風雨を貫く謡の声
「オーイ甚内!」と呼ぶ声がした。「しけが来るぞヨー、帆を下ろせヨー」 「オーイ」と甚内はすぐ応じた。それから銀之丞へ会釈したが、「しけが来るようでございます。ちょっとご免を被ります」 いい捨てクルリと身を翻えすと、兄の死を痛み悲しんでいた、もう今までの甚内ではない。熟練をした勇敢な、風浪と戦うかこであった。 帆綱を握るとグイと引いた。ギーギーという音がして、左右に帆柱が揺いたかと思うと、張り切った帆が弛んで来た。 「ヨイショヨイショ、ヨイショヨイショ!」 掛け声と共に手繰り下ろした。 星が消えたと見る間もなく、ザーッと雨が落として来た。篠突くような暴雨であった。雨脚が乱れて濛気となり、その濛気が船を包み、一寸先も見えなくなった。轟々という凄じい音は、巻立ち狂う波の音で、キキー、キキーと物悲しい、咽ぶような物の音は、船の軋む音であった。空を仰げば黒雲湧き立ち、電光さえも加わった。凄じい暴風雨となったのであった。 「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」 その荒涼たる光景の中から、十数人のかこの声ばかりが、雄々しく勇ましく響いて来た。 乗客は悉く胴の間に隠れ、不安に胸を躍らしていた。ただ一人銀之丞ばかりが、船のへさきに突っ立っていた。 「ああいいな。勇ましいな」彼は呟いたものである。「自然の威力に比べては、何んて人間はちっぽけなんだろう? だがいやいやそうでもないな、かこはどうだ! あの姿は!」 銀之丞は武者揮いをした。 「自然の威力を突き破ろうと、ぶつかって行くあの力! 恐ろしい運命にヒタと見入り、刃向かって行くあの態度! これが本当の人間だな! ふさぎの虫も糸瓜もない! あるものは力ばかりだ! いいな、実にいい、生き甲斐があるな!」 嵐は益吹き募り、雨はいよいよ量を増した。所は名に負う九十九里ヶ浜、日本近海での難場であった。四辺は暗く浪は黒く、時々白いものの閃めくのは、砕けた浪の穂頭であった。 「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」 かこどもの呼ぶ掛け声は、益勇敢に響き渡った。しかし人力には限りがあり、自然の暴力は無限であった。 かこは次第に弱って来た。船がグルグルと廻り出した。 「もういけねえ! もういけねえ!」 悲鳴の声が聞こえて来た。 真っ黒の大浪がうねりをなし、小山のように寄せたかと思うと、船はキリキリと舞い上がった。 「助けてくれえ!」 と叫ぶのは、胴の間にいる乗客達であった。 と、この時、朗々たる、謡の声が聞こえて来た。 神か鬼神かこの中にあって、悠々と謡をうたうとは! 暴風暴雨を貫いて、その声は鮮かに聞こえ渡った。 「誰だ誰だ謡をうたうのは!」 「偉えお方だ! 偉えお方だ!」 「偉えお方が乗っておいでになる! 船は助かるぞ助かるぞ!」 「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」 ふたたびかこの声は盛り返した。その声々に抽んでて、謡の声はなおつづいた。 船が銚子へ着いたのは、その翌日のことであった。
「主知らずの別荘」の別荘番
