大杉栄全集 第十三巻 |
現代思潮社 |
1965(昭和40)年1月31日 |
一
去年の十一月二十日だった。少し仕事に疲れたので、夕飯を食うとすぐ寝床にはいっていると、Mが下から手紙の束を持って来た。いつものように、地方の同志らしい未知の人からの、幾通かの手紙の中に、珍らしく横文字で書いた四角い封筒が一つまじっていた。見ると、かねてから新聞でその名や書いたものは知っている、フランスの同志コロメルからだ。何を言って来たのだろうと思って、ちょっとその封筒をすかして見たが、薄い一枚の紙を四つ折にしたぐらいの手触りのものだ。もう長い間の習慣になっているように、それがどこかで開封されているかどうか、まず調べて見たが、それらしい形跡は別になかった。ただ附箋が三、四枚はってあったが、それは鎌倉に宛てて書いてあったので、そこから逗子に廻り、さらにまた東京に廻って来た[#「廻って来た」は底本では「廻った来た」]しるしに過ぎなかった。そんなにあちこちと廻って来ながら、よく開封されなかったものだと思いながら、とにかく開けて見た。ほんのただ十行ばかり、タイプで打ってある。 それを読むと、急に僕の心は踊りあがった。一月の末から二月の初めにかけて、ベルリンで国際無政府主義大会を開くことになったが、ぜひやって来ないか、という、その準備委員コロメルの招待状なのだ。 大会の開かれることは僕はまだちっとも知らなかった。が、ちょうどいい機会だ、行こう、と僕は心の中できめた。そして枕もとの小さな丸テーブルの上から、その日の昼来たまままだ封も切ってなかった、イギリスの無政府主義新聞『フリーダム』を取って見た。はたしてそれには大会のことが載っていた。
招待状にもちょっと書いてあったように、九月の半ばに、スイスのセン・ティミエで、最初の国際無政府主義大会と言ってもいい、いわゆるセン・ティミエ大会の五十年紀念会があった。フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ロシア、および支那の、百五十名ばかりの同志が集まった。そしてそのセン・ティミエ大会に与かった一人のマラテスタも、ローマからひそかに国境を脱け出て、そこに出席した。先年彼はこのスイスから追放されているので、そこにはいれば、見つかり次第捕まる恐れがあったのだ。 紀念会は一種の国際大会のようなものになった。そしてそこで、無政府主義の組織のことや、無政府主義とサンジカリズムの関係のことなぞが問題となって、いろいろ議論のあった末に、フランスの代表者コロメル等の発議で、新たに国際無政府主義同盟を組織しようということになって、急に国際大会を開くことにきまったのであった。 この国際同盟のことは、もうずいぶん古い頃から始終問題になっていて、現に十五、六年前のアムステルダム大会でそれがいったん組織されたのであった。この同盟には、僕等日本の無政府主義者も、幸徳を代表にして加わった。そして幸徳は毎月その機関誌に通信を送っていた。しかし、元来無政府主義者には、個人的または小団体的の運動を重んじて、一国的とか国際的とかの組織を軽んずる傾向があり、国際大会を開くにしても、その選定した土地の政府がそれを許さなかったり、また、各国の同志がそれに参加しようと思っても、政府の迫害や経済上の不如意なぞのいろんな邪魔があったりして、わずか一、二年の間にこの同盟も立消えになってしまった。最近満足に開かれた大会は、前に言ったアムステルダム大会一つくらいのもので、ずいぶん久しぶりに開かれた一昨年の暮れのベルリン大会なぞも、長い間の運動の経験を持った名のある同志はほとんど一人も見ることができなかったほどの、よほど不完全なものであったらしい。 しかし時はもう迫って来た。ことに、ロシアの革命が与えた教訓は、各国の無政府主義者に非常な刺激となって、今までのような怠慢を許さなくなった。
