六
上海に幾日いたか、またその間何をしていたか、ということについては今はまだ何にも言えない。ただそこにいる間に、ベルリンの大会が日延べになったことが分ったので、ゆっくりと目的を果たすことができた。そして、その間に、日本では、僕が信州の何とか温泉へ行ったとか、ハルピンからロシアへ行ったとか、香港からヨーロッパへ渡ったとか、いやどことかで捕まったとか、というようないろんな新聞のうわさを見た。上海の支那人の新聞にも、そうしたうわさを伝えたほかに、ロシアから毎月幾らかの宣伝費を貰っている、というようなことまでも伝えた。 そして、本年某月某日、僕は四月一日の大会に間に合うように、ある国のある船で、そっとまた上海を出た。途中のことも今はまだ何にも言えない。
(上海で何をしていたのかは日本に帰った今でもまだ言えないが、ここで大会の日延べになったことが分ったとか、日本でのいろいろなうわさを聞いたとかいうのはうそだ。それはパリへ行ってからのことなのだ。途中でのことはほかの記事にちょいちょい書いてある。)
某月某日――これがあんまり重なっては読者諸君にはなはだ相済まないのだが、仕方がない、まあ勘弁して貰おう――どこをどうしてだか知らないが、とにかくパリに着いた。 コロメルの宛名の、フランス無政府主義同盟機関『ル・リベルテエル』社のあるところは、パリの、しかもブウルヴァル・ド・ベルヴィル(強いて翻訳すれば「美しい町の通り」)というのだ。地図を開いて見ても、かねてから名を聞いているオペラ座なぞのある大通りと同じような、大きな大通りになっている。 いずれその横町か屋根裏にでもいるだろう、と思って行って見ると、なるほど大通りは大通りに違いないが、ちょうどあの、浅草から万年町の方へ行く何とかいう大きな通りそのままの感じだ。もっとも両側の家だけは五階六階七階の高い家だが、そのすすけた汚なさは、ちょっとお話にならない。自動車で走るんだからよくは分らないが、店だって何だか汚ならしいものばかり売っている。そして通りの真中の広い歩道が、道一ぱいに汚ならしいテントの小舎がけがあって、そこをまた日本ではとても見られないような汚ならしい風の野蛮人見たいな顔をした人間がうじゃうじゃと通っている。市場なのだ。そとからは店の様子はちょっと見えないが、みな朝の買物らしく、大きな袋にキャベツだのジャガ芋だの大きなパンの棒だのを入れて歩いている。 ル・リベルテエル社は、それでも、その大通りの、地並みの室にあった。週刊『ル・リベルテエル[#「ル・リベルテエル」は底本では「ル・リベルテェル」]』(自由人)月刊『ラ・ルヴィユ・アナルシスト』(無政府主義評論)との事務所になっているほかに、ラ・リブレリ・ソシアル(社会書房)という小さな本屋をもやっているので、店はみな地並みにあるわけなのだ。 その本屋の店にはいると、やはりおもてにいるのと同じような風や顔の人間が七、八人、何かガヤガヤと怒鳴るような口調でしゃべっていた。その一人をつかまえてコロメルはいないかと聞くと、奥にいると言う。奥と言っても、店からすぐ見える汚ならしい次の部屋なのだ。そこもやはり、同じような人間が七、八人突立っていて、ガヤガヤとしゃべっているほかに、やはり同じような人間が隅っこの机に二人ばかり何か仕事をしていた。その一つの机のそばに立って、手紙の束を手早く一つ一つ選り分けている男が一人、ほかの人間とは風も顔も少し違っていた。日本で言ってもちょっと芸術家といった風に頭の毛を長く延ばして髯のない白い顔をみんなの間に光らしていた。ネクタイもしていた。服も、黒の、とにかくそんなに汚れていないのを着ていた。僕はその男をコロメルだときめてそのそばへ行って、君がコロメルか、と聞いた。そうだ、と言う。僕は手をさし出しながら、僕はこうこうだと言えば、彼は僕の手を堅く握りしめながら、そうか、よく来た、と言って、すぐ日本の事情を問う。腰をかけろという椅子もないのだ。