「オイオイ若いの。オイ若いの」 かくばかり経高く見ゆる世の中に、羨ましくも澄む月の、出汐をいざや汲もうよ…… 「オイオイ若いの。オイ若いの」 影はずかしき我が姿、忍び車を引く汐の…… 「うなっては困る。うなっては困る」 「誰もうなってはいないではないか」 「お前の事だ。うなっては困る」 「おれは何もうなってはいない」 「今までうなっていたじゃないか」 おもしろや、馴れても須磨の夕まぐれ、あまの呼び声かすかにて…… 「あれ、いけねえ、またうなり出した」 沖に小さき漁り舟の、影幽かなる月の顔…… 「やりきれねえなあ、うなっていやがら」 仮りの姿や友千鳥、野分汐風いずれも実に、かかる所の秋なりけり、あら心すごの夜すがらやな…… 「オイオイ若いの。困るじゃねえか」 「なんだ貴様。まだいたのか」 「お前がうなっているからよ」 「解らない奴だ。うなるとは何んだ。これはな謡をうたっているのだ」 「ははあ、そいつが謡ってものか」 「めったに聞けない名人の謡だ。後学のために謹聴しろ」 「あれ、あんなことをいっていやがる。自分で自分を名人だっていやがる」 「アッハッハッハッそれが悪いか」 「なんと自惚れの強いわろだ」 「アッハッハッハッ、自惚れに見えるか。……さて、もう一度聞かせてやるかな」 「オットオットそいつあいけねえ。勘弁してくんな、おれが叱られる」 「おかしな奴だな。誰に叱られる?」 「旦那によ、旦那殿によ」 「なぜ叱られる。何んの理由で?」 「やかましいからよ。うなるのでな」 「ははあ、それでは謡のことか」 「うん、そうとも、他に何がある」 「我がままな奴だな。こういってやれ。ここは銚子獅子ヶ岩、向こうは荒海太平洋だ。あたり近所に人家はない。謡おうとうなろうと勝手だとな。その旦ツクにいってやれ」 「うんにゃ、駄目だ。おれが叱られる」 「よかろう。勝手に叱られるさ」 「おれが困るよ。だから頼む。……第一声が透り過ぎらあ。洞間声[#「洞間声」はママ]っていう奴だからな」 「洞間声[#「洞間声」はママ]だって? こいつは助からぬ。アッハッハッハッ、いや面白い」 「面白くはねえよ。面白いものか。叱られて何んの面白いものか」 「よっぽど解らずやの旦那だな」 「フン、何んとでもいうがいいや」 「いったい誰だ? お前の旦那は?」 「お金持ちだよ。大金持ちだ」 「金があっても趣味がなければ、馬や牛と大差ないな」
厳重を極めた別荘普請
「だがお前の主人というのは、いったいどこに住んでるのか?」 「お前さんそいつを知らねえのか」 「知らないとも、知る訳がない」 「だが、やしきは知ってる筈だ」 「お前の主人のやしきをな?」 「うんそうさ、有名だからな」 「いいや、おれはちっとも知らない」 「そんな筈はねえ、きっと知ってる」 「おかしいな。おれは知らないよ」 「獅子ヶ岩から半町北だ」 「獅子ヶ岩から半町北と?」 「近来普請に取りかかったやしきだ」 「や、それじゃ『主知らずの別荘』か?」 「そうれ、ちゃアんと知ってるでねえか」 「その別荘なら知ってるとも」 「それがおれの主人の巣だ」 「ふうん、そうか。やっと解った」 「随分有名な邸だろうが?」 「銚子中で評判の邸だ」 「それがおれの主人の邸だ」 「そこでお前にきくことがある。何んと思ってあんな普請をした?」 「あんな普請とはどんな普請だ?」 「まるで砦の構えではないか」 「…………」 「厚い石垣、高い土塀、たとえ大砲を打ちかけても、壊れそうもない厳重な門、海水をたたえた深い堀、上げ下げ自由な鉄の釣り橋、え、オイまるで砦じゃないか」 「おれの知ったことじゃねえ」 「で、主人はいつ来たのだ?」 「うん、主人はずっと以前からよ……そうさ今から二月ほど前から、こっそりあそこへ来ているんだ」 「ほほう、そうか、それは知らなかった」 「ところが他のご家族達も、二、三日中には越して来るのだ」 「それで家族は多いのか?」 