十一
「それはもう、きれいに断念めたものなの、……そしてね、幾日の何時頃に死ぬんだって――言うんですとさ、――それが延びたから今日はきっと、あれだって、また幾日の何時頃だって、どうしてでしょう。死ぬのを待っているようなの。 ですからね、照吉さんのは、気病だって。それから大事の人の生命に代って身代に死ぬんですって。」 「身代り、」と聞返した時、どのかまた明の加減で、民弥の帷子が薄く映った。且つそれよりも、お三輪の手絡が、くっきりと燃ゆるように、声も強い色に出て、 「ええ、」 と言う、目もられた気勢である。 「この方が怪談じゃ、」と魯智深が寂しい声。堀子爵が居直って、 「誰の身代りだな、情人のか。」 「あら、情人なら兄さんですわ、」 と臆せず……人見知をしない調子で、 「そうじゃないの、照吉さんのは弟さんの身代りになったんですって。――弟さんはね、先生、自分でも隠してだし、照吉さんも成りたけ誰にも知らさないようにしているんだけれど、こんな処の人のようじゃないの。 学校へ通って、学問をしてね、よく出来るのよ。そして、今じゃ、あの京都の大学へ行っているんです。卒業すれば立派な先生になるんだわ、ねえ。先生。 姉さんもそればっかり楽みにして、地道に稼いじゃ、お金子を送っているんでしょう。……ええ、あの、」 と心得たように、しかも他愛の無さそうに、 「水菓子屋の方は、あれは照吉さんの母さんがはじめた店を、その母さんが亡くなって、姉弟二人ぼっちになって、しようが無いもんですから、上州の方の遠い親類の人に来てもらって、それが世話をするんですけれど、どうせ、あれだわ。田舎を打棄って、こんな処へ来て暮そうって人なんだから、人は好いけれども商売は立行かないで、照吉さんには、あの、重荷に小附とかですってさ。ですから、お金子でも何でも、皆姉さんがして、それでも楽みにしているんでしょう。 そうした処が、この二三年、その弟さんが、大変に弱くなったの。困るわねえ。――試験が済めばもう卒業するのに、一昨年も去年もそうなのよ、今年もやっぱり。続いて三年病気をしたの。それもあの、随分大煩いですわ、いつでも、どっと寝るんでしょう。 去年の時はもう危ないって、電報が来たもんですから、姉さんが無理をして京都へ行ったわ。 二年続けて、彼地で煩らったもんですから、今年の春休みには、是非お帰んなさいって、姉さんも云ってあげるし、自分でも京都の寒さが不可いんだって、久しぶりで帰ったんです。 水菓子屋の奥に居たもんですから、内へも来たわ。若旦那って才ちゃんが言うのよ。お父さんはね、お侍が浪人をしたのですって、――石橋際に居て、寺子屋をして、御新造さんの方は、裁縫を教えたんですっさ、才ちゃんなんかの若い時分、お弟子よ。 あとで、私立の小学校になって、内の梅次さんも、子供の内は上ってたんですさ。お母さんの方は、私だって知ってるわ。品の可い、背のすらりとした人よ。水菓子屋の御新造さんって、皆がそう言ったの。 ですもの、照吉さんは芸者だけれど、弟さんは若旦那だわね。 また煩いついたのよ、困るわねえ。 そして長いの、どっと床に就いてさ。皆、お気の毒だって、やっぱり今の、あの海老屋の寮で養生をして、同じ部屋だわ。まわり縁の突当りの、丸窓の付いた、池に向いた六畳よ。 照吉さんも家業があるでしょう、だもんですから、ちょいとの隙も、夜の目も寝ないで、附っ切りに看病して、それでもちっとも快くならずに、段々塩梅が悪くなって、花が散る頃だったわ、お医者様もね、もうね。」 と言う、ちっと切なそうな息づかい。
十二
