十二
お貞は幾年来独り思い、独り悩みて、鬱積せる胸中の煩悶の、その一片をだにかつて洩せしことあらざりしを、いま打明くることなれば、順序も、次第も前後して、乱れ且つ整わざるにも心着かで、再び語り続けたり。 「いっちゃ女の愚痴だがね。私はさっきいったように、世の中というものがあって、自分ばかりじゃないからと、断念めて、旦那に事えてはいるけれど、一日に幾度となく、もうふツふツ嫌になることがあるわ。 芳さんも知っておいでだ。ついこないだのことだっけ、晩方旦那の友達が来たので、私もその日は朝ッから、塩梅が悪くッて、奥の室に寝ていた処へ、推懸けたもんだから、外に別に部屋はなし、ここへ出て坐っていたの。 お客がまた私の大嫌な人で、旦那とは合口だもんだから、愉快そうに[#「愉快そうに」は底本では「愉快さうに」]話してたッけが、私は頭痛がしていた処へ、その声を聞くとなお塩梅が悪くなって、胸は痛む、横腹は筋張るね、おいおい薄暗くはなって来る。暑いというので燈火はつけずさ。陰気になって、いろんなことを考え出して、つい堪らなくなったから、横になろうと思っても、直ぐ背後に居るんだもの、立膝も出来ないから、台所へ行って板の間にでもと思ったが、あすこにゃ蚊が酷いし、仕方がないから戸外へ出て、軒下にしゃがんで泣いてた処へ、ちょうどお前さんが来ておくれで、二階へ来いとおいいだから、そっと上ると、まあ、おとしよりが御深切に、胸を押して下すったので、私ゃもう難有くッて、嬉しくッて、心じゃ手を合せて拝んだわ。 おかげでやっと胸が開きそうになって、ほっと呼吸をついた処へ、 (貞はそこに参っておりましょうな。)と、壇階子の下へ来て、わざわざ旦那が呼んだじゃあないかね。 私ゃあんまりくさくさしたから、返事もしないで黙っていると、おばあさんがお聞きつけなすッて、 (階下へおいで、ね、ね、そうしないと悪い)ッて、みんなもうちゃんと推量して、やさしく言って下さるんだもの。 (ここに居とうございます!)と、おばあ様の膝に縋りついたの。 下ではなお呼ぶもんだから、おばあさんが私のかわりに返事をなすって、 (可いから、可いから。)と、低声でおっしゃってね、背を撫でて下さるもんだから、仕方なしに下りて行くと、お客はもう帰っていてね、嫌な眼で睨まれたよ。 空いてる室がないもんだから、そういう時には困っちまう。アレ悪く取っちゃあ困るわね。 何も芳さんに二階を貸しておいて、こういっちゃあわるいけれど、はじめッからこの家は嫌いなの。 水は悪いし、流元なんざ湿地で、いつでもじくじくして、心持が悪いっちゃあない。雪どけの時分になると、庭が一杯水になるわ。それから春から夏へかけては李の樹が、毛虫で一杯。 それに宅中陰気でね、明けておくと往来から奥の室まで見透しだし、ここいら場末だもんだから、いや、あすこの宅はどうしたの、こうしたのと、近所中で眼を着けて、晩のお菜まで知ってるじゃあないかね。大嫌な猫がまた五六疋、野良猫が多いので、のそのそ入って、ずうずうしく上り込んで、追ってもにげるような優しいんじゃない。 隣の小猫はまた小猫で、それ井戸は隣と二軒で使うもんだから、あすこの隔から入って来ちゃあ、畳でも、板の間でも、ニャアニャア鳴いて歩行くわ。 隣の猫のこッたから、あのまた女房が大抵じゃないのだからね、(家の猫を)なんて言われるが嫌さに、打つわけにはもとよりゆかず、二三度干物でも遣ったものなら、可いことにして、まつわって、からむも可いけれど、芳さん、ありゃ猫の疱瘡とでもいうのかしら。からだじゅう一杯のできもので、一々膿をもって、まるで、毛が抜けて、肉があらわれてね、汚なくって手もつけられないよ。それがさ、昨夜も蚊帳の中へ入込んで、寝ていた足をなめたのよ。何の因果だか、もうもう猫にまで取着かれる。」 と投ぐるがごとく言いすてつ。苦笑して呟きたり。 「ほんとうに泣より笑だねえ。」
十三
お貞の言途絶えたる時、先刻より一言も、ものいわで渠が物語を味いつつ、是非の分別にさまよえりしごとき芳之助の、何思いけん呵々と笑い出して、 「ははは、姉様は陰弁慶だ。」 お貞は意外なる顔色にて、 「芳さん、何が陰弁慶だね。」 「だってそんなに決心をしていながら、一体僕の分らないというのはね、人ががらりと戸を明けると、眼に着くほどびっくりして、どきり! する様子が確に見えるのは、どういうものだろう。髯の留守に僕と談話でもしている処へ唐突に戸外があけば、いま姉様がいった世間の何とかで、吃驚しないにも限らないが、こうしてみるに、なにもその時にゃ限らないようだ。いつでもそうだから可笑いじゃないか。それに姉様のは口でいうと反対で、髯の前じゃおどおどして、何だか無暗に小さくなって、一言ものをいわれても、はッと呼吸のつまるように、おびえ切っている癖に。今僕に話すようじゃ、酸いも、甘いも、知っていて、旦那を三銭とも思ってやしない。僕が二厘の湯銭の剰銭で、(ちょいとこさ)を追返したよりは、なお酷く安くしてるんだ。その癖、世間じゃ、(西村の奥様は感心だ。