大胆なのか白痴なのか?
これを聞くと取り次ぎの武士は、にわかにその眼を怒らせたが、「いやはやなんと申してよいか、田舎者と思えばこそ、事を分けて訓してやったに、それが解らぬとは気の毒なもの。よしよしそれほど撲られたいなら、望みにまかせ取り次いでやろう。逃げるなよ、待っておれ」 こういい捨てて奥へはいったが、やがて笑いながらひっ返して来た。 「大先生はご来客で、そちなどにはお目にかかれぬ。しかし道場にはご舎弟様はじめ、お歴々の方が控えておられる。望みとあらば通るがよい」「へえ、有難う存じますだ」 で、田舎者は上がり込んだ。長い廊下を行き尽くすと、別構えの道場であった。カチ、カチ、カチ、というしないの音、鋭い掛け声も聞こえて来た。 「さあはいれ」といいながら、取り次ぎの武士がまずはいると、その後に続いて田舎者は、構えの内へはいっていった。見かすむばかりの大道場、檜づくりの真新しさ、最近に建てかえたものらしい。向かって正面が審判席で、その左側の板壁一面に、撃剣道具がかけつらねてあり、それと向かい合った右側には、門弟衆の記名札が、ズラとばかり並んでいた。審判席にすわっているのは、四十年輩の立派な人物、外ならぬ千葉定吉で、周作に取っては実の弟、文武兼備という点では周作以上といわれた人、この人物であったればこそ、北辰一刀流は繁昌し、千葉道場は栄えたのであった。性来無慾恬淡であったが、その代りちょっと悪戯好きであった。で、田舎者の姿を見るとニヤリと笑ったものである。その左側に控えていたのは、周作の嫡子岐蘇太郎、また右側に坐っていたのは、同じく次男栄次郎であって、文にかけては岐蘇太郎、武においては栄次郎といわれ、いずれも高名の人物であった。岐蘇太郎の横には平手造酒が坐し、それと並んで坐っているのは、他ならぬ観世銀之丞であった。打ち合っていた門弟達は、田舎者の姿へ眼をつけると、にわかにクスクス笑い出したが、やがてガラガラと竹刀を引くと、溜りへ行って道具を脱ぎ、左右の破目板を背後に負い、ズラリと二列に居流れた。 「他流試合希望の者、召し連れましてござります」 取り次ぎの武士は披露した。 すると定吉は莞爾としたが「千代千兵衛とやら申したな」 「へえ、千代千兵衛と申しますだ。どうぞハアこれからはお心易く、願えてえものでごぜえます」田舎者はこういうと、一向平気で頭を下げた。胆が太いのか白痴なのか、にわかに判断がつき兼ねた。 「で、流名はないそうだな?」 「へえ、そんなものごぜえません」 「当道場の掟として門弟二、三人差し出すによって、まずそれと立ち合って見い」 「へえ、よろしゅうごぜえます。どうぞ精々強そうなところをお出しなすってくだせえまし」 「秋田氏、お出なさい」 「はっ」というと秋田藤作、不承不承に立ち出でた。相手は阿呆の田舎者である、勝ったところで名誉にならず、負けたらそれこそ面汚しだ。一向栄ない試合だと思うと、ムシャクシャせざるを得なかった。そのうっぷんは必然的に、田舎者の上へ洩らされた。「こん畜生め覚えていろ、厭というほどぶん撲ってやるから」で手早く道具を着けると、しないを持って前へ出た。これに反して田舎者は、さも大儀だというように、ノロノロ道具を着けだしたが、恐ろしく長目のしないを握ると、ノッソリとばかり前へ出た。双方向かい合ってしないを合わせた。 礼儀だから仕方がない、「お手柔らかに」と藤作はいった。 「へえ、よろしゅうごぜえます」これが田舎者の挨拶であった。まるで頼まれでもしたようであった。 「よろしゅうござるとは呆れたな。悪くふざけた田舎者じゃねえか。よし脳天をどやしつけ、きな臭い匂いでも嗅がせてやろう」藤作は益気を悪くしたが、「ヤッ」というと立ち上がり、一足引くと青眼につけた。と相手の田舎者は、同時にヌッと立ち上がりはしたが、うんともすんともいわばこそ、背後へ一足引くでもなく、ぼやっとして立っていた。位取りばかりは上段であった。
合点のいかない剣脈である
