出合い頭にいきあった二人
絹商人の千三屋は、ザッと体へ拭いを掛けると、丸めた衣裳を小脇にかかえ、湯殿からひょいと廊下へ出た。とたんにぶつかった者があった。「これは失礼を」「いや拙者こそ」双方いいながら顔を見合わせた。剣酸漿の紋服を着た、眼覚めるばかりの美男の武士が、冷然として立っていた。 「とんだ粗忽を致しまして、真っ平ご免くださいまし」いい捨て千三屋は擦り抜けたが、十足ばかりも行ったところで、何気ない様子をして振り返って見た。とその武士も湯殿の口で、じろじろこっちを眺めていた。 「こいつ只者じゃなかりそうだ」こう千三屋はつぶやくと、小走りに走って廊下を曲がり、自分の部屋へ帰って来たが、どうも心が落ち着かない。「途方もねえ美男だが、美男なりが気に食わねえ。まるで毒草の花のようだ。よこしまなものを持っている。ひょっとするとレコじゃないかな? これまでただの一度でも狂ったことのねえ眼力だ。この眼力に間違いなくば、彼奴はただの鼠じゃねえ。巻物をくわえてドロドロとすっぽんからせり上がる溝鼠だ」 腕を組んで考え込んだ。 剽軽者で名の通っている、女中頭のお杉というのが、夕飯の給仕に来た時である、彼は何気なくたずねて見た。 「下でお見掛けしたんだが、剣酸漿の紋服を召した、綺麗な綺麗なお侍様が、泊まっておいでのご様子だね」「そのお方なら松の間の富士甚内様でございましょう」「おお富士様とおっしゃるか。稀に見るご綺麗なお方だな。男が見てさえボッとする」「ほんとにお綺麗でございますね」「店の女郎達は大騒ぎだろうね」「へえ、わけてもお北さんがね」「ナニお北さん? 板頭のかえ?」「へえ、板頭のお北さんで」「噂に聞けばお北さんは、馬子でこそあれ追分の名人、甚三という若者と、深い仲だということだが」「へえ、そうなのでございますよ」「可哀そうにその馬子は、それじゃこれからミジメを見るね」「それがそうでないのですよ」「そうでないとはどういうのかえ?」「つまりお北さんはお二人さんを、一しょに可愛がっているのですよ」「へえ、そんな事が出来るものかね」「お北さんには出来ると見えて、甚三さんは捨てられない、富士様とも離れられない、こういっているのでございますよ」「――つまり情夫と客色だな」「いいえどっちも本鴨なので」「ははあ、それじゃお北という女郎は、金箔つきの浮気者だな」「浮気といえば浮気でもあり真実といえば大真実、どっちにしても天井抜けの、ケタはずれの女でございますよ」「ちょっと面白いきしょうだな」「面白いどころか三人ながら、大苦しみなのでございますよ」「三人とは誰々だな?」「お北さんと富士様と、甚三さんとでございますよ」「それじゃ何か近いうちに、恐ろしいことが起こって来るぞ」「内所でもそれを心配して、ご相談中なのでございますよ」
追分宿の七不思議
「相談とは何を相談かな?」「甚三さんは土地のお方、これはどうも断ることが出来ぬ。金使いも綺麗、人品もよく、惜しいお方ではあるけれど、富士様の方はフリの客、いっそご出立を願おうかってね」「それが一番よさそうだな。そうだ、早くそうした方がいい。しかし素直に行くかしら?」「それはあなた、行きますとも。人柄のお方でございますもの」「ふうん、あれが人柄かな。人柄のお方に見えるかな。私には怪しく思われるがな」 するとお杉はニヤニヤしたが、「その怪しいで思い出した。この追分の七不思議、あなたご存知じゃございませんかね」「ナニ追分の七不思議? いいや一向聞かないね」「それじゃ話してあげましょうか。まず隣室の観世様」「観世様が何故不思議だ?」「あんまり鼓がお上手ゆえ」「なるほどこれはもっともだ」「それから馬子の甚三さん」「はあて追分がうま過ぎるからか」「それから唖娘のお霜さん。あんな可愛い様子でいて、物がいえないとは不思議だとね」「うん、そうしてその次は?」「綺麗すぎる富士甚内様」「これは確かに受け取れた」「心の分らないお北さん」「いかにもいかにもこれも不思議だ。