「うん、奥様とお嬢様と、坊様と召使い達だ」 「では『主知らずの別荘』が、いよいよ主を迎えた訳だな」 「そうかもしれねえ。うん、そうだ」 「ところで主人の身分は何んだ?」 「主人の身分か? 主人の身分はな……いやおれは何んにも知らねえ」 「ははあ隠すつもりだな」 「おれは何んにも知らねえよ」 「で、お嬢様は別嬪かな?」 「おれは何んにも知らねえよ」 「いよいよ隠すつもりだな」 「おれはちっとばかりしゃべり過ぎたからな」 「ところでお前は何者だな?」 「おれは何んにも知らねえよ」 「ふざけちゃいけない、馬鹿なことをいうな」 「ああおれか、別荘番だよ」 「うん、そうか、別荘番か。『主知らずの別荘』の別荘番だな」 「別荘番の丑松ってんだ」 「噂は以前から聞いていたよ」 「おれは銚子では名高いんだからな」 「そうだ、お前は名高いよ。『主知らずの別荘』と同じにな」 「ところでお前さん、何者だね?」 「おれか、おれは能役者だ」 「ああ役者か、何んだ詰まらねえ」 「口の悪い奴だ。詰まらねえとは何んだ」
駕籠から覗いた美しい女
「姓名の儀は何んていうね?」 「姓名の儀はとおいでなすったな。姓名は観世銀之丞」 「ほほん、銀之丞か。役者らしい名だ。詰めていうと銀公だな。そうじゃアねえ、銀的だ」 「口の悪い奴だ。いよいよ口が悪い。が、まあ銀公でも銀的でもいい」 「お前さん、この土地へはいつ来たね?」 「二十日ほどまえだ。それがどうしたな」 「あッ、やっと思い出した。そうそうお前さんはお品の婿だね」 「お品の婿だって。何んのことだ?」 「隠したって駄目だ。評判だからな」 「そうか、何んにしても有難い」 「厭な野郎だな、礼をいっていやがる」 「めでたそうな話だからよ」 「だってお前さん評判だぜ。お品の所へ江戸の役者が、入り婿となって来たってな」 「お品の家の離れ座敷を、たしかにおれは借りているよ」 「ソーレ見たか、泥を吐きおった」 「そうしてお品はいい娘だ」 「甘え野郎だ、惚気ていやがる」 「銚子小町だということだな」 「鼻持ちがならねえ、いろきちげえ!」 「だが、銚子の小町娘も、田の草を取ったり網を干したり、野良馬の手綱をひいたりしたでは、こいつどうも色消しだな」 「そいつはどうも仕方がねえ。この辺は半農半漁だからな。よっぽどいい所の娘っ子でも、漁にも出れば作もするよ」 「それはそうだ、御意の通りだ。そうして実はお品にしてからが、その網干しの姿とか、ないしは草取りの姿の方が、ちんと澄ました姿より、よっぽど可愛く見えるからな」 「おやまたかい。また惚気かい」 「どれ、そろそろ帰ろうかな、お品の顔でも見に帰るか」 「変な野郎だ。どう考えても変だ」 観世銀之丞と丑松とはこんな塩梅に親しくなった。
「銀之丞さま、銀之丞さま!」 お品が往来で呼んでいた。 「オイ何んだい、お品さん」 「出てごらんなさいよ、通りますよ」 そこで銀之丞は離れ座敷から、往来の方へ出て行った。 お品や、お品の両親や、近所の人達が道側に立って、南の方を眺めていた。 とそっちから行列が、だんだんこっちへ近寄って来た。馬が五頭駕籠が十挺、それから小荷駄を背に負った、十数人の人夫達で、外ならぬ「別荘」の家族連であった。今移転して来たのであろう。 「ねえ、随分大勢じゃないか」「そうさね、随分大勢だね」「荷物だって沢山じゃないか」「そうさ随分沢山だなあ」「どんな人達だか見たいものだね」「お生憎様、駕籠が閉じている」「これでマア別荘も賑やかになるね」「化物屋敷でなくなるわけさ」「それにしても妙だったね。十年このかたあの別荘には主人って者がなかったんだからね」「ところが主人が来るとなると、この通り大仰だ」「きっと主人はお金持ちで、あっちにもこっちにも別荘があるので、こんな辺鄙な別荘なんか、今まで忘れていたのかもしれない」「それにしてもおかしいじゃないか、あの厳重な普請の仕方は」「ちょうど敵にでも攻められるのを、防ぐとでもいったような構えだね」「黙って黙って、ソレお通りだ」 そこへ行列がやって来た。 すると三番目の駕籠の戸が、コトンと内から開けられて、美しい女の顔が覗いた。
