西は追分、東は関所 関所越えれば、旅の空
咽ぶがような歌声が、月の光を水と見て、水の底から哀々と空に向かって澄み通る。甚三の流す追分であった。パカパカパカと蹄の音が街道を東へ通って行った。 「おおまた追分が聞こえるな」 いうと一緒に肩の鼓を膝の上へトンと置いた。「まるで競争でもするように、俺が鼓を打ちさえすれば、あの追分が聞こえて来る」 本陣油屋の下座敷、裏庭に向かった二十畳の部屋に、久しいまえから逗留している、江戸の二人の侍のうち、一人がこういうと微笑した。名は観世銀之丞、二十一歳の若盛りで、柔弱者と思われるほど、華奢な美しい男振りであった。もう一人の武士はこれと異い、年もおおかた三十でもあろうか、面擦れのした赭ら顔、肥えてはいるが贅肉のない、隆々たる筋骨の大丈夫で、その名を平手造酒といった。 ゴロリと畳へ横になると、「どうも退屈で仕方がない。何をやっても退屈だ。実際世の中っていう奴は、こうも退屈なものか知ら」銀之丞はおはこをいうのであった。 「おい観世、また退屈か」造酒はニヤニヤ笑ったが、「何がそんなに退屈かな?」 「何がといって、何もかもさ」 「しかしこの俺の眼から見ると、貴公の退屈は贅沢だぞ」 「なに贅沢? これは聞き物だ」 「まず身分を考えるがいい」 「うん、身分か、能役者よ」 「観世宗家の一族ではないか」 「ああまずそういったところだな」 「観世宗家と来た日には、五流を通じて第一の家柄、楽頭職として大したものだ。柳営お扱いも丁重だ」
襖を開けた商人客
「なんだつまらない、それがどうしたえ」 「聞けば貴公のご親父は、宗家当主の兄君だそうだが?」 「ああそうさ、それがどうしたな」 「宗家と貴公とは伯父甥ではないか」「うん、そうだ、伯父甥だよ」「宗家は病身だということだが」「まず余り永くはないな」「そこで貴公を養子として、楽頭職を継がせるというのが、世間もっぱらの評判だ」「世間は案外物識りだな。ああいかにもその通りだよ」 「とすると貴公は観世家にとっては、大事な大事な公達ではないか」 「……公達にきつね化けけり宵の春か……やはり蕪村はうまいなあ」銀之丞はひょいと横へ反らせた。 「何んだ俳句か、つがもねえ」造酒もとうとう笑い出したが、「真面目に聞きな、悪いことはいわぬ」 「といってあんまりいいこともいわぬ……とこう云うと地口になるかな」 「それそいつがよくない洒落だ。かりにも観世の御曹司が、地口を語るとは不似合だな」 「それ不似合、やれ不面目、家名にかかわる、芸の名折れ、どっちを向いてもアイタシコ。そいつがきつい嫌いでな」「ナール」と造酒はそれを聞くと、ちょっと胸に落ちたらしく、「つまり窮屈が厭なのだな。鬱ぎの虫の原因も、基をただせばそいつだな」 「やさしくいえばまずそうだ」「ほかにも原因があるのかえ」「万事万端皆癪だ」「大きく出たな。これはかなわぬ」「今の浮世の有様は、いって見れば蓋をした釜だ。人を窒息させようとする」「おれにははっきり解らないが」「世の縄墨に背いたが最後、それ異端者だ、切支丹だ、やれ謀反人だと大騒ぎをする」「うん、こいつはもっともだ」「今の浮世の有様は、太平無事でおめでたい」「結構ではないか。何が不平だ」「何らの昂奮をも許さない、何らの感激をも許さない、まして何らの革命をやだ」「お前は乱を望んでいるな?」「うん、そうだ、精神的のな。……おれは感激したいのだよ!」「感激をしてどうするのだ?」「おれは創造したいのだ!」「何、創造? 何をつくるのだ?」「何んでもいい、ただ何かを」「勝手につくったらよいではないか」「創造するに感激がいる」「大きに勝手に感激するさ」「ところがひとの世が許さない」「なに無理にも感激するさ」「無理にも感激しようとすると、親友なるものが邪魔をする」「え? 親友が邪魔をするって?」「恋も一つの感激だ。せっかく情女を見つけると、親友が邪魔をしてひき放してしまう」「それは女が悪党だからよ」「愛する物を捨てるのもまさしく一つの感激だ。すると親友が取りかえして来る」「それも物によりけりだ。伝家の至宝を失っては、先祖に対しても済むまいがな」「みやこに住むということは、おれにとっては感激だ。ところがおせっかいの親友なるものが、山の中へひっ張って来る」「その男が虚弱からだ。