流名取り上げ破門の宣言[#「宣言」はママ]
「ナニ、それほどの事でもない」みすぼらしい侍は笑ったが、「実をいえばお言葉通り、世間物騒のおりからといい、かような深夜の一人歩きは、好ましいことではござらぬが、実は拙者は余儀ない理由で、物を尋ねているのでな」 「ははあさようでござるかな。して何をお尋ねかな?」 「ちと変った尋ねものでござる」 「お差し支えなくばお明かしを」 「いやそれはなりませぬ」 「さようでござるかな、やむを得ませぬ。……実はな、拙者もそこもとと同じく、物を尋ねておるのでござるよ。ちと変った尋ねものをな」 「似たような境遇があればあるものだ」 「さよう似たような境遇でござる」 二人はそっと笑い合った。 「ご免くだされ」「ご免くだされ」事もなく二人は別れたものである。 で、老武士はゆるゆると、不忍池に沿いながら、北の方へあるいて行った。二町余りもあるいたであろうか、彼は杭のように突っ立った。 「聞こえる聞こえる鼓の音が!」 果然鼓の音がした。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、微妙極まる音であった。 「うむ、とうとう見つけたぞ! 今度こそは逃がしはせぬ! 小梅で聞いた鼓の音! おのれ鼓賊! こっちのものだ!」 音を慕って老武士は、松平出雲守の邸の方へ、脱兎のように走って行った。 これとちょうど同じ時刻に、例のみすぼらしい侍は、黒門町を歩いていたが、何か考えていると見えて、その顔は深く沈んでいた。 と、行く手の闇の中へ、二つの人影が現われたが、しずしずとこっちへ近寄って来た。登場人物の三人目と、登場人物の四人目であった。近付くままによく見ると、ふたりながら武士であった。 双方ゆるゆる行き過ぎようとした。とたんに事件が勃発した。 と云うのはほかでもない。行き過ぎようとした刹那、その三番目の登場人物が、声も掛けず抜き打ちに、みすぼらしい侍へ切り付けたのであった。その太刀風の鋭いこと、闇をつんざいて紫電一条斜めに走ると思われたが、はたしてアッという悲鳴が聞こえた。しかし見れば意外にも、切り込んで行った武士の方が、大地の上に倒れていた。そうしてみすぼらしい侍が、その上を膝で抑えていた。驚いた四番目の登場人物が、すかさず颯と切り込んで行ったが、咄嗟に掛かった真の気合い、カーッという恐ろしい声に打たれ、タジタジと二、三歩後へ退った。間髪を入れず息抜き気合い、エイ! という声がまた掛かった。と四番目の人物は、バッタリ大地へ膝をついた。この間わずかに一分であった。後は森然と静かであった。と、みすぼらしい侍は、膝を起こして立ち上がったが、それからポンポンと塵を払うと、憐れむような含み声で、 「殺人剣活人剣、このけじめさえ解らぬような、言語に絶えた大馬鹿者、天に代って成敗しようか。いやそれさえ刀の穢れ、このまま見遁がしてやるほどに、好きな所へ行きおろう。……但し、北辰一刀流は、今日限り取り上げる。師弟の誼みももうこれまで、千葉道場はもちろん破門、立ち廻らば用捨せぬぞ」 そのままシトシトと行き過ぎてしまった。実に堂々たる態度であった。二人の武士は一言もなく、そのあとを見送るばかりであった。 と、一人が吐息をした。「オイ観世、ひどい目にあったな?」 「大先生とは知らなかった。平手、これからどうするな?」 「うむ」といって思案したが、「いい機会だ、旅へ出よう。そうして一修行することにしよう」 「武者修行か、それもいいな。ではおれもそういうことにしよう。但しおれは剣はやめだ。おれはおれの本職へ帰る。能役者としての本職へな」
意外、意外、また意外!
