十四
「坂の中途で――左側の、」 と長火鉢の猫板を圧えて言う。 「樹の根が崩れた、じとじと湿っぽい、赤土の色が蚯蚓でも団ったように見えた、そこにね。」 「ええ」 と梅次は眉を顰めた。 「大丈夫、蛇の話じゃ無い。」とこれは元気よく云って、湯呑で一口。 「人が居たのさ。ぼんやりと小さく蹲んで、ト目に着くと可厭な臭気がする、……地へ打坐ってでもいるかぐらい、ぐしゃぐしゃと挫げたように揉潰した形で、暗いから判然せん。 が、別に気にも留めないで、ずっとその傍を通抜けようとして、ものの三足ばかり下りた処だった。 (な、な、)と言う。 雪駄直しだか、唖だか、何だか分らない。……聞えたばかり。無論、私を呼んだと思わないから、構わず行こうとすると、 (なあ、)と、今度はちっとぼやけたが、大きな声で、そして、 (袴着た殿い、な、)と呼懸ける、確かに私を呼んだんだ。どこの山家のものか知らんが、変な声で、妙なものいいさ。「袴着た、」と言うのか、「墓場来た、」と言うのか、どっちにしても「殿」は気障だ。 が、確に呼留めたに相違無いから、 (俺か。) (それよ、)……と、気になる横柄な返事をして、もやもやと背伸びをして立った……らしい、頭を擡げたのか、腰を起てたのか、上下同じほどに胴中の見えたのは、いずれ大分の年紀らしい。 爺か、婆か、ちょっと見には分らなかったが、手拭だろう、頭にこう仇白いやつを畳んで載せた。それが顔に見えて、面は俯向けにしながら、杖を支いた影は映らぬ。 (殿、な、何処へな。) と、こうなんだ。 私は黙って視めたっけ。 じっと身動きもしないで、返事を待っているようだからね、 (吉原へ。) と綺麗に言ったが、さあ、以前なら、きっとそうは言わなかったろう。その空がさっぱりと晴々した心持だから、誰に憚る処も無い。おつけ晴れたのが、不思議に嬉しくもあり、また……幼い了簡だけれども、何か、自分でも立派に思った。 (真北じゃな、ああ、) とびくりと頷いて、 (火の車で行かさるか。)[#「)」は底本では「」」] 馬鹿にしている、……此奴は高利貸か、烏金を貸す爺婆だろうと思ったよ。」 と民弥は寂しそうなが莞爾した。 梅次がちっと仰向くまで、真顔で聞いて、 「まったくだわねえ。」 「いや、」 民弥は、思出したように、室の内をしながら、 「烏金……と言えば、その爺婆は、荒縄で引括って、烏の死んだのをぶら下げていたのよ。」 梅次は胸を突かれたように、 「へい、」と云って、また、浅葱のその団扇の上へ、白い指。 「堪らない。幾日経ったんだか、べろべろに毛が剥げて、羽がぶらぶらとやっと繋って、地へ摺れて下ってさ、頭なんざ爛れたようにべとべとしている、その臭気だよ。何とも言えず変に悪臭いのは、――奴の身体では無い。服装も汚くはないんだね、折目の附いたと言いたいが、それよりか、皺の無いと言った方が適い、坊さんか、尼のような、無地の、ぬべりとしたのでいた。 まあ、それは後での事。 (何の車?……)と聞返した。 (森の暗さを、真赤なものが、めいらめいら搦んで、車が飛んだでやいの。恐ろしやな、活きながら鬼が曳くさを見るかいや。のう殿。私は、これい、地板へ倒りょうとしたがいの。……うふッ、)と腮の震えたように、せせら笑ったようだっけ、――ははあ……」
十五
「今の腕車に、私が乗っていたのを知って、車夫が空で駆下りた時、足の爪を轢かれたとか何とか、因縁を着けて、端銭を強請るんであろうと思った。 しかし言種が変だから、 (何の車?)ともう一度……わざと聞返しながら振返ると、 (火の車、) と頭から、押冠せるように、いやに横柄に言って、もさりと歩行いて寄る。 なぜか、その人を咒ったような挙動が、無体に癪に障ったろう。 (何の車?)と苛々としてこちらも引返した。 (火の車。) じりじりとまた寄った。 (何の車?) (火の車、) (火の車がどうした。) とちょうど寄合わせた時、少し口惜いようにも思って、突懸って言った、が、胸を圧えた。可厭なその臭気ったら無いもの。 (私に貸さい、の、あのや、燃え搦まった車で、逢魔ヶ時に、真北へさして、くるくる舞いして行かさるは、少い身に可うないがいや、の、殿、……私に貸さい。車借りて飛ばしたい、えらく今日は足がなえたや、やれ、の、草臥れたいの、やれやれ、) と言って、握拳で腰をたたくのが、突着けて、ちょうど私の胸の処……というものは、あの、急な狭い坂を、奴は上の方に居るんだろう。その上、よく見ると、尻をこっちへ、向うむきに屈んで、何か言っている。 癩に棒打、喧嘩にもならんではないか。 (どこへ行くんだい、そして、)ッて聞いて見た。 (同じ処への、) (吉原か。) (さればい、それへ。) とこう言う。 (何しに行くんだね。) (取揚げに行く事よ。) ああ、産婆か。道理で、と私は思った。今時そんなのは無いかも知れんが、昔の産婆さんにはこんな風なのが、よくあった。