三
実際いやになっちゃった。 四月一日の大会はまたまた延期となって、こんどは八月という大体の見当ではあるが、それもはたしてやれるかどうか分らない。ドイツの同志からは、とてもベルリンでは不可能だ、と言って来ている。するとヨーロッパのどこに、その可能性のあるところがあるんだろう。ウィーンという一説もあるが、それもどうやらあぶないらしい。 愚図愚図している間に、金はなくなる。風をひいて、おまけに売薬のために腹をこわす。無一文のまま、一週間ばかり断食して、寝て暮した。 ようやく起きれるようになって思いがけなく家から金が来たと思うと、こんどはまた例の日参だ。あした、あさってと言われるのにも飽きて、少々理窟を並べると、フランス人の癖の両方の肩を少しあげて、「俺あそんなことは何にも知らねえ」と言ったまま相手にならない。その肩のあげかたと、にやにやした笑顔の癪に触るったらない。行くたびにむしゃくしゃしながら帰って来る。 春にはなる。街路樹のマロニエやプラタナスが日一日と新芽を出して来る。僕は郊外の小高い丘の上にいたのだが、フランスの新緑には、日本のそれのようには黒ずんだ色がまじっていない。ただ薄い青々とした色だけだ。その間に、梨子だの桜だののいろんな白や赤の花が点せつする。そして、それを透かして、向うの家々の壁や屋根の、オランジュ・ルウジュ色が映える。それは、ほんとうに浮々とした、明るい、少しいやになるくらいに軽い、いい景色だ。が、その景色も少しも僕の心を浮き立たせない。 それに、よくもよくも雨が続いて降りやがった。 もうメーデー近くになった。僕はほとんどドイツ行きをあきらめた。そしてひそかにまたパリへ出かけようと決心した。パリのメーデーの実況も見たかった。もう一カ月ばかり続けているミディネット(裁縫女工)の大罷工も見たかった。ついでに今まで遠慮していたあちこちの集会へも顔を出して見たかった。いろんな研究材料も集めて見たかった。また新装をこらしたパリの街路樹の景色も見たかった。女の顔も見たかった。
四月二十八日の夜、僕はリヨンの同志のただ一人にだけ暇乞してひそかにまたパリにはいった。そしてル・リベルテエル社のコロメルを訪ねて、メーデーの当日、セン・ドニの集会でまた会おうということになった。 メーデーの屋外集会や示威行列は許されてなかった。労働者のプログラムの中にもそれはなかった。共産党の政治屋どもや、C・G・T・Uの首領どもは、警官隊との衝突を恐れて、できるだけの事勿れ主義を執ったのだ。さればその屋内集会も、パリの市内ではわずかにC・G・T・Uの本部の集会一つくらいのもので、その他はみな郊外の労働者町で催された。イタリアの同志サッコとヴァンセッティとがアメリカで死刑に処せられようとするのに対する、アメリカ大使館への示威運動ですらも、共産党はむりやりにそれを遠い郊外へ持って行ったのだった。 セン・ドニはパリの北郊の鉄工町だ。そしてそこの労働者はもっとも革命的であり、そこの集会はもっとも盛大だろうと予期されていた。コロメルはそこでフランス無政府主義同盟を代表して演説する筈だった。 メーデーの朝早く僕は市内の様子を見に出かけた。が、パリはいつものパリとほとんど何の変りもなかった。ただ多少淋しく思われたのは、タクシーが一台も通らなかったくらいのことだ。店はみな開いている。電車も通っていた。地下鉄道も通っていた。 そしてその電車の中は多少着飾った労働者の夫婦者や子供連れで満員だった。僕はこれらの労働者の家族が郊外の集会に出かけるのだとはどうしても考えられなかった。 「おい、きょうはメーデーじゃないか、お揃いでどこへ行くんだい。」 僕はすぐそばに立っている男に話しなれた労働者言葉で尋ねた。 「ああ、そのメーデーのお蔭で休みだからねえ。うちじゅうで一日郊外へ遊びに行くんさ。」 その男はあまり綺麗でもない妻君の腰のあたりに左の手を廻しながら呑気そうに答えた。そしてその右の手にはサンドウィッチや葡萄酒のはいった籠がぶら下っていた。 僕はその男の横っ面を一つ殴ってやりたいほどに拳が固まった。 あちこちの壁にはられてあるC・G・T・Uのメーデーのびらは、みなはがれたり破られたりしていた。そしてそのそばには「メーデーに参加するものはドイツのスパイだ」というような意味のC・G・T(旧い労働総同盟)のびらが独り威張っていた。