「へ、生意気な、上段と来たな。今に見ていろひっくり返してやるから」じっと様子を窺った。相手の全身は隙だらけであった。「ざまア見やがれ田舎者め。構えも屁ったくれもありゃしない。全身隙とはこれどうだ。といってこれが機に応じて、ヒラリ構えが変るというような、そんなしゃれた玉ではなし、フフン、こいつ狂人かな。他流試合とは恐れ入る。かまうものかひっ叩いてやれ」 ツト一足進んだ時、どうしたものか田舎者は、ダラリとしないを下げてしまった。 「もしもしお尋ね致しますだ」こんな事をいい出した。「ちょっくらお尋ね致しますだよ」 「なんだ?」といったが秋田藤作すっかり気勢を削がれてしまった。試合の最中しないを下ろし、ちょっくら待てという型はない。無作法にも事を欠く、うんざりせざるを得なかった。 「何か用か、早くいえ」 「あのお前様の位所は、どこらあたりでごぜえますな?」 「剣道における位置の事か?」「へえ、さようでごぜえます」「拙者はな、切り紙だ」「切り紙というとビリッ尻だね」「無礼なことをいうものではない」「さあそれじゃやりやしょう」 そこで二人はまた構えた。千葉道場の切り紙は、他の道場での目録に当たった。もう立派な腕前であった。その藤作が怒りをなし、劇しく竹刀を使い出したので、随分荒い試合となった。「ヤ、ヤ、ヤ、ヤ……ヤ、ヤ、ヤ、ヤ」こう気合を畳み込んで、藤作は前へ押し出して行ったが、相手の田舎者は微動さえしない。同じ場所に立っていた。一歩も進まず一歩も退かない。盤石のような姿勢であった。そうして全身隙だらけであった。しかも上段に振り冠っていた。 見当のつかない試合ぶりであった。 「胴!」とばかり藤作は、風を切って打ち込んだ。ポーンといういい音がした。 「擦った!」と田舎者は嘲笑った。審判席からも声が掛からない。で藤作はツト退いた。じっと双方睨み合った。 「小手!」とばかり藤作は、再度相手の急所を取った。 「擦った」と田舎者はまたいった。嘲けるような声であった。審判席からは声が掛からない。 またも双方睨み合った。 「面!」と一声藤作が、相手の懐中へ飛び込んだとたん、 「野郎!」という劇しい声がした。その瞬間に藤作は、床の上へ尻餅を突いた。プーンときな臭い匂いがして、眼の前をキラキラと火花が飛び脳天の具合が少し変だ。「ははあ、おれは打たれたんだな」……そうだ! 十二分にどやされたのであった。 「勝負あった」と審判席から、はじめて定吉の声がした。 「参った」といったものの秋田藤作は、どうにも合点がいかなかった。いつ撲られたのかわからなかった。 審判席では定吉が、眉をしかめて考え込んだ。 「これは普通の田舎者ではない。十分腕のある奴らしい。道場破りに来たのかも知れない。それにしても不思議な剣脈だな。動かざること山の如しだ。それにただの一撃で、相手の死命を制するという、あの素晴らしい意気組は、尋常の者には出来ることではない。……迂濶な相手は出されない。……観世氏、お出なさい」 「はっ」というと観世銀之丞は物臭さそうに立ち上がった。
観世銀之丞引き退く
観世銀之丞は能役者であった。それが剣道を学ぶとは、ちょっと不自然に思われるが、そこは変り者の彼のことで、一門の反対を押し切って、千葉道場へは五年前から、門弟としてかよっていた。天才にありがちの熱情は、剣道においても英発し、今日ではすでに上目録であった。千葉道場での上目録は、他の道場での免許に当たり、どうして堂々たるものであった。もっとも近来憂鬱になり、物事が退屈になってからは、剣道の方も冷淡となり、道場へ来る日も稀となったが、今日は珍らしく顔を見せていた。 道具を着けるとしないを取り、静かに前へ進み出た。で田舎者もうずくまり、しないとしないとを突き合わせた。と田舎者はまたいい出した。 「へえ、ちょっくらおきき致しますだ」「ああ何んでもきくがいい」「お前様の位所はえ?」「おれはこれでも上目録だよ」「へえさようでごぜえますかな。千葉道場での上目録は、大したものだと聞いているだ。さっきの野郎とは少し違うな」「これこれ何んだ。口の悪い奴だ」「それじゃおいらもちっとばかり、本気にならずばなるめえよ」「一ついいところを見せてくれ」 「やっ」と銀之丞は立ち上がった。ヌッと田舎者も立ち上がり、例によって例の如く、しないを上段に振り冠ったが、姿勢が何んとなく変であった。