その男が病気だからだ。そうだ少くとも神経のな」「で、何もかもその親友は、平凡化そうと心掛ける。そうして感激の燃える火へ、冷たい水をそそぎかけ、創造の魂を消そうとする。しかも親友の名のもとにな。他はおおかた知るべきのみだ」 「おい!」と造酒は気不味そうに、「親切で行った友達のしわざを、そうまで悪い方へ取らないでも、よかりそうなものに思われるがな」 「アッハハハ」と銀之丞は、突然大声で笑ったが、「怒るな、怒るな、怒ってはいけない。鬱ぎの虫のさせるわざだ。ああしかし退屈だな。何もかも面白くない。ああ実際退屈だな」 「ご免ください」 とそのとたん、襖の蔭から声がした。同時にスーと襖が開き、隣り座敷の商人客が、にこやかに顔を突き出した。 「お武家様のお座敷へ、旅商人の身をもって、差出がましくあがりましたは、尾籠千万ではございますが、隣り座敷で洩れ承われば、どうやら大分ご退屈のご様子、実は私も退屈のまま、何か珍しい諸国話でも、お耳に入れたいと存じまして、お叱りを覚悟でまずい面を、突き出しましてござりますよ。真っ平ご免くださいますよう」 ていねいにお辞儀をしたものである。
不思議な商人千三屋
「おお町人か、よく来てくれた。ちょうど無聊に苦しんでいたところだ。さあさあずっと進むがよい」平手造酒は喜んで、歓迎の意を現わした。 「では遠慮なくお邪魔致します」商人はうしろで襖を立て擦り膝をして、はいって来た。四十がらみの小男ではあるが、鋭い眼付き高い鼻、緊張まった薄い唇など、江戸っ子らしい顔立ちで、左の頬に幽かではあるが、切り傷らしいものがつたる。敏捷らしい四肢五体、どこか猟犬を思わせた。藍縦縞の結城紬[#「結城紬」は底本では「結城袖」]の、仕立てのよいのをピチリと着け、帯は巾狭の一重博多、水牛の筒に珊瑚の根締め、わに革の煙草入れを腰に差し、微笑を含んで話す様子が、途方もなくいきであった。 こういう場合の通例として身もと調べから話がはずみ、さてそれから商売の方へ、話柄が開展するものである。 「町人、お前は江戸っ子だな」造酒がまずこうきいた。 「へい、江戸っ子の端くれで、へ、へ、へ、へ」と世辞笑いをしたがそれが一向卑しくない。 「いったい何をあきなっているな?」 「へい、呉服商でございます」「女子に喜ばれる商売だな」「その代り殿方にはいけません」「そう両方いい事はない。江戸はどこだ? 日本橋辺かな?」「なかなかもって、どう致しまして。そんな大屋台ではございません。いえもうほんの行商人で」「それにしては品がいいな」「これはどうも恐れ入りました」「屋号ぐらいは持っているだろう?」「へい、千三屋と申します」「ナニ千三屋? ばかを申せ。そんな屋号があるものか」「アッハハハハ、さようでございますかな、いえ私どもの商売と来ては、口から出任せにしゃべり廻し、千に三つの実があれば、結構の方でございます。それそこで千三屋」「たとえ千三屋であろうとも、自分から好んでふいちょうするとは、とんとたわけた男だの」「そこは正直でございましてな。お気に召さずば道中師屋、胡麻の蠅屋大泥棒屋、放火屋とでもご随意に、おつけなすってくださいまし」「いよいよもって呆れたな。口の軽い男だわい。その口前で女子をたらし、面白い目にも逢ったであろうな」「これはとんだ寃罪で、その方は不得手でございますよ。第一生物は断っております」「そのいいわけちと暗いな」「ええ暗うございますって?」「あきゅうどに不似合いな頬の傷、女出入りで受けたのでもあろう」 すると商人は笑い出したが、「ああこれでございますか。とんだものがお目にさわり、いやはやお恥ずかしゅう存じます。ナーニこれは子供時代に、柿の木の上から落ちましてな、下に捨ててあった鎌の先で、チョン切ったものでございますよ」 「町人!」と造酒は語気を強め、「これこのおれを盲目にする気か!」「これはまたなぜでございますな」「鎌傷か太刀傷か、それくらいのけじめが解らぬと思うか」 すると商人はまた笑ったが、「これはいかさまごもっともで、私のいい間違いでございました。実はな今から十年ほど前に、上州方面へ参りましたが、若気の誤りと申すやつで、博徒の仲間へはいりましたところ忽ち起こる喧嘩出入り、その時受けましたのがこの傷で」「町人!」