましているので、仕立屋も見兼ねて、子供の機嫌を取りに階下へ降りた。その時、私も庭を歩いて見た。小手毬の花の遅いのも咲いていた。藤棚の下へ行くと、池の中の鯉の躍るのも見えた。「こう水があると、なかなか鯉は捕まらんものさネ」と言っている者も有った。 池を一廻りした頃、番頭は赤い顔をして二階から降りて来た。 「先生、勝負はどうでしたネ」と仕立屋が尋ねた。 「二番とも、これサ」 番頭は鼻の先へ握り拳を重ねて、大天狗をして見せた。そして、高い、快活な声で笑った。 こういう人達と一緒に、どちらかと言えば陰気な山の中で私は時を送った。ポツポツ雨の落ちて来た頃、私達はこの山荘を出た。番頭は半ば酔った調子で、「お二人で一本だ、相合傘というやつはナカナカ意気なものですから」 と番傘を出して貸してくれた。私は仕立屋と一緒にその相合傘で帰りかけた。 「もう一本お持ちなさい」と言って、復た小僧が追いかけて来た。
毒消売の女
「毒消は宜う御座んすかねえ」 家々の門に立って、鋭い越後訛で呼ぶ女の声を聞くように成った。 黒い旅人らしい姿、背中にある大きな風呂敷、日をうけて光る笠、あだかも燕が同じような勢揃いで、互に群を成して時季を違えず遠いところからやって来るように、彼等もはるばるこの山の上まで旅して来る。そして鳥の群が彼方、此方の軒に別れて飛ぶように彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。この節私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に逢う。彼等は血気壮んなところまで互によく似ている。
銀馬鹿
「何処の土地にも馬鹿の一人や二人は必ずある」とある人が言った。 貧しい町を通って、黒い髭の生えた飴屋に逢った。飴屋は高い石垣の下で唐人笛を吹いていた。その辺は停車場に近い裏町だ。私が学校の往還によく通るところだ。岩石の多い桑畠の間へ出ると、坂道の上の方から荷車を曳いて押流されるように降りて来た人があった。荷車には屠った豚の股が載せてあった。後で、私はあの人が銀馬鹿だと聞いた。銀馬鹿は黙ってよく働く方の馬鹿だという。この人は又、自分の家屋敷を他に占領されてそれを知らずに働いているともいう。
祭の前夜
春蚕が済む頃は、やがて土地では、祇園祭の季節を迎える。この町で養蚕をしない家は、指折るほどしか無い。寺院の僧侶すらそれを一年の主なる収入に数える。私の家では一度も飼ったことが無いが、それが不思議に聞える位だ。こういう土地だから、暗い蚕棚と、襲うような臭気と、蚕の睡眠と、桑の出来不出来と、ある時は殆んど徹夜で働いている男や女のことを想ってみて貰わなければ、それから後に来る祇園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。 秤を腰に差して麻袋を負ったような人達は、諏訪、松本あたりからこの町へ入込んで来る。旅舎は一時繭買の群で満たされる。そういう手合が、思い思いの旅舎を指して繭の収穫を運んで行く光景も、何となく町々に活気を添えるのである。 二十日ばかりもジメジメと降り続いた天気が、七月の十二日に成って漸く晴れた。霖雨の後の日光は殊にきらめいた。長いこと煙霧に隠れて見えなかった遠い山々まで、桔梗色に顕われた。この日は町の大人から子供まで互に新しい晴衣を用意して待っていた日だ。 私は町の団体の暗闘に就いて多少聞いたこともあるが、そんなことをここで君に話そうとは思わない。ただ、祭以前に紛擾を重ねたと言うだけにして置こう。一時は祭をさせるとか、させないとかの騒ぎが伝えられて、毎年月の始めにアーチ風に作られる〆飾りが漸く七日目に町々の空へ掛った。その余波として、御輿を担ぎ込まれるが煩さに移転したと言われる家すらあった。そういう騒ぎの持上るというだけでも、いかにこの祭の町の人から待受けられているかが分る。多くの商人は殊に祭の賑いを期待する。養蚕から得た報酬がすくなくもこの時には費されるのであるから。 夜に入って、「湯立」という儀式があった。この晩は主な町の人々が提灯つけて社の方へ集る。それを見ようとして、私も家を出た。空には星も輝いた。社頭で飴菓子を売っている人に逢った。謡曲で一家を成した人物だとのことだが、最早長いことこの田舎に隠れている。 本町の通には紅白の提灯が往来の人の顔に映った。その影で、私は鳩屋のI、紙店のKなぞの手を引き合って来るのに逢った。いずれも近所の快活な娘達だ。