「おや」と思って銀之丞は、相手の構えを吟味した。突然彼は、「あっ」といった。それと同時に審判席から、同じく、「あっ」という声がした。声の主は平手造酒だ。二人の驚いたのはもっともであった。千代千兵衛となのる田舎者は、足を前後へ構えずに、左右へウンと踏ん張っていた。銀之丞は考えた。 「ははあ、さてはあいつであったか。北国街道の芒原で、甚三殺しの富士甚内を、不思議な構えでおどしつけた、博徒姿の旅人があったが、ははあさてはこいつであったか。それにしてもいったい何者であろう?」……で、じっと様子を見た。相変らず全身隙だらけであった。胴も取れれば小手も取れた。決して習った剣道ではなかった。それにもかかわらず彼の体からは、不思議な力がほとばしり、こっちの心へ逼って来た。面も向けられない殺気ともいえれば、戦闘的の生命力ともいえた。とまれ恐ろしい力であった。 「業からいったら問題にもならぬ。おれの方がずっと上だ。しかし打ち合ったらおれが負けよう。ところで平手とはどうだろう? いや平手でも覚束ない、この勝負はおれの負けだ。負ける試合ならやらない方がいい」こう考えて来た銀之丞は、一足足を後へ引いた。そうして「参った」と声をかけた。道具を解くとわるびれもせず、元の席へ引き上げて行った。 「どうした?」と造酒はそれと見ると、気づかわしそうにささやいた。「お前の手にも合わないのか?」 すると銀之丞は頷ずいたが、「恐ろしい意気だ。途方もない気合いだ」「追分で逢った博徒のようだが」「うん、そうだ、あいつだよ」「待ったなし流とかいったようだな」「うん、そうそう、そんなことをいったな」「ポンポンガラガラ打ち合わずに、最初の一撃でやっつける、つまりこういう意味らしいな」「うん、どうやらそうらしい」「足を左右に踏ん張ったでは、進みもひきもならないからな。居所攻めという奴だな」「そうだ、そいつだ、居所攻めだ。胴を取られても小手を打たれても、擦った擦ったといって置いて、敵が急って飛び込んで来るところを、真っ向から拝み打ち、ただ一撃でやっつけるのだ」「観世、おれとはどうだろう?」「平手、お前となら面白かろう。しかし、あるいは覚束ないかもしれない」 いわれて造酒は厭な顔をしたが、田舎者の方をジロリと見た。と田舎者は相も変らず、ノッソリとした様子をして、道場の真ん中に立っていた。たいして疲労れてもいないらしい。審判席では定吉先生が、さも驚いたというように、長い頤髯を扱いていた。眉の間に皺が寄っていた。神経的の皺であった。 「秋田藤作は駄目としても、観世銀之丞は上目録だ、それが一合も交わさずに、引き退くとは驚いたな。非常な腕前といわなければならない。しかしどうも不思議だな、そんな腕前とは思われない」
平手造酒と田舎者
定吉は思案に余ってしまった。「これはおれの眼が曇ったのかもしれない。どうにも太刀筋が解らない。とまれこやつは道場破りだな。このままでは帰されない。もうこうなれば仕方がない。平手造酒を出すばかりだ」 で彼は厳然といった。「平手氏、お出なさい」 平手造酒は一礼した。それから悠然と立ち上がった。 千葉門下三千人、第一番の使い手といえば、この平手造酒であった。師匠周作と立ち合っても、三本のうち一本は取った。次男栄次郎も名人であったが、造酒と立ち合うと互角であった。しかしこれは造酒の方で、多少手加減をするからで、造酒の方が技倆は上であった。定吉に至ると剣道学者で、故実歴史には通じていたが、剣技はずっと落ちていた。 由来造酒は尾張国、清洲在の郷士の伜で、放蕩無頼且つ酒豪、手に余ったところから、父が心配して江戸へ出し、伯父の屋敷へ預けたほどであった。しかしそういう時代から、剣技にかけては優秀を極め、ほとんど上手の域にあった。それを見込んだのが周作で、懇々身上を戒めた上己が塾へ入れることにした。爾来研磨幾星霜、千葉道場の四天王たる、庄司弁吉、海保半平、井上八郎、塚田幸平、これらの儕輩にぬきんでて、実に今では一人武者であった。すなわち上泉伊勢守における、塚原小太郎という位置であった。もしこの造酒が打ち込まれたなら、もう外には出る者がない。厭でも周作が出なければならない。 