四
「いや、どうも失礼。実は、日本人でここへはいって来たのはあなたが初めてなんですよ。それに、あなたが来るということは僕とLとのほかには誰も知らないんだし、僕もまだあなたからの電報は受取ってなかったんですよ。」 Mは、さっきの裁判官ほどではないが、かなりうまい日本語で、弁解しはじめた。で、怪しい日本人がはいって来たというので、この朝鮮人町では大騒ぎになったのだそうだ。そして、まず僕を十番の家へ入れたあとで、御者に聞いて見ると、日本の領事館の前から来たというので、(また実際税関の前はすぐ領事館なのだが)ますます僕は怪しい人間になって、一応調べて見た上でもしいよいよ怪しいときまれば殺されるかどうかするところだったそうだ。それにまた、どうしたものか、Mの名の書き方を僕は間違えていた。二字名の偽名を二つ教わっていたのを、甲の方の一字と乙の方の一字とを組合せたので、それがMの本当の、しかもあまり人の知らない号になった。犯罪学の方ではよく出て来る話だが、偽名には大ていこうしたごく近い本当の何かの名の連想作用があるものなのだ。で、Mはその日本人が僕の名をかたって、自分を捕縛しに来た日本の警察官だとまずきめた。そしてここへ一人で警官がはいって来る筈はないから、きっともっと大勢どこかに隠れているのだろうと思って、あちこちとあたりを探して見た。が、それらしいものはどこにも見当らない。そして最後に、ようやく、自分でその日本人に会って見る決心をした。 「何しろ、顔だの服装だのをいろいろと細かく聞いて見ても、ちっともあなたらしくないんですからね。」 Mは最後にこう附け加えて、そのちっとも僕らしくなくなっているという顔を、今さらのようにまた見つめ直した。 Mは、Lのところへ行こうといって、さっきの十五番の家へ案内した。 Lの室にはもう五、六人つめかけて僕を待っていた。その中で一番年とったそしてからだの大きな、東洋人というよりもむしろフランスの高級の軍人といった風の、口髯をねじり上げてポワンテュの顎鬚を延ばした、一見してこれがあのLだなと思われる男に、僕はまず紹介された。はたしてそれが、日本でも有名な、いわゆる(四字削除)のLだった。 「日本人とこうして膝を交えて話しするのは、これが十幾年目(あるいは二十年目と言ったかとも覚えている)です。あるいは一生こんなことはないかとも思っていました。」 Lは一応の挨拶がすむと、Mの通訳でこう言った。Lは軍人で、朝鮮が日本の保護国となった最初からの(九十五字削除)。
こうして僕は一時間ばかりLと話ししたあとで、Lの注意でMに案内されてあるホテルへ行った。そこはつい最近までイギリスのラッセルも泊っていた、支那人の経営している西洋式の一流のホテルだということだった。 (四字削除)の室と言っても、ごくお粗末な汚ない机一つと幾つかの椅子と寝台一つのファニテュアで、敷物もなければカーテンもない、何の飾りっ気もない貧弱極まるものだった。それに僕がこんなホテルに泊るのは、少々気も引けたし、金の方の心配もあったので、もっと小さな宿屋へ行こうじゃないかとMに言い出た。が、Mは小さな宿屋では排日で日本人は泊めないからと言って、とにかくそこへ連れて行った。実際、道であちこちでMに注意されたように、「抵制日貨」という、日本の商品に対するボイコットの張札がいたるところの壁にはりつけられてあった。 そして僕は、それともう一つは日本の警察に対する注意とから、支那人の名でそのホテルの客となった。 翌日は、ロシア人のTや、支那人のCや、朝鮮人のRなどの、こんどの会議に参加する六、七人の先生等がやって来た。そしてそれからはほとんど二、三日置きに、Cの家で会議を開いた。Cは北京大学の教授だったのだが、あることで入獄させられようとして、ひそかに上海に逃げて来て、そこで『新青年』という社会主義雑誌を出していた、支那での共産主義の権威だった。Rはその前年、例の古賀廉造の胆入りで日本へやって来て、大ぶ騒がしかった問題になったことのある男だ。 僕は、日本を出る時に、きっと喧嘩をして帰って来るんだろうと、同志に話していたが、はたしてその会議はいつも僕とTとの議論で終った。Tは、ここで(六十二字削除)。支那の同志も朝鮮の同志もそれにはほぼ賛成していたようだった。で、僕がもしそれに賛成すれば、会議は何のこともなくすぐ済んでしまうのだった。 