三
「別に直ったというでもないけれど、まああんなものさ。あれでもね、おばあさんには大変気の毒がってね、(お年寄がようよう落着なされたものを、またお転宅は大抵じゃアあるまいから、その内可い処があったら、御都合次第お引越しなさるが可し、また一月でも、二月でも、家においでになっても差支えはございませんから)ッて、それッきりになってるのよ。そのかわりね、私にゃ、(芳さんと談話をすることは決してならない)ッて、固くいいつけたわ。やっぱり疑ぐっているらしいよ。」 少年は火箸を手にして、ぐいぐい灰に突立てながら、不平なる顔色にて、 「一体疑ぐるッて何だろう。僕のおばあさんにもね、姉様、髯が、(お孫さんも出世前の身体だから、云々が着いてはなりますまい。私は、私で、内の貞に気を着けますから、あなたもそこの処おぬかりなく。)ッさ。内証で言ったそうだ。変じゃないか、え、姉様、何を疑ぐッているんだろう。何か僕と、姉様と、不道徳な関係があるとでもいうことなんかね、それだと失敬極まるじゃあないか、え、姉様。」 と詰り問うに、お貞は、 「ああ。」 と生返事、胸に手を置き、差俯向く。 少年は安からぬ思いやしけむ。 「じゃあ何だね、こないだあの騒ぎのあった前に、二人で奥に談話をしていた時、髯が戸外から帰って来たので、姉様は、あわアくって駈出したが、そのせいなの? 一体気が小さいから不可いよ。いつに限らずだ。人が、がらりと戸を開けると、何だか大変なことでも見付かったように、どぎまぎして、ものをいうにも呼吸をはずまして、可訝いだろうじゃないか。先刻僕の帰った時も、戸をあけると、吃驚して、何だかおどおどしておいでだったぜ。こないだの時だってもそうだ。髯に向って、(いらっしゃいまし)自分の亭主を迎えるとって、(いらっしゃいまし)なんて、言う奴があるものか。何だってそう気が小さくッて、物驚きをするんだなあ。それだから疑ぐられるんだ。不可ねえ。」 お貞は淋しげなる微笑を含み、 「そういってながら芳さんもあの時はやっぱりそそッかしく、二階へ駈け上ったじゃあないかね。」 少年は別に考うる体もなく、 「そりゃ何だ、僕は何も恐いことはないけれど、あの髯が嫌だからだ。何だか虫が好かなくッて、見ると癪に障るっちゃあない、僕あもう大嫌だ。」 と臆面もなく言うて退けつ。渠は少年の血気にまかせて、後前見ずにいいたるが、さすがにその妻の前なるに心着きけむ、お貞の色をうかがいたり。 お貞は気に懸けたる状もなく、かえって同意を表するごとく、勢なげに歎息して、 「誰が見てもちがいはないねえ。私だってやっぱり嫌だわ。だがね、芳ちゃんは、なぜ好かないの。」 少年はお貞の言の吾が意を得たるに元気づきて、声の調子を高めたり。 「他にね、こうといって、まだ此家へ来て、そんなに間もないこったから、どこにどうという取留めたこともないけれど、ただね、髯の様子がね、亡なった姉様の亭主に肖ているからね、そのせいだろうと思うんだ。」 「そうして、不可いお方だったの。」 少年はそぞろに往時を追懐すらむ、慨然としたりけるが、 「不可いどころの騒じゃない、姉様を殺した奴だもの。」 お貞は太く感ぜし状にて、 「まあ。」 とそのうるみたる眼をりぬ。 「酷い人ね、何だッてまた姉様を殺したんだろうね。芳さんのお姉様なら、どんなにか優しい、佳い人だったろうにさ。」 「そりゃ、真実に僕を可愛がってくれたッちゃあないよ。今着ている衣服なんか、台なしになってるけれど、姉様がわざと縫って寄来したもんだから、大事にして着ているんだ。」 「そのせいで似合うのかねえ。」 とお貞は今更のごとく少年の可憐なる状ぞ瞻られける。水上芳之助は年紀十六、そのいう処、行う処、無邪気なれどもあどけなからず。辛苦のうちに生たちて浮世を知れる状見えつ。もののいいぶりはきはきして、齢のわりには大人びたり。
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