そそられた銀之丞の心
銀之丞は何気なくそっちを見た。 女の視線と銀之丞の視線が、偶然一つに結ばれた。と、女はどうしたものか、幽かではあるがニッと笑った。「おや」と銀之丞は思いながらも、その笑いにひき込まれて、思わず彼もニッと笑った。 と、駕籠の戸がポンと閉じ、そのまま行列は行き過ぎた。 はなれへ戻って来た銀之丞は、空想せざるを得なかった。 「悪くはないな、笑ってくれたんだ! だがいったいあの女は、おれをまえから知っていたのかしら? そんな訳はない知ってる筈はない。……とにかく非常な別嬪だった。さて、恋が初まるかな。こんな事から恋が初まる? あり得べからざる事でもない」 その時庭の飛び石を渡り、お品がはなれへ近寄って来た。色は浅黒いが丸顔で、眼は大きく情熱的で、そうして処女らしく清浄な、すべてが初々しい娘であったが、手に茶受けの盆を捧げ、にこやかに笑いながら座敷へ上がった。 「お茶をお上がりなさいませ」 「ああお茶かね、これは有難い。旨そうなお茶受けがありますな」 「土地の名物でございますの」 「ふうむ、なるほど、海苔煎餅」 お品はいそいそと茶を注いだ。 豪農というのではなかったが、お品の家は裕福であった。主人夫婦も人柄で、しかもなかなか侠気があり、銚子の五郎蔵とも親しくしていた。銀之丞が頼むと快く、すぐにはなれを貸したばかりか、万事親切に世話をした。ひとつは銀之丞が江戸で名高い、観世宗家の一族として、名流の子弟であるからでもあったが、主人嘉介が風流人で、茶の湯活花の心得などもあり、謡の味なども知っていたからであった。 お品は一人子で十九歳、肉体労働をするところから、体は発達していたが、心持ちはほんのねんねえであった。一見銀之丞が好きになり、兄に仕える妹のように、絶えず銀之丞へつきまとった。 そういう家庭に包まれながら、本職の謡を悠々と、研究するということは、彼にとっては理想的であった。それに彼にはこの土地が、ひどく心に叶っていた。漁師町であり農村であり、且つ港である銚子なる土地は、粗野ではあったが詩的であった。単純の間に複雑があり、「光」と「影」の交錯が、きわめて微妙に行われていた。もちろん、信州追分のような、高原的風光には乏しかったが、名に負う関東大平原の、一角を占めていることであるから、森や林や丘や耕地や、沼や川の風致には、いい尽くせない美があって、それが彼には好もしかった。 それに何より嬉しかったのは、太平洋の荒浪が、岸の巌にぶつかって、不断に鼓の音を立てる、その豪快な光景で、それを見るとしみじみと「男性美」の極致を感じるのであった。 そこで彼は毎夜のように、獅子ヶ岩と呼ばれる岩の上へ行って、声の練磨をするのであった。 彼は本来からいう時は、観世の家からは勘当され、また観世流の流派からは、破門をされた身分であった。でもし彼が凡人なら、そういう自家の境遇を、悲観せざるを得なかったろう。しかるに彼は悲観もせず、また絶望もしなかった。それは彼が天才の上に、一個文字通りの近代人だからで、真の芸術には門閥はないと、固く信じているからであった。 