牢屋の歌
一
パリに すきなこと二つあり 女の世話のないのと 牢屋の酒とたばこ
へたな演説には、きっと長口上の、何やかの申しわけの前置きがある。歌だってやはりそうだろう。と、まず前置きの前置きをして置いて、さて、そろそろと長口上に移る。 パリの女の世話のないことは、前の「パリの便所」の中で話した。が、そこでは、物がちょっと論文めいた形式になったために、大分かみしもをつけて、その中の「僕」という人間がいつもその世話のない女を逃げまわっているように体裁をかざっていた。 が、体裁はどこまでも体裁で、事実の上から言えばそれは真赤なうそだ。逃げまわっていたどころじゃない。追っかけまわしていたくらいなのだ。 その追っかけまわしていた女の中に、ドリイという踊り子が一人いた。バル・タバレンと言えば、パリへ行った外国人で知らないもののない、あまり上品でない、ごく有名な踊り場だ。そこの、と言ってもちっとも自慢にならないのだが、とにかくそこの女の中でのえりぬきなのだ。 僕はその踊り場のすぐそばに下宿していたのだが、どうもパリは危険らしい様子なので、三月のなかばにこのわかれにくいドリイにわかれて、リヨンへ逃げた。そしてすぐドイツ行きの仕度にかかった。 それにはまず、ドイツ領事のヴィザをもらう前に、警察本部の出国許可証をもらわなければならない。それが、警察へ行くたびに、あしたやる、あさってやる、という調子でごく小きざみに延び延びになって、一カ月あまり過ぎた。むしゃくしゃもする。もうメーデーも近づく。パリもなつかしい。ちょっと行って見ようとなってまた出かけた。 そしてその翌晩、夕飯を食いがてらオペラの近所へ行って、そこからさらに時間を計ってドリイに会いに行こうと思った。が、そのオペラの近くのグラン・キャフェで、前に一度あそんだことのある、そして二度目の約束の時に何かの都合で会えなかって、それきりになっているある女につかまってしまった。 その翌日はメーデーだ。今晩こそはドリイと思っていると、その日の午後、こんどはとんでもない警察につかまってしまった。 秩序紊乱、官吏抗拒、旅券規則違反というような名をつけられて、警察に一晩、警視庁に一晩とめられて、三日目に未決監のプリゾン・ド・ラ・サンテに送られた。 のん気な牢屋だ。一日ベッドの上に横になって、煙草の輪を吹いていてもいい。酒も葡萄酒とビールとなら、机の上に瓶をならべて、一日ちびりちびりやっていてもいい。 酒のことはまたあとで書く。その前にドリイの歌を一つ入れたい。
独房の 実はベッドのソファの上に 葉巻のけむり バル・タバレンの踊り子ドリイ
窓のそとは春だ。すぐそばの高い煉瓦塀を越えて、街路樹のマロニエの若葉がにおっている。なすことなしに、ベッドの上に横になって、そのすき通るような新緑をながめている。そして葉巻の灰を落しながら、ふと薄紫のけむりに籠っている室の中に目を移すと、そこにドリイの踊り姿が現れて来る。彼女はよく薄紫の踊り着を着ていた。そしてそれが一番よく彼女に似合った。
二
パリの牢のスウヴニルに 酒の味でも 飲み覚えよか Ca va ! Ca va !
