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みさごの鮨(みさごのすし)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-23 10:41:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 泉鏡花集成7
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1995(平成7)年12月4日
入力に使用: 1995(平成7)年12月4日第1刷

底本の親本: 鏡花全集 第二十二巻
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1940(昭和15)年11月20日

 

     一

旦那だんなさん、旦那さん。」
 目と鼻のさきに居ながら、大きな声で女中が呼ぶのに、ついはしの手をとめた痩形やせがたの、年配で――浴衣に貸広袖かしどてらを重ねたが――人品のいい客が、
「ああ、何だい。」
「どうだね、おいしいかね。」
 と額で顔を見て、その女中はきょろりとしている。
 客は余り唐突だしぬけなのに驚いたようだった。――少い経験にしろ、数の場合にしろ、旅籠はたごでも料理屋でも、給仕についたものから、こんな素朴な、実直な、しかも要するに猪突ちょとつな質問を受けた事はかつてない。
 ところで決して不味まずくはないから、
「ああ、おいしいよ。」
 と言ってまたはしを付けた。
「そりゃい、北国ほっこく一だろ。」
 と洒落しゃれでもないようで、納まった真顔である。
「むむ、……まあ、そうでもないがね。」
 と今度は客の方で顔を見た。目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも壮健じょうぶそうで、口許くちもとのしまったはいが、その唇の少しとがった処が、化損ばけそこなった狐のようで、しかし不気味でなくて愛嬌あいきょうがある。手織縞ておりじまのごつごつした布子ぬのこに、よれよれの半襟で、唐縮緬とうちりめんの帯を不状ぶざまに鳩胸に高くしめて、髪はつい通りの束髪に結っている。
 これをあらためて見て客は気がついた。先刻さっきも一度その(北国一)を大声でとなえて、裾短すそみじかすねを太く、しりを振って、ひょいと踊るように次のの入口を隔てた古い金屏風きんびょうぶの陰へ飛出して行ったのがこの女中らしい。
 ところでその金屏風の絵が、極彩色の狩野かのう何某なにがし在銘で、玄宗皇帝が同じ榻子いすに、楊貴妃ようきひともたれ合って、笛を吹いている処だから余程よっぽど可笑おかしい。
 それは次のような場合であった。
 客が、加賀国山代やましろ温泉のこの近江屋おうみやへ着いたのは、当日ひる少し下る頃だった。玄関へ立つと、面長で、柔和やわらかなちっとも気取きどりっけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉手もみでをしながら、御逗留ごとうりゅうか、それともちょっと御入浴で、といた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰をかがめつつかしこまって、どうぞこれへと、自分で荷物をさばいて、案内をしたのがこの奥の上段の間で。次のが二つまで着いている。あいにく宅は普請中でございますので、何かと不行届ふゆきとどきの儀は御容赦下さいまして、まず御緩ごゆっくりと……と丁寧に挨拶あいさつをして立つと、そこへ茶を運んで来たのが、いま思うとこの女中らしい。
 実は小春日こはるびあかるい街道から、と入ったのでは、人顔も容子ようすも何も分らない。縁を広く、張出しを深く取った、古風で落着いただけに、十畳へ敷詰めた絨毯じゅうたんの模様も、谷へ落葉を積んだように見えて薄暗い。大きな床の間の三幅対さんぷくついも、濃い霧の中に、山がはるかに、船もあり、朦朧もうろうとして小さな仙人の影がすばかりで、何の景色だか、これはあかりいても判然はっきり分らなかったくらいである。が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い石燈籠いしどうろうに、こけ真蒼まっさおなさびがある。ここに一樹、思うままの松の枝ぶりが、飛石に影を沈めて、さっと渡る風に静寂な水のひびきを流す。庭の正面がすぐに切立きったての崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅なる山笹の中を、細くうねり蜿り自然の大巌おおいわを削ったこみちが通じて、高くこずえあがった処に、建出しの二階、三階。はなれ家の座敷があって、廊下がかけはしのようにのぞかれる。そのあたりからもみじ葉越しに、駒鳥こまどりさえずるような、芸妓げいしゃらしい女の声がしたのであったが――