十三日の祇園
十三日には学校でも授業を休んだ。この授業を止む休まないでは毎時論があって、校長は大抵の場合には休む方針を執り、幹事先生は成るべく休まない方を主張した。が、祇園の休業は毎年の例であった。 近在の娘達は早くから来て町々の角に群がった。戸板や樽を持出し、毛布をひろげ、その上に飲食する物を売り、にわかごしらえの腰掛は張板で間に合わせるような、土地の小商人はそこにも、ここにもあった。日頃顔を見知った八百屋夫婦も、本町から市町の方へ曲ろうとする角のあたりに陣取って青い顔の亭主と肥った内儀とが互に片肌抜で、稲荷鮨を漬けたり、海苔巻を作ったりした。貧しい家の児が新調の単衣を着て何か物を配り顔に町を歩いているのも祭の日らしい。 午後に、家のものはB姉妹の許へ招かれて御輿の通るのを見に行った。Bは清少納言の「枕の草紙」などを読みに来る人で、子供もよくその家へ遊びに行く。 光岳寺の境内にある鐘楼からは、絶えず鐘の音が町々の空へ響いて来た。この日は、誰でも鐘楼に上って自由に撞くことを許してあった。三時頃から、私も例の組合の家について夏の日のあたった道を上った。そこを上りきったところまで行くと軒毎に青簾を掛けた本町の角へ出る。この簾は七月の祭に殊に適わしい。 祭を見に来た人達は鄙びた絵巻物を繰展げる様に私の前を通った。近在の男女は風俗もまちまちで、紫色の唐縮緬の帯を幅広にぐるぐると巻付けた男、大きな髷にさした髪の飾りも重そうに見える女の連れ、男の洋傘をさした娘もあれば、綿フランネルの前垂をして尻端を折った児もある。黒い、太い足に白足袋を穿て、裾の短い着物を着た小娘もある。一里や二里の道は何とも思わずにやって来る人達だ。その中を、軽井沢辺りの客と見えて、珍らしそうに眺めて行く西洋の婦人もあった。町の子供はいずれも嬉しそうに群集の間を飛んで歩いた。 やがて町の下の方から木の臼を転がして来た。見物はいずれも両側の軒下なぞへ逃げ込んだ。 「ヨイヨ。ヨイヨ」 と掛声して、重い御輿が担がれて来た。狭い往来の真中で、時々御輿は臼の上に置かれる。血気な連中はその周囲に取付いて、ぐるぐる廻したり、手を揚げて叫んだりする。壮んな歓呼の中に、復た御輿は担がれて行った。一種の調律は見物の身に流れ伝わった。私は戻りがけに子供まで同じ足拍子で歩いているのを見た。 この日は、町に紛擾のあった後で、何となく人の心が穏かでなかった。六時頃に復た本町の角へ出て見た。「ヨイヨヨイヨ」という掛声までシャガレて「ギョイギョ、ギョイギョ」と物凄く聞える。人々は酒気を帯て、今御輿が町の上の方へ担がれて行ったかと思うと急に復た下って来る。五六十人の野次馬は狂するごとく叫び廻る。多勢の巡査や祭事掛は駈足で一緒に附いて歩いた。丁度夕飯時で、見物は彼方是方へ散じたが、御輿の勢は反って烈しく成った。それが大きな商家の前などを担がれて通る時は、見る人の手に汗を握らせた。 急に御輿は一種の運動と化した。ある家の前で、衝突の先棒を振るものがある、両手を揚げて制するものがある、多勢の勢に駆られて見る間に御輿は傾いて行った。その時、家の方から飛んで出て、御輿に飛付き押し廻そうとするものもあった。騒ぎに踏み敷かれて、あるものの顔から血が流れた。「御輿を下せ御輿を下せ」と巡査が馳せ集って、烈しい論判の末、到頭輿丁の外は許さないということに成った。御輿の周囲は白帽白服の人で護られて、「さあ、よし、持ち上げろ」などという声と共に、急に復た仲町の方角を指して担がれて行った。見物の中には突き飛ばされて、あおのけさまに倒れた大の男もあった。 「それ早く逃げろ、子供々々」 皆な口々に罵った 「巡査も随分御苦労なことですな」 「ほんとに好い迷惑サ」 見物は言い合っていた。 暮れてから町々の提灯は美しく点った。簾を捲上げ、店先に毛氈なぞを敷き、屏風を立て廻して、人々は端近く座りながら涼んでいた。 御輿は市町から新町の方へ移った。ある坂道のところで、雨のように降った賽銭を手探りに拾う女の児なぞが有った。後には、提灯を手にして往来を探すような青砥の子孫も顕れるし、五十ばかりの女が闇から出て、石をさぐったり、土を掴んだりして見るのも有った。さかしい慾の世ということを思わせた。 市町の橋は、学校の植物の教師の家に近い。私の懇意なT君という医者の家にも近い。その欄干の両側には黒い影が並んで、涼しい風を楽んでいるものや、人の顔を覗くものや、胴魔声に歌うものや、手を引かれて断り言う女連なぞが有った。 夜の九時過に、馬場裏の提灯はまだ宵の口のように光った。組合の人達は仕立屋や質屋の前あたりに集って涼みがてら祭の噂をした。この夜は星の姿を見ることが出来なかった。螢は暗い流の方から迷って来て、町中を飛んで、青い美しい光を放った。