僕はもう五、六年前から、ほんの少しでもいいから酒を飲むようにと、始終医者からすすめられていた。 が、飲めないものはどうしても飲めない。日本酒なら、小さな盃の五分の一も甜[#「甜」はママ]めると、爪の先まで真っ赤になって、胸は早鐘のように動悸うつ。奈良漬けを五切れ六切れ食べてもやはりおなじようになる。サイダーですらも、コップに二杯も飲むと、ちょっとポオとする。 ただウィスキーが一番うまいようなので、毎日茶匙に一杯ずつ紅茶の中に入れて飲んでいたが、それだけでもやはりちょっと苦しいくらいの気持になる。 フランスに来てからは、いや上海からフランス船に乗って出てからは、食事のたびに葡萄酒が一本食卓に出るのだが、最初ちょっとなめて見てあんまり渋かったので、その後は見向いてもみなかった。 けれども、牢にはいってみて、差入れ許可の品目の中に葡萄酒とビールの名がはいっているのを見出して、怠屈まぎれにそのどっちかを飲み覚えようと思った。ビールはにがくていけない。葡萄酒も、赤いんだと渋いが、白いんなら飲んで飲めないこともあるまい。女子供だって、お茶でも飲むように、がぶりがぶりやっているんだから。と、きめて、ある日、差し入れの弁当のほかに、白葡萄酒を一本注文した。 Ca va ! Ca va ! というのは、よかろうよかろうくらいの意味だ。
きのうは大ぶ渋かったが きょうは少しあまし 飲みそめの Vin blanc
Vin blanc(白葡萄)でも渋いことはやはり渋い。が、ほんのちびりちびり、薬でも飲むように飲む。そして、ほんのりと顔を赤らめながら、ひまにあかして一日ちびりちびりとやって、いい気持になってはベッドの上に長くなっていた。
三日目に一本あけた 大手柄! 飲みそめの Vin blanc
一本といっても、普通の一本じゃない。アン・ドミとかアン・カアルとかいう半分か四分の一の奴なのだ。 そして入獄二十四日目の放免の日には、警視庁の外事課で追放の手続きを待っている半日の間に、このアン・ドミを百人近くの刑事どもの真ん中に首をさらされながら、一本きれいにあけてしまった。
そのたびになつかしからん 晩酌の 味を覚えし パリの牢屋
僕は日本に帰ったら、毎日、晩酌にこの白葡萄酒を一ぱいずつやって見ようときめた。
三
Vin blanc ちびりちびり 歌よみたわむる 春の日 春の心
春の心、と言っても、春情じゃない。牢やの中では、いつも僕は聖者のようなのだ。時々思いだしたドリイだって、実は一緒に寝たには寝たが、要するにただそれっきりのことだったのだ。 ――Faire lmour, ce n'est pas tout. Ju es trop jolie pour cela. Je t'adore. というような甘いことを、実際甘すぎてちょっと日本語では書きにくいのだ、子守歌でも歌って聞かせるような調子でお喋舌りしながら寝かしつけていたのだ。 そしてまた、それだからこそ、時々彼女を思いだしたのだろうと思う。リヨンではたった一人のそして停車場まで夜遅く送って来た女のことも、メーデーの前の晩会った女のことも、またいつも赤い帽子をかぶっていたところから僕が「赤帽」とあだ名していた女のことも、その他本当に一緒に寝た女のことは一度も思いだしはしなかった。 そんなことじゃないんだ。ただ春の心なのだ。本当にのどかな、のんびりとした呑気な気持なのだ。いつも忙がしい、そして大勢の人との交渉の多い生活をしている僕には、実際何の心配もないたった一人きりの牢やの生活ほどのうのうするところはないのだ。もっとも、それがあんまり長かったり、時々すぎたりしては、そうばかりも行くまいが。ことに春の日の牢の中はいい気持だ。そして、それが、ちびりちびりのヴェン・ブランでなおさらにいい気持にあおられていては堪らない。へたな歌もできよう。呑気なことも考えていられよう。 が、これは出るとすぐ、仲間の新聞で知ったのだが、その頃この牢やでこんな呑気をしていては、知らんこととは言いながらはなはだ相済まなかったのだ。 僕がまだフランスに来る途中の船にいた頃、共産党の首領カシエン以下十数名のものが、ルール問題の勃発とともに拘禁された。そしてその中には、ドイツの共産党代議士何とかというのと、もう一人のやはり何とかいうドイツの共産主義者とがいた。みんなやはり僕と同じこのラ・サンテの牢やにいたのだ。 ところが僕がはいってから、カシエン以下のフランスの共産主義者は保釈で釈放されたが、ドイツの二人だけは残された。二人ともフランスの法律に触れる理由は何にもなく、ただその政治上の都合でおしこめられていたので、たださえ二人は大ぶ憤慨していたのだが、ほかのものがみんな出されて自分等だけ残ったとなると、すぐ釈放を要求してハンガー・ストライキを始めた。そして、それを知った同じ牢やの政治監にいる既決囚の無政府主義者四、五名も、それに同情のやはりハンガー・ストライキを始めた。 ドイツの二人は十幾日間頑強に飲まず食わずに過ごした。そしてほとんど死んだようになって病院に移されて、僕が放免になった二、三日後にようやくのことで釈放の命令が出た。 「僕も知っていれば……」 と、僕は自分の太平楽を恥じかつくやんだ。
――一九二三年七月十一日、箱根丸にて――
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