それほどの造酒が定吉の指図で、不思議な田舎者と立ち合おうため、己が席から立ったのであった。場内しいんと静まり返り、しわぶき一つする者のないのは、正に当然な事であろう。そのおかし気な田舎者の態度に、ともすれば笑った門弟達も、今は悉くかたずを呑み、不安の瞳を輝かせていた。 その息苦しい気分の中で、造酒は悠然と道具を着けた。彼の心には今や一つの、成算が湧いていたのであった。「恐ろしいのは一撃だ。そうだはじめの一撃だ。これさえ避ければこっちのものだ」彼は窃かにこう思った。「あせってはいけないあせってはいけない。こっちはあくまで冷静に、水のように澄み返ってやろう。そうして相手をあせらせてやろう。一ときでも二ときでも、ないしは一日でも待ってやろう。つまり二人の根比べだ。根が尽きて気があせり、構えが崩れた一刹那を、一気に勝ちを制してやろう。相手の不思議なあの構えを、突き崩すのが急務である」 やがて道具を着けおわると、別誂えの太く長く、持ち重りのするしないを握り、静かに道場の真ん中へ出た。両膝を曲げ肘を張り、ズイとしないを床上へ置いた。それと見ると田舎者も、肘を張り両膝を曲げ、しないの先を食っつけたが、「ちょっくらおたずね致しますだ」例のやつをやり出した。「平手様とおっしゃったようだが、そうすると平手造酒様だかね?」 「さよう、拙者は平手造酒だ」 「へえ、さようでごぜえますか。では皆伝でごぜえますな」「さよう、拙者は皆伝だ」「お前様さえ打ち込んだら、こっちのものでごぜえますな。ほかに出る人はねえわけだね。ヤレ有難い、とうとう漕ぎつけた。それじゃおいらも一生懸命、精一杯のところを出しますべえ」 二人はしばらくおしだまった。ややあって同時に立ち上がった。造酒はピタリと中段につけ、しないの端から真っ直ぐに、相手の両眼を睨みつけた。例によって田舎者は、二本の足を左右へ踏ん張り、しないを上段に振り冠ったが、これまた柄頭から相手の眼を、凝然と見詰めたものである。
突き出された一本の鉄扇
木彫りの像でも立てたように、二人はじっと静まっていた。双方無駄な掛け声さえしない。しないの先さえ動かない。息使いさえ聞こえない。 根気比べだと決心して、さて立ち上がった平手造酒は、水ももらさぬ構えをつけ、相手の様子を窺ったが、さっき銀之丞が感じたようなものを、やはり感ぜざるを得なかった。かつてこれまで経験したことのない、殺気といおうか圧力といおうか、ゾッとするような凄い力が、相手の体全体から、脈々として逼って来た。……「不思議だな」と彼は思った。「何んだろういったいこの力は? いったい何から来るのだろう?」……どうもはっきりわからない。わからないだけに気味が悪い。で、なお造酒は考えた。 「あいつはまるであけっぱなしだ。全身まるで隙だらけだ。それでいてやっぱり打ち込めない。不可解な力が邪魔をするからだ。それに反してこのおれは、あらゆる神経を働かせ、あらゆる万全の策を取り、全力的に構えている。おれの方が歩が悪い。おれの方が早く疲労る。おれの方が根負けする」 こう思って来て平手造酒は、動揺せざるを得なかった。「あぶない!」と彼はその突嗟、自分の心を緊張めた。「考えてはいけない考えてはいけない。無念無想、一念透徹、やっつけるより仕方がない」 で彼は自分の構えを、一層益かたくした。場内寂然と声もない。 窓からさし込む陽の光さえ、思いなしか暗く見えた。 こうして時が過ぎて行った。 造酒にとってはその「時」が、非常に長く思われた。それが彼には苦痛であった。「打ち込んで行くか、打ち込まれるか、どうかしなければいたたまれない。とてもこのままでは持ち耐えられない……といって向こうからは打ち込んでは来まい。ではこっちから打ち込まなければならぬ」 で造酒は構えたまま、ジリッと一足前へ出た。そうしてしばらく持ち耐えた。そうして相手の様子を見た。しかるに相手は動かない。凝然として同じ位置に、同じ姿勢で突ったっていた。これが常道の剣道なら、一方が進めば一方が退き、さらに盛り返し押し返すか、出合い頭を打って来るか、ないしはズルズルと押しに押され、つめに詰められて取りひしがれるか、この三つに帰着するのであるが、そこは変態の剣道であった。