さて一方老武士は、ポンポンと鳴る鼓を追って、ドンドンそっちへ走って行ったが、松平出雲守の邸前まで来ると、音の有所が解らなくなった。はてなと思って耳を澄ますと、やっぱり鼓は鳴っていた。どうやら西の方で鳴っているらしい。でそっちへ走って行った。そこに立派な屋敷があった。松平備後守の屋敷であった。しかしそこまで行った時には、もう音は聞こえない。しかしそれより南の方角で、幽かにポンポンと鳴っていた。 「素早い奴だ」と舌を巻きながら、老武士は走らざるを得なかった。式部少輔榊原家の、裏門あたりまで来た時であったが、はじめて人影を見ることが出来た。尾行ける者ありと知ったのでもあろう、もう鼓を打とうとはせず、その人影は走って行った。その走り方を一眼見ると、 「しめた!」と老武士は思わずいった。 「横あるきだ横あるきだ!」 その横歩きの人影は、見る見る煙りのように消えてしまった。 「よし、あの辺は今生院だな。東へ抜けると板倉家、西へ突っ切ると賀州殿、これはどっちも行き止まりだ。さて後は南ばかり、あっ、そうだ湯島へ出たな!」 考える間もとし遅しで、老武士は近道を突っ走った。
「これ、ばか者、気をつけるがいい、何んだ、うしろからぶつかって来て」 こう怒鳴りつける声がした。湯島天神の境内であった。怒鳴ったのは侍で、ほかならぬ観世銀之丞であった。各好む道へ行こう、お前は武者修行へ出るがよい、おれは本職の能役者へ帰ると、こういって親友の平手造酒と、黒門町で手を分かつと、麹町のやしきへ戻ろうと、彼はここまで来たのであった。その時やにわにうしろから、ドンとぶつかったものがあった。 「これ何んとか挨拶をせい。黙っているとは不都合な奴だ」 いいいい四辺を見廻した。するとどこにも人影がない。 「あっ」と銀之丞は飽気に取られた。 「これは不思議、誰もいない」 気がついて自分の手もとを見た。そこでまた彼は「あっ」といった。空身であった彼の手が、変な物を持っていた。 「なんだこれは?」とすかして見たが、三度彼は「あっ」といった。今度こそ本当の驚きであった。彼の持っている変な物こそ、ほかでもない鼓であった。それも尋常な鼓ではない。かつて追分で盗まれた、家宝少納言の鼓であった。 「むう」思わず唸ったが、そのままじっと考え込んだ。 と、また人の足音がした。ハッと思って振り返った眼前へ、ツト現われた老武士があった。 「卒爾ながらおたずね致す」 「何んでござるな、ご用かな?」場合が場合なので銀之丞は、身構えをしてきき返した。 「只今ここへ怪しい人間、確かに逃げ込み参った筈、貴殿にはお見掛けなされぬかな?」 「見掛けませぬな。とんと見掛けぬ」 「それは残念、ご免くだされ」 いい捨て向こうへ駆け抜けようとしたが、幽かな常夜燈の灯に照らし、銀之丞の持っている鼓を見ると、飛燕のように飛び返って来た。 銀之丞の手首をひっ掴むと、「曲者捕った……鼓! 鼓!」 「黙れ!」と銀之丞は一喝した。「鼓がどうした? 拙者の鼓だ!」 「何んの鼓賊め! その手には乗らぬ! 神妙に致せ! 逃がしはせぬぞ!」 「鼓賊とは何んだ! おおたわけ! 拙者は観世銀之丞、柳営おとめ芸の家門だぞ!」 これを聞くと老武士は、にわかに後へ下がったが、 「ナニ観世銀之丞とな。誠でござるかな、どれお顔を……あっ、いかにも銀之丞殿だ!」 「掛け値はござらぬ。銀之丞でござる。……ところで貴殿はどなたでござるな?」
河中へ飛び込んだその早業
「拙者は郡上平八でござる」 「おお玻璃窓の平八老か」 「それに致してもその鼓は?」 「家宝少納言の鼓でござる」 「では、ご紛失なされたという?」 「偶然手もとへ戻りましてな」 「ははあ」といったが平八は、深い絶望に墜落った。「うむ残念、鼓賊めに、また一杯食わされたそうな」 「ご用がなくばこれで失礼」銀之丞は会釈した。 「ご随意にお引き取りくださいますよう」こういったまま平八は、首を垂れて考え込んだ。