「どこか近所のホテルへ泊りたいんだが。」 と言うと、 「それじゃ私が案内しましょう。」 という、女らしい声が僕のうしろでする。ふり返って見ると、まだ若い、しかし日本人にしてもせいの低い、色の大して白くない、唇の大きくて厚い、ただ目だけがぱっちりと大きく開いているほかにあんまり西洋人らしくない女だ。風もその辺で見る野蛮人と別に変りはない。 とにかくその女の後について、[#「ついて、」は底本では「ついて、、」]二、三丁行って、ちょっとした横町にはいると、ほとんど軒並みにホテルの看板がさがっている。みんな汚ならしい家ばかりだ。女はその中の多少よさそうな一軒を指さして、あのホテルへ行って見ようと言う。看板にはグランドホテル何とかと書いてある。が、はいって見れば、要するに木賃宿なのだ。今あいているという三階のある室に通された。敷物も何にも敷いてない狭い室の中には、ダブル・ベッド一つと、鏡付きの大きな箪笥一つと、机一つと、椅子二つと、陶器の水入れや金だらいを載せた洗面台とで、ほとんど一ぱいになっている。そしてその一方の隅っこに、自炊のできるようにガスが置いてある。すべてが汚ならしく汚れた、そして欠けたり傷ついたりしたものばかりだ。ちょっといやな臭いまでもする。が、感心に、今まで登って来た梯子段や廊下はずいぶん暗かったが室の中はまずあかるい。窓からそとはかなり遠くまで広く開いている。 「なかなかいい室でしょう。」 と連れの女は自慢らしく言う。とても、お世辞にもいいとは言えない。実は、今までもあちこちのいろんなホテルに泊っているんだが、こんなうちは初めて見たのだ。が、フランスへ行ったら労働者町に住んで見たい、もしできれば労働者の家庭の中に住んで見たい、とはかねてから思っていた。 「いいでしょう、ここにきめよう。」 と僕も仕方なしに、ではあるがまた、ここに住むことについて大きな好奇心を持って答えた。 そしてまず、一カ月百フラン(その時の相場で日本の金の十二円五十銭)という室代の幾分かを払った。東京の木賃宿の一日五十銭に較べればよほど安い。ガスは一サンティムの銅貨を一つ小さな穴の中に入れれば、三度の食事ぐらいには使えるだけの量が出て来るのだそうだ。 すると、こんどは宿帳をつけてくれと言う。今までも、どこのホテルでも宿帳はつけて来たが、そしていい加減に書いて来たが、ここではカルト・ディダンティテ(警察の身元証明書)を見せろと言うのだ。何のことかよく分らんから、連れの女に聞いて見ると、フランスでは外国人はもとより内国人ですらも、みなその写真を一枚はりつけた警察の身元証明書を持っていなければならんのだと言う。勿論そんなものは持っていない。で、仕方なしに、その女と一緒になって、いい加減にそこをごまかしてしまった。 「フランスはずいぶんうるさいんですね。」 僕はホテルを出て、社へ置いて来た荷物を取りに行く途で、女につぶやいた。 「ええ、そしてあの身元証明書がないと、すぐ警察へ引っぱって行かれて、罰金か牢を仰せつかるんです。外国人ならその上にすぐ追放ですね。」 が、僕は女のこの返事が終るか終らないうちに、社のすぐ前の角に制服の巡査が三人突っ立っているのを見た。みな社の方を向いて、社の入口ばかりを見つめているようなのだ。 「おや、制服が立っていますね。」 僕は少々不審に思って聞いた。 「例のベルトン事件以来、ずっとこうなんです。」 と言って、彼女は、最近に王党の一首領を暗殺した女無政府主義者ジェルメン・ベルトンの名を出した。そしてその以前からも、集会は勿論厳重な監視をされるし、家宅捜索もやる、通信も一々調べる、尾行もやる、遠慮なく警察へ引っぱって行く、という風だったのだそうだ。 「はあ、やっぱり日本と同じことなんだな。」 僕はそう思いながら、たぶんその巡査どもの視線を浴びながらだろう、ル・リベテエル社の中へはいって行った。