一足ジリリと詰め寄せられても、田舎者は微動さえしない。そこでやむを得ず造酒の方で、せっかく詰めたのを後戻りした。一歩後へひいたのであった。でまた二人は位取ったまま、木像のように動かない。しかしやはり造酒にとっては、この「動かない」ということが、どうにも苦しくてならなかった。で一足引いて見た。相手を誘き出すためであった。しかるに相手は動かない。左右に踏ん張った二本の足が、鉄で造られた雁股のように、巌然と床から生え上がっていた。前へも進まず後へも退かず、真に徹底した居所攻めだ。で、やむを得ず造酒の方で、一端ひいたのを寄り戻した。同じ位置に復したのであった。「もうこれ以上は仕方がない。心気疲労れて仆れるまで、ここにこうして立っていよう」造酒は捨鉢の決心をした。こうして二人は場の真ん中に、数百人の眼に見守られながら、静まり返って立っていた。 と気味の悪い幻覚が、造酒の眼に見えて来た。相手が上段に構えている、しないの先へポッツリと、真紅のしみが現われたが、それが見る間に流れ出し、しないを伝い鍔を伝い、柄頭まで伝わった。と思うとタラタラと、床の上へ流れ落ちた。他でもない血潮であった。ハッと思って見直す、とそんなしみなどはどこにもない。「何んだ馬鹿な!」と思う間もなく、またもや同じしないの先へ、ポッツリ真紅のしみが出来、それがタラタラと流れ下った。プンと生臭い匂いがした。とたんにグラグラと眼が廻った。同時に造酒は、「しまった!」と思った。「打たれる! 打たれる! いよいよ打たれる!」 果然相手の千代千兵衛の眼が面越しに火のように輝いた。と同時に武者顫いがその全身を突き通った。 「今、打たれる! 今、打たれる!」造酒は我知らず眼を閉じた。しかし不思議にも相手のしないが、体のどこへも落ちて来ない。彼はカッと眼を開けた。彼と敵とのその間に、一本の鉄扇が突き出されていた。太い指がガッシリと、鉄扇の柄を握っていた。指に生えている細い毛が、幽かに幽かに顫えていた。造酒は鉄扇の持ち主を見た。
忽ち崩れた金剛の構え
中肉中丈で色白く、眉目清秀で四十一、二、頬にも鼻下にも髯のない、一個瀟洒たる人物が、黒紋付きの羽織を着、白縞の袴を裾長に穿き、悠然とそこに立っていた。千葉周作成政であった。 「む」というと平手造酒は、構えを崩して後へ引いた。と、周作は造酒に代り、田舎者千代千兵衛へ立ち向かった。 田舎者の上段は、なお崩れずに構えられた。それへ向けられた鉄扇は、一見いかにも弱々しく、そうして周作の表情には、鋭さを示す何物もなかった。 静かであり冷ややかであった。しかるに忽然その顔へ、何かキラリと閃めいた。その時初めて田舎者の金剛不動の構えが崩れ、両足でピョンと背後へ飛んだ。そうしてそこで持ち耐えようとした。しかしまたもや周作の顔へ、ある感情が閃めいた。とまた千代千兵衛は後へさがった。そうしてそこで持ち耐えようとした。しかし三度目の感情が、周作の顔へ閃めいた時、千代千兵衛の構えは全く崩れ、タ、タ、タ、タ、タ、タと崩砂のように、広い道場を破目板まで、後ろ向きに押されて行った。そうしてピッタリ破目板へ背中をくっつけてしまったのである。 追い詰めて行った周作は、この時初めて「カッ」という、凄じい気合いを一つ掛けたが、それと同時に鉄扇を、グイとばかりに手もとへひいた。するとあたかも糸でひかれた、繰り人形がたおれるように、そのひかれた鉄扇に連れ、千代千兵衛のからだはパッタリと、前のめりにたおれたが、起き上がることが出来なかった。全く気絶したのであった。 周作は穏かに微笑したが、審判席へ歩み寄った。舎弟定吉が席を譲った。その席へ悠然と坐った時、道場一杯に充ちていた、不安と鬱気とが一時に、快然と解けるような思いがした。 「平手、平手」と周作は呼んだ。「今の勝負、お前の負けだ」 「私もさよう存じました」造酒は額の汗を拭き、「恐ろしい相手でございます」 「これはな、別に不思議はない。実戦から来た必勝の手だ」 「実戦から来た必勝の手? ははあさようでございますかな」 「というのは外でもない」周作はにこやかに笑ったが、「泰平の世の有難さ、わしの門弟は数多いが、剣の稲妻、血汐の雨、こういう修羅場を経て来たものは、恐らく一人もあるまいと思う。