銀之丞と別れた平手造酒は、両国の方へあるいて行った。 「下総の侠客笹川の繁蔵は、おれと一面の識がある。ひとまずあそこへ落ち着くとしようか」こんな事を考え考え、橋なかばまで歩いて来た。 と、悲鳴が聞こえて来た。「人殺しい!」と叫んでいた。向こう詰めから聞こえるのであった。造酒は大小を束に掴むと、韋駄天のように走って行った。 見ると覆面の侍が、切り斃した町人の懐中から、財布を引き出すところであった。 「わるもの!」と叫ぶと、拳を揮い、造酒はやにわにうってかかった。「おお、さては貴様だな! 辻斬りをして金を奪う、武士にあるまじき卑怯者は!」 すると覆面の侍は、抜き持っていた血刀を、ズイとばかりに突き出したが、 「貴様も命が惜しくないそうな」……そういう声には鬼気があった。その構えにも鬼気があった。そうして造酒にはその侍に、覚えがあるような気持ちがした。剣技も確かに抜群であった。 油断はならぬと思ったので、造酒はピタリと拳を付けた。北辰一刀流直正伝拳隠れの固めであった。 それと見て取った覆面の武士は、にわかに刀を手もとへひいたが、それと同時に左の手が、橋の欄干へピタリとかかった。一呼吸する隙もない、その体が宙へうき、それが橋下へ隠れたかと思うと、ドボーンという水音がした。水を潜ってにげたのであった。 「恐ろしい早業、まるで鳥だ」造酒は思わず舌を巻いたが、「しかしこれであたりが付いた。ううむ、そうか! きゃつであったか」
玻璃窓の平八と別れると、観世銀之丞は夜道を急ぎ、邸の裏門まで帰って来た。と、門の暗闇から、チョコチョコと走り出た小男があった。 「観世様、お久しぶりで」その小男はいったものである。 「お久しぶりとな? どなたでござるな?」 「へい、私でございます」ヌッと顔を突き出した。 「おお、お前は千三屋ではないか」 「正に千三屋でございます」 「なるほどこれは久しぶりだな」 「へい、久しぶりでございます」 「して何か用事でもあるのか?」 「ちと、ご相談がございましてな」 「ナニ相談? どんな相談だな?」 「鼓をお譲りくださいまし」千三屋はいったものである。 すると銀之丞は吹き出してしまった。それから皮肉にこういった。 「貴様、実に悪い奴だ。鼓を盗んだのは貴様だろう?」「いえ、拝借しましたので」「永い拝借があるものだな」「長期拝借という奴で」「黙って持って行けば泥棒だ」「だからお返し致しました」 「ははあ、湯島の境内で、おれにぶつかったのは貴様であったか?」「その時お返し致しました」 千三屋はケロリとした。
捨てるによって拾うがよい
「是非欲しいというのなら、譲ってやらないものでもないが、お前のような旅商人に、鼓が何んの必要があるな?」銀之丞は不思議そうに訊いた。 「是非欲しいのでございますよ」千三屋は熱心であった。「命掛けで欲しいので」 「いよいよもっておかしいな。この鼓で何をする気だ?」 「ちょっとそいつは申されませんなあ」当惑をした様子であった。 「いえないものなら聞きたくもない」銀之丞はそっけなく「その代り鼓も譲ることは出来ぬ」潜り戸を開けてはいろうとした。 「おっとおっと観世様、そいつアどうも困りましたなあ」「ではわけを話すがいい」「ようがす。思い切って話しましょう」「おお話すか、では聞いてやろう」「その代り理由を話しましたら、鼓は譲って戴けましょうね」「胸に落ちたら譲ってやろう」「へえなるほど、胸に落ちたらね。……どうもこいつア困ったなあ。胸に落ちる話じゃねえんだから。……ええままよ話しっちめえ、それで譲って戴けなかったら、ナーニもう一度盗むまでだ。……世間の黄金を手に入れるために、鼓が必要なのでございますよ」「世間の黄金を手に入れるため?」「ハイ、江戸中の黄金をね。ナニ江戸だけじゃ事が小せえ。日本中の黄金を掻き集めたいんで」「鼓が何んの用に立つな?」「名鼓は金気を感じます。ポンポンポンポンと打っていると、自然と黄金のあり場所が、わかって来るのでございますよ」 これを聞くと銀之丞は、しばらくじっと打ち案じていたが、 「さては貴様は鼓賊だな」忍び音で叱した。 