さてその次は何者だな?」「このお杉だと申しますことで」「アッハハハハ、これは秀逸だ。実際お前は不思議な女だ。見さえすればおかしくなる。ところでしまいのもう一人は?」「他ならぬあなた様でございます」「へえどうしておれが不思議だ?」「絹商人と振れ込み[#「振れ込み」はママ]ながら、毎日毎日商売もせず、贅沢に暮らしておいでゆえ」 「ふん、何んだ、そんな事か」吐き出すようにいったものの、千三屋はいやな顔をした。 「で、何かい七不思議は、今宿場で評判なのかい?」 「さあどうでございますか」いいいい膳を片付けたが、「そんな事もございますまいよ。と、いいますのはその七不思議は、このお杉がたった今、即席に拵えたのでございますもの。はいさようなら、お粗相様」 いい捨て廊下へすべり出た。後を見送った千三屋は、「馬鹿!」と思わず怒鳴ったが、周章ててその口を抑えたものである。 「油断も隙もならねえ奴だ。まさかこのおれを怪しい奴と、感付いたのじゃあるめえな。……こいつ仕事を急がずばなるめえ」 腕を組み天井を見上げ、じっと何か考え出したが、その眼の中には商人らしくない、不敵な光が充ちていた。と、パラリと腕を解くと、その手でトントンと襖を叩き、 「平手様、平手様、ご都合よくば一面いかがで? おうかがい致してもよござんすかえ?」 「おお千三屋か、平手は留守だ。が構わぬ、はいって来い」観世銀之丞の声であった。 「真っ平ご免くださいまし」 スルリと千三屋は襖を開けると、隣りの部屋へ入り込んだ。 相変らず銀之丞は寝転んでいた。無感激の顔であった。しかしその眼の奥の方に、火のようなものが燃えていた。圧迫された魂であった。 「おい千三屋、おれは考えたよ」珍しく銀之丞はしゃべり出した。「禁制の海外へ密行するか、そうでなければ牢へはいるか。この二つより法はないとな。こうでもしたらおれの退屈も、少しぐらいは癒されるかも知れない。海外密行はむずかしいとしても、牢へはいるのは訳はない。他人の物を盗めばいい。どうだ千三屋賛成しないかな」「へーい」といったが商人は、度胆を抜かれた格好であった。「今日は悪日でございますよ。お杉の奴には嚇される、あなた様には脅かされる、ゆうべの夢見が悪かった筈だ」「お杉が何を嚇かしたな?」「へい七不思議の講釈で」「ナニ、七不思議だ? 馬鹿な事をいえ。そんな言葉は犬に食わせろ。一切この世には不思議などはないのだ。おれは神秘を信じない。だから、だから、退屈だともいえる」
後朝の場所桝形の茶屋
千三屋は無意味に笑ったが、その眼をキラリと床の間へ向けた。そこに小鼓が置いてあった。それへ視線が喰い入った。
北国街道と中仙道、その分岐点を桝形といった。高さ六尺の石垣が、道の左右から突き出ていて、それに囲われた内側が、桝形をなしているからであった。これは一種の防禦堤なので、また簡単な関所でもあった。ここを抜けて左へ行けば、中仙道へ行くことが出来、ここを通って右へ行けば、北国街道へ出ることが出来た。でこの桝形へ兵を置けば、両街道から押し寄せて来る、敵の軍勢をささえることが出来た。大名などが参府の途次、追分宿へとまるような時には、必ずここへ夜警をおいて非常をいましめたものであった。しかし桝形はそういうことによって、決して有名ではないのであった。つるが屋、伊勢屋、上州屋、武蔵屋、若菜屋というような、幾つかの茶屋があることによって、この桝形は名高かった。いつづけの客や情夫などを、宿の遊女達はこの茶屋まで、きっと送って来たものであった。つまり桝形は追分における、唯一の後朝の場所なので、「信州追分桝形の茶屋でホロリと泣いたが忘らりょか」と、今に残っている追分節によっても、そういう情調は伺われよう。大正年間の今日でも、ややそのおもかげは残っていた。一方の石垣は取り壊され、麦の畑となっているが、もう一つの石垣は残っていた。そうして上州屋、つるが屋等の、昔ながらの茶屋もあった。つるが屋清吉の白壁に「桝形」と文字が刻まれてあるのは、分けても懐しい思い出といえよう。なお街道の岐道には、常夜燈といしぶみとが立っていた。