いやそれはない筈だ。しかるにそこにいる千代千兵衛という男、その男だけは経て来ている。恐らくこやつは博徒であろう。それも名のある博徒であろう。彼らの言葉で出入りというが、百本二百本の長脇差が、縦横に乱れる喧嘩の場を、潜って来た奴に相違ない。それも一回や二回ではない。幾度となく潜って来た奴だ。それは自然と様子で知れる。そこだ、陸上の水練の、役に立たないというところは! 胴をつけ面を冠り、しないを取っての試合など、例えどんなに上手になっても、一端戦場へ出ようものなら、雑兵ほどの役にも立たぬ。残念ではあるが仕方がない、これは実にやむを得ぬことだ」 こういって周作は、またにこやかに笑ったが、 「もうそろそろよいだろう。どれ」というと立ち上がり、田舎者の側へ寄って行った。この時までも緊りと、しないを握っていた十本の指を、まず順々に解いて行き、やがてすっかり解いてしまうと、上半身を抱き起こした。やっ! という澄み切った気合い、ウーンという呻き声が、田舎者の口から洩れたかと思うと、すぐムックリと起き上がった。別にキョロキョロするでもなく、一渡り四辺を見廻したが、周作の姿へ眼を止めると、「参った!」といって手を突いた。 「どうだな気分は? 苦しくはないかな?」 気の毒そうに周作はきいた。 「へい、お肚が空きやした」これが田舎者の挨拶であった。 「おお空腹か、そうであろう、誰か湯漬けを持って来い。……さてその間にきく事がある。もう本名を明かせてもよかろう」
剣の神様でございます
「へい、もうこうなりゃ仕方がない、何んでも申し上げてしまいますよ」「産まれはどこだ? これから聞きたい」「へい、上州でございます」「うん、そうして上州はどこだ?」「佐位郡国定村で」 すると周作は頷いたが、「ではお前は忠次であろう?」 「へい、図星でございます。国定忠次でございます」 これを聞くと道場一杯、押し並んでいた門弟の口から、「ハーッ」というような声が洩れた。これは驚いた声でもあり、感動をした声でもあった。当時国定忠次といえば、関東切っての大侠客、その名は全国に鳴り渡っていて、「国定忠次は鬼より怖い、ニッコリ笑えば人を斬る」と唄にまで唄われていたものである。その忠次だというのであるから、ハーッと驚くのももっともであろう。 「おお、そうか、忠次であったか、わしもおおかたその辺であろうと、実は眼星をつけていたが、いよいよそうだと明かされて見ると、妙に懐かしく思われるな。それはそうとさて忠次、よい構えを見つけたな」 「へい、これは恐れ入ります。ほんの自己流でございまして、お恥ずかしく存じます」 「剣の終局は自己流にある。一派を編み出し一流を開く、すべて自己の発揮だからな。いつその構えは発明したな?」 「島の伊三郎を討ち取りました時から、自得致しましてございます」 「しかし忠次その構えでは、お前も随分切られた筈だが?」 「仰せの通りでございます」こういうと忠次は右腕を捲った。五、六ヵ所の切傷があった。「かような有様でございます」それから彼は左腕を捲った。七、八ヵ所の切傷があった。「この通りでございます」それから彼はスッポリと、両方の肌を押し脱いだ。胸にも肩にも左右の胴にも、ほとんど無数の太刀傷があった。「ご覧の如くでございます」それから彼は肌を入れた。 「ううむなるほど、見事なものだな」周作は感心してうなずいた。 「へい、わっちが待ったなし流で、じっと構えておりますと、相手の野郎はいい気になって、ちょくちょく切り込んで参ります。それをわっちは平気の平左で、切らして置くのでございますな。ビクビクもので切って来る太刀が、何んできまることがございましょう。皮を切るか肉にさわるか、とても骨までは達しません。そこがつけ目でございます。そうやって充分引きつけて置いて、いよいよ気合いが充ちた時、それこそ待ったなしでございますな、一撃にぶっ潰すのでございます」忠次はここでニヤリとした。 「お前と立ち合った人間の中、これは恐ろしいと思った者が、一人ぐらいはあったかな?」「へい、一人ございました」「おおそうか、それは誰だな?」