しかし僕は、当時日本の社会主義同盟に加わっていた事実の通り、無政府主義者と共産主義者との提携の可能を信じ、またその必要をも感じていたが、各々の異なった主義者の思想や行動の自由は十分に尊重しなければならないと思っていた。で、無政府主義者としての僕は、極東共産党同盟に加わることもできずまた国際共産党同盟の第三インタナショナルに加わることもできなかった。そして僕の主張は、(三十七字削除)いうこと以上に出ることはできなかった。 また、そこに集まった各国同志の実情から見ても、朝鮮の同志ははっきりとした共産主義者ではなかった。ただ、単なる独立の不可能とまたその無駄とを感じて、社会主義でもいい、共産主義でもいい、また無政府主義でもいい、(二十字削除)に過ぎなかった。支那の同志は、Cはすでに思想的には大ぶはっきりした共産主義者だったがまだ共産党のいわゆる「鉄の規律」の感情には染まっていなかった。そしてみんな、ロシアのTの、各国の運動の内部に関するいろんな細かいおせっかいに、多少の反感を持っていたのだった。 で、この各国諸革命党の運動の自由ということには、朝鮮の同志も支那の同志も僕に賛成した。そうなればもう、(百十五字削除)。
この委員会の相談がきまると、Tは「少し内緒の話があるから二人きりで会いたい」と言って、僕を自分の家に誘った。 その話というのは要するに金のことなのだ。運動をするのに金が要るなら出そう、そこで今どんな計画があり、またそのためにどれほど金が要るか、と言うのだ。僕はさしあたり大して計画はないが、週刊新聞一つ出したいと思っている、それには一万円もあれば半年は支えて行けよう、そしてそのあとは何とかして自分等でやって行けよう、と答えた。 その金はすぐ貰えることにきまった。が、その後また幾度も会っているうちに、Tは新聞の内容について例の細かいおせっかいを出しはじめた。僕には、このおせっかいが僕の持って生れた性質の上からも、また僕の主義の上からも、許すことができなかった。そして最後に僕は、前の会議の時にもそんなことならもう相談はよしてすぐ帰ると言ったように、金などは一文も貰いたくないと言った。もともと僕は金を貰いに来たのじゃない。またそんな予想もほとんどまったく持って来なかった。ただ東洋各国の同志の連絡を謀りに来たのだ。それができさえすれば、各国は各国で勝手に運動をやる。日本は日本で、どこから金が来なくても、今までもすでに自分で自分の運動を続けて来たのだ。これからだって同じことだ。条件がつくような金は一文も欲しくない。僕はそういう意味のことを、それまでお互いに話ししていた英語で、特に書いて彼に渡した。 Tはそれで承知した。そしてなお、一般の運動の上で要る金があればいつでも送る、とも約束した。が、いよいよ僕が帰る時には、今少し都合が悪いからというので、金は二千円しか受取らなかった。
帰るとすぐ、僕は上海でのこの顛末を、まず堺に話しした。そして堺から山川に話しして、さらに三人でその相談をすることにきめた。そして僕は、近くロシアへ行く約束をして来たから、週刊新聞ももし彼等の手でやるなら任してもいい、また上海での仕事は共産主義者の彼等の方が都合がいいのだから、彼等の方でやって欲しい、と附け加えて置いた。が、それには、堺からも山川からも直接の返事はなくて、ある同志を通じて、僕の相談にはほとんど乗らないという返事だった。 で、僕は、以前から一月には雑誌を出そうと約束していた近藤憲二、和田久太郎等のほかに、近藤栄蔵(別名伊井敬)高津正道等と一緒に、週刊『労働運動』を創めた。前の二人は無政府主義者で、後の二人は共産主義者なのだ。近藤栄蔵は、大杉等の無政府主義者とはたして一緒に仕事をやって行けるか、という注意を堺から受けたそうだが、かえって彼はそれを笑った。僕も一緒にそれを笑った。 最初から僕は、この新聞はこれらの人達の協同に、全部を任せるつもりでいた。僕は仕事の目鼻さえつけば、すぐロシアへ出発する筈にしていたのだ。が、その仕事も始めないうちに、僕は病気になった。ずいぶん長い間そのために苦しんで、そしてしばらく落ちついていたと思った肺が、急にまた悪くなったのだ。医者からは絶対安静を命ぜられた。で、新聞の準備もほとんどみんなに任せきりにしている間に、こんどはチブスという難病に襲われた。 