「へい、お手の筋でございます」 「ううむ、そうか、鼓賊であったか」 「相済みませんでございます」 「おれに謝る必要はない」銀之丞は笑ったが、「どうだ鼓賊、儲かるかな?」 「一向不景気でございます」 「そうでもあるまい。もとでいらずだからな」 「が、その代り命掛けで」 「だから一層面白いではないか」 「これはご挨拶でございますな。相変らずの観世様で」 「ところでお前は知っているかな、あの有名な『玻璃窓』が、お前の後を追っかけているのを」 「へい、今夜も追っかけられました」 「貴様、今に取っ捉かまるぞ」 「いい勝負でございます」 「なに、いい勝負だ、これは面白い。で、どっちが勝つと思うな?」 「とにかく今は私の勝ちで。……あすのことは判りませんなあ。……ところで鼓は頂けますまいかな?」 「さあそれだ」と銀之丞は、皮肉な笑を浮かべたが、「鼓賊であろうがあるまいが、おれには何んのかかわりもない。金を盗もうと盗むまいと、それとておれには風馬牛だ。ところで少納言の鼓だが、たとえ名器であるにしても、一旦賊の手に渡ったからは、いわば不浄を経て来たものだ。伝家の宝とすることは出来ぬ。なあ千三屋、そんなものではないか」 「へい、そんなものでございましょうな」 「と云ってお前へ譲ることは出来ぬ」 「え、どうでもいけませんかな」 「ただしおれには不用の品だ。捨てるによって拾うがよい」 鼓をひょいと地へ置くと、ギーと潜り戸を押し開き、銀之丞は入って行った。
もう夜は明けに近かった。その明け近い江戸の夜の、静かな夜気を驚かせて、またも鼓が鳴り出したのは、それから間もなくのことであった。ポンポンポンポンと江戸市中を、町から町へと伝わって行った。
弟を呼ぶ兄の声
追分油屋掛け行燈に 浮気ご免と書いちゃない
清涼とした追分節が、へさきの方から聞こえて来た。 ここは外海の九十九里ヶ浜で、おりから秋の日暮れ時、天末を染めた夕筒が、浪平かな海に映り、物寂しい景色であったが、一隻の帆船が銚子港へ向かって、駸々として駛っていた。 その帆船のへさきにたたずみ、遙かに海上を眺めながら、追分を唄っている水夫があった。
北山時雨で越後は雨か この雨やまなきゃあわれない
続けて唄う追分が、長い尾をひいて消えた時、 「うまい」という声が聞こえて来た。で、ヒョイと振り返って見た。若い侍が立っていた。 「かこなかなか上手だな」至極早速な性質と見えて、その侍は話しかけた。 「どこでそれほど仕込んだな?」 「これはこれはお武家様、お褒めくだされ有難い仕合わせ」かこは剽軽に会釈したが、「自然に覚えましてございますよ」 「自然に覚えた? それは器用だな」こういいいい侍は、帆綱の上へ腰を掛けたが、「実はなわしにはその追分が、特になつかしく思われるのだよ」 「おやさようでございますか」 「というのは他でもない。その文句なりその節なり、それとそっくりの追分を、わしは信州の追分宿で聞いた」 するとかこは笑い出したが、「甚三の追分でございましょうが」 「これは不思議、どうして知っているな?」 「信州追分での歌い手なら、私の兄の甚三が、一番だからでございます」 「お前は甚三の弟かな?」 「弟の甚内でございます」 「そうであったか、奇遇だな」侍はちょっと懐かしそうに、「いや甚三の弟なら、追分節はうまい筈だ」 「ところがそうではなかったので、唄えるようになりましたのは、このごろのことでございます」 「というのはどういう意味だな?」侍は怪訝な顔をした。 「はい、こうなのでございます。ご承知の通り私の兄は、あの通り上手でございますのに、どうしたものかこの私は、音に出すことさえ出来ないという、不器用者でございましたところ、さああれはいつでしたかな、月の良い晩でございましたが、ぼんやり船の船首に立ち、故郷のことや兄のことを、思い出していたのでございますな。