十四
二段ばかり少年は壇階子を昇り懸けて、と顧みて驚きぬ。時彦は帰宅して、はや上口の処に立てり。 我が座を立ちしと同時ならむ。と思うも見るもまたたくま、さそくの機転、下を覗きて、 「もう、奥様、何時です。」 「は。」 とお貞は起ちたるが、不意に顛倒して、起ちつ、居つ。うろうろ四辺を見廻す間に、時彦は土間に立ちたるまま、粛然として帯の間より、懐中時計を取出し、丁寧に打視めて、少年を仰ぎ見んともせず、 「五十九分前六時です。」 「憚様。」 と少年は跫音高く二階に上れり。 時彦は時計を納めつ。立ちも上らず、坐りも果てざる、妻に向いて、沈める音調、 「貞、床を取ってくれ、気分が悪いじゃ。貞、床をとってくれ、気分が悪いじゃ。」 面は死灰のごとくなりき。
十五
時彦はその時よりまた起たず、肺結核の患者は夏を過ぎて病勢募り、秋の末つ方に到りては、恢復の望絶果てぬ。その間お貞が尽したる看護の深切は、実際隣人を動かすに足るものなりき。 渠は良人の容体の危篤に陥りしより、ほとんど一月ばかりの間帯を解きて寝しことあらず、分けてこのごろに到りては、一七日いまだかつて瞼を合さず、渠は茶を断ちて神に祈れり。塩を断ちて仏に請えり。しかれども時彦を嫌悪の極、その死の速かならんことを欲する念は、良人に薬を勧むる時も、その疼痛の局部を擦る隙も、須臾も念頭を去りやらず。甚しいかなその念の深く刻めるや、おのが幾年の寿命を縮め、身をもて神仏の贄に供えて、合掌し、瞑目して、良人の本復を祈る時も、その死を欲するの念は依然として信仰の霊を妨げたり。 良人の衰弱は日に著けきに、こは皆おのが一念よりぞと、深更四隣静まりて、天地沈々、病者のために洋燈を廃して行燈にかえたる影暗く、隙間もる風もあらざるにぞ、そよとも動かぬ灯影にすかして、その寂たること死せるがごとき、病者の面をそと視めて、お貞は顔を背けつつ、頤深く襟に埋めば、時彦の死を欲する念、ここぞと熾に燃立ちて、ほとんど我を制するあたわず。そがなすままに委しおけば、奇異なる幻影眼前にちらつき、※[#「火+發」、153-7]と火花の散るごとく、良人の膚を犯すごとに、太く絶え、細く続き、長く幽けき呻吟声の、お貞の耳を貫くにぞ、あれよあれよとばかりに自ら恐れ、自ら悼み、且つ泣き、且つ怒り、且つ悔いて、ほとんどその身を忘るる時、 「お貞。」 と一声、時彦は、鬱し沈める音調もて、枕も上げで名を呼びぬ。 この一声を聞くとともに、一桶の氷を浴びたるごとく、全身の血は冷却して、お貞は、 「はい。」 と戦きたり。 時彦はいともの静に、 「お前、このごろから茶を断ッたな。」 「いえ、何も貴下、そんなことを。」 と幽かにいいて胸を圧えぬ。 時彦は頤のあたりまで、夜着の襟深く、仰向に枕して、眼細く天井を仰ぎながら、 「塩断もしてるようだ。一昨日あたりから飯も食べないが、一体どういう了簡じゃ。」 (貴下を直したいために)といわんは、渠の良心の許さざりけむ、差俯向きてお貞は黙しぬ。 「あかりが暗い、掻立てるが可い。お前が酷く瘠せッこけて、そうしょんぼりとしてる処は、どう見ても幽霊のようじゃ、行燈が暗いせいだろう。な。」 「はい。」 お貞は、深夜幽霊の名を聞きて、ちりけもとより寒さを感じつ。身震いしながら、少しく居寄りて、燈心の火を掻立てたり。 「そんなに身体を弱らせてどうしようという了簡なんか。うむ、お貞。」 根深く問うに包みおおせず、お貞はいとも小さき声にて、 「よく御存じでございます。」 「むむ、お前のすることは一々吾ゃ知っとるぞ。」 「え。」 とお貞はずり退りぬ。 「茶断、塩断までしてくれるのに、吾はなぜ早く死なんのかな。」 お貞は聞きて興覚顔なり。 時彦の語気は落着けり。 「疾く死ねば可いと思うておって、なぜそんな真似をするんだな。」 と声に笑いを含めて謂えり。お貞はほとんど狂せんとせり。 病者はなおも和かに、 「何、そう驚くにゃ及ばない。昨日今日にはじまったことではないが、お貞、お前は思ったより遥に恐しい女だな。あれは憎い、憎い奴だから殺したいということなら、吾も了簡のしようがあるが、(死んでくれりゃ可い。)は実に残酷だ。人を殺せば自分も死なねばならぬというまず世の中に定規があるから、我身を投出して、つまり自分が死んでかかって、そうしてその憎い奴を殺すのじゃ。誰一人生命を惜まぬものはない、活きていたいというのが人間第一の目的じゃから、その生命を打棄ててかかるものは、もう望を絶ったもので、こりゃ、隣むべきものである。 お前のはそうじゃあない。(死んでくれりゃ可い)と思うので、つまり精神的に人を殺して、何の報も受けないで、白日青天、嫌な者が自分の思いで死んでしまった後は、それこそ自由自在の身じゃでの、仕たい三昧、一人で勝手に栄耀をして、世を愉快く送ろうとか、好な芳之助と好いことをしようとか、怪しからんことを思うている、つまり希望というものがお前にあるのだ。 