お三輪は疲れて、そして遣瀬なさそうな声をして、 「才ちゃんを呼んで来ましょうか、私は上手に話せませんもの。」と言う、覚束ない娘の口から語る、照吉の身の上は、一層夜露に身に染みたのであった。 「可いよ、三輪ちゃんで沢山だ。お話し、お話し、」と雑貨店主、沢岡が激ました。 「ええ、もうちっとだわ。――あの……それでお医者様が手放したもんですから、照吉さんが一七日塩断して……最初からですもの、断つものも外に無いの。そして願掛けをしたんですって。どこかねえ、谷中の方です。遠くまで、朝ねえ、まだ夜の明けない内に通ったのよ。そのお庇で……きっとそのお庇だわ。今日にも明日にも、といった弟さんが、すっかり治ってね。夏のはじめに、でもまだ綿入を着たなりで、京都へ立って行ったんです。 塩断をしたりなんかして、夜も寝なかった看病疲れが出たんだって、皆そう言ったの。すぐ後で、姉さんが病みついたんでしょう。そして、その今のような大病になったんでしょう。 ですがね、つい二三日前、照吉さんが、誰にも言わない事だけれどって、そう云って、内の才ちゃんに話したんですって。――あの、そのね、谷中へ願掛けをした、満願、七日目よ、……一七日なんですもの。いつもお参りをして帰りがけに、しらしらと夜の明ける時間なのが、その朝は、まだ真暗だったんですとさ。御堂を拝んで帰ろうとすると、上の見上げるような杉の大木の茂った中から、スーと音がして、ばったり足許へ落ちて来たものがあるの。常燈明の細い灯で、ちょいと見ると、鳥なんですって、死んだのだわねえ、もう水を浴びたように悚然として、何の鳥だかよくも見なかったけれど、謎々よ、……解くと、弟は助からないって事になる……その時は落胆して、苔の生えた石燈籠につかまって、しばらく泣きましたって、姉さんがね、……それでも、一念が届いて弟が助かったんですから……思い置く事はありません、――とさ。 ああ、きっとそれじゃ、……その時治らない弟さんの身代りに、自分がお約束をしたんだろう。それだから、ああやって覚悟をして死んで行くのを待っておいでだ。事によったら、月日なんかも、その時極めて頼んだのかも分らない、可哀相だ、つて才ちゃんも泣いていました。 そしてね、今度の世は、妹に生れて来て甘えよう、私は甘えるものが無い。弟は可羨しい、あんな大きななりをして、私に甘ったれますもの。でも、それが可愛くって殺されない。前へ死ぬ方がまだ増だ、あの子は男だから堪えるでしょう、……後へ残っちゃ、私は婦で我慢が出来ないって言ったんですとさ。……ちょいとどうしましょう。私、涙が出てよ。…… どうかして治らないものでしょうか。誰方か、この中に、お医者様の豪い方はいらっしゃらなくって、ええ、皆さん。」 一座寂然した。 「まあ、」 「ねえ……」 と、蘭子と種子が言交わす。 「弱ったな、……それは、」とちょいと間を置いてから、子爵が呟いたばかりであった。 「時に、」 と幹事が口を開いて、 「佐川さん、」 「は、」 と顔を上げたが、民弥はなぜかすくむようになって、身体を堅く俯向いてそれまで居た。 「お話しの続きです。――貴下がその今日途中でその、何か、どうかなすったという……それから起ったんですな、三輪ちゃんの今の話は。」 「そうでしたね。」とぼやりと答える。 「その……近所のお産のありそうな処は無いかって、何か、そういったような事から。」 「ええ、」 とただ、腕を拱く。 「どういう事で、それは、まず……」 「一向、詰らない、何、別に、」と可恐しく謙遜する。 人々は促した。――
十三
