林檎の始まり
「ピート一等兵。エンジンをとめろ。そしてこっちへ下りてこい」 と、パイ軍曹は、鼻の下に、鉛筆ですじをひいたような細いひげを、ぴくりとうごかして、さけんだ。 「さあ」 大男のピート一等兵は、地底戦車のエンジンをぴたりととめ、よっこらさと、座席から下りてきた。 「軍曹どの。もう、自分に対し、勲章でも、下さるのですか」 「ばかをいえ。もし、このままうまく地上にでられることがあったら、お前を銃殺するよう、上官に申請してやる」 「じょ、冗談を……」 「いや、ほんとだ。貴様は、じつに、けしからん奴だぞ。この地底戦車内において、指揮官たるおれの眼をごま化し、貴重なる食料品を無断で食べてしまうなどということが、許せると思うか」 「はあ、――」 ピート一等兵は、眼を白黒している。さては、パイ軍曹、自分が林檎をしっけいしたことを感づいたな。 「軍曹どの。自分は、幽霊の林檎なんか、たべないであります」 そんなことが知れたら、たいへんである。ほんとに、銃殺されるかもしれない。食い物のうらみというのは、おそろしいから……。 「なにィ。まだ白を切っているか。よォし、では、さっきの林檎は、食べないことにしておこう」 パイ軍曹は、眼をぎょろりと光らせ、にやりと笑い、 「気をつけ!」 ピート一等兵は、気をつけをする。 「一歩前へ! 口を大きくひらけ!」 「ええッ」 仕方がない。ピート一等兵は、天井の方をむいて、口を大きくひらいた。 「こら、もっと下を向いて、口をあけろ」 「下へ向けないであります。さっきから首の骨が、どうかなったのであります。幽霊のことを、あまり心配したせいであろうと思います」 「つべこべ、喋るな。命令どおりすればよいのだ。――もっと下へむけ。それから、号令とともに、大きく、息をはきだせ。さあ、はじめる。お一イ」 ピート一等兵は、泣きだしそうな顔をしている。 「はあッ」 と、申しわけみたいに、小さい息をはく。 「こら、そんな息のつき方では、だめだ。まるで、お姫様が吐息をついているようじゃないか。もっと大きく息を、はきだせ。こういう風に。お一イ、はあ 二イッ、息をはあ」 軍曹は、いじわるい笑いをうかべて、ピート一等兵のよわっている顔をみあげた。 「軍曹どの。もう、たくさんであります。あれは、自分のしらないうちに、林檎が胃袋の中へ、とびこんだのであります」 大男のピート一等兵が、べそをかいているところは、なかなかおもしろい。 軍曹は、やっと、思いのとおりにいって、気がせいせいした。 「そうか、無断でそういうことをやったことに対しては、いずれあとで処罰する」 と、パイ軍曹は、そり身になって、 「ところで、おれは、もう一つ、こういうものを持っているんだ」 と、かくしていた林檎を、ピートの眼の前に、ぬっとだした。 「やッ! まだ、あったのですか」 ピートは、おどろきのこえをあげた。そして、彼は林檎の方へ、手をのばした。軍曹は、すばやく林檎をひっこめると、その手を、いやというほど殴りとばした。
意外な声
「軍曹どのは、その林檎を、ひとりで、召しあがるつもりなんでしょう」 「そうだ。さっきの林檎は、お前がくってしまった。こんどは、おれに食べる権利があるのだ」 「半分ください」 「いや、やるものか」 そんなことをいっているうちに、パイ軍曹の胃袋が、もう待ちきれなくなってしまった。この、どこからでてきたか、わけのわからない幽霊林檎の素性をしらべることの方が、先にかたづけなければならないことだったが、こうして手にもち、いい匂いをかぎ、うつくしい林檎のはだをみていると、そんなことは、もう、後まわしだ。はやくがぶりと喰いつかないでは、いられなくなった。 パイ軍曹は、目をつぶり、大きな口をひらき、林檎をがぶりとやろうとした。これをみていたピート一等兵も、もう、たまらなくなった。 「あ、軍曹どの。お待ちなさい」 「なんだ、なぜ、とめる」 「その林檎は、どうも、たいへんあやしいですよ。さっき、自分がたべたとき、へんな味だと思いましたが、ああ、あいた、あいた、あいたたたッ」 ピート一等兵は、とつぜん顔をしかめ、自分の腹をおさえて、くるしみだした。 「おい、どうしたピート。しっかりしろ」 「あ、あいた、ああいたい。軍曹どの、その林檎を食べてはいけません。その林檎の中には、毒が入っています。うわーッ、いたい」 ピート一等兵が、しきりにくるしがるので、パイ軍曹は、心配になった。 「毒がはいっているって? ほんとかなあ」 「ほんとです。毒のある林檎であります。軍曹どの、自分はもうさっきの林檎の毒にあたってとても助かりません。ですから、そのついでに、軍曹どののもっておられる林檎も、自分が食べてしまいましょう。そうでないと、自分が死んだのち、軍曹どのが、この林檎を召し上るようなことになると、軍曹どのもまた一命を……」 「だまれ、ピート一等兵。