打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口

日本脱出記(にほんだっしゅつき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 7:09:19 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 

A bas l'avocat officiel !(くたばっちゃい官選弁護士の野郎)

 というのが二つ三つある。その他は牢やの監房で見たのと同じようなことばかりだ。女房の誰とかを恋するとか、生命にかけてブルタニュ女の誰とかを崇めるとかいうのも、幾つも書いてあったが、その女房かブルタニュ女かの肖像をなかなかうまく描いているのもあった。変な猥※[#「褻」の「熱-れんが」に代えて「執」、113-3]な絵もあった。
 そんなのを一々詳細に読んで行く間に、
「おい、君は何だ、泥棒か。」
 と、僕の肩を叩く奴がある。さっきからしきりに、みんなに、君は幾カ月、君は幾カ月と刑の宣告をしている、前科幾犯面の奴だ。
「あ、まあそんなものだね。」
 といい加減にあしらってやると、
「そうか、何を盗んだんだ。君は安南人か。」
 とまた聞く。そうなって来るとうるさいから、僕も、
「いや、僕は日本人だ。」
 と、こんどは本当のことを言う。
「日本人で泥棒? それや珍らしいな。いつフランスへ来たんだい?」
 前科幾犯先生はますますひつこく聞いて来る。僕はこの上うるさくなってはと思って、
「まだ来たばかりさ。そしてメーデーにちょっと演説をして捕まったんさ。」
 と、本当のまた本当のことを言った。
「そうか、じゃ政治犯だね。」
 先生はそう言ったきりで、また向うをむいてほかの先生等と何か話ししはじめた。
 すると、今までみんなの中にははいっていたが、黙ってほかのもののおしゃべりを聞いていた、一方の手の少し変な四十ばかりの男が僕のそばへやって来た。
「あなたもメーデーでやられたんですか。僕もやはりそうでコンバで捕まったんですけれど、あなたはどこででした。」
 その男は見すぼらしい労働者風をしていたが、言葉は丁寧だった。コンバと言えば、C・G・T・U本部のすぐそばの広場だ。そしてそこにはル・リベルテエルの連中の無政府主義者がうんと集まっていた筈だ。で、僕はこれはいい仲間を見つけたと思って、そこの様子を聞こうと思った。
「僕はセン・ドニでやられたんだが、コンバの方はどうでした?」
「それや、ずいぶん盛んでしたよ。演説なんぞはいい加減にして、すぐ僕等が先登になってそとへ駈けだしましてね。電車を二、三台ぶち毀して、とうとうその交通をとめてしまいましたよ。」
 この男もやはり無政府主義者で、もとは機械工だったんだが戦争で手を負傷して、今は何やかやの使い歩きをして食っているのだった。そして、去年もやはりコンバで大ぶあばれたんだそうだが、その時には一人も捕まらずに済んで、彼も無事に家に帰った。が、ことしは警察がばかに厳重で、あばれかたは去年と大差はなかったのだが、百人近く捕まったのだそうだ。
「ことしは警察も大ぶ乱暴だったが、裁判所も厳重にやるって、弁護士が言ってましたよ。あなたの方は、それじゃ、追放だけで済むんでしょうが、僕はまあ半年ぐらい食いそうですね。」
 こんな話をしている間に、みんなは法廷に引きだされたのであった。そして僕が仮監へ帰って来ると、間もなくその男も帰って来た。
「あなたもすぐ出れますね。僕も今晩出ますよ。やっぱり六カ月食うには食ったんですが。でも、この名誉のてんぼのお蔭で、弁護士がしきりにそれを力説しましてね、お蔭で二カ年間の執行猶予になりましたよ。」
 彼は嬉しそうにしかし皮肉に笑いながらはいって来て、僕の手を握った。そして、間もなくまたみんなは仮監から出されて、馬車で監獄へ送られた。