「そこにいらっしゃる平手様で」「ナニ平手? ふうん、そうか」「何んと申したらよろしいやら、細い鋭い針のようなものが、遠い所に立っている。とてもそこまでは手が届かない。こんな塩梅に思われました。技芸の恐ろしさをその時初めて、感じましてございますよ」「しかし試合はお前の勝ちだ」「それはさようかも知れませぬ。わっちの構えは技芸だけでは、破られるものではございません」 すると周作は莞爾としたが、「ではなぜおれに破られたな?」 すると忠次はいずまいを正し、「へい、それは先生には、人間でないからでございますよ」「人間でない? それでは何か?」 「剣のひじりでございます。剣の神様でございます。先生にじっとつけられました時、これまでかつて感じたことのない、畏敬の心が湧きました。そうして先生のお姿も、また鉄扇もなんにも見えず、ただ先生のお眼ばかりが、二つの鏡を懸けたように、わっちの眼前で皎々と、輝いたものでございます。とたんにわっちの構えが崩れ、あの通りの有様に気絶してしまったのでございます」 忠次ほどの豪傑も、こういってしまうと額の汗を、改めて拭ったものである。
国定忠次の置き土産
上州の侠客国定忠次が、江戸へ姿を現わしたのは、八州の手に追われたからで、上州から信州へ逃げ、その信州の追分で、甚三殺しと関係い、その後ずっと甲州へ隠れ、さらに急流富士川を下り、東海道へ出現し、江戸は将軍お膝元で、かえって燈台下暗しというので、大胆にも忍んで来たのであった。千葉道場へやって来たのも、深い魂胆があったからではなく、自分の我無沙羅な「待ったなし流」を、見て貰いたいがためであった。 「千葉道場におりさえしたら、八州といえども手を出すまい。忠次ここで遊んで行け」 千葉周作はこういって勧めた。 「へい、有難う存じます」忠次はひどく喜んで、二十日あまり逗留した。と云っていつまでもおられない、いわゆる忙しい体だったので、やがて暇を乞うことにした。 「お前達はずんで餞別をやれ」千葉周作がこういったので、門弟達は包み金を出した。それが積もって五十両、それを持って国定忠次は、日光指して旅立って行った。 さて、これまでは無難であったが、これから先が無難でない。ある日造酒が銀之丞へいった。 「観世、お前はどう思うな?」藪から棒の質問であった。 「どう思うとは何を思うのだ?」銀之丞は変な顔をした。 「国定忠次のあの太刀筋、素晴らしいとは思わぬかな」「うむ、随分素晴らしいものだな」「ところであれは習った技ではない」「それは先生もおっしゃった」「人を斬って鍜えた[#「鍜えた」はママ]技だ」「それも先生はおっしゃった筈だ」「ところが我々はただの一度も、人を斬った経験がない」「幸か不幸か一度もないな」「そこで腕前はありながら、忠次風情にしてやられたのだ」「いやはや態の悪い話ではあったぞ」「それというのもこのわれわれが、人を斬っていないからだ」「残念ながら御意の通りだ」「観世、お前も残念と思うか?」「ナニ、大して残念でもないな」「貴公はそういう人間だ」「アッハハハ、仰せの通り」「張り合いのない手合いだな」「では大いに残念と行くか?」 すると造酒はニヤリとしたが、 「観世、今夜散歩しよう」 「散歩? よかろう、どこへでも行こう。……が、散歩してどうするのだ?」 すると造酒はまた笑ったが、 「観世、貴公は知っているかな、当時江戸の三塾なるものを」 「ふざけちゃいけない、ばかな話だ、三児といえども知っているよ。まず第一が千葉道場よ、つづいて斎藤弥九郎塾、それから桃井春蔵塾だ。それがいったいどうしたのだえ?」「その桃井の内弟子ども、吉原を騒がすということだ」「そういう噂は聞いている。無銭遊興をやるそうだな」 「だからこいつらは悪い奴だ」「義理にもいいとはいわれないな」「こんな手合いは叩っ切ってもいい」 これを聞くと銀之丞は、造酒のいう意味がはじめてわかった。で彼は声をひそめ、 「平手、辻斬りをする気だな」 すると造酒はうなずいて見せたが、「厭なら遠慮なくいうがいい」 銀之丞は考え込んだ。「平手、面白い、やっつけようぜ!」 「それじゃ貴公も賛成か」「平手、おれはこう思うのだ。