今時の人のようでない。まるで嫁にきたてのように、旦那様を大事にする。婦人はああ行かなければ嘘だ。貞女の鑑だ。しかし西村には惜いものだ。)なんとそう言ってるぞ。そうすりゃ世間も恐しくはなかろうに、何だって、あんなにびくびくするのかなあ。だから姉様は陰弁慶だ。」 と罪もなくけなしたるを、お貞は聞きつつ微笑みたりしが、ふと立ちて店に出で行き、往来の左右を視め、旧の座に帰りて四辺をし、また板敷に伸上りて、裏庭より勝手などを、巨細に見て座に就きつ。 「それはね、芳さん、こうなのよ。」 という声もハヤふるえたり。 「芳さんだと思って話すのだから、そう思ッて聞いておくれ。 私はね、可いかい。そのつもりで聞いておくれ。私はね、いつごろからという確なことは知らないけれど、いろんな事が重り重りしてね、旦那が、旦那が、どうにかして。 死んでくれりゃいい。死んでくれりゃいい。死ねばいい。死ねばいい。 とそう思うようになったんだよ。ああ、罪の深い、呪詛うのも同一だ。親の敵ででもあることか、人並より私を思ってくれるものを、(死んでくれりゃいい)と思うのは、どうした心得違いだろうと、自分で自分を叱ってみても、やっぱりどうしてもそう思うの。 その念が段々嵩じて、朝から晩まで、寝てからも同一ことを考えてて、どうしてもその了簡がなおらないで、後暗いことはないけれど、何に着け、彼に着け、ちょっとの間もその念が離れやしない。始終そればかりが気にかかって、何をしても手に着かないしね、じっと考えこんでいる時なんざ、なおのこと、何にも思わないでその事ばかり。ああ、人の妻の身で、何たる恐しい了簡だろうと、心の鬼に責められちゃあ、片時も気がやすまらないで、始終胸がどきどきする。 それがというと、私の胸にあることを、人に見付かりやしまいかと、そう思うから恐怖んだよ。 わけても、旦那に顔を見られるたびに、あの眼が、何だか腹の中まで見透すようで、おどおどしずにゃいられない。(貞)ッて一声呼ばれると、直ぐその、あとの句が、(お前、吾の死ぬのが待遠いだろう。)とこう来るだろうと思うから、はッとしないじゃいられないわね。それで何ぞ外のことを言われると、ほッと気が休まって、その嬉しさっちゃないもんだから、用でも、何でも、いそいそする。 それにこうやって、ここへ坐って、一人でものを考えてる時は、頭の中で、ぐるぐるぐるぐる、(死ねば可い)という、鬼か、蛇か、何ともいわれない可恐ものが、私の眼にも見えるように、眼前に駈まわっているもんだから、自分ながら恐しくッて、観音様を念じているの。そこへがらりと戸を開けられちゃあ、どうして慌てずにいられよう。(ああ、めッかった。)と、もう死んだ気になっちまう! それが心配で、心配で、どうぞして忘れたいと思うから、けもないことにわあわあ騒いだり、笑ったり、他所めには、さも面白そうに見えようけれど、自分じゃ泣きたいよ。あとではなおさら気がめいッて、ただしょんぼりと考え込むと、また、いつもの(死ねばいい)が見えるようなの。 恐しくッてたまらないから、どうぞこの念がなくなりますようにと、観音様に願っても、罪が深いせいなのか、段々強くなるばかり。 気のせいか知らないけれど、旦那は日に日に血色が悪くなって、次第に弱って行く様子、こりゃ思いが届くのかと考えると、私ゃもう居ても起っても堪らない。 だから旦那が煩いでもすると、ハッと思って、こりゃどうでも治さないと、私が呪詛殺すのだと、もうもうさほどでもない病気でも、夜の目も寝ないで介抱するが、お医者様のお薬でも、私の手から飲ませると、かえって毒になるようで、何でも半日ばかりの間は、今にも薬の毒がまわって、血でも吐きやしないかしらと、どうしてその間の心配というものは! でもそれでもやっぱり考えることといったら、ちっとも違はない、(死ねば可い。)で、早くなおって欲しいのは、実は(死ねば可い。)と思うからだよ。 ねえ、芳さん分ったろう。もう胸が一杯で、口も利かれやしないから、後生だ、推量しておくれ。も、私ゃ、私はもう芳さんどうしたら可いんだねえ。」 と身を震わしたるいじらしさ! お貞がこの衷情に、少年は太く動かされつ。思わず暗涙を催したり。 「ああ姉様は可哀そうだねえ。僕が、僕が、僕が、どうかしてあげようから、姉さん死んじゃあ不可いよ。」 お貞は聞きて嬉しげに少年の手をじっと取りて、 「嬉しいねえ。何の自害なんかするもんかね、世間と、旦那として私をこんなにいじめるもの。いじめ殺されて負けちゃ卑怯よ。意気地が無いわ。可いよ、そんな心配は要らないよ。私ゃ面あてにでも、活きている。たといこの上幾十倍のつらい悲しいことがあっても、きっと堪えて死にゃあしないわ。と心強くはいってみても、死なれないのが因果なのだねえ。」 ほろりとして見る少年の眼にも涙を湛えたり。時に二階より老女の声。 「芳や、帰ったの。」 「あれ、おばあさんが。」 「はい、唯今。」
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