『フリーダム』のこの記事を読んでいる間に、Kがその勤めさきから帰って来た。 「おい、こんな手紙が来たんだがね。」 と言って、僕はコロメルからの手紙の内容と大会の性質とをざっと話した。 「それやぜひ行くんですね。」 Kも大ぶ興奮しながら言った。 「僕もそうは思っているんだがね。問題はまず何よりも金なんだ。」 「どのくらい要るんです。」 「さあ、ちょっと見当はつかないがね。最低のところで千円あれば、とにかく向うへ行って、まだ二、三カ月の滞在費は残ろうと思うんだ。」 「そのくらいなら何とかなるでしょう。あとはまたあとのことにして。」 「僕もそうきめているんだ。で、あした一日金策に廻って見て、その上ではっきりきめようと思うんだ。」 「旅行券は?」 「そんなものは要らないよ。もう、とうの昔に、うまく胡麻化して行く方法をちゃんと研究してあるんだから。ただその方法を講ずるのにちょっとひまがかかるから、あしたじゅうにきめないと、大会に間に合いそうもないんだ。」 Kはこの二つの条件を聞いて、すっかり安心したらしかった。そして下へ降りて行った。 しかし僕にはまだ、そうやすやすと安心はできなかった。実はその借金の当てがほとんどなかったのだ。借りれる本屋からは、もう借りれるだけ、というよりもそれ以上に借りている。そして、約束の原稿は、まだほとんどどこへも何にも渡してない。それに、もしまだ借りれるとしても、いやどうしても借りなければならんのだが、それは留守中の社や家族の費用に当てなければならない。ほかに二、三人多少金を持っている友人はあるが、それもほんの少々の金であれば時々貰ったこともあるが、少しもまとまった金はくれるかどうか分らない。それにこの頃はずいぶん[#「ずいぶん」は底本では「ずいずん」]景気が悪いんだから。 そんなことをそれからそれへと、いろいろと寝床の中で考えて見たが、要するに考えてきまることではない。あした早く起きて、あちこち当って見ることだ、そうきめて、僕は頭と目とを疲らせる眠り薬の、一週間ほど前から読みかけている『其角研究』を読み始めた。 翌日は尾行をまいて歩き廻った。はたして思うように行かない。夕方になって、うんざりして帰りかけたが、ふと一人の友人のことを思い浮んで、そこへ電話をかけて見た。そして、最後の幽かな希望のそこで、案外世話なく話がついた。
それでもう事はきまった。 その翌日は、九州の郷里に帰っている女房と子供とを呼びよせに、Mを使いにやった。関西支局のWも女房や子供と前後して上京した。 準備は何にも要らない。ただ小さなスーツケース一つ持って出かければいいのだ。が、その前に、正月号の雑誌に約束した原稿と、やはり正月に出す筈のある単行本とを書いてしまわなければならない。そんなことで愚図愚図している間に、もう暮れ近いことだ、ようやく貰って来た金が半分ばかりに減ってしまった。そして、それをまたようやくのことで借り埋めて、十二月十一日の晩ひそかに家を脱け出た。
二
家を脱け出ることにはもう馴れ切っている。しかしそれも、尾行をまいて出ることがすぐ知れていい時と、当分の間知れては困る時とがある。前の場合だと何でもないが、後の場合だとちょっと厄介だ。 去年の夏日本から追放されたロシア人のコズロフが、その前年ひそかに葉山の家から僕の鎌倉の家に逃げて来て、そしてそこからさらに神戸へ逃げて行った時には、そのあとで僕は三日ばかり時々大きな声で一人で英語で話していた。が、二、三日ならそんなことでもして何とか胡麻化して行けるが、一週間も十日も胡麻化そうとなるとちょっと困る。 一昨々年の十月、僕はひそかに上海へ行った。その時には、上海に着いてしまうまでは、僕が家を出たことをその筋に知らせたくなかった。で、夜遅く家を出たのであったが、その翌日から僕は病気で寝ているということになった。しかし大して広い家でもなし、それに往来から十分のぞかれる家でもあったので、尾行どもはすぐ疑いだした。そして四つになる女の子をつかまえて、幾度もききただして見た。そしてその後、その尾行の一人が僕にこんな話をした。 「魔子ちゃんにはとても敵いませんよ。パパさんいる? と聞くと、うんと言うんでしょう。でも可笑しいと思って、こんどはパパさんいないの? と聞くと、やっぱりうんと言うんです。おやと思いながら、またパパさんいる? と聞くと、やっぱりまたうんと言うんです。そしてこんどは、パパさんいないの? いるの? と聞くと、うんうんと二つうなずいて逃げて行ってしまうんです。そんな風でとうとう十日ばかりの間どっちともはっきりしませんでしたよ。」 こんどだって、駒込の家はやはり狭いし、そとから十分のぞかれる。