セン・ドニの労働会館は、開会の午後三時頃から、八百人余りの労働者ではち切れそうになっていた。 演説が始まった。予定の弁士が相続いて出た。ルール占領反対、戦争反対、大戦当時の政治犯大赦、労働者の協同戦線、というような当日の標語が、いやにおさまり返った雄弁で長々と説明された。聴衆の拍手は段々減って来る。大きな口のあくびが見える。ぞろぞろと出て行くものすらある。 時々聴衆の中から、「もういい加減に演説をよしてそとへ出ろ」という叫び声が聞える。会の始まる前に『ル・リベルテエル』や『ラ・ルヴィユ・アナルシスト』(無政府主義評論)なぞを会場で売り歩いていた連中だ。が、それに応ずる声も出ない。そして演壇の上からはしきりにその叫び声を制している。 僕はコロメルの演説がすんだら、一緒にどこかへ行って、ある打ち合せをする筈だった。が、そんな打ち合せはもうどうでもいいような気になった。そしてこの「外へ出ろ」の叫びを演壇の上から叫びたくなった。 いよいよコロメルの順番になった。僕はコロメルを呼んで、君の後でちょっと一とこと喋舌りたいんだが、と耳打ちした。コロメルはそれを司会者のたぶん共産党の何とかいう男に通じた。司会者は僕のそばへ来て、何を喋舌りたいのかと聞いた。共産党や無政府党が共同で何かやる時には、いつもその時の標語についてだけ演説する約束のあることは知っていた。で、僕はただ、日本のメーデーについて話したい、と答えた。コロメルは僕を日本のサンジカリストだと紹介しただけなので、司会者は僕の名も何にも知らなかったのだ。 コロメルの演説の間、僕は草稿をつくっていた。そしてその演説の終り頃に演壇の上の弁士席についた。コロメルがルール占領の張本人である王党の一首領を暗殺した若い女の無政府主義者ジェルメン・ベルトンの名をあげて何か言った時、演壇近くにいた四十ばかりの一人の女工らしいのが涙を流し流し、泣き声で「セエサ、セエサ」(そうです、そうです)と叫んでいた。 僕は司会者に言った通り、日本のメーデーについて話した。 「日本のメーデーはまだその歴史が浅い。それに参加する労働者の数もまだ少ない。しかし日本の労働者はメーデーの何たるかはよく知っている。」 「日本のメーデーは郊外では行われない。市の中心で行われる。それもホールの中でではない。雄弁でではない。公園や広場や街頭での示威運動でだ。」 「日本のメーデーはお祭り日ではない。(五字削除)。(二十八字削除)。」 「(八字削除)飛ぶ。(七字削除)光る。」 僕の多少誇張したこの「日本のメーデー」は、わずか二、三十分ながら、とにかく無事で終った。そしてさっきの四十女が時々「セエサ、セエサ」と叫んでいるのが目にも耳にもはいった。
そして僕は演壇を下って、「そとへ出ろ、そとへ出ろ」という叫び声を聞きながら、一人でそとへ出ようとしたところへ、四、五人の私服がぞろぞろとやって来て、「ちょっと来い」と来た。
四
警察はすぐ近くだ。僕は手どり足どり難なく引っぱって行かれた。 やがて警察の前で大勢のインタナショナルの歌が聞えた。叫喚の声が聞えた。警察の中庭に潜んでいた無数の警官が飛びだした。僕は警察の奥深くへ連れこまれた。 (これは後で聞いた話だが、会場の中の十数名の女連が先頭になって、ただ日本の同志だというだけで名も何にも分らない僕を奪い返しに来たのだそうだ。そして警察の前で大格闘が始まって、女連はさんざん蹴られたり打たれたりして、その結果百人ばかりの労働者が拘引されたのだそうだ。警察の中ででもなぐったり蹴ったり、怒鳴りわめいたりする声が聞えた。) 僕は国籍も名も何にも言わなかった。旅券も身元証明書も、そんな書類は何にも持っていないと言いはった。その他の取調べに対してはほとんど何にも答えなかった。 が、やがてそこへコロメルがはいって来た。僕を貰いに来たのだ。そして僕に旅券通りの名を言うようにと勧めて行った。そのあとへまた、司会者の男が二、三名の連れと一緒にやって来た。そしてやはりまた同じようなことを勧めた。要するに何でもないことなんだから、名さえ言えば帰されると言うのだ。 僕はちょっとのすきを窺って、ポケットの中の手帳を司会者の手に握らした。それは一度警官の手に取りあげられたんだが、司会者等のはいって来たどさくさまぎれにまた取り返して置いたのだった。が、また取調べが始まった時、一人の私服がその手帳のないのに気がついた。