二十四
「子爵が屹となって、坐り直った様だっけ。 (知らんか、残酷という事を、知らなけりゃ聞かせようじゃないか、前へ出ないか、おい、こっちへ入らんか。) (行こうのう、殿、その傍へ参ろうじゃがの、そこに汚穢いものがあろうがや。早やそれが、汚穢うて汚穢うてならぬ。……退けてくされませ、殿、)と言うんだ。 (汚いもの、何がある。) (小丼に入れた、青梅の紫蘇巻じゃ。や、香もならぬ、ふっふっ。ええ、胸悪やの、先刻にから。……早く退けしゃらぬと、私も嘔吐そう、嘔吐そう、殿。) 茶うけに出ていた甘露梅の事だ。何か、女児も十二三でなければ手に掛けないという、その清浄な梅漬を、汚穢くてならぬ、嘔吐すと云う。 (吐きたければ吐け、何だ。) (二寸の蚯蚓、三寸の蛇、ぞろぞろと嘔吐すが怪しゅうないか。) 余り言種が自棄だから、 (蛇や蚯蚓は構わんが、そこらで食って来た饂飩なんか吐かれては恐縮だ。悪い酒を呷ったろう。佐川さん、そこらにあったら片附けておやんなさい。) 私は密と押遣って、お三輪と一所に婦人だちを背後へ庇って、座を開く、と幹事も退いて、私に並んで楯になる。 次の間かけて、敷居の片隅、大きな畳の穴が開いた。そこを……もくもく、鼠に茶色がかった朦朧とした形が、フッ、と出て、浮いて、通った。―― どうやら、臀から前へ、背後向きに入るらしい。 ト前へ被さった筈だけれども、琴の師匠の裸の腹はやっぱり見えた。縁側の柱の元へ、音もなく、子爵に並んだ、と見ると、……気のせいだろう、物干の窓は、ワヤワヤと気勢立って、奴が今居るあたりまで、ものの推込んだ様子がある。なぜか、向うの、その三階の蚊帳が、空へずッと高くなったように思う。 ちょうど、子爵とその婆との間に挟まる、柱に凭れた横顔が婦人に見える西洋画家は、フイと立って、真暗な座敷の隅へ姿を消した。真個に寐入っていたのでは無かったらしい。 (残酷というのはね、仮にもしろ、そんな、優しい、可憐い、――弟のために身代りになるというような、若い人の生命を「とりあげ」に来たなどという事なんだ。世の中には、随分、娑婆塞げな、死損いな、) と子爵も間近に、よくその婆々を認めたろう、……当てるように、そう言って、 (邪魔な生命もあるもんだ。そんな奴の胸に爪を立てる方がまだしもだな。) (その様な生命はの、殿、殿たちの方で言うげな、……病ほうけた牛、痩せさらぼえた馬で、私等がにも役にも立たぬ。……あわれな、というはの、膏の乗った肉じゃ、いとしいというはの、薫の良い血じゃぞや。な、殿。――此方衆、鳥を殺さしゃるに、親子の恩愛を思わっしゃるか。獣を殺しますに、兄弟の、身代りの見境があるかいの。魚も虫も同様での。親があるやら、一粒種やら、可愛いの、いとしいの、分隔てをめされますかの。 弱いものいうたら、しみしんしゃくもさしゃらず……毛をる、腹を抜く、背を刮く……串刺じゃ、ししびしおじゃ。油で煮る、火炎で焼く、活きながら鱠にも刻むげなの、やあ、殿。……餓じくばまだしもよ、栄耀ぐいの味醂蒸じゃ。 馴れれば、ものよ、何がそれを、酷いとも、いとしいとも、不便なとも思わず。――一ツでも繋げる生命を、二羽も三頭も、飽くまでめさる。また食おうとさしゃる。 誰もそれを咎めはせまい。咎めたとて聞えまい、私も言わぬ、私もそれを酷いと言わぬぞ。知らぬからじゃ、不便もいとしいも知らねばこそいの。――何と、殿、酷い事を知らぬものは、何と殿、殿たちにも結構に、重宝にあろうが、やいの、のう、殿。) (何とでも言え、対手にもならん。それでも何か、そういうものは人間か。) と吐出すように子爵が言った。」
二十五