すぐ前のあき地の小さな稲荷さんの小舎の中にいる尾行どもには、家の中の話し声を聞いているだけでも、いるかいないかは大てい知れよう。 もっとも、四つの魔子は六つになった。それだけ利口にもなっている筈だ。そして女房は、子供をだますのは可哀そうだからと言って、よく言い聞かして、尾行の口車に乗らせないようにしようと主張した。しかし僕は利口になっているだけそれだけ安心ができないと思った。そして僕が出る日の朝、Mに連れさして、同志のLの家へ遊びにやった。そこには魔子より一つ二つ下のやはり女の子がいた。 「こんどは魔子の好きなだけ幾つ泊って来てもいいんだがね。幾つ泊る? 二つ? 三つ?」 僕は子供の頭をなでながら言った。その前に二つ泊った翌朝僕が迎いに行って、彼女が大ぶ不平だったことがあったのだ。そしてこんどもやはり、「二つ? 三つ?」と言われたのに彼女は不平だったものと見えて、ただにこにこしながら黙っていた。 「じゃ、四つ? 五つ?」 僕は重ねて聞いた。やはりにこにこしながら、首をふって、 「もっと。」 と言った。 「もっと? それじゃ幾つ?」 僕が驚いたふりをして尋ねると、彼女は左の掌の上に右の手の中指を三本置いて、 「八つ。」 と言いきった。 「そう、そんなに長い間?」 僕は彼女を抱きあげてその顔にキスした。そして、 「でも、いやになったら、いつでもいいからお帰り。」 と附け加えて彼女を離してやった。彼女は踊るようにして、Mと一緒に出かけて行った。 彼女はその一カ月前に、その母が半年ばかりの予定で郷里に帰った時にも、どうしても一緒に行くことを承知しないで、社の二階に僕と二人きりで残っていたほどの、パパっ子なのだ。そして今でもまだ僕は、時々彼女を思いだしては、なぜ一緒に連れて来なかったのだろうなぞと、理性の少しも許さない後悔をしている。 子供のことはそれできまった。あとは僕の顔がちょっとも見えないことの口実だ。それは、こんどもまた、病気ということにした。そして多少それを本当らしく見せるために、毎朝氷を一斤ずつ買うことにした。 「それも尾行を使いにやるんですね。」 そんなことにはごく如才のないMがそう発案して、一人でにこにこしていた。
家からつい近所までKが一緒に来て、そこから僕は自動車で市内のある駅近くまで駆けつけた。そしてその辺で小さなトランク一つとちょっとした買物をして、急いで駅の中へはいって行った。もう発車時刻の間際だったのだ。 僕はプラットホームを見廻した。が、僕の荷物のふろしき包みを持って来ている筈の、Wの姿が見えなかった。待合室の中にでもはいっているのだろうと思って、その方へ行こうとすると、中から誰か出て来た。姿は違うが、その歩きかたは確かにWだ。その旧式のビロードの服が、人夫か土方の帳つけというように見せるので、よくそう言ってからかわれているのだが、どこから借りて来たのか、今日は黒い長いマントなぞを着こんで、やはり黒のソフトの前の方を上に折りまげたのをかぶって、足駄をカラカラ鳴らしてやって来るところは、どう見ても立派な不良少年だ。 僕はWから荷物を受取ってもう発車しようとしている列車に飛び乗った。列車は走りだした。Wは手をあげた。僕も手をあげてそれに応じた。これが日本での同志との最後の別れなのだ。 前の上海行きの時には、Rがこの役目を勤めてくれた。偶然その日に鎌倉へ遊びに来たのだったが、行先きは言わずにただちょっと行衛不明になるんだから手伝ってくれと頼んで、トランクを一つ持って貰って、一里ばかりある大船の停車場まで一緒に行った。もう夜更けだったが、ちょいちょい人通りはあった。そして家を出る時に何だか見つかったような気がしたので、後ろから来るあかりはみな追手のように思われて、二人ともずいぶんびくびくしながら行った。ことに一度、建長寺と円覚寺との間頃で後ろからあかりをつけない自動車が走って来て、やがてまたそれらしい自動車が戻って来た時などは、こんどこそ捕まるものと真面目に覚悟していた。 それが何でもなく通りすぎた時、僕はRに本当の目的を話してないことが堪らなく済まなかった。そして幾度もそれを言おうとして、口まで出て来るのをようやくのことでとめた。彼は決して信用のできない同志ではなかった。しかしまだ僕等の仲間にはいってから日も浅かった。そしてごく狭い意味での僕等の団体とは直接に何の関係もなかった。 