右従是北国街道 東二里安楽追分町 左従是中仙道
こう石標には刻まれてあるが、これも懐しい記念物であろう。 さてある夜若菜屋の座敷に、客と遊女とが向かい合っていた。客は美貌の富士甚内で、遊女は油屋のお北であった。別離を惜しんでいるのであった。二人の他には誰もいない。人を避けて二人ばかりで、酒を汲み交わせているのであった。 「お北、いよいよおさらばだ」甚内は盃を下へ置いた。「いうだけの事はいってしまい、聞くだけの事は聞いてしまった。もう別れてもよさそうだ」 「別れてもよろしゅうございますとも」お北はぼんやりとうけこたえた。「ではお立ちなさりませ」「おれも果報な人間だな。お北そうは、思わぬかな」「それはなぜでございます?」「なぜといってそうではないか、女郎屋の亭主から謝絶られたのだ」「男冥利でございますよ」「おれもそう思って諦めている」「それが一番ようございます。諦めが肝腎でございます」「止むを得ない諦めだ」「ようお諦めなさいました」「ふん、冷淡な女だな」「いいえわたしは燃えております」「ではなぜいうことを聞いてくれない」「もうその訳は先刻から、申し上げておるではございませんか」「ふん、お前はそんなにまで、あんな男に焦がれているのか」 するとお北は眼を据えたが、 「解らないお方でございますこと!」「いやおれには解っている」「ではなぜそんなことをおっしゃいます」「愚痴だ」と甚内は息づまるようにいった。 甚内は堅く眼をつむり、天井の方へ顔を向けた。思案に余った様子であった。お北は盃を握りしめていた。上瞼が弓形を作り、下瞼が一文字をなした、潤みを持った妖艶な眼は、いわゆる立派な毒婦型であったが、今はその眼が洞のように、光もなく見開かれていた。盃中の酒を見てはいるが、別に飲もうとするのでもない。 夜は次第に更けまさり、家の内外静かであった。他に客もないかして、三味線の音締めも聞こえない。銀の鈴でも振るような、涼しい河鹿の声ばかりが、どこからともなく聞こえて来た。 「芸の力は恐ろしいものだ」ふと甚内はつぶやいた。 「あの馬子の唄う追分が、そうまでお前の心持ちを、捉えていようとは想像もつかぬ」
怪しい恋の三縮み
「魅入られているのでございます」「魅入られている? いかにもそうだ」「あんな男と思いながら、一度追分を唄い出されると、急に心が騒ぎ立ち、からだじゅうの血が煮え返り狂わしくなるのでございます」「そうして男から離れられぬ」「はいさようでございます」「そうしておれをさえ捨てようとする」「いいえそうではございません。何んのあなたが捨てられましょう」「いやいやおれをさえ捨てようとする」 お北の眼はまた据わった。 「あなたこそ恋人でございます!」むせぶような声であった。「ああ、あなたこそ妾にとって、本当の恋人でございます」 「おれのどこが気に入ったな?」嘲笑うような調子であった。 「ただれたような美しさが!」「おれがもしも悪党なら?」「その悪党を恋します」「おれがもしもひとごろしなら?」「そのひとごろしを恋します」「おれがもしも泥棒なら?」「その泥棒を恋します」「おれがお前を殺したら?」「わたしは喜んで死にましょう」「ではなぜおれについて来ない?」「申し上げた筈でございます」 「お北!」と甚内はさぐるようにいった。「もし追分が未来永劫、お前の耳へ聞こえなくなったら、その時お前はどうするな?」「その時こそわたしというものはあなたの物でございます」「言葉に嘘はあるまいな」「何んのいつわり申しましょう」「その言葉忘れるなよ」「はいご念には及びませぬ」 甚内は満足したように、不思議な微笑を頬に浮かべた。……思えば奇怪な恋ではあった。