十七
「話してる私も黙れば、聞いている人たちも、ぴったり静まる…… と遣手らしい三階の婆々の影が、蚊帳の前を真暗な空の高い処で見えなくなる、――とやがてだ。 二三度続け様に、水道尻居まわりの屋根近な、低い処で、鴉が啼いた。夜烏も大引けの暗夜だろう、可厭な声といったら。 すたすたとけたたましい出入りの跫音、四ツ五ツ入乱れて、駆出す……馳込むといったように、しかも、なすりつけたように、滅入って、寮の門が慌しい。 私の袂を、じっと引張って、 (あれ、照吉姉さんが亡くなるんじゃなくッて)ッて、少し震えながらお三輪が言うと、 (引潮時だねちょうど……)と溜息をしたは、油絵の額縁を拵える職人風の鉄拐な人で、中での年寄だった。 婦人の一人が、 (姉さん、姉さん、) と、お三輪を、ちょうどその時だった、呼んだのが、なぜか、気が移って、今息を引取ろうという……照吉の枕許に着いていて言うような、こう堅くなった沈んだ声だった。 (ははい、) とこれも幽にね。 浜谷ッて人だ、その婦人は、お蘭さんというのが、 (内にお婆さんはおいでですか。) と聞くじゃないか。」 「まあ、」と梅次は呼吸を引く。 民弥は静に煙管を置いて、 「お才さんだって、年じゃあるが、まだどうして、姉えで通る、……婆さんという見当では無い。皆、それに、それだと顔は知っている。 女中がわりに送迎をしている、前に、それ、柳橋の芸者だったという、……耳の遠い、ぼんやりした、何とか云う。」 「お組さん、」 「粋な年増だ、可哀相に。もう病気であんなになってはいるが……だって白髪の役じゃ無い。 (いいえ、お婆さんは居ませんの。) (そう……) と婦人が言ったっけ。附着くようにして、床の間の傍正面にね、丸窓を背負って坐っていた、二人、背後が突抜けに階子段の大きな穴だ。 その二人、もう一人のが明座ッてやっぱり婦人で、今のを聞くと、二言ばかり、二人で密々と言ったが否や、手を引張合った様子で、……もっとも暗くってよくは分らないが。そしてスーと立って、私の背後へ、足袋の白いのが颯と通って、香水の薫が消えるように、次の四畳を早足でもって、トントンと階下へ下りた。 また、皆、黙ったっけ。もっとも誰が何をして、どこに居るんだか、暗いから分らない。 しばらく、袂の重かったのは、お三輪がしっかり持ってるらしい。 急に上って来ないだろう。 (階下じゃ起きているかい。) (起きてるわ、あの、だけど、才ちゃんは照吉さんの許へちょっと行ってるかも知れなくってよ。) (何は、何だっけ。) (お組さん、……ええ、火鉢の許に居てよ。でも、もうあの通りでしょう、坐眠をしているかも分らないわ。) (三輪ちゃんか、ちょっと見てあげてくれないか、はばかりが分らないのかも知れないぜ。)と一人気を着けた。 (ええ、) てッたが、もう可恐くッて一人では立てません。 もう一ツ、袂が重くなって、 (一所に……兄さん、) と耳の許へ口をつける……頬辺が冷りとするわね、鬢の毛で。それだけ内証のつもりだろうが、あの娘だもの、皆、聞えるよ。 (ちょいと、失礼。) (奥方に言いつけますぜ。)と誰か笑った、が、それも陰気さ。」
十八
「暗い階子をすっと抜ける、と階下は電燈だ、お三輪は颯と美しい。 見ると、どうです……二階から下して来て、足の踏場も無かった、食物、道具なんか、掃いたように綺麗に片附いて、門を閉めた。節穴へ明が漏れて、古いから森のよう、下した蔀を背後にして、上框の、あの……客受けの六畳の真中処へ、二人、お太鼓の帯で行儀よく、まるで色紙へ乗ったようでね、ける、かな、と端然と坐ってると、お組が、精々気を利かしたつもりか何かで、お茶台に載っかって、ちゃんとお茶がその前へ二つ並んでいます…… お才さんは見えなかった。 ところが、お組があれだろう。男なら、骨でなり、勘でなり、そこは跋も合わせようが、何の事は無い、松葉ヶ谷の尼寺へ、振袖の若衆が二人、という、てんで見当の着かないお客に、不意に二階から下りて坐られたんだから、ヤ、妙な顔で、きょとんとして。…… 次の茶の室から、敷居際まで、擦出して、煙草盆にね、一つ火を入れたのを前に置いて、御丁寧に、もう一つ火入に火を入れている処じゃ無いか。 座蒲団は夏冬とも残らず二階、長火鉢の前の、そいつは出せず失礼と、……煙草盆を揃えて出した上へ、団扇を二本の、もうちっとそのままにしておいたら、お年玉の手拭の残ったのを、上包みのまま持って出て、別々に差出そうという様子でいる。 さあ、お三輪の顔を見ると、嬉しそうに双方を見較べて、吻と一呼吸を吐いた様子。 (才ちゃんは、) とお三輪が、調子高に、直ぐに聞くと、前へ二つばかりゆっくりと、頷き頷き、 (姉さんは、ちょいと照吉さんの様子を見に……あの、三輪ちゃん。) と戸棚へ目を遣って、手で円いものをちらりと拵えたのは、菓子鉢へ何か? の暗号。」 ああ、病気に、あわれ、耳も、声も、江戸の張さえ抜けた状は、糊を売るよりいじらしい。 