そして僕を責めた。僕は知らないと頑ばった。すると、もう一人の私服が、それじゃきっとさっきのムッシュ何とか(司会者の名だ)に渡したんだろうから、行って取って来ようと言いだした。 「なあに、もう持っているもんか。誰かほかの人間に渡しちゃったよ。」 最初の私服がそう言ってあきらめているらしいのに、もう一人の奴は「でも」とか何とか言って出て行った。そしてやがてそれを本当に持って帰って来た。最初の私服は大喜びでそのページをめくり始めた。 それを一枚一枚よく調べて行けば、どこかに僕の偽名が出て来るのだ。少なくとも、何かの際の覚えにと思って書きつけて置いた、カルト・ディダンティテの中の出たらめ、たとえば僕の両親の名や年齢なぞが出て来るのだ。それでなくとも、それからそれへの手づるはいくらでも出て来よう。僕は警察へ引っぱりこまれるとすぐ、水を飲ましてくれと言ってうんと飲んだ上に、さらに小便が出ると言って便所へ行って、まず第一にそれを破り棄てようと思ったのだった。が、その中にはいっている名刺や紙きれを破っている間に巡査に来られて、それを果すことができなかった。 仕方がない。まだ少し早すぎるようだが、とにかくみんなの勧めに任して、偽名通りの名を言ってしまおう。僕はそうきめて、某国の某というものだと答えた。そして旅券や身元証明書は、ドイツ行きの許可証を貰うためにリヨンの警察本部にあずけてあると事実ありのままを言った。職業は新聞記者だ。主義はサンジカリズムだ。なぜ日本人だと紹介さしたと言うから、日本には長くいてその事情にも詳しいし、日本の話をするには日本人だと言った方が効果が多かろうと思ったからだと答えた。 それで、リヨンの警察へ問い合せられてその実際が分り、本当になんでもなくって放免されるならそれもよし、そうでなくってこの上何とかされるならそれももう仕方がないと思った。
一応取調べは終った。もう、とうに夜になっていた。 一人の私服がちょっと室のそとへ出たかと思うと、すぐ四、五人の荒らくれ男の制服がやって来て、いきなり僕の両手を鎖でゆわいつけて、引っぱり出した。 「いよいよ監房かな。」 と思っていると玄関の方へ連れて行かれて、そこには一台の大きな荷物自動車と十人ばかりの巡査とが待っていた。そして、しゃにむに僕をその箱の中に押しあげて、十幾人かの巡査どもが続いて乗りあがるとすぐ自動車は走り出した。 高い屋根のある大きな箱だ。中は真暗だ。僕は両手をゆわえられ、両腕や肩を握られながら、その片すみにあぐらをかいていた。 折々奴等の吸う煙草のあかりで、奴等の顔が見える。どうもヨーロッパ人くさくない面つきの奴が多い。あるいはアフリカあたりの植民地の蛮民か、それとも植民地の兵隊との相の子か、と思われるような奴等だ。奴等はみな今どこかで喧嘩でもして来たような、ひどく昂奮した勢いでいた。そして何だか訳の分らない言葉でキャッキャッと怒鳴っていた。 やがて、僕の一方の肩をつかまえていた奴が、熊のような唸り声を出して、僕の肩をこづき始めた。僕は形勢不穏と見てとって眼鏡をはずしてポケットに入れた。すると、僕のすぐ前にいた奴が、狐のような声を出しながら、僕の顔をげんこで突っつき始めた。そして、 「この野郎、殺しちゃうぞ」とか、 「支那人のくせにしやがって」とか、 「ドイツ人に買われやがったな」とか言う。 多少はっきりしたフランス語のほかに、何のこととも分らないあるいは熊のような、あるいは猿のような、あるいは狐のような、いろんな唸り声や鳴き声が、僕の上に浴せかけられた。 中には、サックの中からピストルを出して、それで僕の額を突くやら、剣を抜いて頭をなぐる奴まで出て来た。 しかし行くさきはつい近くだったものと見えて、自動車はすぐにとまった。そして奴等は半分は前から僕を引きずりおろしながら、そして半分はうしろから僕をなぐるやら蹴るやらして、ある建物の中に押しこんだ。そこは同じセン・ドニの、ただ南北の区の違う、別な警察だった。そして入口のすぐ奥の広い室にはいると、そいつらが一どきに僕に飛びかかって来て、ネクタイやカラーやバンドや靴ひもを引きちぎって、そのまた奥の監房の中へ押しこんでしまった。 僕はそのままぐっすりと寝た。 翌日は朝早く二人の私服に護送されて、こんどは普通の自動車で警視庁へ行った。 一日またきのうと同じようなことの取調べだ。