とはいえ彼とて人間であり、殊には烈々たる情熱においては、人一倍強い芸術家のことで、父母のことや友人のことは、忘れる暇とてはないのであった。わけても親友の平手造酒の、その後の消息に関しては、絶えず心を配っていた。 それに彼は生まれながら、都会人の素質を持っていて、江戸の華やかな色彩に対しては、あこがれの心を禁じ得なかった。 ところが今日はからずも、江戸めいた美しい女の顔を、駕籠の中に見たばかりか、その女から笑い掛けられたのであった。 彼の心が動揺し、それが態度に現われたのは、やむを得ないことであろう。
紙つぶてに書かれた「あ」の一字
「どう遊ばして、銀之丞様」 お品が不足そうに声をかけた。「考え込んでおりますのね」 「や、そんなように見えますかな」 「お菓子を半分食べかけたまま、手に持っておいでではありませんか」 「これはこれは、どうしたことだ」 「どうしたことでございますやら」 「おおわかった、これはこうだ」テレ隠しにわざと笑い、「あんまりお品さんが可愛いので、それで見とれていた次第さ」 「お気の毒様でございますこと」 「ナニ気の毒? なぜでござるな?」 「なぜと申してもあなた様のお目は、わたしの顔などご覧なされず、さっきからお庭の石燈籠ばかり、ご覧になっているではございませんか」 「いや、それには訳がある」 「なんの訳などございますものか」 「なかなかもってそうでない。すべて燈籠の据え方には、造庭上の故実があって、それがなかなかむずかしい」 「おやおや話がそれますこと」 「冷かしてはいけないまずお聞き、ところでそこにある石燈籠、ちとその据え方が違っている」 「オヤさようでございますか」いつかお品はひき込まれてしまった。 「茶の湯、活花、造庭術、風雅の道というものは、皆これ仏教から来ているのだ」 「まあ、さようでございますか」 「ところが中頃その中へ、武術の道が加わって、大分作法がむずかしくなった」 「まあ、さようでございますか」お品は益熱心になった。 「で、そこにある石燈籠だが、これはこの室と枝折戸との、真ん中に置くのが本格なのだ」 「どういう訳でございましょう?」 「門の外から室の様子を、見られまいための防禦物だからで、横へ逸れては目的に合わぬ。ところがこれは逸れている。室の様子がまる見えだ」 「そういえばまる見えでございますね」 お品はすっかり感心して、銀之丞の話に耳傾けた。 それが銀之丞には面白かった。もちろん彼の説などは、拠りどころのない駄法螺なので、それをいかにももっともらしく、真顔を作って話すというのは、どうやらお品に弱点を握られ、今にもそこへさわられそうなのが、気恥ずかしく思われたからであった。つまりいい加減の出鱈目をいって、話を逸らそうとするのであった。 「だから」と銀之丞はいよいよ真面目に、「もしもここに敵があって、この部屋の主人を討とうとして、あの枝折戸の向こうから、鉄砲か矢を放したとしたら、ここの主人はひとたまりもなく、討たれてしまうに相違ない。すなわち防禦物の石燈籠が、横へ逸れているからだ」 「ほんにさようでございますね」 「しかるによって……」 といよいよ図に乗り、喋舌り続けようとした銀之丞は、にわかにこの時「あッ」と叫び、グイと右手を宙へ上げた。間髪を入れずとんで来たのは、紙を巻いたいしつぶて! さすがは武道にも勝れた彼、危いところで受けとめた。 「あれ」 と驚くお品を制し、銀之丞は紙をクルクルと解いた。 と、紙面にはただ一字「あ」という文字が記されてあった。
刎ね橋と開けられた小門