「お三輪が、笑止そうに、 (はばかりへおいでなすったのよ。) お組は黙って頭を振るのさ。いいえ、と言うんだ。そうすると、成程二人は、最初からそこへ坐り込んだものらしい。 (こちらへいらっしゃいな。)とその一人が、お三輪を見て可懐しそうに声を懸ける。 (佐川さん、) と太く疲れたらしく、弱々とその一人が、もっとも夜更しのせいもあろう、髪もぱらつく、顔色も沈んでいる。 (どうしたんです。)と、ちょうど可い、その煙草盆を一つ引攫って、二人の前へ行って、中腰に、敷島を一本。さあ、こうなると、多勢の中から抜出したので、常よりは気が置けない。 (頭痛でもなさるんですか、お心持が悪かったら、蔭へ枕を出させましょうか。) (いいえ、別に……) (御無理をなすっちゃ不可ません。何だかお顔の色が悪い。) (そうですかね。)とお蘭さんが、片頬を殺ぐように手を当てる。 (ねえ、貴方、お話しましょう。) (でも……) (ですがね、) とちらちらと目くばせが閃めく、――言おうか、言うまいかッて素振だろう。 聞かずにはおかれない。 (何です、何です、) と肩を真中へ挟むようにして、私が寄る、と何か内証の事とでも思ったろう、ぼけていても、そこは育ちだ。お組が、あの娘に目で知らせて、二人とも半分閉めた障子の蔭へ。ト長火鉢のさしの向いに、結綿と円髷が、ぽっと映って、火箸が、よろよろとして、鉄瓶がぽっかり大きい。 お種さんが小さな声で、 (今、二階からいらっしゃりがけに、物干の処で、) とすこし身を窘めて、一層低く、 (何か御覧なさりはしませんか。) 私は悚然とした。」
十九
「が、わざと自若として、 (何を、どんなものです。)って聞返したけれど、……今の一言で大抵分った、婆々が居た、と言うんだろう。」 「可厭、」と梅次は色を変えた。 「大丈夫、まあ、お聞き、……というものは――内にお婆さんは居ませんか――ッて先刻お三輪に聞いたから。…… はたして、そうだ。 (何ですか、お婆さんらしい年寄が、貴下、物干から覗いていますよ。) とまた一倍滅入った声して、お蘭さんが言うのを、お種さんが取繕うように、 (気のせいかも知れません、多分そうでしょうよ……) (いいえ、確なの、佐川さん、それでね、ただ顔を出して覗くんじゃありません。梟見たように、膝を立てて、蹲んでいて、窓の敷居の上まで、物干の板から密と出たり、入ったり、) (ああ、可厭だ。) と言って、揃って二人、ぶるぶると掃消すように袖を振るんだ。 その人たちより、私の方が堪りません。で無くってさえ、蚊帳の前を伝わった形が、昼間の闇がり坂のに肖ていて堪らない処だもの、……烏は啼く……とすぐにあの、寮の門で騒いだろう。 気にしたら、どうして、突然ポンプでも打撒けたいくらいな処だ。 (いつから?……) (つい今しがたから。) (全体前にから、あの物干の窓が気になってしようがなかったんですよ。……時々、電車のですかね、電ですか、薄い蒼いのが、真暗な空へ、ぼっと映しますとね、黄色くなって、大きな森が出て、そして、五重の塔の突尖が見えるんですよ……上野でしょうか、天竺でしょうか、何にしても余程遠くで、方角が分りませんほど、私たちが見て凄かったんです。 その窓に居るんですもの。) (もっとお言いなさいよ。) (何です。) (可厭だ、私は、) (もっととは?) (貴女おっしゃいよ、) と譲合った。トお種さんが、障のお三輪にも秘したそうに、 (頭にね、何ですか、手拭のようなものを、扁たく畳んで載せているものなんです。貴下がお話しの通りなの、……佐川さん。) 私は口が利けなかった。――無暗とね、火入へ巻莨をこすり着けた。 お三輪の影が、火鉢を越して、震えながら、結綿が円髷に附着いて、耳の傍で、 (お組さん、どこのか、お婆さんは、内へ入って来なくッて?) (お婆さん……) とぼやけた声。 (大きな声をおしでないよ。) と焦ったそうにたしなめると、大きく合点々々しながら、 (来ましたよ。) ときょとんとして、仰向いて、鉄瓶を撫でて澄まして言うんだ。」 「来たの、」 と梅次が蘇生った顔になる。 「三人が入乱れて、その方へ膝を向けた。 御注進の意気込みで、お三輪も、はらりとこっちへ立って、とんと坐って、せいせい言って、 (来たんですって。ちょいと、どこの人。) と、でも、やっぱり、内証で言った。 胸から半分、障子の外へ、お組が、皆が、油へ水をさすような澄ました細面の顔を出して、 (ええ、一人お見えになりましてすよ。) (いつさ?) (今しがた、可厭な鴉が泣きましたろう……) いや、もうそれには及ばぬものはまた意地悪く聞える、と見える。 (照吉さんの様子を見に、お才はんが駆出して行きなすった、門を開放したまんまでさ。) 皆が振向いて門を見たんだ。」――
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