そして僕が前にパリにいた時の宿屋をいつまでも頑ばって言わなかったら、四、五人で一緒に自動車に乗っけて、どこへ行くのかと思ったら、一々僕のもといた宿へ寄って、そこの主人やお神に顔をたしかめさせた。みんなもう知っていやがったんだ。 そして帰って来ると、外事課の大きな室のそばに一室を構えている、たぶん課長だろうと思う、警視が、 「君は大杉栄と言うんだろう。」 と図星をさしやがった。そこまで分っているんなら、もう面倒臭い、何もかも言ってしまえときめた。 その警視が何かの用でちょっとほかへ行っている間に、さっき自動車で一緒に行った私服の一人が、 「日本でも、うんとメーデーをやったようだから安心したまえ。」 と言いながら、共産党の日刊新聞『ユマニテ』のある小さな一部分を指さして見せた。「数十名の負傷者あり」というような文句がちらりと見えた。また、サン・ドニの僕のことに関する一段あまりの記事も見えた。 それにはもとより僕の本名は出していなかった。それがどうして分ったのかよく分らなかったが、あとで聞くと、日本の大使館からあるいは僕じゃあるまいかというので誰かやって来たのだそうだ。そしてその前か後か知らないが、内務省の役人一人と兵庫県の役人一人と都合二人で、僕を探しにパリに来ていたのだそうだ。 その私服は、まだ若い男だったが、その前後にもよくいろいろ親切にしてくれた。そこへ来る途中で買った煙草がもうなくなって困っていると、フランス出来のいやな煙草ではあるが、自分の持っているのを箱のままくれたりもした。また、あとでスペインの国境に向けて追放されようとした時にも、マドリッドよりもバルセロナの方に君等の仲間は多いんだからと言って、わざわざ地図や時間表などを探して来て、そこへ行く道筋や時間を教えてくれたりもした。 が、その男のほかにもう二、三人代る代る僕のそばへ来て番をしている私服がいたが、そいつらの一人は実にいやな奴だった。 「おい、わざわざリヨンから出て来て演説したんだから、大ぶ貰ったろう。」 というようなことを、たぶん戦争で受けた傷だろうと思う口のそばの大きな傷あとを妙に下卑て動かしながら、その口さきをすぐ僕の顔近くまで持って来て尋ねて見たり、また、 「おい、これはドイツで買ったんだろう。」 と言いながら、僕がシンガポールで買って来たしかもイギリスのセフィルド製のマークのついているナイフを取りあげて、いつまでもそう頑ばっていたりした。そしてこれもドイツで買ったのだと言って、それと同じようなのを出して見せたりした。それがその証拠だと言うんだ。そして僕はドイツ政府から金を貰ってフランスの労働者を煽動しに来たのだと言うんだ。 その他あんまりうるさい馬鹿なことばかりを言いやがるんで、お前のような奴とは話はごめんだ、あっちへ行ってくれ、と言ったら、大きな握拳を僕の顔の前に突きだして、 「このボッシュ(ドイツ人)の野郎!」 と怒鳴っておどかしやがった。 「うん、なぐるならなぐって見ろ。」 僕も少々癪にさわったんで、そう言って身構えしたが、さっきの私服がやって来てそいつをほかの室へ連れだした。 本名をあかしたあとの取調べはごく簡単に済んだ。そして僕は一人の私服に連れられて、ほかの建物の中の五階か六階かの上の方へ連れて行かれた。そこで裸になって、身体検査を受けて、写真をとられるのだ。 日本の警視庁では身長や体重を計って指紋をとるくらいのことだが、フランスではさすがもっと科学的に、頭蓋の大きさや長さを人類学的に調べた。そして指を延ばした手と前腕との長さまでも計った。写真も、横向きになって椅子に坐るとその椅子が自然に廻転して、正面に向くまでの間の全瞬間を活動的にとる仕掛になっていた。 それが済むと、また別な建物の予審廷へちょっと行って、判事のごく簡単な取調べのあとで、またもとの建物の下の監房へ連れて行かれた。持物はみんな取りあげられたが、ただ煙草とマッチだけは持たしてくれた。 僕はこの二つのことに感心しながら、すぐベッドの上に横になって煙草をふかしているうちにいつの間にか眠ってしまった。 大ぶ疲れてもいたんだろうが、警察や警視庁の留置場へぶちこまれた時にはすぐ横になって寝てしまうのが、僕の長年の習慣になっていたのだ。
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