その翌日のことであったが、銀之丞が一人野をあるいていると、どこからともなくいしつぶてが、例のように飛んで来た。受け取って見ると紙が巻いてあった。そうして紙にはただ一字「い」という文字が書いてあった。 最初のつぶてには「あ」と書いてあり、次のつぶてには「い」と書いてあった。二つ合わせると「あい」であった。「ハテ『あい』とはなんだろう?」思案せざるを得なかった。「これを漢字に当て嵌めると『鮎』ともなれば『哀』ともなる。『間』ともなれば『挨』ともなる。そうかと思うと『靉』ともなる。いずれ何かの暗号ではあろうが、さて何んの暗号だろう? そうしていったい何者が、こんな悪戯をするのだろう?」 考えてみれば気味が悪かった。とはいえ大剛の彼にとっては、恐怖の種とはなりそうもなかった。 それはとにかく、銀之丞は、駕籠の中に見た女の俤を、忘れることが出来なかった。 「女は確かに娘らしい。あの『主知らずの別荘」の、家族の一人に相違ない。それも決して女中などではなく、丑松の話したお嬢さんでもあろう」 女色に淡い彼ではあったが、不思議と心をそそられた。 二度目の暗号を渡された日の、その翌晩のことであったが、彼はフラリと宿を出ると、別荘の方へ足を向けた。それは月影の美しい晩で、そぞろあるきには持って来いであった。少しあるくと町の外れで、すぐに耕地となっていた。その耕地を左右に見て、一本の野良道を先へ進んだ。土橋を渡るともう荒野で、地層は荒々しい岩石であったが、これは海岸に近いからであった。そういえば波の音がした。 彼はズンズンあるいて行った。間もなく別荘の前へ出た。 廻れば五町はたっぷりあろうか、そういう広大な地所の中に、別荘は寂然と立っていた。三間巾の海水堀、高い厚い巌畳な土塀、土塀の内側の茂った喬木、昼間見てさえなかの様子は、見る事が出来ないといわれていた。 夜はかなり更けていた。堀の水は鉛色に煙り、そとへ突き出した木々の枝葉で、土塀のあちこちには蔭影がつき、風が吹くたびにそれが揺れた。前と左右は物寂しい荒野で、そうして背後は岩畳を隔てて、海に続いているらしい。 人っ子一人通っていない。市の燈火は見えていたが、ここからは遙かに隔たっていた。別荘には一点の火光もなく、人のけはいさえしなかった。 それは別荘というよりも、荒野の中の一つ家であり、わすれ去られた古砦であり、人の住居というよりも、死の古館といった方が、ふさわしいように思われた。すでに刎ね橋はひき上げられていた。 「何という寂しい構えだろう」 呟きながら銀之丞は、堀に沿って右手へ廻った。すると意外にも眼の前に、刎ね橋が一筋かかっていた。そこは別荘の側面で、土塀には小門が作られてあったが、それへ通ずる刎ね橋であった。こういう場合おおかたの人は好奇心に捉われるものであった、で、彼も好奇心に駆られ、刎ね橋を向こうへ渡って行った。そうして小門へさわってみた。と、手に連れて音もなく、小門の戸が向こうへ開いた。 「おや」とばかり驚きの声を、思わず口から飛び出させたが、さらに一層の好奇心が、彼の心を駆り立てた。
魔法使いの魔法の部屋か