――一九二三年四月五日、リヨンにて――
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パリの便所
一
パリにつくとすぐ、仲間の一人の女に案内されて、その連中の巣くっている家の近所の、あるホテルへつれて行かれた。 その辺はほとんど軒並みに、表通りは安キャフェと安たべ物屋、横町は安ホテルといった風の、ずいぶんきたない本当の労働者町なんだ。道々僕は、どんな家へつれて行かれるんだろうと思って、その安ホテルの看板を一々読みながら行った。一日貸し、一夜貸し、とあるのはまだいい。が、その下に、折々、トレ・コンフォルタブル(極上)とあって、便所付きとか電燈付きとかいう文句のついたのがある。便所が室についていないのはまだ分る。しかし電燈のないホテルが、今時、このパリにあるんだろうか。僕は少々驚いてつれの女に聞いた。 「ええ、ありますとも、いくらでもありますよ。」 と言う彼女の話によると、パリの真ん中に、未だ石油ランプを使っているうちがいくらでもあるんだそうだ。僕はそんなうちへつれて行かれちゃ堪らないと思った。そしてそのトレ・コンフォルタブルなうちへ案内してほしいと頼んだ。 彼女と僕とは、グランドホテル何とかいう名のうちの、三階のある一室へ案内されて行った。なるほど、電燈はたしかにある。が、便所は、室の中にもそとにもちょっと見あたらない。 「便所は?」 僕は看板に少々うそがあると思いながら、一緒に登って来たお神さんに尋ねた。 「二階の梯子段のところにあります。」 お神さんは平気な顔で答える。僕も便所が下にあるくらいのことは何でもないと思って、平気で聞いていた。 が、その便所へ行って見ておどろいた。例の腰をかける西洋便所じゃない。ただ、タタキが傾斜になって、その底に小さな穴があるだけなのだ。そしてその傾斜の始まるところで跨ぐのだ。が、そのきたなさはとても日本の辻便所の比じゃない。 僕はどうしてもその便所では用をたすことができなくて、小便は室の中で、バケツの中へジャアジャアとやった。洗面台はあるが、水道栓もなくしたがってまた流しもなく、一々下から水を持って来て、そしてその使った水を流しこんで置く、そのバケツの中へだ。僕ばかりじゃない。あちこちの室から、そのジャアジャアの音がよく聞える。大便にはちょっとこまったが、そとへ出て、横町から大通りへ出ると、すぐ有料の辻便所があるのを発見した。番人のお婆さんに二十サンティム(ざっと三銭だ)のところを五十サンティム奮発してはいって見ると、そこは本当の綺麗な西洋便所だった。 貧民窟の木賃宿だから、などと、日本にいて考えてはいけない。その後、パリのあちこちを歩いて見たが、こうした西洋便所じゃない、そして幾室あるいは幾軒もの共同の、臭いきたない便所がいくらでもあるのだ。そして田舎ではそれがまず普通なのだ。 僕はまた、西洋便所とともに、西洋風呂も気持のいいものだと思っていた。が、このトレ・コンフォルタブルな安ホテルでは、どこの看板にも風呂付きというのは見たことがない。そしてまた、普通のうちで風呂なぞのあるのは滅多にない。男でも女でも、みんな一カ月に一度か二カ月に一度、お湯屋へはいりに行くのだ。しかもそのお湯屋だって、そうやたらにあちこちにあるのじゃない。ちょうど、有料の西洋便所とおなじくらいの程度に、ごく稀れにぶつかるだけだ。幸い僕は、このお湯屋もすぐ近所に見つけたので、二、三日目には二フラン五十(三十五銭ばかり)奮発して、そこのいいお得意様になった。もう一フラン出せば、その辺では立派な夕飯が食えるんだ。
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