「ソーラ、おいでなすった」「このおれを盲目にする気か!」「へえ、どうもまたいけませんかな」「十年前の古傷か、ないしは去年の新しい傷か、それくらいのけじめが解らぬと思うか」「へえ、そこまでお解りで?」「五年前の太刀傷であろう?」「恐ろしい眼力でございますなあ。仰せの通りでございますよ」「とうとう泥を吐きおったな」造酒は快然と笑ったものである。 観世銀之丞は起き上がろうともせず、畳の上へ肘を突き、それへ頭を転がしながら、面白くもないというように、ましらましらと上眼を使い、商人の様子を眺めていた。話の仲間へはいろうともしない。 商人はひょいと床の間を見たが、そこに置いてある小鼓へ、チラリと視線を走らせると、 「ははあ、あれでございますな。いつもお調べになる小鼓は」 感心したように声をはずませ、 「よい鼓でございますなあ」
寂しい寂しい別離の歌
すると銀之丞は顔を上げたが、「お前のような町人にも、鼓の善悪がわかるかな。いったいどこがよいと思うな?」ちょっと興味を感じたらしく、こうまじめにきいたものである。 すると商人は困ったように、小鬢のあたりへ手をやったが、「へいへい、いやもうとんでもないことで、どこがよいのかしこがよいのと、さようなことはわかりませんが、しかし名器と申しますものは、ただ一見致しましただけでも、いうにいわれぬ品位があり、このもしい物でございます」「何んだ詰まらない、それだけか」 銀之丞はまたもゴロリと寝た。そそられかかったわずかな興味も、商人の平凡な答えによって、忽ち冷めてしまったらしい。無感激の眼つきをして、ぼんやり天井を眺め出した。 「いえそればかりではございません」商人は一膝進めたが、「家内中評判でございます。いえもうこれは本当の事で」「何、評判? 何が評判だ?」「はいその旦那様のお鼓が」「盲目千人に何が判る」「そうおっしゃられればそれまでですが、一度お鼓が鳴り出しますと、三味線、太鼓、四つ竹までが、一時に音色をとめてしまって、それこそ家中呼吸を殺し、聞き惚れるのでございますよ」 「有難迷惑という奴さな。信州あたりの山猿に、江戸の鼓が何んでわかる」かえって銀之丞は不機嫌であった。 「町人町人、千三屋、その男にはさわらぬがよい」 見かねて造酒が取りなした。「その男は病人だ。狂犬病という奴でな、むやみに誰にでもくってかかる。アッハハハハ、困った病気だ。それよりどうだ碁でも囲もうか」「これは結構でございますな。ひとつお相手致しましょう」 そこで二人は碁を初めた。平手造酒も弱かったが商人も負けずに弱かった。下手同志の弱碁と来ては、興味津々たるものである。二人はすっかりむちゅうになった。
甚三甚内の兄弟の上へ、おさらばの日がやって来たのは、それから間もなくの事であった。その朝は靄が深かった。甚三の馬へ甚内が乗り、それを甚三が追いながら、追分の宿を旅立った。宿の人々はまだ覚めず家々の雨戸も鎖ざされていた。宿の外れに立っているのは、有名な桝形の茶屋であったがそこの雨戸も鎖ざされていた。そこを右すれば中仙道、また左すれば北国街道で、石標の立った分岐点を、二人の兄弟は右に取り、中仙道を歩ませた。宿を出ると峠道で、朝陽出ぬ間の露の玉が木にも草にも置かれていた。夜明け前の暁風に、はためく物は芒の穂で、行くなと招いているようであった。 「せめて関所の茶屋までも」と、甚三の好きな追分節の、その関所の前まで来ると、二人は無言で佇んだ。「あにき、お願いだ、唄ってくれ」「おいらは今日は悲しくて、どうにも声が出そうもねえ」「そういわずと唄ってくれ、今日別れていつ会うやら、いつまた歌が聞けるやら、こいつを思うと寂しくてならぬ。別れの歌だ唄ってくれ」 「うん」というと甚三は、声張り上げて唄い出した。草茫々たる碓井峠、彼方に関所が立っていた。眼の下を見れば山脈で、故郷の追分も見え解ぬ。朝陽は高く空に昇り、きょうも一日晴天だと、空にも地にも鳥が啼き、草蒸れの高い日であったが、甚三の唄う追分は、いつもほどには精彩がなく、咽ぶがような顫え声が、低く低く草を這い、風に攫われて消えて行った。
