日本語の先生
「兄さん!」 マリ子は、扉のかげから現れいでた顔にむかって、こうよびかけた。 しかしそれは大まちがいであった。正太の顔ではなく、この『人造人間の家』の主人イワノフ博士のあから顔であった。 「あっ――」 マリ子は、びっくりして、二三歩うしろへとびのいた。 「ああ博士。兄はどこにいるのでしょうか。早くここへよんでくださいませんか」 マリ子は、博士を拝むようにして、兄にあわせてくれるようにたのんだ。 「マリ子しゃん。そんなにさわぐ、よくありましぇん」 「だって博士、兄があたくしをおいてけぼりにして、どこかへいってしまったんですもの」 「正太しゃんのことですか。正太しゃんならこの室にいますから、心配いりましぇん」 それを聞いて、マリ子は俄に元気づいた。 「えっ、兄はこの室にいるのですか。まあ――」と目をみはり、 「では、あたし、入れていただくわ」 「おっと、お待ちなさい」イワノフ博士は、太い腕をだしてマリ子をひきとめた。 「なかへ入るとあぶないです。ちょっとお待ちなさい。正太しゃん、よんであげます」 博士は室内へひきかえした。 マリ子は、こわごわ室内をのぞいた。中はたいへんうすぐらい。紫色の電灯がかすかな光をだしているだけで、どこかでしきりにじいじいじいと変な音がしていた。 「ああ、マリちゃん。待ちくたびれたのかね」 兄の声がした。どんなにか待っていたその兄の声だった。 「まあ、兄ちゃん。ずいぶん待たせるのね」 マリ子は、兄が奥から姿をあらわしたのをみると、その前にとびついた。 「だって、人造人間の研究はとてもおもしろいんだもの。マリちゃん、お前、一足さきへかえってくれない。兄さんは、もっと実験をみてから、帰るから」 「いけないわ、いけないわ」 マリ子は、それを聞くと、正太の胸にすがりついて、放そうとはしなかった。 「だって面白いんだがなあ。ねえ、マリちゃん。イワノフ博士って、すてきにえらい方だよ。人造人間をたくさんこしらえて、世界中をもっと幸福にもっと便利にしようといわれるのだよ。僕、人造人間のこしらえ方まで習ってゆきたいと思っているのだがなあ」 「いけないわ、お父さまが心配していらっしゃるわ。すぐ一しょに帰りましょうよね」 すると、そのときまで黙って二人の話をきいていたイワノフ博士が、声をかけた。 「では正太しゃん。今日はどうぞ、おかえりください。マリ子しゃん、心配しています」 「だって博士。ここを見せてくださるのは、今日かぎりなんでしょう。明日は、もう駄目で見せてくださらないのでしょう」と正太がいえば、 「では、明日一日だけ、もう一度あなたに見せます。あなたひとりで来るよろしいです」 イワノフ博士は、にこにこ顔で、それをいった。
正太の早寝
『人造人間の家』を出てのかえり道、マリ子はたいへん機嫌がわるかった。 「兄ちゃん。もう二度と、イワノフ博士のところへいっちゃ駄目よ。博士はきっと恐ろしい人だとおもうわ。兄ちゃんは、あの部屋で、博士となにをしていらしたの」 「人造人間エフ氏という骨組だけしかできていない人造人間があるんだよ。そのエフ氏に日本語を教えてやっているんだよ」 正太は、一向平気でもって、そういった。 「まあ、人造人間が日本語を覚えるなんて、ずいぶん変なことね」 「なかなかよく覚えるんだよ。僕が“ずいぶん寒いですね”というと、エフ氏もまたすぐ後から“ずいぶん寒いですね”と、おなじことをいうんだよ。そして僕の声をまねして、おなじような声で喋るんだ。あまりおかしくて、僕吹きだしちゃった」 「まあ――」 「するとエフ氏もまたそのあとで、僕がやったと同じように、ぷーっとふきだしたので、大笑いだったよ。あははは」 「まあ、変ね」 マリ子にとっては、それはおかしいというよりも、むしろ気味のわるいことであった。このときマリ子が、気味わるく感じたことはまちがいではなかったようである。