「ト其奴が薄笑いをしたようで、 (何じゃ、や、人間らしく無いと言うか。誰が人間になろうと云うた。殿たち、人間がさほど豪いか、へ、へ、へ、) とさげすんで、 (この世のなかはの、人間ばかりのもので無い。私等が国はの、――殿、殿たちが、目の及ばぬ処、耳に聞えぬ処、心の通わぬ処、――広大な国じゃぞの。 殿たちの空を飛ぶ鳥は、私等が足の下を這廻る、水底の魚が天翔ける。……烏帽子を被った鼠、素袍を着た猿、帳面つける狐も居る、竈を炊く犬も居る、鼬が米舂く、蚯蚓が歌う、蛇が踊る、……や、面白い世界じゃというて、殿たちがものとは較べられぬ。 何――不自由とは思わねども、ただのう、殿たち、人間が無いに因って、時々来ては攫えて行く……老若男女の区別は無い。釣針にかかった勝負じゃ、緑の髪も、白髪も、顔はいろいろの木偶の坊。孫等に人形の土産じゃがの、や、殿。殿たち人間の人形は、私等が国の玩弄物じゃがの。 身代りになる美い婦なぞは、白衣を着せて雛にしょう。芋殻の柱で突立たせて、やの、数珠の玉を胸に掛けさせ、) いや、もう聞くに堪えん。 (まあ、面を取れ、真面目に話す。)と子爵が憤ったように言う。 (面、) (面だ。) 面だ、面だ、と囁く声が、そこここに、ひそひそ聞えた。眠らずにいた連中には、残らず面に見えたらしい。 成程、そう言えば、端近へ出てから、例の灯の映る、その扁平い、むくんだ、が瓜核といった顔は、蒼黄色に、すべすべと、皺が無く、艶があって、皮一重曇った硝子のように透通って、目が穴に、窪んで、掘って、眉が無い。そして、唇の色が黒い。気が着くと、ものを云う時も、奴、薄笑をする時も、さながら彫刻けたもののようで静としたッきり、口も頬もビクとも動かぬ。眉……眉はぬっぺりとして跡も無い、そして、手拭を畳んだらしいものを、額下りに、べたん、と頭へ載せているんだ。 (いや、いや、) と目鼻の動かぬ首を振って、 (除るまい、除らぬは慈悲じゃ。この中には、な、画を描き彫刻をする人もある、その美しいものは、私等が国から、遠く指す花盛じゃ、散らすは惜しいに因って、わざと除らぬぞ!……何が、気の弱い此方たちが、こうして人間の面を被っておればこそ、の、私が顔を暴露いたら、さて、一堪りものう、髯が生えた玩弄物に化ろうが。) (灯を点けよう、何しろ。) と、幹事が今は蹌踉けながら手探りで立とうとする。子爵が留めて、 (お待ちなさい。串戯も嵩じると、抜差しが出来なくなる。誰か知らんが、悪戯がちと過ぎます。面は内証で取るが可い、今の内ならちっとも分らん、電燈を点けてからは消え憎くなるだろう。) 子爵はどこまでも茶番だ、と信ずるらしい。 ……後で聞くと、中には、対方を拵えて応答をする、子爵その人が、悪戯をしているんだ、と思ったのもあったんだ。 (明るさ、暗さの差別は無いが、の、の、殿、私がしょう事、それをせねば、日が出ましても消えはせぬが。) (可、何をしに来たんだ、ここへ。……まあ、仮にそっちが言う通りのものだとすると。) (されば、さればの、殿。……) とまた落着いたように、ぐたりと胸を折った、蹲った形が挫げて見えて、 (身代りが、――その儀で、やいの、の、殿、まだ「とりあげ」が出来ぬに因って、一つな、このあたりで、間に合わせに、奪ろう!……さて、どれにしょうぞ、と思うて見入って、視め廻いていたがやいの、のう、殿。) 皆、――黙った。 (殿、ふと気紛れて出て、思懸のう懇申した験じゃ、の、殿、望ましいは婦人どもじゃ、何と上を奪ろうかの。) 婦人たちのその時の様子は、察して可かろう。」
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