    七

 翌二十四日の朝、巡査に送られて裁判所の留置場へ行った。
「グラン・サロン(大客室だいきゃくま)へ!」
 と言われたので、どんなサロンかと思って巡査について行くと、前にいた留置場のそばの、やはりそこと同じような鉄の扉をがちゃがちゃと開けて押しこまれた。
 なるほど大広間には違いない。椅子をならべて演説会場にしても、五百や六百の人間はらくにはいれそうな広さだ。昔は、この裁判所は、そのそばの警視庁などと一緒に、何とか王の宮殿だったのだそうだから、その頃の何かの大広間なのだろう。床はたたきになっているが、そこに大理石の大きな円柱が三、四本立っていて、天井なんぞもずいぶん立派なものだ。はいって見ると、あっちにもこっちにも、五、六人乃至七、八人ずつかたまって、何かおしゃべりしている。僕はその一団の、少し気のきいた風をした若い連中のところへ近づいて行った。
 みんなはフランス語で話ししているが、その調子にどこか外国人らしいところがある。顔もフランス人とは少し違う。
「君も追放ですね。」
 その中の背の高いイタリア人らしいのが、僕の顔を見るとすぐ問いかけた。
「ああ、そうですか、僕等もみんな追放なんです、まあ、一ぷくどうです?」
 そしてその男は煙草のケースをさし出しながらこう言った。
 いろいろ話はして見たが、別にどうという悪いことはした様子もない。が、とにかくちょっと牢にはいって、今追放されるのだと言うんだから、いずれ旅券か身元証明書の上の何かの不備からなのだろう。そしてその色男らしい風采[#「風采」は底本では「風釆」]や処作から推すと、どうも「マクロ」らしく思われた。マクロというのは、淫売に食わして貰っている男のことだ。
 が、その男等は誰一人として、イタリアやスペインやポルトガルなぞの、自分の国へ帰ろうというものはない。また、そのほかのどこかの国へ行こうというものもない。みな、このままフランスに、しかもパリに、とどまっているつもりらしい。
「追放になっても、国境から出なくっていいんですか。」
 僕は、みんなあんまり呑気至極に構えているので、不思議に思って尋ねた。
「ええ、追放になって、出て行くような奴はまあありませんね。今から上へ呼ばれて行って追放命令を貰って、それでもういいからって放免されるんでしょう。あとは、どこへ行こうと、どこにいようと、勝手でさあね。」
 その男は、彼等を不審がっている僕をかえって不審がるようにして、答えた。そして彼等の中の二人までも、これで二度目の追放なのだと附加えて言った。
 僕はまた、追放と言えば、いつかロシア人のコズロフの時に見たように、一週間とか幾日とかの日限を切って、その間多少の尾行をつけて厳重に警戒するのだろうと思っていた。ところが、何のこった。ただ一枚の書きつけを貰って、さあ勝手に出て行け、と突っぱなされるのなら、実際幾度食ったって何のこともないと思って安心していた。
 やがてその男等は呼ばれて、上へ行った。そして順々に、今からどことかの監獄に送られるのだといういろんな奴が呼ばれて行ったが、僕は最後まで残された。
 ついに僕の番が来た。が、僕は上へは連れて行かれずに、最初来た時に持物を調べられてそれを預けて来た、入口の小さな室に入れられた。そしてそこには、さっきの外国人どもが、もうその所持品を貰って出かけようとしているところだった。
「上の方は済みましたか。」
 色男のイタリア人が尋ねた。
「いや、まだです。」
「それじゃ、君は追放じゃないんです。すぐ自由になるんですよ。」
 色男等はそう言って出て行った。僕は、それを信ずることもできなかったが、しかし僕だけこうして残されるのはどうした訳だろうかと、こんどは少々不安になった。

 そしてはたして僕はそのまま放免はされずに、所持品を受取るとすぐ、また一人の巡査に連れられて警視庁へ行った。そしてしばらく、また初めの時と同じような身体検査や何かでひまどって、昼頃になってようやく官房主事のところへ行って、そこで内務大臣からの即刻追放の命令を受けた。
 本当の即刻なのだ。今からすぐ、尾行を一人連れて、出て行けと言うんだ。
「とにかくすぐフランスの国境から出ればいいのだが、都合で東の方の国境へは出ることを許さない。すると西の方だが、それだとスペインへ行くほかない。それでどうだ?」
 どうだもへちまもあるものじゃない。行くほかはない方へ行くより仕方はないのだ。が、スペインなら結構だ。ぜひ一度は行きたいと思っていた国だ。
「結構です。しかし、スペインへ行くにしても、勿論日本の官憲の旅行免状が要るんでしょう。それはどうするんです。」
「それはこっちで大使館とかけ合って貰ってやる。それじゃ向うで待っているがいい。」
 ということになって、僕は前にもお馴染の外事課の広い室に連れて行かれた。