貴様は、林檎がほしいものだから、そんなうそをついているんだな。ふふん、その手には、のるものか。これをみろ!」 というが早いか、パイ軍曹は、もっていた林檎に、がぶりとかぶりついた。 「あっ、軍曹どの、それはひどい」 ピート一等兵は、パイ軍曹に、とびついた。軍曹は、林檎をとられまいとする。そうして二人は、組みあったまま、床にどうと転がってしまった。たった一つの林檎のことで、地底戦車の中に、しばらく格闘がつづいた。まことにあさましいことだったが、二人の空腹は、それほど、もうたえられなくなっていたのだ。 上になり下になり、二人が組みうちをしているうちに、かんじんの林檎が、軍曹の手をはなれて、ころころと床のうえに転がった。 「あっ、しまった」 パイ軍曹は、手をのばして、それをおさえようとする。ピート一等兵は、そうさせまいとする。二人の身体は、からみあって、林檎のあとを追う。いつしか二人は、戦車の隅っこに、しきりに頭をぶちつけあっていた。 「こら、手を出すな」 「いや、自分も食べたいのです」 二人の争いは、いつおわるとも、わからなく見えたが、そのとき、何者ともしれず、二人の方に向って、大ごえで、よびかけたものがあった。 「お二人とも、手をあげてもらいましょう。手をあげなきゃ、この機関銃の引金を引きますよ」 おもいがけない人間のこえだ。 (あっ、あの幽霊か?) 二人は、とたんに顔の色をうしない、こえのしたうしろをふりかえってみると……。
安全条件
「まあまあ、そんなこわい顔をしないで、おとなしくしてください。お二人とも、僕に反抗しなければ、べつだん、この機関銃の引金を引こうとも思いませんよ」 どこからあらわれたのか、二人のうしろに立っているのは、顔の黄いろい若い東洋人だった。 「貴様、どこの何奴か」 「僕の顔をみれば、大よそ見当はつくでしょうがな」 と、かの若い東洋人は、なおもゆだんなく、機関銃の銃口を、パイ軍曹と、ピート一等兵の方へ向けながら、 「僕の名前ですか。これをお二人さんは、ききたいとおっしゃるのですか。さあ、何といったら、一等わかりやすいでしょうね。そうですなあ、まあ、僕の名前は、黄いろい幽霊といっておきましょう」 二人は、幽霊ということばを聞くと、ぞっとして、首をちぢめた。 「黄いろい幽霊が、こんな戦車の中に、なに用があるのか」 パイ軍曹は、やっと、これだけのこえを出した。 「用事は、いろいろありますがね、まず第一は、お二人さんが召し上った林檎の代金を、こっちへもらいたいのですよ」 「林檎の代金、すると、あの林檎は、君の……」 「そうです。僕が持ってきた林檎です。さあ金を払ってくれますか。おやすくしておきますよ」 黄いろい幽霊は、くそおちつきにおちついている。 「金なんか、ない。たとい、あっても誰が払うものか」 パイ軍曹が、断然いいきると、黄いろい幽霊のもっている機関銃の銃口が、パイ軍曹の鼻さきへ、ぬーっと、のびてきた。 「お払いになった方が、おためですよ。お金がなければ、他の品物でもよろしゅうございますが……。ぐずぐずしないでください。では、只今、いただきに、うかがいましょう」 黄いろい幽霊は、パイ軍曹とピート一等兵のそばへ、そろそろと、よってきた。二人は、びっくりして、後じさりした。 「おうごきに、ならないように、引金をひけば、なにもかも、それまでですよ。よろしゅうございますか」 機関銃の引金をひかれては、たまらない。二人は、もううごくことをあきらめ、黄いろい幽霊の、するがままに、まかせた。 黄いろい幽霊は、二人のうしろへまわって、ポケットの中をさぐった。お金をとられるか、時計でも持っていくのかと思ったのに、黄いろい幽霊は、そんなものはとらないで、二人のポケットから、大型のナイフをぬきだした。それから、パイ軍曹が腰におびていたピストルも、うばってしまった。 「さあ、もう、ようござんすよ。手をおろしてください。からだをうごかしても、かまいません」 黄いろい幽霊は、満足そうにいった。 パイ軍曹は、面をふくらませながら、 「君は一体、何者だ。幽霊じゃないだろう」 と、かすれたこえでいった。 「幽霊という名は、あなたがたが、僕につけてくだすったんですよ。あなたがたは、僕が床にころがした林檎を拾って、たべてしまったじゃありませんか」 「ああ、あの林檎は、君の林檎だったのか。なぜ、林檎をもって、こんなところへ入っていたのか」 「それは、あなたがたが、どうでも勝手に考えてください」 と、黄いろい幽霊は答えない。 「じゃあ、もう用がすんだのだろうから、君は、戦車から出ていってくれ」 「あははは。パイ軍曹あなたは、もうこの戦車の中では、命令権がないのですよ。これからは、僕が命令しますからねえ」 黄いろい幽霊は、からからと笑うのだった。
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