何だか、薄気味の悪いような、横柄で、傲慢で、人を舐めて、一切心得た様子をする、檀那寺の坊主、巫女などと同じ様子で、頼む人から一目置かれた、また本人二目も三目も置かせる気。昨日のその時なんか、九目という応接です。 なぜか、根性曲りの、邪慳な残酷なもののように、……絵を見てもそうだろう。産婦が屏風の裡で、生死の境、恍惚と弱果てた傍に、襷がけの裾端折か何かで、ぐなりとした嬰児を引掴んで、盥の上へぶら下げた処などは、腹を断割ったと言わないばかり、意地くねの悪い姑の人相を、一人で引受けた、という風なものだっけ。 吉原へ行くと云う、彼処等じゃ、成程頼みそうな昔の産婆だ、とその時、そう思ったから、……後で蔦屋の二階で、皆に話をする時も、フッとお三輪に、(どこかお産はあるか)って聞いたんだ。 もうそう信じていた。 でも、何だか、肝が起って、じりじりしてね、おかしく自分でも自棄になって、 (貸してやろう、乗っといで。) (柔順なものじゃ、や、よう肯かしゃれたの……おおおお。)と云って臀を動かす。 変なものをね、その腰へ当てた手にぶら下げているじゃないか。――烏の死骸だ。 (何にする、そんなもの。) (禁厭にする大事なものいの、これが荷物じゃ、火の車に乗せますが、やあ、殿。) (堪らない! 臭くって、) と手巾へ唾を吐いて、 (車賃は払っておくよ。) で、フイと分れたが、さあ、踏切を越すと、今の車はどこへ行ったか、そこに待っている筈のが、まるで分らない。似たやつどころか、また近所に、一台も腕車が無かった。…… 変じゃないか。」
十六
しばらくして、 「お三輪が話した、照吉が、京都の大学へ行ってる弟の願懸けに行って、堂の前で気落した、……どこだか知らないが、谷中の辺で、杉の樹の高い処から鳥が落ちて死んだ、というのを聞いた時、……何の鳥とも、照吉は、それまでは見なかったんだそうだけれども、私は何だよ…… 思わず、心が、先刻の暗がり坂の中途へ行って、そのおかしな婆々が、荒縄でぶら提げていた、腐った烏の事を思ったんだ。照吉のも、同じ烏じゃ無かろうかと……それに、可なり大きな鳥だというし……いいや!」 梅次のその顔色を見て、民弥は圧えるように、 「まさか、そんな事はあるまいが、ただそこへ考えが打撞っただけなんだよ。…… だから、さあ、可厭な気持だから、もう話さないでおきたかったんだけれども、話しかけた事じゃあるし、どうして、中途から弁舌で筋を引替えようという、器用なんじゃ無い。まじまじ遣った……もっとも荒ッぽく……それでも、烏の死骸を持っていたッて、そう云うと、皆が妙に気にしたよ。 お三輪は、何も照吉のが烏だとも何とも、自分で言ったのじゃ無いから、別にそこまでは気を廻さなかったと見えて、暗号に袖を引張らなかった。もうね、可愛いんだ、――ああ、可恐い、と思うと、極ったように、私の袂を引張たっけ、しっかりと持って――左の、ここん処に坐っていて、」 と猫板の下になる、膝のあたりを熟と視た。…… 「煙管?」 「ああ、」 「上げましょう。……」 と、トンと払いて、 「あい。……どうしたんです、それから、可厭ね、何だか私は、」と袖を合わせる。 「するとだ……まだその踏切を越えて腕車を捜したッてまでにも行かず……其奴の風采なんぞ悉しく乗出して聞くのがあるから、私は薄暗がりの中だ。判然とはしないけれど、朧気に、まあ、見ただけをね、喋舌ってる中に、その……何だ。 向う角の女郎屋の三階の隅に、真暗な空へ、切って嵌めて、裾をぼかしたように部屋へ蚊帳を釣って、寂然と寝ているのが、野原の辻堂に紙帳でも掛けた風で、恐しくさびれたものだ、と言ったっけ。 その何だよ。…… 蚊帳の前へ。」 「ちょいと、」と梅次は、痙攣るばかり目をって膝をずらした。 「大丈夫、大丈夫、」 と民弥はまたわずかに笑を含みつつ、 「仲の町越しに、こちらの二階から見えるんだから、丈が……そうさ、人にして二尺ばかり、一寸法師ッか無いけれど、何、普通で、離れているから小さいんだろう。……婆さんが一人。 大きな蜘蛛が下りたように、行燈の前へ、もそりと出て、蚊帳の前をスーと通る。……擦れ擦れに見えたけれども、縁側を歩行いたろう。が、宙を行くようだ。それも、黒雲の中にある、青田のへりでも伝うッて形でね。 京町の角の方から、水道尻の方へ、やがて、暗い処へ入って隠れたのは、障子の陰か、戸袋の背後になったらしい。 遣手です、風が、大引前を見廻ったろう。 それが見えると、鉄棒が遠くを廻った。……カラカラ、……カンカン、何だか妙だね、あの、どうか言うんだっけ。」 「チャン、カン、チャンカン……ですか。」と民弥の顔を瞻めながら、軽く火箸を動かしたが、鉄瓶にカタンと当った。 「あ、」 と言って、はっと息して、 「ああ、吃驚した。」 「ト今度は、その音に、ずッと引着けられて、廓中の暗い処、暗い処へ、連れて歩行くか、と思うばかり。」
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