 入交いれかわって、歯を染めた、陰気な大年増が襖際ふすまぎわへ来て、瓶掛びんかけに炭を継いで、茶道具を揃えて銀瓶を掛けた。そこが水屋のように出来ていて、それから大廊下へ出入口に立てたのがくだんの金屏風。すなわち玄宗と楊貴妃で、銀瓶はいけれども。……次にまた浴衣に広袖どてらをかさねて持って出たおんなは、と見ると、あから顔で、太々だいだいとした乳母おんばどんで、大縞のねんね子半纏ばんてんで四つぐらいな男のおぶったのが、どしりと絨毯に坊主枕ほどの膝をつくと、半纏の肩から小児こどもの顔を客の方へ揉出もみだして、それ、小父おじさんに(今日は)をなさいと、顔と一所に引傾ひっかたげた。
 学士が驚いた――客は京の某大学の仏語ふつごの教授で、さかき三吉と云う学者なのだが、無心の小児に向っては、盗賊もあやすと言う……教授でも学者でも同じ事で、これには莞爾々々にこにことして、はい、今日は、と言った。この調子で、薄暗い広間へ、思いのほかのものがあらわれるから女中も一々どれが何だか、一向にまとまりが着かなかったのである。
 昼飯ひるの支度は、この乳母うばどのにあつらえて、それから浴室へ下りて一浴ひとあみした。……成程、屋の内は大普請らしい。大工左官がそちこちを、真昼間まっぴるま夜討ようちのように働く。……ちょうな、のこぎり鉄鎚かなづちにぎやかな音。――また遠く離れて、トントントントンとまないたを打つのが、ひっそりと聞えてこだまする……と御馳走ごちそうつぐみをたたくな、とさもしい話だが、四高(金沢)にしばらく居たことがあって、土地の時のものに予備知識のある学者だから、内々御馳走を期待しながら、門から敷石を細長く引込んだもとの大玄関を横に抜けて、広廊下を渡ると、一段ぐっと高く上る。座敷の入口に、いかにも(上段の間)と札に記してある。で、金屏風の背後うしろから謹んで座敷へ帰ったが、上段のの客にはちと不釣合な形に、脇息きょうそくを横倒しに枕して、ごろんとながくなると、瓶掛の火が、もみじをいたようにかッと赤く、銀瓶の湯気が、すらすらと楊貴妃を霞ませる。枕もとに松籟しょうらいをきいて、しばらく理窟も学問もなくなった。が、ふと、昼飯ひるぜんに、一銚子ひとちょうし添えさせるのを言忘れたのに心づいて、そこで起上たちあがった。
 どこを探しても呼鈴よびりんが見当らない。
 二三度手をたたいてみたが――これは初めから成算がなかった。勝手が大分だいぶに遠い。座敷の口へ出て、敲いて、敲きながら廊下をまた一段下りた。
「これは驚いた。」
 更に応ずるものがなかったのである。
 一体、山代の温泉のこの近江屋は、大まかで、もの事おっとりして、いま式に余り商売にあせらない旅館だと聞いて、甚だ嬉しくて来たのであるが、これでは余り大まか過ぎる。
 何か、きのこに酔った坊さんが、山奥から里へ迷出たといった形で、手をたたき、たたき、例の玄関の処へ出て、これなら聞えようと、また手を敲こうとする足許あしもとへ、衝立ついたての陰から、ちょろりと出たのは、今しがた乳母どのにおぶわれていた男の児で、人なつッこく顔を見て莞爾々々にこにこする。
 どうも、この鼻尖はなさきで、ポンポンはおだやかでない。
 仕方なしに、笑って見せて、悄々すごすごと座敷へ戻って、
「あきらめろ。」
 で、所在なさに、金屏風の前へかしこまって、吸子きゅうすに銀瓶の湯をいで、茶でも一杯と思った時、あの小児こどもにしてはと思う、おおき跫足あしおとが響いたので、顔を出して、むこうを見ると、小児と一所に、玄関前で、ひょいひょい跳ねている女があった。
「おおい、姉さん、姉さん。」
 どかどかどかと来て、
「旦那さんか、呼んだか。」
「ああ、呼んだよ。」
 と息をいて、
「どうにかしてくれ。――どこを探しても呼鈴はなし、手をたたいても聞えないし、――弱ったよ。」
「あれ。」
 と首も肩も、客を圧して、突込むように入って来て、
「こんなでけい内で、手を敲いたって何が聞えるかね。電話があるでねえか、それでお帳場を呼びなさいよ。」
「どこにある。」
「そら、そこにあるがね、見えねえかね。」
 と客の前から、いきなり座敷へ飛込んで、突立状つったちざまゆびさしたのは、床の間わきの、※(「木+靈」、第3水準1-86-29)れんじに据えた黒檀こくたんの机の上の立派な卓上電話であった。
「ああ、それかい。」
「これだあね。」
「私はまたほんとうの電話かと思っていた。」
「おお。」
 と目を円くして、きょろりとて、
「ほんとの電話ですがね。どこか間違ったとこでもあるのかよ。」
「いや、相済まん、……間違ったのは私の方だ。――成程これで呼ぶんだな。――分りました。」
「立派な仕掛しかけだろがねえ。」
「立派な仕掛だ。」
「北国一だろ。」
 ――それ、そこで言って、ひょいひょい浮足うきあしで出てく処を、背後うしろから呼んで、一銚子を誂えた。
いのを頼むよ。」
 と追掛けに言うと、
「分った、分った。」
 と振り向いて合点がってん々々をして、
「北国一。」
 と屏風の陰で腰を振って、ひょいと出た。――その北国一を、ここでまた聞いたのであった。

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