人の死ぬのを祈りながら、あとあとの楽みを思うている、そんな太い奴があるもんか。 吾はきっと許さんぞ。 そうそう好なまねをお前にされて、吾も男だ、指を啣えて死にはしない。 といつも思っていたんだが、もうこの肺病には勝たれない、いや、つまり、お前に負けたのだ。 してみれば、お貞、お前が呪詛殺すんだと、吾がそう思っても、仕方があるまい。 吾はどのみち助からないと、初手ッから断念めてるが、お貞、お前の望が叶うて、後で天下晴に楽まれるのは、吾はどうしても断念められない。 謂うと何だか、女々しいようだが、報のない罪をし遂げて、あとで楽をしようという、虫の可いことは決して無い。またそうさせるような吾でもない。 お貞、謝罪をしちゃあ可かんぞ。お前は何も謝罪をすることもなし、吾も別に謝罪を聞く必要も認めんじゃ。悪かったというて謝罪をすればそれで済む、謝罪を聞けば了簡すると、そんな気楽なことを思うと、吾のいうことが分るまいでな。何でもしたことには、それ相当の報酬というものが、多くもなく、少なくもなく、ちょうど可いほどあるものだと、そう思ってろ! 可いか、お貞、……お貞。」 と少し急き込みて、絶え入るばかりに咽びつつ、しばらく苦痛を忍びしが、がらがらと血を吐きたり。 いつもかかることのある際には、一刀浴びたるごとく、蒼くなりて縋り寄りし、お貞は身動だもなし得ざりき。 病者は自ら胸を抱きて、眼を瞑ること良久しかりし、一際声の嗄びつつ、 「こう謂えばな、親を蹴殺した罪人でも、一応は言訳をすることが出来るものをと、お前は無念に思うであろうが、法廷で論ずる罪は、囚徒が責任を負ってるのだ。 今お前が言訳をして、今日からどんな優しい気になろうとも、とても助からない吾に取っては、何の利益も無いことで、死んでしまえば、それ、お前は日本晴で、可いことをして楽むんじゃ。そううまくはきっとさせない。言訳がましいことを謂うな。聞くような吾でもなし。またお前だってそうだ。人殺よりなおひどい、(死んでくれれば可い)と思うほどの度胸のある婦人でないか。しっかりとしろ! うむ、お貞。」 お貞は屹と顔を上げて、 「はい、決して申訳はいたしません。」 といと潔よく言放てる、両の瞳の曇は晴れつ。旭光一射霜を払いて、水仙たちまち凜とせり。 病者は心地好げに頷きぬ。 「可し、よく聞け、お貞。人の死ぬのを一日待に待ち殺して、あとでよい眼を見ようというはずるいことだ。考えてみろ。お前は今までに人情の上から吾に数え切れない借があろう。それをな、その負債をな。今吾に返すんだ。吾はどうしても取ろうというのだ。」 いと恐しき声にもおじず、お貞は一膝乗出して、看病疲れに繕わざる、乱れし衣紋を繕いながら、胸を張りて、面を差向け、 「旦那、どうして返すんです。」 「離縁しよう。いまここで、この場から離縁しよう。死にかかっている吾を見棄てて、芳之助と手を曳いて、温泉へでも湯治に行け。だがな、お前は家附の娘だから、出て行くことが出来ぬと謂えば、ナニ出て行くには及ばんから、床ずれがして寝返りも出来ない、この吾を、芳之助と二人で負って行って、姨捨山へ捨てるんだ。さ、どちらでも構わない。ただ、(人の妻たる者が、死にかかってる良人を見棄てた。)とこういうことが世間へ知れて、世の中の者がみんなその気でお前に附合えば、それで可い、それで可い。ちっとは負債が返せるのだ。 しかし、これはお前には出来ぬこッた。お前は世間体というものを知ってるから、平生、吾が健全な時でも、そんな事はにも出さないほどだ。それが出来るくらいなら、もう疾くに離別てしまったに違いない。うむ、お貞、どうだ、それとも見棄てて、離縁が出来るか。」 お貞は一思案にも及ばずして、 「はい、そんなことは出来ません。」 病者はさもこそと思える状なり。 「それではお貞、お前の念いで死なないうちに、……吾を殺せ。」 と静にいう。 「え、貴下を!」 「うむ、吾を。お貞、ずるい根性を出さないで、表向に吾を殺して、公然、良人殺しの罪人になるのだ。お貞、良人殺の罪人になるのだ。うむお貞。 吾を見棄てるか、吾を殺すか、うむ、どちらにするな。何でも負債を返さないでは、あんまり冥利が悪いでないか。いや、ないかどころでない! そうしなけりゃ許さんのだ。うむ、お貞、どっちにする、殺さないと、離縁にする!」 といと厳かに命じける。お貞は決する色ありて、 「貴下、そ、そんなことを、私にいってもいいほどのことがあるんですか。」 声ふるわして屹と問いぬ。 「うむ、ある。」 と確乎として、謂う時病者は傲然たりき。 