弟と別れた甚三が、空馬を曳いて帰りかけた時、 「馬子!」とうしろから呼ぶ者があった。振り返って見ると旅の武士が、編笠を傾けて立っていた。けんかたばみの紋服に、浮き織りの野袴を裾短かに穿き、金銀ちりばめた大小を、そりだかに差した人品は、旗本衆の遊山旅か、千石以上の若殿の、気随の微行とも想われたが、それにしてはお供がない。
病的に美しい旅の武士
編笠をもれた頤の色が、透明るようにあお白く、時々見える唇の色が、べにを注したように紅いのが気味悪いまでに美しく、野苺に捲きついた青大将だと、こう形容をしたところで、さらに誇張とは思われない。開いたばかりの関所の門を、たった今潜って来たところであろう。 「戻り馬であろう。乗ってやる」こういった声は陰気であった。 「へい有難う存じます」甚三は実は今日一日は、稼業をしたくはなかったのであるが、侍客に呼び止められて見れば、断ることも出来なかった。「どうぞお召しくださいまし」 シャン、シャン、シャンと鈴を響かせ、馬は元気よく歩き出した。どう、どう、どう、と馬をいたわり、甚三は峠を下って行った。手綱は曳いても心の中では、弟のことを思っていた。でムッツリと無言であった。馬上の武士も物をいわない。これも頻りに考え込んでいた。 カバ、カバ、カバと蹄の音が、あたりの木立ちへ反響し、空を仰げば三筋の煙りが、浅間山から靡いていた。と、突然武士がいった。「追分宿の旅籠屋では、何んというのが名高いかな?」「本陣油屋でございます」「ではその油屋へ着けてくれ」「かしこまりましてございます」 それだけでまたも無言となった。夏の陽射しが傾いて、物影が長く地にしいた。追分宿へはいった頃には、家々に燈火がともされていた。
両親は去年つづいて死に、十四になった唖の妹と、甚内を入れて兄弟三人、仲よく水入らずに暮らして来たのが、その甚内が旅へ出た今は、二人ばかりの暮らしであった。……そのさびしい自分の家へ甚三は馬を曳いて帰って来た。 「おい、お霜、今帰ったよ」厨に向かって声を掛けたが、声が掛かっても唖のことで、お霜が返辞をしようもない。いつもの癖で掛けたまでであった。厨の中では先刻から、コトコト水音がしていたが、ひょいと小娘が顔を出した。丸顔の色白で、目鼻立ちもパラリとして、愛くるしいきりょうであった。赤い襷を綾取って、二の腕の上まで袂をかかげ、その腕を前垂れで拭きながら、甚三を眺めて笑った様子には、片輪者らしいところもなく、野菊のような気品さえあった。 「あッ、あッ、あッ」と千切れるような、唖特有の叫び声を上げ、指で部屋の方を差したのは、夕飯を食えという意味であろう。 「よしよし飯が出来たそうな、どれご馳走になろうかな」つぶやきながら足を洗い、馬へ秣を飼ってから、家の中へはいったが、部屋とは名ばかりで板敷きの上に、簀子が一枚敷いてあるばかり、煤けて暗い行燈の側に、剥げた箱膳が置いてあった。あぐらを掻くと箸を取ったが、給仕をしようと坐っている、妹を見ると寂しく笑い、 「お前もこれからは寂しくなろうよ。兄やが一人いなくなったからな。それにしても甚内は馬鹿な奴だ。何故海へなぞ行ったのかしら。こんなよい土地を棒に振ってよ。ほんとに馬鹿な野郎じゃねえか。土地が好かない馬子が厭だ、この追分に馬子がなかったら、国主大名も行き立つめえ。馬方商売いい商売、そいつを嫌って行くなんて、ほんとに馬鹿な野郎だなあ。……だがもうそれも今は愚痴だ。望んで海へ行ったからには、立派に出世してもれえてえものだ、なあお霜そうじゃねえか。……おや太鼓の音がするな。四つ竹の音も聞こえて来る。ああ町は賑やかだなあ。あれはどうやら三丁目らしい。さては油屋かな永楽屋かな。いいお客があると見える。油屋とするとお北めも、雑っているに相違ねえ」 甚三はじっと考え込んだ。やがてカラリと箸を置くと、フラリと立って土間へ下り、草履をはくとのめるように、灯の明るい町へ引かれて行った。 お霜は茫然坐っていたが、やがてシクシク泣き出した。聞くことも出来ずいうことも出来ない、天性の唖ではあったけれど、女の感情は持っていた。可愛がってくれた甚内が、遠い他国へ行ったことも兄の甚三がお北という、宿場女郎に魅入られて、魂をなくなしたということも、ちゃんと心に感じていた。それがお霜には悲しいのであった。
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