これというさしたるあてもなく、追分宿へやって来て、本陣油屋へとまった夜、何気なくよんだ遊女に恋し、また遊女にも恋されながら、その女がいうことを聞かぬ。殺すといえば殺されようという。それほどの恋を持ちながら、にげようという男の言葉を、すげなく女はことわるのであった。外におとこがあるからでもあろうが、おとこその者には心をひかれず、その歌に心ひかれるのだという。立ち去るといえば立ち去れという。捨てたのかといえば捨てはしないという。そういう言葉には嘘はない。不思議な恋の三すくみ! 女が死ねば恋は終る。どっちか一人男が死ねば、いきた方が女を獲る。所詮一人は死ななければならない。そうでなければ苦しむばかりだ。 「いっそ自分が立ち去ったなら、万事平和に納まろうが、この女ばかりは放されぬ」これが甚内の心持ちであった。「天下の金は自分の物だ。金には何んの苦労もない。有難いことには自分は美貌だ。これまでほとんど至る所で、色々の女を征服もし、また女に征服もされた。女の秘密もおおかたは知った。与し易いは女である。しかるに意外にも意外の土地で、意外の女とでっくわした。類例のない女である。だから自分には珍らしい。珍らしいものはほかへはやれぬ。是非征服しなければならない。ではどうしたらよかろうか? 女の心を引きつけている、不思議な追分の歌い手を、永遠にお北から遠避けなければならない。そのほかには手段はない」 これが甚内の心持ちであった。「よしそうだ、やっつけよう!」 冷えた盃を取り上げると、つと唇へ持って行った。 河鹿の鳴く音は益冴え、夏とはいっても二千尺の高地、夜気が冷え冷えと身にしみて来た。 「お北、それではまたあおう」 「おあいしたいものでございます」 「すぐにあえる、待っているがいい」 「早くお帰りくださいまし」
いつもと異う歌の節
頼んで置いた甚三が、馬をひいて迎えに来た、それに跨がった甚内がいた。北国街道を北へ向け、桝形の茶屋を出かけたのは、それから間もなくのことであった。 間もなく追分を出外れた。振り返って見ると燈火が、靄の奥から幽かに見えた。 「旦那様」と不意に甚三がいった。「いよいよご出立でございますかな」 「うん」と甚内は冷やかに、「追分宿ともおさらばだ」 「永らくご滞在でございましたな」「意外に永く滞在した」「旦那様と私とは、ご縁が深うございますな」「縁が深い? それはなぜかな?」「宿までご案内致しましたのはこの甚三でございます」「そうであったな。覚えておる」「お送りするのも甚三で」「そういえば縁が深いようだ」「ご縁が深うございます」「ところで甚三われわれの縁は、もっと深くなりそうだな」 「え?」といって振り返った時には、甚内は口を噤んでいた。押して甚三も尋ねようとはしない。カパカパという蹄の音、フーフーという馬の鼻息、二人は無言で進んで行った。 「甚三、追分を唄ってくれ」しばらく経って甚内がいった。 「夜が深うございます」 「構うものか、唄ってくれ」「私の声は甲高で、宿まで響いて参ります」「構うものか、唄ってくれ」「よろしゅうございます、唄いましょう」 やがて甚三は唄い出した。夜のかんばしい空気を通し、美音朗々たる追分節が、宿の方まで流れて行った。
「甚三の追分が聞こえて来る。はてな、いつもとは唄い振りが異う。……うまいものだ、何んともいえぬ。……今夜の節は分けてもよい」 こういったのは銀之丞であった。 本陣油屋の下座敷であった。彼は相変らず寝そべっていた。鼓が床の間に置いてあった。 「おい平手、行って見よう」銀之丞は立ち上がった。 「何、行って見よう? どこへ行くのだ?」 千三屋相手に碁を囲んでいた、平手造酒は振り返った。 「追分を聞きにだ、行って見よう」「今夜に限って酷く熱心だな」「いつもと唄い振りが異うからだ」「そいつはおれには解らない」「行って見よう。おれは行くぞ」「何に対しても執着の薄い、貴公としては珍らしいな」「だんだん遠くへ行ってしまう。おいどうする、行くか厭か?」