彼は小門をくぐったものである。 あたりを見ると鬱蒼たる木立で、その木立のはるか彼方に、一座の建物が立っていた、どうやら、別荘のおも屋らしい。さすがに彼もこれ以上、はいり込むには躊躇された。 「しかし」と彼は思案した。「何んというこれは不用心だ。賊でもはいったらどうするつもりだ。一つ注意をしてやろう」で、彼は進んで行った。やがて建物の戸口へ出た。 「ご免」と小声でまず訪い、トントンと二つばかり戸を打った。と、何んたることであろう! その戸がまたも内側へ開き、闇の廊下が現われた。 「おや」とばかり驚きの声を、また出さざるを得なかった。しかし驚きはそれだけではなく、 「おはいり」 というしわがれた声が、廊下の奥から聞こえて来た。 これには銀之丞も度胆を抜かれた。でぼんやり佇んでいた。するとまたもや同じ声がした。 「待っていたよ、はいるがいい」 度胆を抜かれた銀之丞は、今度は極度の好奇心に、追い立てられざるを得なかった。 彼は大胆にはいって行った。三十歩あまりもあるいた時、「ここだ!」という声が聞こえて来た。それは廊下の横からであった。見るとそこに開いた扉があった。で、内へはいって行った。カッと明るい燈火の光が、真っ先に彼の眼を奪った。そのつぎに見えたのは一人の老人で、部屋の奥の方に腰かけていた。 「オイ若いの、戸を締めな」その老人はこういった。 いわれるままに戸を閉じた。それから老人を観察した。身長が非常に高かった。五尺七、八寸はあるらしい。肉付きもよく肥えてもいた。皮膚の色は銅色でそれがいかにも健康らしかった。ただし頭髪は真っ白で、ちょうど盛りの卯の花のようで、それを髷に取り上げていた。銀のように輝くのは、明るい燈火の作用であろう。高い広い理智的な額、眼窩が深く落ち込んでいるため、蔭影を作っている鋭い眼……それは人間の眼というより、鋼鉄細工とでもいった方が、かえって当を得るようだ。美術的高い鼻、強い意志を現わした、固く結ばれた大きな口……顔全体に威厳があった。着ている衣裳も美術的であった。しかしそれは日本服ではなく、阿蘭陀風の服であった。それも船員の服らしく、袖口と襟とに見るも瞬ゆい、金モールの飾りがついていた。手には変った特色もない。ただ手首がいかにも太く、そうして指がいかにも長く、船頭の手などに見るような、握力の強そうな手であった。さて最後に足であるが、足は最も特色的であった。というのは右の足が、膝の関節からなくなっているので、つまり気の毒な跛足なのであった。でズボンも右の分は、左の分よりは短かかった。 彼は長椅子に腰かけていた。その長椅子も日本の物ではなく、やはりオランダかイスパニヤか、その辺の物に相違なかった。長椅子には毛皮がかけられていた。それは見事な虎の皮で、玻璃製の義眼が燈火に反射し、キラキラ光る有様は、生ける虎の眼そっくりであった。毛皮の上には短銃があった。それとて日本の種子ヶ島ではなく、やはり舶来の品らしかった。 部屋はかなり広かった。そうして老人を囲繞して、珍奇な器具類が飾られてあった。縅の糸のやや古びた、源平時代の鎧甲、宝石をちりばめた印度風の太刀、磨ぎ澄ました偃月刀、南洋産らしい鸚鵡の剥製、どこかの国の国王が、冠っていたらしい黄金の冠、黒檀の机、紫檀の台、奈良朝時代の雅楽衣裳、同じく太鼓、同じく笛、大飛出、小飛出、般若、俊寛、少将、釈迦などの能の面、黄龍を刺繍した清国の国旗、牧溪筆らしい放馬の軸、応挙筆らしい大瀑布の屏風、高麗焼きの大花瓶、ゴブラン織の大絨毯、長い象牙に豺の角、孔雀の羽根に白熊の毛皮、異国の貨幣を一杯に充たした、漆塗りの長方形の箱、宝石を充たした銀製の箱、さまざまの形の古代仏像、青銅製の大香炉、香を充たした香木の箱、南蛮人の丸木船模型、羅針盤と航海図、この頃珍らしい銀の時計、忍び用の龕燈提灯、忍術用の黒小袖、真鍮製の大砲模型、籠に入れられた麝香猫、エジプト産の人間の木乃伊、薬を入れた大小黄袋、玻璃に載せられた朝鮮人参、オランダ文字の異国の書籍、水盤に入れられた真紅の小魚……もちろんいちいちそれらの物が、一巡見渡した銀之丞の眼に、理解されて映ったのではなかったけれど、しかし決して夢ではなく、まさしく「実在」として映ったのであった。