「――気が射したから、私は話すまい、と思った。けれども、行懸り[#ルビの「ゆきがか」は底本では「ゆきかが」]で、揉消すわけにも行かなかったもんだから、そこで何だ。途中で見たものの事を饒舌ったが、」 と民弥は、西片町のその住居で、安価い竈を背負って立つ、所帯の相棒、すなわち梅次に仔細を語る。……会のあった明晩で、夏の日を、日が暮れてからやっと帰ったが、時候あたりで、一日寝ていたとも思われる。顔色も悪く、気も沈んで、太く疲れているらしかった。 寒気がするとて、茶の間の火鉢に対向いで、 「はじめはそんな席へ持出すのに、余り栄えな過ぎると思ったが、――先刻から言った通り――三輪坊がしたお照さんのその話を聞いてからは、自分だけかも知れないが、何とも言われないほど胸が鬱いだよ。第一、三輪坊が、どんなにか、可恐がるだろう、と思ってね。 場所が谷中だと言うんだろう、……私の出会ったのもやっぱりそこさ。――闇がり坂を通った時だよ。」 「はあ、」と言って、梅次は、団扇を下に、胸をすっと手を支いた。が、黒繻子[#ルビの「くろじゅす」は底本では「くろじゅず」]の引掛け結びの帯のさがりを斜に辷る、指の白さも、団扇の色の水浅葱も、酒気の無い、寂しい茶の間に涼し過ぎた。 民弥は寛ぎもしないで、端然としながら、 「昨日は、お葬式が後れてね、すっかり焼香の済んだのが、六時ちっと廻った時分。後で挨拶をしたり、……茶屋へ引揚げて施主たちに分れると、もう七時じゃないか。 会は夜あかしなんだけれど、ゆっくり話そうって、幹事からの通知は七時遅からず。私にも何かの都合で、一足早く。承知した、と約束がしてある。…… 久しぶりのお天気だし、涼いし、紋着で散歩もおかしなものだけれども、ちょうど可い。廓まで歩行いて、と家を出る時には思ったんだが、時間が遅れたから、茶屋の角で直ぐに腕車をそう言ってね。 乗ってさ。出る、ともう、そこらで梟の声がする。寂寥とした森の下を、墓所に附いて、薄暮合いに蹴込が真赤で、晃々輪が高く廻った、と思うと、早や坂だ。――切立てたような、あの闇がり坂、知ってたっけか。」 「根岸から天王寺へ抜ける、細い狭い、蔽被さった処でしょう。――近所でも芋坂の方だと、ちょいちょい通って知ってますけれど、あすこは、そうね、たった一度。可厭な処だわね、そこでどうかなすったんですか。」 「そうさ、よく路傍の草の中に、揃えて駒下駄が脱いであったり、上の雑樹の枝に蝙蝠傘がぶら下っていたり、鉄道で死ぬものは、大概あの坂から摺込むってね。手巾が一枚落ちていても悚然とする、と皆が言う処だよ。 昼でも暗いのだから、暮合も同じさ。別に夜中では無し、私は何にも思わなかったんだが、極って腕車から下りる処さ、坂の上で。あの急勾配だから。 下りるとね、車夫はたった今乗せたばかりの処だろう、空車の気前を見せて、一つ駆けで、顱巻の上へ梶棒を突上げる勢で、真暗な坂へストンと摺込んだと思うと、むっくり線路の真中を躍り上って、や、と懸声だ。そこはまだ、仄り明い、白っぽい番小屋の、蒼い灯を衝と切って、根岸の宵の、蛍のような水々した灯の中へ消込んだ。 蝙蝠のように飛ぶんだもの、離れ業と云って可い速さなんだから、一人でしばらく突立って見ていたがね、考えて見ると、面白くも何とも無いのさ。 足許だけぼんやり見える、黄昏の木の下闇を下り懸けた、暗さは暗いが、気は晴々する。 以前と違って、それから行く、……吉原には、恩愛もなし、義理もなし、借もなし、見得外聞があるじゃなし……心配も苦労も無い。叔母さんに貰った仲の町の江戸絵を、葛籠から出して頬杖を支いて見るようなもんだと思って。」
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