 百人近くの私服どもがそれぞれ机に向って、みな同じような紙きれを袋から出したり入れたりして調べている。その袋の表には何の誰という人の名前が書いてある。きっとそれがみんな日本で言えば要視察人とか要注意人とかいう危険人物なのだ。一つの袋の中には幾枚もの紙きれが、どうかすると十枚も二十枚もの紙きれが、はいっているようだ。
 みんなは、その室の真ん中に腰かけさせられている僕を時々じろりじろりと見つめながら、その紙きれを調べている。やはり、日本のそうした奴等と同じように、ろくな目つきの奴は一人もいない。みなラ・サンテの監獄で見た泥棒や詐偽と同じような、あるいはそれ以上の面構えをしている。
 が、もう正午だ。みなぞろぞろと昼飯を食いに出かけ始める。僕はすぐそばにいた男に、俺の昼飯はどうしてくれるんだ、と尋ねた。その男は主任らしい男のそばへ立って行った。そして帰って来て、何でも欲しいものを言え、とって来てやると答えた。それじゃ、と言って、僕は例の贅沢をならべ立てて、それから極上の白葡萄酒を一本と註文した。
 四、五人は代る代るに残っていたが、二時頃にはみんなまた帰って仕事を始めた。
 大使館へ行った使いの私服はまだ帰って来ない。僕は幾度も官房主事のところへ使いをやったが一向要領を得ない。
 待ちくたびれもし、たいくつでもあり、始終ぎょろぎょろといろんな奴等に見つめられているのも癪にさわるので、僕はろくに飲めもしない葡萄酒を絶えずちびりちびりとラッパでやっていた。
 四時頃になって、ようやく官房主事からの迎いが来た。そしてその室へ行って少し話しているところへ、背の高い大男の、長い少しぼんやりした顔の日本人が一人、先きに大使館へ使いに行った男と一緒にはいって来た。かつて名だけは聞いていた大使館一等書記官の杉村何とか太郎君だ。
 杉村君はちょっと官房主事と挨拶したあとで、僕と話ししたいのだが許して貰えようかと尋ねた。主事は僕等のために別室の戸をあけた。
「今ここからの使いで初めて追放ということを知って駈けつけて来たんですが、僕もできるだけはあなたの便宜のためにここと交渉して見ようと思うんです。」
 杉村君はこう言って、何とか取りなして見たいということを詳しく話した。大使館は日本の政府から僕にいっさいの旅券を出すことを禁ぜられたのだ。したがってスペイン行きの旅券も出すことはできない。で、僕については大使館で責任を持つことにして、もう数カ月間追放を延ばして貰おうというのだ。
 杉村君はそのことをすこぶる鄭重な言葉で主事に嘆願するように言った。が、主事はいったん出た命令はどうしても取消すことができないと頑ばった。
 で、杉村君はもう一度大使館へ行って相談して来ると言って帰った。

 僕は主事に、大使館で旅券をくれなければ、よし僕が今フランスの国境を出たところで、スペインの官憲がその国内に僕を入れるかどうかと尋ねた。
「さあ、それはよその国のことだから、僕には分らない。」
「それじゃ、もしスペインで僕を入れなければ、僕はどうなるんだろう。」
「僕の知っているのはただ、君がそれでまたフランスの国境内にはいって来れば、すぐつかまえて牢に入れるということだけだね。」
 僕は主事のこの返事を聞いて、昔、語学校時代に、フランス人の教師が話して聞かしたちょっと面白い話を思いだした。それは、泥棒が国境近くでつかまえられそうになると、向うの国境内へ逃げて行って、そこから赤んべいをしたり舌をだしたりして、どうともすることのできない巡査を地団太ふましてからかうと言うのだ。そして僕は、
「そうなると僕は、スペインの牢にはいるか、フランスの牢にはいるか、それともスペインとフランスとの国境にまたがっていて、スペインの巡査が来たらその方の足を引っこまし、フランスの巡査が来たらその方の足を引っこまして、幾日でもそうしたまま立ち続けるようなことになるんだね。」
 と笑ってやった。が、主事は、
「まあそんなものさね。」
 ときまじめに済ましていた。

 僕はまた二、三時間もとの室で待たされた。そしてはたして杉村君がまたやって来たのかどうか分らなかったが、たぶんそのとりなしのせいだろうと思う、また主事室へ呼び出されて、これからすぐマルセイユへ出発しろと命ぜられた。
「誰にも会うことはできない。すぐ私服と一緒に停車場へ行って、第一の汽車で出発するのだ。」