お貞はかの女が時々神経に異変を来して、頭あたかも破るるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面蒼くなりながら、身火烈々身体を焼きて、恍として、茫として、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気を眼にこめて、その瞳をも動かさで、じっと人を目詰むれば他をして身の毛をよだたすことある、その時と同一容体にて、目まじろぎもせで、死せるがごとき時彦の顔を瞻りしが、俄然、崩折れて、ぶるぶると身震いして、飛着くごとく良人に縋りて、血を吐く一声夜陰を貫き、 「殺します、旦那、私はもう……」 とわッとばかりに泣出しざま、擲たれたらんかのごとく、障子とともに僵れ出でて、衝と行き、勝手許の暗を探りて、渠は得物を手にしたり。 時彦ははじめのごとく顔の半ばに夜具を被ぎ、仰向に寝て天井を眺めたるまま、此方を見向かんともなさずして、いとも静に、冷かに、着物の袖も動かさざりき。 諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢を過りたまわん時、好事の方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏の旅店? と問われよ。老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就褥の後に御注意あれ。 間広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森として、凄風一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然たる足音あり寂寞を破り近着き来りて、黒きもの颯とうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗うあらむ。その時声を立てられな。もし咳をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返の背向に、あとあし下りに入り来りて、諸君の枕辺に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然としたまわんか。トタンに件の幽霊は行燈の火を吹消して、暗中を走る跫音、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭に至りて、そのままハタと留むべきなり。 夜はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮りて、諸君は一夜を待明かさむ。 明くるを待ちて主翁に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然としてその実を語るべきなり。 聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室に行け。密閉したる暗室内に俯向き伏したる銀杏返の、その背と、裳の動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸の透より見るを得べし。これ蓋し狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。 されど室内に立入りて、その面を見んとせらるるとも、主翁は頑として肯ぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾来世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。渠は恐懼て日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明その膚に一注せば、渠は立処に絶して万事休まむ。 光を厭うことかくのごとし。されば深更一縷の燈火をもお貞は恐れて吹消し去るなり。 渠はしかく活きながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺すなかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや。
明治二十九(一八九六)年二月
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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