なぜならば、後にこのときのことをもう一度はっきり思いださねばならぬような恐ろしい事件が起ったのであるから。正太は、マリ子のとめるのもきかないで、そののちも、あきもせずに今日一日だけはとか、もう一日だけはなどといいながら、それでも四五日もイワノフ博士のところへ通ったであろうか。 兄妹の父親も、このことをきいて心配しないでもなかったけれど、まさか後に起ったような大事件になるとは気がつかず、まあいい加減にしておいたのであった。正太が、最後にイワノフ博士を訪ねたのは兄妹がいよいよ日本へ帰るについて、汽船にのりこもうという日の前日のことであった。が、その日家中が出発の準備のため、荷造りやなにやかやでごったがえしの忙しさの中にあるのにもかかわらず、正太は夜に入って、家へ帰ってきた。そして、 「僕、今日はなんだかたいへん睡いから、先へ寝かせてもらうよ」 といって、ひとり先へ寝床へもぐりこんでしまった。
航海中の出来事
やかましい検査のあった後で、ようやく汽船ウラル丸は、ウラジオ港を出航した。 「ああ、お父さま。さよなら、さよなら」と、マリ子は舷側から、白いハンカチーフをふって埠頭まで見送りにきてくれた父親にしばしの別れを惜しむのであった。 「さよなら、さよなら」正太も声をはりあげている。 やがて、父親の姿もだんだん小さくなり、埠頭も玩具のように縮まり、ウラジオの山々だけがいつまでも煙のむこうに姿を見せていた。それでも兄妹は、まだ甲板を立ち去ろうとはしなかった。このときマリ子は、兄の正太が最後にイワノフ博士邸から帰ってきたとき、たいへん気分がわるそうだったことをふと思いだしたので、 「ねえ、兄ちゃん。あれは一体どうしたの」 と、たずねた。正太は、とつぜんの妹の問いに、はっとおどろいたようであったが、あたりを憚るように声をひそめ、 「うん、マリちゃん。あの日ばかりは、さすがの僕も後悔したよ。つまりイワノフ博士の人造人間エフ氏の実験をたいへん長いこと見せてくれたんだが、あの日は、人造人間エフ氏の身体と僕の身体との間になんだか怪しい火花をぱちぱちとばせてさ、急に目まいがして、しばらくなんだか気がぼーっとしてしまったんだよ」 「まあ、ひどいわね。イワノフ博士はまるで魔法使みたいね」 「それからどのくらいたったかしれないが、気がついてみると、僕はいつの間にか安楽椅子のうえにながながと寝ていたんだよ」 「あら、じゃ兄ちゃんは、博士からよほどひどいことをされたんだわ」 「さあ、博士からされたんだか、それとも僕と向いあっていた人造人間エフ氏からされたんだか分らないがね。とにかくそれからのちすっかり気持がわるくなって、家へ帰ってもすぐ寝床へもぐりこんじまったんだよ。お父さまには、だまっていておくれよ」 「兄ちゃんは、電気や機械の実験のことになると、すぐ夢中になるんですもの」 二人が話に気をとられている最中、この汽船ウラル丸にだんだん近づきつつある一台の飛行機があった。それはどう考えても、日本の飛行機ではなかった。 「おや、変てこな飛行機が、この汽船をねらっているぞ」 とつぜん二人の背後で、大きな声がしたので、正太とマリ子は、なにということなしにびっくりして、ふりかえった。するとそこには、いつの間に来たのか、甲板椅子のうえに、一人の老人の紳士が腰をおろしていた。その老紳士は、顔中髭だらけで髭の中から鼻と眼がのぞいているといった方がよかった。そして太い黒枠の眼鏡をかけていた。 「あっ、飛行機がなにか放りだした。おや信号旗らしい。はて、これは変てこだわい」 老紳士は、あたり憚らぬ大声でわめいた。 なるほど汽船の上空五百メートルぐらいの高度に、四枚の信号旗を下にひいた風船が、ゆらりゆらりと流れてゆく。なんの信号旗か。誰にむけ、何をしらせようとする信号旗なのであろうか。汽船ウラル丸のうえに落ちた不安な影!
