九
――「小春さん、先刻の、あの可愛い雛妓と、盲目の爺さんたちをここへお呼び。で、お前さんが主人になって、皆で湯へ入って、御馳走を食べて、互に慰めもし、また、慰められもするが可い。 治兵衛坊主は、お前さんの親たち、弟に逢った事はないか。――なければそれもなお好都合。あの人たちに訳を話すと、おなじ境界にある夥間だ、よくのみ込むであろうから、爺さんをお前さんの父親、小児を弟に、不意に尋ねて来た分に、治兵衛の方へ構えるが可い。場合によれば、表向き、治兵衛をここへ呼んで逢わせるも可かろう。あの盲いた人、あの、いたいけな児、鬼も見れば角がなごむ。――心配はあるまいものの、また間違がないとも限らぬ。その後難の憂慮のないように、治兵衛の気を萎し、心を鎮めさせるのに何よりである。 私は直ぐに立って、山中へ行く。 わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に構うなと言った処で、人情としてそうは行くまい、顔の前に埃が立つ。構わないにしても気が散ろう。 泣きも笑いもするがいいが、どっちも胸をいためぬまで、よく楽み、よくお遊び。」―― あの陰気な女中を呼ぶと、沈んで落着いただけに、よく分って、のみ込んだ。この趣を心得て、もの優しい宿の主人も、更めて挨拶に来たので、大勢送出す中を、学士の近江屋を発程ったのは、同じ夜の、実は、八時頃であった。 勿論、小春が送ろうと言ったが、さっきの今で、治兵衛坊主に対しても穏でない、と留めて、人目があるから、石屋が石を切った処、と心づもりの納屋の前を通る時、袂を振切る。…… お光が中くらいな鞄を提げて、肩をいからすように、大跨に歩行いて、電車の出発点まで真直ぐに送って来た。 道は近い、またすぐに出る処であった。 「旦那さん、蚤にくわれても、女ッ子は可哀相だと言ったが、ほんとかね。」 停車場の人ごみの中で、だしぬけに大声でぶッつけられたので、学士はその時少なからず逡巡しつつ、黙って二つばかり点頭いた。 「旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを一品下んせね。鼻紙でも、手巾でも、よ。」 教授は外套を、すっと脱いだ。脱ぎはなしを、そのままお光の肩に掛けた。 このおもみに、トンと圧されたように、鞄を下へ置いたなりで、停車場を、ひょいと出た。まさか持ったなりでは行くまいと、半ば串戯だったのに――しかし、停車場を出ると、見通しの細い道を、いま教授がのせたなりに、ただ袖に手を掛けたばかり、長い外套の裾をずるずると地に曳摺るのを、そのままで、不思議に、しょんぼりと帰って行くのを見て、おしげなくほろりとして手を組んだ。 発車した。
――お光は、夜の隙のあいてから、これを着て、嬉しがって戸外へ出たのである。……はじめは上段の間へ出向いて、 「北国一。」 と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の厚衾、枕を四つ、頭あわせに、身のうき事を問い、とわれ、睦言のように語り合う、小春と、雛妓、爺さん、小児たちに見せびらかした。が、出る時、小春が羽織を上に引っかけたばかりのなりで、台所まで手を曳いた。――ああ、その時お光のかぶったのは、小児の鳥打帽であったのに―― 黒い外套を来た湯女が、総湯の前で、殺された、刺された風説は、山中、片山津、粟津、大聖寺まで、電車で人とともに飛んでたちまち響いた。 けたたましい、廊下の話声を聞くと、山中温泉の旅館に、既に就寝中だった学士が、白いシイツを刎ねて起きた。 寝床から自動車を呼んで、山代へ引返して、病院へ移ったという……お光の病室の床に、胸をしめて立った時、 「旦那さん、――お光さんが貴方の、お身代り。……私はおくれました。」 と言って、小春がおもはゆげに泣いて縋った。 「お光さん、私だ、榊だ、分りますか。」 「旦那さんか、旦那さんか。」 と突拍子な高調子で、譫言のように言ったが、 「ようこそなあ――こんなものに……面も、からだも、山猿に火熨斗を掛けた女だと言われたが、髪の毛ばかり皆が賞めた。もう要らん。小春さん。あんた、油くさくて気の毒やが、これを切って、旦那さんに上げて下さんせ。」 立会った医師が二人まで、目を瞬いて、学士に会釈しつつ、うなずいた。もはや臨終だそうである。 「頂戴しました。――貰ったぞ。」 「旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。」 「さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。」 と、ありなしの縁に曳かれて、雛妓の小とみ、弟が、かわいい名の小次郎、ともに、杖まで戸惑いしてついて来て、泣いていた、盲目の爺さんが、竹の杖を、お光の手に、手さぐりで握らせるようにして、 「持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が見えるぞい。」 「ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。」 「おお、見られるとも、のう。ありがたや阿弥陀様。おありがたや親鸞様も、おありがたや蓮如様も、それ、この杖に蓮華の花が咲いたように、光って輝いて並んでじゃ。さあ、見さっしゃれ、拝まっさしゃれ。なま、なま、なま、なま、なま。」 「そんなものは見とうない。」 と、ツト杖を向うへ刎ねた。 「私は死んでも、旦那さんの傍に居て、旦那さんの顔を見るんだよ。」 「勿体ないぞ。」 と口のうちで呟いて、爺が、黒い幽霊のように首を伸して、杖に縋って伸上って、見えぬ目を上ねむりに見据えたが、 「うんにゃ、道理じゃ。俺も阿弥陀仏より、御開山より、娘の顔が見たいぞいの。」 と言うと、持った杖をハタと擲げた。その風采や、さながら一山の大導師、一体の聖者のごとく見えたのであった。
大正十二(一九二三)年一月
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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