「さあおれはどっちでもいい」「おれは行く。行って聞く。後からこっそりついて行って、堪能するまで聞いてやろう」「全く貴公としては珍らしい。何に対しても興ずることのない、退屈し切ったいつもに似ず、今夜は馬鹿に面白がるではないか」「それがさ、今もいった通り、今夜に限って甚三の歌が、ひどく違って聞こえるからだ」「いつもとどこが違うかな?」「鬱していたのが延びている。燃えていたのが澄み切っている。蟠まっていたのが晴れている。いつもは余りに悲痛だった。今夜の唄い振りは楽しそうだ。心に喜びがあればこそ、ああいう歌声が出て来るのだろう。めったに一生に二度とは来ない、愉快な境地にいるらしい」「ふうん、そんなに異うかな。どれ一つ聞いて見よう」 造酒は碁石を膝へ置き、首を垂れて聞き澄ました。次第に遠退き幽かとはなったが、なお追分は聞こえていた。節の巧緻声の抑揚、音楽としての美妙な点は、武骨な造酒には解らなかった。しかしそれとは関係のない、しかしそれよりもっと大事な、ある気分が感ぜられた。しかも恐ろしい気分であった。造酒はにわかに立ち上がった。 「観世、行こう。すぐに行こう」そういう声はせき立っていた。 「これは驚いた。どうしたのだ?」 「どうもこうもない捨てては置けぬ。行ってあの男を助けてやろう」「ナニ助ける? 誰を助けるのだ?」「あの追分の歌い手をな」「不安なものでも感じたのか?」「陰惨たる殺気、陰惨たる殺気、それが歌声を囲繞いている」「それは大変だ。急いで行こう」 ありあう庭下駄を突っ掛けると、ポンと枝折戸を押し開けた。往来へ出ると一散に、桝形の方へ走って行った。さらにそれから右へ折れ、月明らかに星稀な、北国街道の岨道を、歌声を追って走って行った。
馬上ながら斬り付けた
こなた甚三は蹄に合わせ、次々に追分を唄って行った。彼の心は楽しかった。彼の心は晴れ渡っていた。……恋の競争者の富士甚内が、追分を見捨てて立ち去るのであった。お北を見捨てて立ち去るのであった。もうこれからは油屋お北は彼一人の物となろう。これまでは随分苦しかった。人知れず心を悩ましたものだ。相手は立派なお侍、殊に美貌で金もあるらしい。それがお北に凝っていた。そうしてお北もその侍に、心を奪われていたものだ。宿の人達は噂した。いよいよ甚三は捨てられるなと。誰に訴えることも出来ず、また訴えもしなかったが、心では悲しみもし苦しみもした。訴えられない苦しさは、泣くに泣かれない苦しさであった。泣ける苦痛は泣けばよい。訴えられる苦痛は訴えればよい。人に明かされない苦しさは、苦しさの量を二倍にする。宿の人達にでも洩らそうものなら、その人達はいうだろう、街道筋の馬子風情が、油屋の板頭と契るとは、分に過ぎた身の果報だ。捨てられるのが当然だと。では妹にでも訴えようか、妹お霜は唖であった。苦楽を分ける弟は、遠く去って土地にいない。神も仏も頼みにならぬ。……富士甚内が追分宿の、本陣油屋へ泊まって以来、甚三の心は一日として、平和の時はなかったのであった。……しかし今は過去となった。苦痛はまさに過ぎ去ろうとしていた。富士甚内がお北と別れ、追分宿を立ち去りつつある。すぐに平和が帰って来よう。これまで通り二人だけの、恋の世界が立ち帰って来よう。…… 甚三は声を張り上げて、次から次と唄うのであった。馬上では甚内が腕拱き、じっと唄声に耳を澄まし、機会の来るのを待っていた。 「もうよかろう」と心でいって、四辺を窃かに見廻した時には、追分宿は山に隠れ、燈一つ見えなかった。おおかた二里は離れたであろう。左は茫々たる芒原。右手は谷川を一筋隔て、峨々たる山が聳えていた。甚内は拱いた腕を解くと、静かに柄を握りしめた。知らぬ甚三は唄って行った。今はひとのために唄うのではない。自分の声に自分が惚れ、自分のために唄うのであった。
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