老紳士のしんぱい
飛行機は、船のはるかうしろを、ぐるぐるまわっている。なにかを待っているらしい。四枚の信号旗だけが、あとにのこって、ゆっくりと下へおちてくる。 「おじさん。あの信号旗は、どういうことをしらせているの」 正太は、顔中ひげだらけの老紳士にたずねた。 「おお、なにかわけのわからぬ信号旗じゃよ」と老紳士は、いった。 「えっ、それはどういうこと」 「わけのわからぬ信号だよ。つまり暗号信号なんじゃ。あたりまえの信号でないのじゃ」 「暗号なの。暗号で、どういうことをしらせているの」 「わからん子供じゃなあ。暗号だからなにをしらせているのか、わからんのじゃ。ただわかることは、これからきっと、この船になにかたいへんなことがおこるだろうということだ」 そういっているとき、また一つ、へんなことがおこった。――老紳士のいったとおりだった。そのへんなことというのは、誰がやったのかしらないが、船のうえから海のうえにむかって、ボールのようなものがぽんぽんと二つ、なげられた。そのボールは、海のうえへおちると、どういう仕掛がしてあったのか、たちまちぱっと火がついて、たくさんの煙をむくむくとはきだした。一つのボールからは、黄いろい煙、もう一つのボールからは赤い煙が、ずんずんと波のうえにたちのぼるのであった。 「ほら、はじまった。誰か、船のなかから、へんじのかわりにあの煙をだしたのだ。いよいよこれはへんなことになったぞ」 老紳士は、ふなばたにつかまって、煙をにらみつけた。飛行機は、煙のあがるのをまっていたらしく、このとき機首をめぐらして、ずんずんもときた方にかえっていった。 「船長、船長!」 老紳士は、こんどは船長をよびだした。船長とて、このへんな事件をしらないではなかった。船員のしらせで、さっきから船橋にでて、このありさまをすべてみてしっていた。 「やあ大木さん。あなた、あまりさわがないでください。船客たちのなかには、気のよわい方もいますからね」 大木さんというのは、この老紳士の姓であった。 「だって、これがさわがずにいられますかね。だからわしは、船の出る前から、船長にあれほど注意しておいたのじゃ。たしかにこのウラル丸は、港をでるまえから、わるいやつに狙われていたんじゃ。うっかりしていると、このウラル丸は沈没してしまいますぞ」 老紳士は、目のいろをかえていた。
犯人か?
船長は、わざとおちつきをみせ、 「大したことはありません。いざといえば、軍艦がすぐたすけにきてくれますよ」 というが、大木老人はなかなかおちつけない。 「では、すぐ手はずをととのえたがいい。この船には、わしがこんな年齢になるまで汗みずたらしてはたらいて作った全財産が荷物になっているのじゃ。船が沈没してしまえば、わしの一生はおしまいじゃ。あれあれ、あの信号旗はなにごとじゃ。それから、この船から放りだした赤と黄との煙の信号は、あれはなにごとじゃ」 「あの煙のことは、私もあやしいとおもっていましらべさせています。誰が、あれを海のなかへ放りこんだか、いますぐにわかります。」 船長は、そういって、下甲板の方をちらとみた。さっき一等運転士を船内へやって、それをしらべさせているのであった。 そのとき、一等運転士の顔が、階段の下からあらわれた。そのうしろから船員の一団が、中国人のコックをつかまえて、あがってくる。 「船長。こいつです、あの煙のでるボールを海のなかへなげこんだ犯人は……」 一等運転士は、中国人のコックの張をゆびさした。 「なんだ、張か。お前は、なぜあのような煙のでるボールを海のなかへなげこんだのか」 「いえ、船長。わたし、悪いことない。わたし、なにもしらない」 張は、つよく首をふった。すると、後にいた船員が、張の背中をどんとなぐりつけ、 「こら、うそをいうな。お前がボールをなげこんだところを、おれはうしろからちゃんとみていたんだ。かくしてもだめだ」 「えっ、あなたみていた。それ、うそないか」 「お前こそ、大うそつきだ。よし、いわないなら、いえるようにしてやる」 と船員がコックの腕をむずとつかむと、張はすぐさま泣きごえをたて、 「ああ、わたし、いうあるよ、いうあるよ。あたし、ボールたしかに海へなげこんだ」 「それみろ。なぜなげこんだのか」 「それは、わたししらない。よそのひとに、ボールなげこむこと、たのまれたあるよ。わたし、お金もらった。そのお金もわたしいらない。あなたにあげる」 「だれが、お金をくれといった」船長が、このときこえをかけ、 「よし、わかった。張、お前はだれにたのまれて、煙のでるボールをなげこんだのか。どんなひとだか、それをいえ」 「それをいうと、わたし殺される」張は、がたがたふるえ出した。
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