後の祭
翌日は朝から涼しい雨が降った。家の周囲にある柿、李なぞの緑葉からは雫が滴った。李の葉の濡れたのは殊に涼しい。 本町の通では前の日の混雑した光景と打って変って家毎に祭の提灯を深く吊してある。紺暖簾の下にさげた簾も静かだ。その奥で煙草盆の灰吹を叩く音が響いて聞える位だ。往来には、娘子供が傘をさして遊び歩くのみだ。前の日に用いた木の臼も町の片隅に転してある。それが七月の雨に濡れている。 この十四日には家々で強飯を蒸し、煮染なぞを祝って遊び暮す日であるという。午後の四時頃に成っても、まだ空は晴れなかった。烏帽子を冠り、古風な太刀を帯びて、芝居の「暫」にでも出て来そうな男が、神官、祭事掛、子供などと一緒に、いずれも浅黄の直垂を着けて、小雨の降る町中の〆飾を切りに歩いた。
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その四
中棚
私達の教員室の窓から浅い谷が見える。そこは耕されて、桑などが植付けてある。 こういう谷が松林の多い崖を挟んで、古城の附近に幾つとなく有る。それが千曲川の方へ落ちるに随って余程深いものと成っている。私達は城門の横手にある草地を掘返して、テニスのグランドを造っているが、その辺も矢張谷の起点の一つだ。M君が小諸に居た頃は、この谷間で水彩画を作ったこともあった。学校の体操教師の話によると、ずっと昔、恐るべき山崩れのあった時、浅間の方から押寄せて来た水がこういう変化のある地勢を造ったとか。 八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚の方へ出掛けた。私の足はよく其方へ向いた。そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。 中棚の附近には豊かな耕地も多い。ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。その下に温泉場の旗が見える。林檎畠が見える。千曲川はその向を流れている。 午後の一時過に、私は田圃脇の道を通って、千曲川の岸へ出た。蘆、蓬、それから短い楊などの多い石の間で、長野から来ている師範校の学生と一緒に成た。A、A、Wなどいう連中だ。この人達は夏休を応用して、本を読みに私の家へ通っている。岸には、熱い砂を踏んで水泳にやって来た少年も多かった。その中には私達の学校の生徒も混っていた。 暑くなってから、私はよく自分の生徒を連れて、ここへ泳ぎに来るが、隅田川なぞで泳いだことを思うと水瀬からして違う。青く澄んだ川の水は油のように流れていても、その瀬の激しいことと言ったら、眩暈がする位だ。川上の方を見ると、暗い岩蔭から白波を揚げて流れて来る。川下の方は又、矢のように早い。それが五里淵の赤い崖に突き当って、非常な勢で落ちて行く。どうして、この水瀬が是処の岩から向うの崖下まで真直に突切れるものではない。それに澄んだ水の中には、大きな岩の隠れたのがある。下手をマゴつけば押流されて了う。だから余程上の方からでも泳いで行かなければ、目的とする岩に取付いて上ることが出来ない。 平野を流れる利根などと違い、この川の中心は岸のどちらかに激しく傾いている。私達は、この河底の露れた方に居て、溝萩の花などの咲いた岩の蔭で、二時間ばかりを過した。熱い砂の上には這いのめって、甲羅を乾しているものもあった。ザンブと水の中へ飛込むものもあった。このあたりへは小娘まで遊びに来て、腕まくりをしたり、尻を端折ったりして、足を水に浸しながら余念なく遊び廻っていた。 三つの麦藁帽子が石の間にあらわれた。師範校の連中だ。 「ちったア釣れましたかネ」と私が聞いた。 「ええ、すっかり釣られて了いました」 「どうだネ、君の方は」 「五尾ばかし掛るには掛りましたが、皆な欺されて了いました」 「む、む、二時間もあるのだから、ゆっくり言訳は考えられるサ……」 こんなことを言って、仲間の話を混返すものもあった。 