脳みそだ!
ピート一等兵は、しばらく、ひきつづき、呻った。 「うーん。ああッ」 それから、またしばらくして、 「ううーん、ああッ」 こんな風に、五、六回やっているうちに、彼の鼻が、小犬のそれのように、くんくんと鳴りだした。 「ああッ、ああッ、あーあ。はて、おれは、さっきまで、一体なにしていたのかなあ。おや、これは妙だ。へんな匂いがする」 ピート一等兵は、鼻をくんくん鳴らしつづけた、鼻から先に、われにかえったピート一等兵だった。 「やっぱり、そうだ。このうまそうな匂いは、林檎の匂いだ。おれは、林檎畑に迷いこんだのかなあ。くんくんくん」 しばらくすると、彼は、ふと気がついて、両眼をひらいた。が、まっくらであった。 「おや、まっくらだ。はて、おれは、こんなにまっくらな林檎畑があることを、きいたことがないぞ」 そのうちに、彼は、しくしく泣きだした。 「うん、わかったわかった。ここは、冥途なんだ。死後の世界なんだ。だから、こんなに、まっくらなんだ。かねて冥途は、くらいところだときいたが、林檎畑まで、まっくらだとは、おどろいたもんだ。しかし、はてな、おれはなぜ、死んでしまったのかな」 彼は、うでぐみをして、考えだした――つもりであった。それはそんな気がしたばかりで、ほんとは、うでぐみもなんにもしないで、やはり死人同様、長くなってのびていたのだ。 「そうだ、おもいだしたぞ。地底戦車が、ぐらっと横にかたむいたんだ。それで、おれはおどろいて、ハンドルに、しがみついたはずだ。すると、とたんにからだがすーっとぬけだして、いやというほど、ごつんと、あたまをぶっつけてしまった。それっきり、気をうしなってしまったのだ。致命傷は、あたまだったはず……」 そのとき、ピート一等兵の手は、ようやくうごきだすようになった。彼は、右手をのばしておそるおそる、じぶんのあたまにもっていった。 ぐしゃり! ぐしゃりとしたものが、指の先にふれた。 「あっ、いけねえ。脳みそに、さわっちゃった。おれのあたまは、頭蓋骨がこわれて、ぐしゃぐしゃになっているぞ。あ、あさましや……」 ピート一等兵は、いきなり赤ん坊のようにわあわあ泣きだした。泣きながら、彼は、脳みそで、べとべとになったじぶんの手を、鼻さきにもっていった。とたんに、非常なおどろきにあって、泣きやんだ。 「あら、あやしやな。おれの脳みそは、林檎の匂いがするぞォ!」
ああ十五個!
「いや、これで、よく分ったよ」 彼ピート一等兵は、あんがい、おちついたこえで、ひとりごとをいった。 「むかしから、しんるいの奴や友だちがおれをつかまえて、お前は、どうも脳がどうかしていて、あたまが、はたらかない。お前の脳みそは、どうかしているんじゃないかと、よくいわれたもんだが――」 と、そこで彼は、大きなため息をついて、 「でも、まさか、おれの脳みそが、林檎でできているとは、気がつかなかったね」 もし、そばで、パイ軍曹が、ピート一等兵のひとりごとをきいていたとしたら、彼は軍曹から、耳ががーんとするほど、叱りとばされたことであろう。いまパイ軍曹は、叱りとばすどころではなく、人事不省におちいっていたのは、ピート一等兵のため、はなはだ幸運であった。 「おれは、へそのおを切ってから、こんなにおどろいたことは、はじめてだぞ。しかし、このように脳みそが、はみだしてしまっては、おどろいたって、もうおそい。えい、しようがない。こうなれば、やけくそだ。じぶんの脳みそを、なめちまえ」 ひどい奴があったものである。ピート一等兵は、指さきについたものを、口のところへもっていって、舌でぺろぺろなめはじめた。 「やあ、こりゃうまい。いやあ、すてきに、うまいぞ。おれの脳みそは、まるで、おしつぶされた林檎みたいだ」 といったが、林檎の味がするのも道理である。ピート一等兵は、林檎の袋の中に、頭をつっこんでいたのである。彼は、じぶんの脳みそとばかりおもって、じつは、じぶんのあたまの下におしつぶした林檎を、指さきにとって、一生けんめい、うまいうまいと、なめていたのである。そのことは、やがて彼も、気がついた。なぜならば、指をなめたあとで、手をあたまのところへもっていくうちに、まだつぶれない林檎に手がふれた。 「おやッ、こんなところに、おれの脳みその塊が、落っこってらあ」 脳みその塊ではない。ほんものの林檎であった。彼はもうその区別などは、どうでもよかった。彼は、やたらに、林檎を喰った。つぎからつぎへと、手をのばして、林檎を、丸かじりして、腹の中におさめた。 合計十五個の林檎を食べおわったときには、さすがの彼も、ほんとのことを悟っていた。これは林檎であって、脳みそではない。なぜなれば、大きな林檎が十五個もはいるような脳なんて、きいたことがないからである。そんな大きな頭の人間だったら、じぶんのあたまには、とても陸軍制式の鉄帽が、すっぽりはいるわけがない。 わけは、さっぱり分らないが、彼は、たくさんの林檎を食べたことをはっきり知った。そして、元気になった。そこで、ふらふらと立ち上った。二三歩あるいたとき、爪さきで、なにかかたいものを、けとばした。 「あ、いたッ!」 とたんに、ぱっと、車内に電灯がついた。スイッチかなんかを、けとばしたものらしい。彼はおどろいて急に明るくなった車内を見まわした。 「あ、あ、あ、あッ!」 ピート一等兵は、再度のおどろきにぶつかった。おどろくべき車内の光景! 戦車は、天井と床とが、全くあべこべになっている。 操縦席が、天井からぶら下っているかとおもえば、電灯が足許についているというさわぎだった。 それよりも、おどろいたのは、上官パイ軍曹の姿だった。彼は、天井から、塩びきの鮭のように、さかさまになってぶら下って気絶している。一方の足が操縦席にはさまり、そのまま、ぶら下っているのだ。お世辞にも、勇しい恰好だとはいえない。 ピート一等兵は、顔をむけかえて、もう一人の人物、黄いろい幽霊の居場所を、さがしもとめた。 ところが、黄いろい幽霊は、どこへいったものか、見つからない。 「おやおや幽霊め、とうとう妖怪変化の正体をあらわして、逃げてしまったかな」 そういって、ピート一等兵が、ひとりごとをいったとき、彼の足許に一本の手がころがっているのを発見した。電灯の反対でさっきは、よくみえなかったのだ。 「うあッ、こんなところに、だれが腕をおとしていったんだろう?」 といったとき、その腕が、急に、ぐーっと、うごきだした。怪また怪!
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