僕の病気は上海の委員会との連絡をまったく絶たしてしまった。Tからすぐ送って来る筈の金も来なかった。が、近藤憲二が僕の名で本屋から借金して来て、みんな一緒になってよく働いた。そして新聞は、僕が退院後の静養をしてほとんどその仕事に与かっていなかった、六月まで続いた。 たぶん四月だったろう。僕は再び上海との連絡を謀るためと約束の金を貰うためとに、近藤栄蔵を使いにやった。が、その留守中に、近藤栄蔵や高津正道が堺、山川等と通じて、ひそかに無政府主義者の排斥を謀っているらしいことが、大ぶ感づかれて来た。もしそうなら、僕は上海の方のことはいっさい共産党に譲って、また事実上栄蔵もそういう風にして来るだろうとも思ったが、そして新聞も止して、僕等無政府主義者だけで別にまた仕事を始めようと思った。 すると、上海からの帰り途で近藤栄蔵が捕まった。新聞はこれを機会にして止した。 栄蔵は一カ月余り監獄にいて、出て来ると山川とだけに会って、その妻子のいる神戸へ行った。そして僕は山川から栄蔵の伝言だというのを聞いた。それによると、Tはちょうど上海にいないで、朝鮮人の方から栄蔵がロシアへ行く旅費として二千円と僕への病気見舞金二百円とを貰って来たということだった。しかしそれは、僕等がほかの方面から聞いた話、もっとも十分に確実なものではなかったが、とは大ぶ違っていた。が、そんなことはもうどうでもいい、それで彼等と縁切りになりさえすればいいのだ、と思った。 上海の委員会は、Tが大して気乗りしていなかったせいだろう、僕が帰ったあとで何の仕事もしないで立消えになってしまったらしい。そして栄蔵が警視庁で告白したところによると、朝鮮の某(そんな名の人間はいない)から六千円余り貰って来たことになっている。
「ヨーロッパまで」が脇道の昔ばなしにはいって、大ぶいやな話が出た。僕はその後ある文章の中で「共産党の奴等はゴマノハイだ」と罵ったことがある。それは一つには暗にこの事実を指したのだ。そしてもう一つには、これもその後だんだん明らかになって来たことだが、無産階級の独裁という美名(?)の下に、共産党がひそかに新権力をぬすみ取って、いわゆる独裁者の無産階級を新しい奴隷に陥しいれてしまう事実を指したのだ。 かくして僕は、はなはだ遅まきながら、共産党との提携の事実上にもまた理論上にもまったく不可能なことをさとった。そしてまたそれ以上に、共産党は資本主義諸党と同じく、しかもより油断のならない、僕等無政府主義者の敵であることが分った。 が、今ここに上海行きのこれだけの話ができるのは、共産党の先生等が捕まって、警察や裁判所でペラペラと仲間の秘密をしゃべってしまった、そのお蔭だ。それだけはここでお礼を言って置く。
五
それでも、僕にはまだ、ロシア行きの約束だけは忘れられなかった。そしてからだの恢復とともに、僕等自身の雑誌の計画を進めながら、ひそかにその時を待っていた。僕はロシアの実情を自分の目で見るとともに、さらにヨーロッパに廻って戦後の混沌としている社会運動や労働運動の実際をも見たいと思った。 そこへ、突然、その年の十月頃かに、ロシアで(十九字削除)。それは共産党の方に来たのだが、こんどは僕もその相談に与かった。共産党ではそこへやろうという労働者がいなかったのだ。そして僕は、いずれまた上海の時のようなことになるのだろうとは思ったが、とにかく日本から出席する十名ばかりの中に加わることにきめた。しかし、あとでよく考えて見て、それも無駄なような気がした。また、共産党との相談にも、いろいろ面白くないことが起きた。そして、いよいよ二、三日中に出発するという時になって、僕一人だけそこから抜けた。 翌年、すなわち去年の一月に、僕はまたこんどは月刊の『労働運動』を始めた。そしてほとんど毎号、その頃になってようやく知れて来たロシアの共産党政府の無政府主義者やサンジカリストに対する暴虐な迫害や、その反無産階級的反革命的政治の紹介に、僕の全力を注いだ。 八月の末に、大阪で、例の労働組合総連合創立大会が開かれた。そしてそこで、無政府主義者と共産主義者とが初めて公然と、しかもその根本的理論の差異の上に立って、中央集権論と自由連合論との二派の労働者の背後に対陣することとなった。 日本の労働運動は、この大会を機として、その思想の上にもまた運動の上にも、特に劃時代的の新生面を開こうとする[#「開こうとする」は底本では「開こうにする」]非常な緊張ぶりを示して来た。そこへこんどの(九字削除)の通知が来たのだ。たとえ短かい一時とはいえ、日本を去るのは今は実に惜しい。また、ほとんど寝食を忘れるくらいに忙がしい同志を置き去りにして出るのも実に忍びない。しかし日本のことは日本のことで、僕がいようといまいと、勿論みんなが全力を尽してやって行くのだ。そして僕は僕で、外国の同志との、しかもこんどこそは本当の同志の無政府主義者との、交渉の機会が与えられたのだ。行こう。僕は即座にそう決心するほかはなかった。