この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽の中から外部の景色を眺めるのも心地が好かった。湯から上っても、皆の楽みは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽ることであった。林檎畠、葡萄棚なぞを渡って来る涼しい風は、私達の興を助けた。 「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」 と一人が言出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。 「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」 「菓子もいいが、随分かかるネ」 「僕は二年ばかり辛抱した……」 「それはエラい。二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定めている」 「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」 「此頃、ある先生が――諸君は菓子屋へよく行そうだ、私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」 「フウン」 「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回に凡そどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭位食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を害さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」 「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃散をつけて食う男があるよ」 三人は何を言っても気が晴れるという風だ。中には、手を叩いて、踊り上って笑うものもあった。それを聞くと、私も噴飯さずにはいられなかった。 やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎の方へ別れて行った。 この温泉から石垣について坂道を上ると、そこに校長の別荘の門がある。楼の名を水明楼としてある。この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。閑雅な小楼で、崖に倚って眺望の好い位置に在る。 先生は共立学校時代の私の英語の先生だ。あの頃は先生も男のさかりで、アアヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」などを教えてくれたものだった。その先生が今ではこういうとこに隠れて、花を植えて楽んだり鉱泉に老を養ったりするような、白髯の翁だ。どうかすると先生の口から先生自身がリップ・ヴァン・ウィンクルであるかのような戯談を聞くこともある。でも先生の雄心は年と共に銷磨し尽すようなものでもない。客が訪ねて行くと、談論風発する。 水明楼へ来る度に、私は先生の好く整理した書斎を見るのを楽みにする。そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄に倚りながら恣に賞することが出来る。対岸に煙の見えるのは大久保村だ。その下に見える釣橋が戻り橋だ。川向から聞える朝々の鶏の鳴声、毎晩農村に点く灯の色、種々思いやられる。
楢の樹蔭
楢の樹蔭。 そこは鹿島神社の境内だ。学校が休みに成ってからも、私はよくその樹蔭を通る。 ある日、鉄道の踏切を越えて、また緑草の間の小径へ出た。楢の古木には、角の短い、目の愛らしい小牛が繋いであった。しばらく私が立って眺めていると、小牛は繋がれたままでぐるぐると廻るうちに、地を引くほどの長い綱を彼方此方の楢の幹へすっかり巻き付けて終った。そして、身動きすることも出来ないように成った。 向の草の中には、赤い馬と白い馬とが繋いであった。
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