 ガアル・ド・リヨンの停車場へ自動車で着いたのは、ちょうど八時幾分かの急行の出る少し前だった。
 私服は汽車の出るのを見送って引っ返したようだった。
 マルセイユの警察へは僕の出発と到着との時刻を電報してあるからと言うのと、生じっか立寄ってまた迷惑をかけてもと思って、リヨンには寄らずに、翌朝マルセイユに着いた。が、マルセイユでは、別に制服も私服も迎いに出ているような様子はなかった。
 僕は宿をとるとすぐ、領事館へ行った。領事の菅君はまだ新任早々で、一週間ばかり前までは杉村君の下に働いていたのだった。
 菅君はマルセイユの警察へ行って、第一の船で出帆するという命令のその「第一」というのを日本船のと念を押して来、また郵船の支店へ行って旅券なしで切符を買える談判をして来て、ちょうどそれから一週間目に出る箱根丸で日本へ帰る都合をつけてくれた。
 僕はその間にうちへも電報を打ち、パリやリヨンの友人等にも電報や手紙を出して、その日までに立てる準備をした。そして僕が何の心置きもなく安心してその準備に取りかかれたのは、僕の友人や同志が誰一人僕のまき添えとしての迷惑を大して受けていなかったことだ。

 即刻追放というんで、パリではあんなに厳重だったのだから、ここでもたぶん警戒がうるさかろうと思っていた。そして、そのうるささを多少でも避けるつもりで、ことに選んで一番いいホテルに泊った。
 が、一日い、二日いして、いろいろと注意して見ているのだが、何の警戒もあるらしい様子がない。ホテルででも取扱いに何の変りもない。そとへぶらぶらと出ても、別に誰もつけて来る様子はなく、帰ってもどこへ行って来たとも誰も尋ねない。
 領事がそれとなく警察で聞いて見たのだそうだが、実際停車場へは誰も僕を迎いには出なかったとのことだ。もっとも、ちょうどその汽車の中で大きな泥棒があって、そのために大ぶごたごたしてはいたそうだが、それが僕を迎いに出なかった理由になろうとも思われない。そして、到着早々僕は警察に出頭しなければならない筈なのだそうだが、それもわざわざ領事が行っていろいろと話しして来たのだから、この上出頭するにも及ぶまいという領事の話だった。
 こうなると、僕は裁判所下のグラン・サロンでの、色男等の話を思いださない訳には行かなかった。特別に大ぶ厳重だった僕の追放が、人なみのいい加減なものになったのだ。そう言えば、いつか、ル・リベルテエル社へ来た、ハンガリイの同志なども、追放になったとは言うものの、僕がその近所にいた四、五日はまだ呑気にぶらぶらしていた。また、弁護士も、判決のあったあとで、「それじゃまた……」とか何とか呑気なことを言って、出て行ってしまった。
 これが普通なのだとなれば、何も「即刻」なぞという言葉を真に受けて、あわてて出て行くこともない。いったんは、もう帰されたっていい、とも思い、またそう思ったので演説なんぞをやっても見たのだが、こうなるとまた未練が出て来る。
「うちからか、パリからか、どっちかから金の来次第、一つ逃げだしてやろうか。そしてこんどは、まったくの不合法イルレガルで、勝手に飛び廻ってやろうか。パリへも帰ろう。ドイツへも行こう。イタリアへも行こう。その他、行けるだけ行って見よう。」
 僕はこう考えて、一晩ゆっくりとその計画に耽った。と言っても、別に面倒なことはない。かつてもそれを考えて、その方法をいろいろときめたことまでもあるのだ。要するに、少々の金さえあれば、らくに行けることなのだ。
 僕はほとんどそうきめて、それからは毎日、半日か一日がかりのちょっとした遠出を試みて、警戒のあるなしをさらにたしかめようとした。
 警戒はたしかにない。そして僕はマルセイユのある同志を訪ねて、そっとその相談をした。方法はたしかにある。
 これなら、金のつき次第だと思っているところへ、僕がまだ捕まらない前にうちから寄越した手紙が、ある方法で僕の手にはいった。それで見ると、どうしても急に帰らなければならないような、いろんな事情だ。で、仕方がない、おとなしく帰ろう、と残念ながらまたきめ直した。

 いよいよ船の出る前々日、次のような借用証一枚に代えて、横浜までの二等切符を一枚、領事から受取った。

上一页  [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]  ...  下一页 >>  尾页




打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口