上海では、前は、三、四軒のホテルに十日ほどずつ泊った。同じホテルに長くいてはあぶないというので、そのたびに新しい変名を造っては、ほかのホテルへ移って行ったのだ。この時々変る自分の名を覚えるのは容易なことでなかった。まずその漢字とその支那音との、僕等にはほとんど連絡のない、というよりもむしろまったく違った二つのことを覚えなければならないのだ。が、それはまず無事に済んだ。けれども、支那語をちっとも知らない支那人というのも、ずいぶん変なものだ。が、それもまず、ボーイとは英語で、しかもほんの用事だけのことを話せばいいのだから、何とか胡麻化して済ました。 しかし一度その変名で、失敗のようなまた過失の功名のようなことをした。それは、やはり上海にいた支那の国民党のある友人に会いたいということを、朝鮮のRに話した。Rはその友人の家へ行ったが、旅行中で留守なので、ただ僕が何々ホテルにいるということだけを書き置いて来た。友人は帰ってからすぐ僕のホテルへ来た。そして、きっと変名しているのだろうと思って、ただ日本人がいないかと尋ねた。すると、日本人はいないというので、さらに日本人らしい支那人はいないかと聞いたが、そんなのもいないと言う。で、仕方なしに旅客の名と室の番号を書き列ねた板の上を見廻した。 「はあ、これに違いない。」 彼はその中のある名を見て、一人でそうきめて、その番号の室へ行った。そしてはたしてそこに僕を見出した。 「あんな馬鹿な名をつける奴があるもんか。」 彼は僕の顔を見るとすぐ、笑いこけるようにして言った。 「何故だい。朝鮮人がつけてくれた名なんだけれど。」 僕はその笑いこける理由がちっとも分らないので、真面目な顔をして聞いた。 「何故って君、唐世民だろう、あれは唐の太宗の名で、日本で言えば豊臣秀吉とか徳川家康とかいうのと同じことじゃないか。が、お蔭で僕は、それが君だってことがすぐ分ったんだ。本当の支那人でそんな馬鹿な名をつける奴はないからね。」 この友人は、近く広東へ乗込む孫逸仙一行の先発隊として、あしたの朝上海を出発するのだった。したがって、もしその晩会えなければ、しばらくまた会う機会がないのだった。 「新政府の基礎ができたら、ぜひ広東へ遊びに来たまえ。陳烱明は何にも分らないただの軍人なのだが、社会問題には大ぶ興味を持っているし、僕等も向うへ行けばすぐ、支那や外国の資本家を圧迫する一方法としてだけでも、大いに労働運動を興して見るつもりなんだ。」 今は立派な政治家になっているが、昔は熱心な労働運動者だった彼は、こうしてその新政治の必要の上からの労働運動を主張していたのだった。そして実際また、その頃すでにもう、陳烱明の保護の下に無政府主義者等が盛んに労働組合を起して、広東が支那の労働運動の中心になろうとしていたのだ。その後、香港で起った船員や仲仕の大罷工には、これらの無政府主義者がその背後にいたのだった。 上海で無政府主義者の誰とも会うことのできなかった僕は、広東のそれらの無政府主義者と会いたいと思った。そしてこの支那の新政治家とは、近いうちにまた広東で会う約束をして分れた。
が、こんどは、例の共産党の先生等のペラペラのお蔭で、これらのおなじみのホテルへは行けなかった。近藤栄蔵が捕まって以来、日本政府の上海警戒が急に厳重になったのだ。そして僕等が前に泊ったホテルにはどんな方法が講じてあるかも知れなかったのだ。 で、僕はまず、支那の同志Bの家へ行った。まだ会ったことのない同志だ。しかしその夏、やはり支那の同志のWがひそかに東京に来て、お互いの連絡は十分についていたのだ。そして僕がこんどこの上海に寄ったのは、ベルリンの大会で(九字削除)が組織されるのと同時に、僕等にとってはそれよりももっと必要な(八字削除)の組織を謀ろうと思ったからでもあった。 