すると不意にどこからともなく、兄の声が聞こえて参りました」 「ふうんなるほど、面白いな」 「いえ面白くはございません。気味が悪うございました。『弟ヤーイ』と呼ぶ声が、はっきり聞こえたのでございますもの」 「弟ヤーイ、うんなるほど」 「『お前のいったこと中ったぞヤーイ』と、こうすぐ追っ駈けて聞こえて参りました」 「それはいったいどういう意味だ?」 「どういう意味だかこの私にも、解らないのでございますよ。とにかく大変悲しそうな声で、それを聞くと私のからだは、総毛立ったほどでございます。と、どうでしょうそのとたんに、私の口から追分が、流れ出たではございませんか」 「不思議だなあ、不思議なことだ」 「不思議なことでございます。いまだに不思議でなりません。これは冗談にではございますが、よく私は兄に向かって、こういったものでございます。『兄貴はきっとおれの声まで、攫って行ったに違えねえ。だからそんなにうめえのだ』とね。で、私はその時にも、これは兄貴めがおれの声を、返してくれたに相違ねえと、こう思ったものでございますよ」 「それはあるいはそうかも知れない」若い侍はまじまじと、かこの顔を見守ったが、「いつ頃お前は追分を出たな?」 「今年の夏でございます」 「その後一度も帰ったことはないか?」
初めて知った甚三の死
「はい一度もございません」 「……だから何んにも知らないのだ。……悪いことはいわぬ一度帰れ。それも至急帰るがいい」 「はい、有難う存じます。実は私は思いたって、故郷を出て海へ来たからには、海で一旗上げるまでは、追分の土は踏むまいと、心をきめておりましたが、そんな事があって以来、兄のことが気にかかり、どうも心が落ち着きませんので、この頃一度帰ってみようかと、思っていたところでございますよ」「それは至急に帰るがいい。……恐らくお前の驚くようなことが、持ち上がっているに相違ない」 「へえ、さようでございましょうか?」かこ甚内は疑わしそうに、侍の顔を見守った。 「わしはな、事情を知っているのだ。しかしどうも話しにくい。話したらお前はびっくりして、気を取り乱すに違いない。それが気の毒でいい兼ねる」 「それではもしや兄の身の上に、変事でもあったのではございますまいか?」 甚内はさっと顔色を変えた。 「それそういう顔をする。だからいい悪いといったのだ。……変事があったら何んとする?」 「変事によりけりでございますが、もしや人にでも殺されたのなら、そやつ活かして置きません」 「ふうむ、そうか」と若い侍は、それを聞くと眼をひそめたが、「さては予感があったと見える」 「ええ、予感とおっしゃいますと?」 「お前の兄が何者かに、深い怨みでも受けていて、そやつに殺されはしないかと……」 「飛んでもないことでございます。何んのそんなことがございますものか。兄は善人でございます。よい人間でございます。私と異って穏しくもあり、宿の人達には誰彼となく、可愛がられておりました。……だが、ここにたった一つ……」 「うむ、たった一つ、どうしたな?」 「心配なことがございました」 「恋であろう? お北との恋!」 「おお、それではお武家様には、そんなことまでご存知で?」 「その恋が悪かったのだ」 「ではやっぱり私の兄は……あの女郎のお北めに?」 「無論お北も同腹だが、真の殺し手は他にある」 「それじゃ兄はどいつかに、殺されたのでござんすかえ?」 甚内はワナワナ顫え出した。 「助けてやろうと我々二人、すぐに後を追っかけたが、一足違いで間に合わなかった」 「嘘だ嘘だ! 殺されるものか!」 「凄いような美男の武士……」 「凄いような美男の武士?」思わず甚内は鸚鵡返した。 「定紋は剣酸漿だ。……」 「定紋は剣酸漿!」 「お北の新しい恋男だ。……」 「ううむ、そいつが殺したんだな!」 「その名を富士甚内といった」 「それじゃそいつが敵だね!」 「おおそうだ、尋ね出して討て!」 「お武家!」 というと甚内は、侍の袂を引っ掴んだ。 「う、う、嘘じゃあるめえな」 「嘘をいって何んになる!」 「う、う、嘘じゃあるめえな」 「…………」 「嘘じゃねえ、嘘じゃねえ、ああ嘘じゃなさそうだ!」 ガックリ甚内は首を垂れたが、しばらくは顔を上げようともしない。 この間も船は帆駛って行った。名残の夕筒も次第にさめ、海は漸次暗くなった。帆にぶつかる風の音も、夜に入るにしたがって、次第にその音を高めて来た。