自分が何より大事だとな。おれの根深いふさぎの虫は、容易なことでは癒らない。海外密行か入牢か、そうでなければ人殺し、こんな事でもしなかったら、まず癒る見込みはない。……で、おれは思うのだ、構うものかやっつけろとな。……それも町人や百姓を、金のために殺すのではない。桃井塾の門弟といえば、こっちと同じ剣道家だ。殺したところで罪は浅い。それにうかうかしようものなら、あべこべにこっちがしとめられる。いってみれば真剣勝負だ。構うものかやっつけよう」「いい決心だ。ではやるか」 「うんやろう! 散歩しよう」「アッハハハ、散歩しよう」 血気にまかせて二人の者は、その夜フラリと家を出た。
江戸市中人心恟々
その翌日のことであるが、江戸市中は動揺した。日本堤の土手の上で、恐ろしい辻斬りがあったからであった。殺されたのは二人の武士で、桃井塾の門弟の中でも、使い手の方だということであったが、一人は袈裟掛け一人は腰車、いずれも一刀でしとめられていた。 「桃井塾の乱暴者、結句殺されていい気味だ」と、人々はかえって喜んだが、ただ喜んでいられないような、恐ろしい事件がもう一つ起こった。その同じ夜に谷中の辻で、掛け取り帰りの商家の手代が、これも一刀にしとめられ、金を五十両取られたのであった。 「おい観世、少し変だな」 その翌日道場の隅で、二人顔を合わせた時、造酒は銀之丞へささやいた。「我々がやったのは二人だけだのに、死人が三人とはおかしいではないか」 「うん、少しおかしいな」銀之丞は首をかしげ、「我々以外にもう一人、辻斬りをやったものがあるらしいな」「そうだ、どうやらあるらしい。それにしても不都合だな。殺したあげく金を取るとは」 二人はちょっと厭な顔をした。 「それはそうとオイ観世、人を斬ってどんな気持ちがしたな?」「平手、何んともいえなかったよ。まず一刀切りつけたね、するとカッと血が燃えたものだ。と思った次の瞬間には、スーッとそいつが冷え切ったものだ。頭が一時に澄み返り、シーンとあたりが寂しくなった。その時おれは思ったよ、生き甲斐がある生き甲斐があるとな」「ふうむなるほど、面白いな」「で、お前はどうだったな?」「真の手応え! こいつを感じたよ」「ふうむなるほど、面白いな」
翌晩またも辻斬りがあった。場所は上野の山下で、殺されたのは二人の武士、やっぱり桃井の塾弟子であった。しかるにもう一人隅田堤で、町家の主人が殺されていた。 それからひきつづいて十日というもの、毎晩三人ずつ殺された。二人はいつも武士であったが、一人はおおかた町人で、そうしてきっと金を取られていた。 鼓賊の禍いにかててくわえて、辻斬り沙汰というのであるから、江戸の人心は恟々として、夜間の通行さえ途絶えがちになった。
こういう物騒なある晩のこと、面白い事件が勃発した。いやそれはむしろ面白いというより、奇怪な事件といった方がよい。町人一人に武士五人、登場人物は六人であった。素晴らしい事件ではあったけれど、また非常に複雑を極めた、微妙な事件ではあったけれど、秘密の間に行われたためか、市民達はほとんど知らなかった。捕物帳にも載せてなければ、奉行所の記録にも記されてない。これは疎漏といわなければならない。 で、その晩のことであるが、みすぼらしい一人の侍が、下谷池ノ端をあるいていた。登場人物の一人であった。すると向こうから老武士が来た。登場人物の二人目であった。 二人は事もなく擦れ違おうとした。「あいやしばらくお待ちくだされ」とたんに老武士が声を掛けた。 すると、みすぼらしい侍は、そのまま静かに足をとめたが、「何かご用でござるかな?」 「用と申すではござらぬが、物騒のおりからかかる深夜に、どこへお越しなされるな?」 「これはこれは異なお尋ね、深夜にあるくが不審なら、なぜそこもともおあるきなさる」みすぼらしい侍はしっぺ返したが、これはいかにももっともであった。 「いやナニそのように仰せられては、角が立って変なもの、とがめ立てしたが悪いとなら、拙者幾重にもおわび致す」老武士は言葉を改めた。
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