折悪くBはいなかった。そしてその留守の誰も、支那語のほかは話もできず、また筆談もできそうになかった。僕は少々途方にくれた。ほかへ行くにも前に知っている支那人や朝鮮人は今はみなロシアに行ってしまった筈だ。新政治家の友人も、その後陳烱明の謀叛のために広東を落ちて、たぶん今は上海にいるんだろうとは思ったが、どこにいるんだか分らなかった。こんなことなら、あらかじめBに僕の来ることを知らして置くんだった、とも思った。が、今さらそんな無駄なことを考えても仕方がない。どこか西洋人経営のホテルを探しに行くか、あるいはここに坐り込んでBの帰るのを待つかだ。僕は長崎から上海までの暴風で大ぶ疲れていたので、そしてまたよくは分らないがBがすぐ帰って来そうな話しぶりなので、とにかく少し待って見るつもりで玄関の椅子の一つに腰を下ろした。 すると、すぐそこへ、そとから若い支那人が一人はいって来た。僕はその顔を見てハッとした。知っている顔だ。去年まで東京でたびたび会って、よく知っているNだ。彼も無政府主義者だと言っていた。そしてその方面のいろんな団体や集会にも出入していた。しかし僕は彼がどこまで信用のできる同志だか知らなかった。そしてまた彼が支那に帰ってからの行動については何も知らなかった。僕は彼をちょうどいい助け舟だと思うよりも、今彼に見られていいのか悪いのか分らなかった。とにかく、何人によらず、知っている人間に会うのは今の僕には禁物なのだ。 彼の方でも、僕の顔を見るとすぐ、ハッとしたようであった。が、そのすぐあとの瞬間に、僕は彼が僕の顔を分らなかったことが分った。そして僕は、そうだ、その筈だ、と初めて安心した。 彼は取次のものと何か話していたが、Bはすぐ帰って来る筈だから、と日本語でその話を取次いでくれた。僕は彼が僕の顔を分らずに、そのハッとした態度をまだそのまま続けているのが少々可笑しかった。そしてちょっとからかって見る気になった。 「あなたはよほど長く日本においででしたか。」 僕は済ました顔で尋ねた。 「いいえ、日本にいたことはありません。」 僕は彼のむっつりした返事を少々意外に思った。がすぐまた、彼が排日運動の熱心家で、そのために日本の警察からかなり注意されていたことに気がついた。そして彼が僕を普通の日本人かあるいは多少怪しい日本人かと思っているらしいことは、さらにまた僕のからかい気を増長させた。 「しかしずいぶん日本語がうまいですね。」 「いや、ちっともうまくないです。」 彼は前よりももっとむっつりした調子でこう言ったまま、テーブルの上にあった支那新聞を取り上げた。僕はますます可笑しくなったが、しかしまた多少気の毒にもなり、またあまり長い間話ししていては険呑だとも思ったので、それをいい機会にして黙ってしまった。そして彼には後ろむきになって、やはりテーブルの上の支那の新聞を取りあげた。 こうしてしばらく待っている間にBが帰って来た。僕はNに分らんように、筆談で彼と話しした。彼は僕をいい加減な名でNに紹介した。 翌日僕は、Bの家の近所を歩き廻って、ロシア人の下宿屋を見つけた。そして、ただ少々の前金を払っただけで、名も何にも言わずにそこの一室に落ちついた。 僕は食堂へ出るのを避けて、いつも自分の室で食事した。したがって、下宿屋の神さんでもまたほかの下宿人でも、ほとんど顔を見合したことがなかった。二日経っても三日経っても、宿帳も持って来なければ、名刺をくれとも言って来ない。僕は呑気なもんだなと思いながら、支那人のボーイに僕がどこの国の人間だか分るかと聞いて見た。ボーイは何の疑うところもないらしく、 「イギリス人です。」 と答えた。僕は変なことを言うと思って、 「どうしてそう思う?」 と問い返した。 「お神さんがそう言いましたから。」 ボーイは、神さんと同じように、ごく下手な僕の英語よりももっと下手な英語で、やはり何の疑うところもないような風で答えた。 「ハァ、奴等は僕をイギリス人と支那人との合の子とでも思っているんだな。」 僕はこれはいい具合だなと思いながら、そのボーイの持って来た夕飯の皿に向った。実際、こうした下宿屋には、東洋人が来ることはほとんど絶対にない。お客はみな毛唐ばかりなのだ。
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