そして僕は無事に大船から下りの列車に、彼は上りの列車に乗った。これはあとでKから聞いたことだが、Rはその時のことを誰にも話さず、またKにもその他の誰にもかつて僕の行衛を尋ねることがなかったそうだ。僕は今でもまだ、彼の顔を見るたびに、ひそかに当時のことを彼にわびそして感謝している。 Wの姿が見えなくなるとすぐ、僕はボーイに顔を見られないように外套の襟を高く立てて、車内にはいって寝台の中にもぐりこんだ。僕はまだ僕の顔の一番の特徴の、鬚をそり落していなかったのだ。そして一と寝入りした夜中に、そっと起きて、洗面場へ行って上下とも綺麗に鬚をそってしまった。そしてWが持って来てくれたふろしき包みの荷物を、トランクの中に入れかえた。荷物といっても、途中の船の中でやる予定の、仕事の材料と原稿紙とだけなのだ。そしてまた一と寝入りした。 移動警察の成績が大へんいいので、十五日からその人数を今までの幾倍とかにするという新聞の記事が出たばかりの時だ。その成績のいい一つの例に挙げられては大へんだ。が、それらしい顔もついに見ないで、翌朝無事に神戸に着いた。 神戸は、実は僕にとっては、大きな鬼門なのだ。先きにコズロフの追放されるのを送りに来た時、警察本部の外事課や特別高等課に顔を出しているので、大勢のスパイどもによく顔を見知られている筈だ。そこから船に乗るのはずいぶん剣呑だとも思ったが、しかしそれよりもっと剣呑な横浜からよりは、安全だと思った。横浜の警官でほとんど僕の顔を知らないものはないくらいなのだ。長年鎌倉や逗子にいた間に、代る代るいろんな奴が尾行に来ている。 改札口を出ようとすると、どこの停車場にも大てい一人二人はいるのだが、怪しい目つきの男が一人見はっている。そして僕が通り過ぎたあとですぐ、改札の男の方へ走り寄ったような気はいがした。僕はすぐ車に乗って、いい加減のところまで走らせて、それからさらに車をかえてあるホテルまで行った。 あした出る筈で、その切符を買って来てあるある船は、あさっての出帆に延びていた。仕方なしに、その日と翌日の二日は、ホテルの一室に引っこんで、近く共訳で出すある本の原稿を直して暮した。そしてたった一度、昼飯後の散歩にぶらぶらそとへ出て見たが、道で改造社の二、三人が車に乗って、その晩のアインシュタインの講演のビラをまいて歩いているのにぶつかった。僕は僕の顔がはたして彼等に分るかどうかと思って、わざとその方へ近づいて行って、車の正面のところでちょっと立ち止まって見た。が、分る筈はない。かつて僕が入獄する数日前、僕のための送別会があった時、僕は頭を一分刈りにして顔を綺麗にそって、すっかり囚人面になって出かけて行った。そして室の片隅のテーブルに座を占めていたが、僕のすぐ前に来て腰掛けたものでも、すぐにそれを僕と気のついたものはなかったくらいだ。 船の中に四、五人の私服がはいりこんで、あちこちとうろうろしたり、僕が乗った二等の喫煙室に坐りこんだりしていた。ずいぶん気味は悪い。しかしまたそれをひやかすのもちょっと面白い。船の出るまでキャビンの中に閉じ籠っているのも癪だし、僕はよほどの自信をもって、喫煙室とデッキの間をぶらぶらしていた。そして一度は、私服らしい三、四人のもののほかは誰もはいっていなかった喫煙室に行って、彼等の横顔をながめながら煙草をふかしていた。 船は門司を通過して長崎に着いた。そこでもやはり、二人の制服と四、五人の私服とがはいって来た。そして乗客の日本人を一人一人つかまえて何か調べ始めた。日本人といっても、船はイギリスの船なのだから、二等には僕ともで四人しかいないのだ。僕の番はすぐに来た。が、それはむしろあっけないくらいに無事に過ぎた。そして彼等は一人のフィリッピンの学生をつかまえて何やかやとひつっこく尋ねていた。 上海に着いた、そこの税関の出口にも、やはり私服らしいのが二人見はっていた。警視庁から四人とか五人とか出張して来ているそうだから、たぶんそれなのだろう。 僕は税関を出るとすぐ、馬車を呼んで走らした。そしてしばらく行ってから角々で二、三度あとをふり返って見たが、あとをつけて来るらしいものは何にもなかった。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页
|