奇妙な老人の奇妙な話
「いったいこの部屋は何んだろう? この老人は何者だろう?」銀之丞は茫然と、驚き呆れて佇んでいた。 と、老人が声をかけた。 「待っていたのだ。よく来てくれた。ところでお前は本人かな? それともお前は代理かな?」 いうまでもなくこの言葉は、銀之丞にはわからなかった。すると老人がまたいった。 「本人なら市之丞と呼ぼう。もし代理なら別の名で呼ぼう。黙っていてはわからない」 「いや」と銀之丞はようやくいった。「市之丞ではございません。そんな者ではございません。……」 「ふん、それなら代理だな。それは困った。代理は困る」 「全然話が違います。……刎ね橋が下ろされてありましたので……」 「そうさ、お前を迎えるために、わざわざ下ろして置いたのだ」 「いえ、それに小門の戸も……」 「いうまでもない、開けて置いたよ。それは最初からの約束だからな」 「……それでうかうか参りましたので」 「ナニうかうか? 不用心な奴だ」 「と、いいますのもその不用心を、ご注意しようと存じましてな。……」 「うん、それがいい、お互いにな。不用心は禁物だ。……で、お前は代理なのだな? やむを得ない、我慢しよう。……で、お前の名は何んというな?」 「さよう、拙者は銀之丞……」 「ナニ銀之丞? よく似た名だな。市之丞代理銀之丞か。なるほど、これは代理らしい。よろしい、話を進めよう」 「しばらく、しばらく。お待ちください!」 「えい、あわてるな! 臆病者め! ははあ、お前は恐れているな。いやそれなら大丈夫だ。家族の者は遠避けてある。そこで話を進めよう。だがその前にいうことがある、なぜお前達は俺を嚇した! あんな手紙を何故よこした! 何故この俺を強迫した!」 「俺は知らない!」と銀之丞は、とうとう怒って怒鳴りつけた。「人違いだよ、人違いなのだ」 「ナニ人違いだ? 莫迦をいえ! 今さら何んだ! 卑怯な奴だ! だがマアそれは過ぎ去ったことだ。蒸し返しても仕方がない。しかし俺はいっとくがな、以後強迫は一切止めろ! そんな事には驚かないからな。もちろん本当にもしないのさ。だがいうだけはいった方がいい。そう思って返辞はやった。何んのこの俺が決闘を恐れる! アッハハハ、莫迦な話だ。しかし話がつくものなら、そんな厭な血など見ずと、そうだ平和の談笑裡に、話し合った方がいいからな。で、返辞はやったのさ。そうして俺から指定した通り、ちゃんと小門も開けて置いたのさ。それでも感心に時間通りに来たな。よろしい、よろしい、それはよろしい。ふん、やっぱりお前達も、血を見るのは厭だと見える。あたりめえだ、誰だって厭だ。お互い命は大事だからな。粗末にしては勿体ないからな。……よろしい、それでは話を進めよう。さて、お前達の要求だが、あれは全然問題にならない。あの要求は暴というものだ。まるっきり筋道が立っていない。いわば場違いというものだ。それに時効にもかかっている。オイ、大将、そうじゃないかな! だからあれは肯くことはならぬ! とこうにべもなくいい切ったでは、お前達にしても納まりがつくまい。俺にしても気の毒だ。今夜の会見も無意味になる。後に怨みが残ろうもしれぬ。それではどうも面白くない。そこで少しく色気をつけよう。といってお前達に怖じ恐れて、妥協すると思うと間違うぞ! なんのお前達を恐れるものか! 昔ながらの九郎右衛門だ」
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