敵が討ちとうござります
と、甚内は顔を上げた。 「お武家様」といった声には、強い決心がこもっていた。「よく教えてくださいました。厚くお礼を申します。いえもう兄はおっしゃる通り、殺されたに相違ございますまい。可哀そうな兄でございます。死んでも死に切れはしますまい。また私と致しましても、諦めることは出来ません。その侍とお北とを、地を掘っても探し出し、殺してやりとうございます。ハイ、敵が討ちたいので。……そこでお尋ね致しますが、そいつら二人は今もなお、追分にいるのでございましょうか?」 「いや」と侍は気の毒そうに、「甚三を殺したその晩に、二人ながら立ち退いた」 「それはそうでございましょうな。人を一人殺したからには、その土地にはおられますまい。じゃそいつらは行方不明で?」 「さよう、行方は不明だな」 「それは残念でございますなあ」見る見る甚内は打ち悄れた。 しかし侍は元気付けるように、「恐らくは江戸にいようと思う」 「え、江戸におりましょうか?」 「江戸は浮世の掃き溜だ。無数の人間が渦巻いている。善人もいれば悪人もいる。心掛けある悪党はそういう所へ隠れるものだ」「へえ、さようでございますかな」「また自然の順序からいっても、まず江戸から探すべきだ」「へえ、さようでございますかな」「で、江戸から探してかかれ」 「ハイ、有難う存じます。それではお言葉に従いまして、江戸を探すことに致します」 侍はにわかに気遣わしそうに、 「ところで剣道は出来るのか?」 「え?」と甚内は訊き返した。 「剣術だよ。人を切る業だ」 「ああ剣術でございますか。いえ、やったことはございません」 「ははあ、少しも出来ないのか。それはどうも心もとない。……おおそうだいいことがある。お前江戸へ参ったら、千葉先生をお訪ね致せ。神田お玉ヶ池においでなさる、日本一の大先生だ。よく事情をお話し致し、是非お力を乞うようしろ。先生は尋常なお方ではない。堂々たる大丈夫だ。場合によっては先生ご自身、助太刀をしてくださるかもしれない」 「何から何まで有難いことで。そういう訳でございましたら、何を置いても千葉先生とやらを、お訪ね致すでございましょう」甚内は嬉しそうに頭を下げた。 「それがよい、是非訪ねろ。……そこでお前に頼みがある。千葉先生におあいしたら、一つこのように伝言てくれ。大馬鹿者の観世銀之丞も、あの晩以来改心し、真人間になりました。そうして自分の本職を、いよいよ練磨致すため、犬吠崎へ参りました。岸へ打ち寄せる大海の濤、それへ向かって声を練り、二年三年のその後には、あっぱれ日本一の芸術家となり、再度お目にかかります。その時までは剣の方は、一切手にも触れませぬと、こう先生へ申し上げてくれ」 「やあ、それじゃあなた様は、観世様でございましたか?」さも驚いたというように、甚内は声を筒抜かせた。 「さよう、わしは観世だが、お前わしを知っているかな?」 「知っているどころじゃございません。本陣油屋でお調べになった、あの素敵もねえ鼓の手を、どんなにか喜んで死んだ兄は、お聞きしたか知れません」 「そういわれれば思い出す」銀之丞はその顔へ、寂しい笑いを浮かべたが、「おれが鼓を調べさえすれば、甚三も追分を唄ったものだ。おれと競争でもするようにな。……もうその追分も聞く事は出来ぬ」 いつかすっかり夕陽が消え、星が点々と産まれ出た。風は次第に勢いを強め、帆の鳴る音も凄くなった。
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